『甲子夜話』巻2-40
『甲子夜話』巻2-40
田沼氏が老中職にあって権力が盛んだったころ---予も、二十歳(はたち)になったばかり(安永6年 1777)。
人なみに雲路(うんろ 仕官して栄達する)の志があって、しばしば氏の屋敷を訪れたものである。
予は、大勝手を申しこみ、主人に面接したのは、30余席もしつらえられるほどの部屋。
ほかの老中職の面接の座敷は、請願者がたいてい障子の前に一列に居並んでいるらいだが、田沼の桟敷は、両側に並びきれなくて、その間に幾列かつくり、それでもはみ出た仁は座敷の外に座る始末。
そこらあたりになると、当の主人が着座しても顔が見えない。
ほかの重職のところでは、主人は客からよほど離れて着座した上で挨拶を受けたが、大勢の客があふれかえっている田沼のところでは、客と主人の間はやっと2,3尺(60~90cm)ほどで、まさに顔と顔が接っせんばかれり。
(ちゅうすけ注) この挨拶の応答、面接、請願は、老中が登城するまでの朝の1時間たらずのあいだにおこなわれるのが常であった。もちろん、田沼意次邸にかぎらない行事であった。
大石慎三郎さん『田沼意次の時代』(岩波文庫)は、この文章に対し、一昨日(11月26日)に紹介した松浦静山の姻戚関係を引いて、ためにするものとし、さらに、清・静山が20歳のころといえば、『甲子夜話』巻1が書かれた35年以上も前のことで、記述が正確な記憶によるものとはいえまいと、史料性に疑問を呈している。
(ちゅうすけ注) 宝暦7年(1757)生まれの英三郎(静山の幼名)が、父・政(まさし)の病死により祖父・誠信の養子となったのは明和8年(1771)の15歳。将軍・家治へのお目見は18歳。藩主になったのが19歳。外様大名の身ではやばやと猟官運動に走り、「しぱしば」田沼邸を訪問するかしらん。
もし、走ったとすれば、静山の人品もいささかさがるといわざるをえまい。
平戸の記念館で見た静山の肖像画は、すでにそういうことから超越している感じを受けたが、『甲子夜話』の文にはまだ俗臭がちらつく。
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