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2006.12.26

因縁の領知替え

12月23日の[田沼意次の領知]に記した、SBS学苑パルシェの〔鬼平〕クラスでともに学んでいる安池さんから送られてきた資料『相良町史 通史編 上』(相良町 1993.9.29)のうち、「相良藩を理解するための20ページほど」というのは[一橋領の成立]と題された1節のことである。

[一橋領の成立]は、「一橋領というのは、(略)徳川御三卿の一つ一橋家の領地ということである」との文章で始められている。

田沼意次の失脚とともに、島田代官所が管理していた榛原・城東両郡の88ヶ村が、寛政6年(1794)11月19日から一橋家の領知となったという。

130_1 『徳川諸家系譜 第3巻』(続群書類従完成会 1979.3.2)の[一橋徳川家記]は、この領知替えをごくあっさりと、「同(寛政)六年甲寅九月廿四日命収甲斐国采地三万石余、更賜遠江国三万石余」と<2ヶ月ほど先行させて記載している。

つづいて『相良町史』は、
「これはそれまで甲斐国(山梨県)巨摩郡下五十七か村にあった一橋領を、遠江国に領地替えしたものであった。
この領地替えは、一橋家にとってどういう意味があったのであろうか。一般的には甲斐国巨摩郡にあった領地を遠江国榛原・城東両郡に移されたのであるから、単純に両者の優劣を決めるのは慎まなければならないが、一ツ橋家にとってこ見れば、かねてからぜ是非そうあって欲しい領地替えであつたかもしれない。
いっぽう、相良藩田沼の転封した後に一橋の領地が成立した事は、あくまでそれは将軍家ないし幕府の方針であったと見るのが常識的てあると言えよう。こうした中で若干の憶測を加えるならば、田沼意次は自ら掌握した権力の安定化を図るため、あらゆる勢力と密接な関係をむすんでいった。すなわち大奥と結託したり、また兎角口うるさい、御三家や御三卿。あるいは有力外様大名などとの関係強化をはかったていたといわれる」

意次の子・意正(おきまさ)は領知替えによつて、因縁の領知の一部をとり戻したともいえようか。

田沼家と一橋家の関係をいうと、一橋家の家老には、意次の二つ違いの弟・意識(おきのぶ)が送りこまれ、意識が死ぬとその子・意致(おきむね)が継いでいた。

しかし、一橋治済(はるさだ)は一方で、自分の長子・家斉(いえなり。幼名・豊千代)を将軍・家治の養子として送り込み、尾張・水戸・紀伊を動かして田沼失脚に暗躍、門閥派の松平定信内閣を組閣させてもいる。

一橋治済が意次失脚にどうかかわっていたかをのぞいてみたい。

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コメント

田沼意次失脚後、その一族も没落してしまったと漠然と思い込んでおりましたが、大名として残され、その子孫の代で若年寄を勤めている等は以外でした。松平定信以降の幕府内での、田沼意次の評価はまんざらでもなかったのでしょうか。それとも子孫が、優秀だったのでしょうか。

投稿: パルシェの枯木 | 2006.12.27 15:49

>パルシェの枯木 さん

ぼくにも分かりかね、意正(おきまさ)が若年寄になった前後の幕閣のリストをつくって推量してみようとおもっているところです。

ただ、将軍は、ずっと家斉です。
松平定信一派の松平伊豆守信明(のぶあきら)が最後まで居残りましたが、文化14年(1817)に老中首座を辞してから、どの程度権力を持っていたかも調べてみる必要があります。

やることはほんとうに多いですね。

投稿: ちゅうすけ | 2006.12.28 14:24

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