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2006.12.22

天領農民の苦悩

『相良町史 通史編 上』(相良町 1993.9.29)に、「へえ、知らなかった」と浅学を誅されるような史実が紹介されていた。

すなわち、田沼意次が領知を召し上げられると、相良藩だった村々は幕府領の代官支配地となった。
つまり、年貢米を幕府へ納めるという、村々にとっては初めての経験が発生したのである。。

村々の代表は、島田をはじめとするあちこちの幕領の有力者に問い合わせて、3分の1は金納にするほうがいいと教えられたので、その旨、代官所へ届けたという。
(ぼくとしては、年貢の金納も制度としてあったというのを、この記述で初めて知った。浅学)。

他の幕領の者たちから金納をすすめられた理由は、年貢の米納は、江戸や駿府の幕府の御米倉へ廻米してはじめて終了する。その船賃、代表が江戸へ出向いて行う諸手続きの費用一切は納入側持ちだからと。

120_6手元の鈴木直ニさん『徳川時代の米穀配給組織』(国書刊行会 1977.10.20)にも、年貢米(御城米 おしろまい)の廻送についての記述はあるが、その諸経費の負担には言及されていない。
相良港の廻船問屋・福岡町太郎兵衛方の例だと、江戸表までの運賃は100俵につき1両3分(『相良町史』)。

金納を選んだ村々は、相良近郊で米を売ろうとしたが、金納の価格ではとても売れないことがわかった。
それに江戸で行わなければならない幕府側への引渡し手続きに要する費用もばかにならない。
金納をやめ、全量を米納に変更したいと代官所へ願った。

が、聞き入れられなかった。
ついに、村々から選抜された代表4人が江戸へで、松平定信へ禁令の駕籠訴(かごそ)を強行した。

もちろん、禁令ゆえ、駕籠訴が取りあげられるはずはない。

ことの決着より、幕府直轄領は全国の400万石以上あった。それらがどのように納米したか、それに要した諸費用をどうしていたかの研究事例があったら、読んでみたい。ご教示いただきたい。

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コメント

天領農民の苦悩
天領農民の苦悩を見ました。
私の住んでいる町田市も天領ですが、名主が代官に不作の訴えをすると、概ね意見は入れられて過酷な収納はされず、 大名の領地よりも恵まれていたらしいですね。
八王子同心の例を引くまでもなく、農民の誇りは高く、
後に新撰組を応援した名主たちは裕福で徳川家に対する忠誠心は幕臣よりも強かったようです。

投稿: edoaruki | 2006.12.22 11:58

>edoaruki さん

町田のお代官は、いい人だったようですね。
代官がいい人だと、農民は幸せです。

投稿: ちゅうすけ | 2006.12.23 09:52

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