『一本刀土俵入り』
池波さんの未収録エッセイ集『おおげさがきらい』(講談社文庫 2007.3.10)に[先生の声]と題した短い文章がある。 新鷹会の『大衆文芸』1963年(昭和38)6月号に掲載されたものだ。
『大衆文芸』は、いうまでもなく、生前の長谷川伸師が刊行の赤字をほとんど補填していた、新人作家を育てるための月刊誌だった。
十何年も前のことになるが---。
先生が戦後初めての大患を切りぬけられた翌年の夏のことだったとおもう。
「十何年も前」というと、池波さんが三十歳寸前---劇作の勉強に身をいれていた時期であろう(いずれ、『長谷川伸全集』全16巻 朝日新聞社を借り出して、年次を確認してみよう)。
40歳年長の伸師は70歳前。
不忍池畔にあった文化会館で鶴蔵一座が興行していた[一本刀土俵入り]を、故・井原敏さんと池波さんを伴って観に出かけた。3枚の切符は、長谷川伸師が買った。
ご自分の芝居を見るためのキップを買われたのだ。
池波さんは、わざわざ、この一行を添えている。
300本近くある長谷川伸師の脚本のうち、『瞼の母」『関の弥太っぺ』『沓掛時次郎』や『一本刀土俵入り』 は、地方の劇場や旅回りの劇団で、とりわけ多く上演されていると、橋本正樹さんが長谷川伸師の脚本6本を収録のちくま文庫『沓掛時次郎・瞼の母』(1994.10.24)の巻末解説で明かす。
それらの一座や芝居小屋は、長谷川伸さんに脚本使用料をほとんどはらわないらしいとも。
それを、長谷川伸師は、「彼らの生活の糧となっているのなら、いいじゃないか」と黙許なのだと。
だから、この不忍池での鶴蔵一座へも、来意を告げれば、座長自身がすっ飛んできて案内したはず。それを、仰々しいし、かえって演じるたちを緊張させてしまうとおもんぱかり、客席のすみに席を求めたことを、池波さんは言っているのだ。
こうした気くばりを、若かった池波さんは、長谷川伸師から学んだ。
すこしそれるが、2度にわたって紹介した、長谷川伸師のたくましい太ももと池波さんの体格のこと。
長谷川伸師の筋肉、2
『生きている小説』(中公文庫 1990.w3.10)iに、[一本刀土俵入り]という章がある。
長谷川伸さんは、若いころ、食べていく手段の一つのつもりで、幕内の稲川政右衛門へてし入りを懇望して追っ払われた経緯を告白し、この体験がのちに[一本刀土俵入り]を生んだと回想している。
そのころの長谷川伸二郎(本名)青年は、力仕事で鍛えた体格に、お相撲になるほどの自信があったのだ。
その筋肉が、初対面の池波さんをおどろかせた。
さらに、[先生の声]は、こう、つづけられている。
「ぼくが君ちたちにあげるものの中から、君たちの身につくものがあって、それを生かしてくれることは嬉しい。だがね、それは、あくまでも、君たち独自の個性の中で生かしてくれなくっちゃアいけないりだ。それでなくてはなんにもならない。このことをよくおぼえておいてくれたまえよ。人間としても、個性を失ったらダメだよ」
仕事の師は身近にいる。が、人生の良師たる人には求めなければ出会えない。。
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コメント
朝日新聞社刊『長谷川伸全集』巻4(1971.4.15)の[付録月報]に寄稿した映画監督・稲垣 浩さんが、
「アメリカ映画の〔シェーン〕は[沓掛時次郎]のパマクリだ」
と長谷川伸師へいったら、
「あれは上手に作ってあるね」との答え。
「抗議したら?」
とすすめると、
「なアに、こっちもニューヨークの波止場にヒントを得て[刺青奇偶(いれずみちょうはん)を作ったのだもの、お互いさまだよ」
「シェーン」と[沓掛時次郎]、似てるかなあ。
池波さんの「シェーン」評、あったかなあ。
投稿: ちゅうすけ | 2007.03.26 09:25