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2006.11.18

松平武元(たけちか)と『続三王外記』

『日本人名大事典 6』(平凡社 1938.10.31)の、松平右近将監武元(たけちか)の記述。

 マツダイラタケモト 松平武元(1716-1779) 上野館林藩主。
 水戸の庶流松平播磨守頼明の三男、享保元年(1716)を以て生
 れ、幼名丹下、また源之進といひ、
 同13年(1727)上野館林城主松平肥前守武雅の養子となる。

 この年雁間詰となり、陸奥棚倉城(今の磐城棚倉町)に移る。
 同14年(1728)従五位下右近将監に叙任し、
 延享元年(1744)5月寺社奉行となる。
 
 2年(1745)9月将軍吉宗隠居して職を子家重に譲るに及び、特に
 命じて家重を補佐せしめ、
 3年(1746---注・長谷川銕三郎誕生)5月老中に擢でられ、
 4年(1747)9月再び館林城主となる。

 宝暦10年(1960)家重の将軍職を家治に譲るや、国務に就きて及
 ぶ限り補佐すべしとの命あり。

 武元、資性忠謙謹恪、老中の職にあること38年に及ぶも、禄を増
 すこと僅に7000石に過ぎず。
 田沼意次の如きもこれに憚りてその私を恣にすることを得なかった
 が、武元歿するにおよびて遂に政権を弄するに至ったといはれる。
 
 毎に曰く、「諺にいふ男子一たび閾(しきい)を踰ゆれば7人の敵あ
 りとは、蓋し我が身に具する7欲の謂であらう」とて、その機を慎む
 の意より、毎朝儒臣をして『論語』一章づつを進講せしめて登城した
 といふ。
 されば領民その徳に服すと称したといふ。

 安永8年(1779)7月25日歿す。年64。
 (美作鶴田松平家譜寛政重修諸家譜)

この項の担当者は、『続三王外記』を参照したに違いない。同書は、武元の祐筆だった石井蠡(れい)が述したものだから、武元寄りでまるごとは信じがたい---と批判したのが故・大石慎三郎さん[田沼意次に関する従来の資料の信憑性について](『日本歴史』第237号)。

大石先生の田沼擁護研究は、このころから始まっていたらしい。   

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コメント

松平武元の家
三代将軍「家光」の長子が四代将軍「家綱」
三代将軍「家光」の次男が「綱重」
三代将軍「家光」の末子が五代将軍「綱吉」

「綱重」の長子が六代将軍「家宣」
「綱重」の第二子が「清武」

「清武」の養子が尾州徳川家の分家「美濃高須家」の
「武雅」

「武雅」の養子が水戸徳川家の庶流の松平頼明の子「武元」です。

「田沼意次の時代」大石慎三郎著にありました。

投稿: 秋山太兵衛 | 2006.11.18 21:27

>秋山太兵衛さん

父親の松平播磨守頼明が『寛政譜』の索引にひっかからなかったのです。

水戸家の庶流とわかりましたから、『徳川諸家系譜3』(1979.3.25 続群書類従完成会)を見ました。

〔水戸家支流常陸石岡松平〕の項p137

頼隆-頼方-頼明-女子
            女子
            頼永
            武元(松平肥前守武雅養子)
            友明(遠山和泉守友央養子)
            頼幸(頼永養子)
            茲胤(亀井信濃守茲延婿養子)  

投稿: ちゅうすけ | 2006.11.19 03:36

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