田沼派閣僚への退陣要求
月刊『日本歴史』(吉川弘文館)2006年5月号の「歴史手帖」欄に、辻 達也さんが[松平定信の書簡の中から]と題して、田沼失脚後も老中に居座っていた、田沼派の松平周防守康福(岡崎 5万4000石)と水野出羽守忠友(沼津 3万石)を追い出すについて、水戸と尾張に話をもちかけ、一橋治済を引きこんで成功する一連の手紙のことを書いている。
定信としては、松平康福と水野忠友を追い出して、自分の盟友を閣僚に入れなければ、自分色が出せないから当然の運動だが、老中につづいて、側用人、勘定奉行や町奉行などにも手をつけねばならないから、定信としては、必死のおもいだつたろう。
松平右近将監武元(たけちか)のことを書いたが、彼の五男は、美濃10万石の戸田家へ養子に入り、定信内閣の老中に抜擢されている。
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