松平右近将監武元(たけちか)
午前中5時間、松平右近将監武元捜しに費やしてしまった。
とにかく、「松平」とあると、ぞっとする。
この仁は、松平播磨守頼明のニ男で、清武が起こした松平家を、養子として継いだ二代目・清雅の、養子となる。
このことは『寛政重修諸家譜』に記録されている。
この仁を調べなければならないのは、田沼意次が老中を勤めていたときの筆頭老中であったし、家重の信任が篤かったから、田沼はそうそう、勝手なことはできなかったとみているわけ。
武元が没した安永8年(1779)から天明7年(1787)までの8年間が、田沼が腕を振るえた時期とみるのが正しかろう。
田沼に引き立てられたのは、長谷川平蔵もその一人。
それはともかく、『寛政譜』の第1巻は松平にあてられている。それで、 『寛政譜』第1巻のすみからすみまで、蟻の穴を捜すみたいに目を凝らし、googleで検索したおしても、武元の実家の松平がわからない。
やっと思いついて、戦前の平凡社『日本人名大事典』を開いて、水戸の徳川につながっている仁とわかった。
なんだぁ、父親の頼明で、もっと早くそのことに気づくべきだったのだ。
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