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2007.03.28

池波さんと島田正吾さん

Photo_325島田正吾さんが、中村吉右衛門丈=鬼平のテレビ[血頭の丹兵衛]で、〔蓑火(みのひ)〕の喜之助を演じている。
粂八(くめはち)は蟹江敬三さん。

原作と異なるのは、東海道・三島宿に潜む日下武史さんの〔血頭(ちがしら)〕を捕えるために、鬼平も出向いているところぐらいだろうか。

唐丸駕籠に乗せられて東海道を下っている〔血頭〕よりもひと足先の鬼平と粂八が、さつた峠の茶店で休んでいると、京へ上る〔蓑火〕が入ってくる。
〔蓑火〕は、粂八がいまも〔野槌(のづち)〕の弥平一味にいるとおもいこんでいるから、連れの鬼平をただの浪人と信じて、煙管の火を借り(大盗賊と火盗改メの長官が火の貸し借りをする、これが原作にはない脚本の一つの見せ場)、話しかける。

「江戸では、ご大層な名前の--ほら、鬼のなんとやらいう---」
「鬼の平蔵」
「それそれ---」
と、鬼平の鼻を明かしてやったよと、芝口2丁目の書籍商〔丸屋〕でのいたずら盗(づと)めを自慢する。

そして、こんどは台本では鬼平がいうことになっているセリフ---「犯さず、殺さず、貧しきからは盗まず」を、自分も粂八にいいたいと、高瀬昌弘監督へ強請した。
吉右衛門丈の快諾が出たおかげで、ぼくたちは、両名優の同じセリフまわしを堪能できた。

それはそれとして、島田正吾さんに、1974年6月に歌舞伎座の楽屋で書いた、[池波さんのこと]という巻末解説が『青春忘れもの』(中公文庫)に添えられている。名エッセイといえる。

池波正太郎という名前をぼくが初めて耳にしたのはいまから三十年ばかり前、長谷川伸先生の高輪のお宅で、先生のお口からである。(略)
「二十六日会--脚本勉強会--に、安房君の弟みたいな新入生がいるよ。下谷保険所の職員で池波正太郎君というんだが、ものになりそうだよ」

安房青年は、島田さんの家に居候しながら、二十六日会のメンバーとして脚本の勉強をしていたのだが、早逝した。その弟みたいといわれたので、島田さんは一見もしていない池波青年に手紙を書いている。

「長谷川先生があなたのことを賞めていましたよ。どうぞ頑張ってください」
それだけの簡単な文面だった。余白に、その上演していた芝居の、舞台姿を絵にしてかき添えたと憶えている。

受け取って、どんなに嬉しがり勇気づけられたかは、さすがに気はずかしいかして、池波さんは書いていないが、ぼくたちは想像できる。ご両人の縁の糸は、こうして結ばれた。
その後の親密な交わりの次第は、池波さんのエッセイにしばしば出てくる。

池波さんとぼくとは、これから先もひょっとしてまた、芝居のことで意地っ張りの喧嘩をするようなことがあるかも知れない。
お互い惚れ合っているくせに、ときどきふっと憎ったらしくなるなんて、まるで男同士の鶴八鶴次郎みたいな池波さんとぼくだなあ---と思うことしきりである。

ふと、思った。池波さんは、島田正吾さんを長谷川平蔵に見立てたことはなかったかと。すくなくとも、丹波哲郎さんより、ふさわしかったのでなかろうか。

Photo_3241905年生まれの島田さんは、18歳若い池波さんよりも長寿を保ち、2004年11月26日に98歳で逝った。

翌日の朝日新聞の切り抜きが文庫のあいだから出てきた。
ぼくは、ふつう、訃報記事は残さない。島田正吾さんは例外中の例外である。テレビ[血頭の丹兵衛]の名演が切りぬかせたのである。

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