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2010.01.30

貴志氏(2)

「゛こんどは、いつ?」
里貴(りき 30がらみ)が切りだしたとき、女中が、
〔女将さん---」
襖の向こうから呼びかけた。

眉根をよせて立っていく。

平蔵(へいぞう 28歳)は、頭の中でいそがしく日めくりをくったが、あてられそうな宵はみつからなかった。
(遠出でもしないかぎり無理だが、店のある里貴は、とても出られまい)

四半刻(しはんとき 15分)もして戻ってきた里貴に、貴志頼母忠高(ただたか 42歳 500俵 書院番士)の名が書かれた紙片を見せた。

目を走らせた里貴が、
「あら。この店の名を姓にしておいでのお武家さまもいらっしゃるのですね」
「知らないご仁かな?」

しばらく黙っていたが、
「この方の大々お姉さまにあたる方が、私の大々叔母です」
「大々叔母?」
「紀州藩士・鷲巣(わしのす)家のむすめだったのですが、ご縁があって、貴志さまにもらわれていったのです」
「嫁した?」
「いいえ。養女でした」

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(鷲巣家からの養女と貴志頼母忠高の個人譜)

祖の鷲巣伊左衛門清勝(きよかつ 42歳)が、吉宗の長子・長福丸(のちの家重 6歳)の輔弼(ほひつ)としてつきそってニノ丸入りし、小納戸を勤め、1000石を給された紀州系の名家のひとつであることは、平蔵もこころえていた。

「ということは、里貴どのも鷲巣家の?」
「いいえ、そうではありません」
里貴は、その透(す)きとおるほどに白い面(おもて)に困惑の色をうかべた。

(てつ)さま。ここでは仔細をお話しすることはできません。これから、御宿(みしゃく)稲荷の脇の家へ参りましょう。早引けする手くばりをして追っかけますから、先にお着きになったら、手伝いの老婆を帰してやってください」
帯のあいだから、表戸の鍵を平蔵の手に載せ、両掌で上下からぼんと叩くようにはさんだ。
「老婆はお(やす)といいます。おに、酒の肴を忘れないように、と伝えてくださいますか」

老婆・お(60がらみ)は、まるで孫でも迎えたみたいに、ほくほくと、
「魚安の若いのが、今獲(いまど)れの鯖(さば)を持ってきてくれたから、船場煮をつくっておいたよ。お里貴さんが戻ったら、出し汁で暖めるていどに火にかけ、短冊に煮てある大根をのっけて食うように言っておくれでないか」
「わかった。おいしそうだな」
「あたりまえだよ。おらっちがつくった料理だもの」

言うだけのことをいい、おはさっさと帰った。
里貴の私生活などにはまったく興味がないらしい。
いや、里貴に、そういうふうに仕込まれているのであろう。

(自分はどうだろう?)
里貴という不思議な魅力をもったおんなの、すみずみまで知りたがってはいないか。
(いや。たまたま、貴志村の名を告げただけで、書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら 55歳 150俵)が気をきかせ、貴志姓の由来をとどけてきた。
(それを、里貴に示しただけだ)

(しかし、里貴はそうとは受けとらなかったようだ)
ことは、紀州藩にも、なにかのかかわりがありそうな気配になってきた。

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