貴志氏
「本所の長谷川さまから、お使いが参っております」
奇妙な笑顔で、下僕・太作(たさく 62歳)がとりついだ。
平蔵宣以(のぶため 28歳)は、太作とは秘密を共有している仲と観念している。
14歳のときに、男になることを手配してくれたからである。
はやくおんなを知ったことで、妄想を持たないで育てた。
相手の女性(にょしょう)・お芙佐(ふさ)は、25歳の若後家であった。
(清長『柱絵巻物』右部分 イメージ)
【参照】2007年7月16日~[仮(かりそめ)の母・お芙佐(ふさ)] (1) (2)
2007年8月3日~[銕三郎、脱皮] (1) (2) (3) (4)
2007年12月22日[与詩(よし)を迎えに] (2)
脇の玄関に待っていたのは、過日、多い目の駄賃をやった小者であった。
太作の皮肉な笑顔はこれであった。
届けられた書状には、
貴志頼母忠高(ただたか)。42歳。500俵。書院番士。屋敷=小日向馬場脇。
吉士(きし) 百済からの渡来人。
貴志---難波吉士の後裔。
貴志村---紀伊国那賀郡(ながこおり)と同国海部郡(みべこおり)。
貴志家は、北条方から徳川に召され、のち、有徳院殿(吉宗)に使えた。
記されていたのは、これだけであった。
小者が「三ッ目通りの長谷川家に届ける書状はないか、とでも、主人の書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら 55歳 150俵)にせっついたのであろう。
多すぎるとおもったが、前回のとおり、小粒・1朱(1万円)をひねってわたした。
(ほう。茶寮〔貴志〕の里貴(りき 30歳がらみ)には、百済人の血が入っているかもしれないのか。抜けるような肌の白さは、そのせいか)
平蔵がほのかに甘い追憶にふけっていると、太作がひやかした。
「若。くせになります。甘やかすのも、いい加減になされ」
(自分を甘やかしているのかも---)
てれ隠しに咳をし、書状をふところに納めながら、平蔵は、貴志忠高という幕臣に会う算段を考えていた。
(小日向馬場といえば、納戸町の大叔父・久三郎正脩(まさひろ 63歳 小普請支配)の屋敷への道すがらだが--)
思ったとたん、里貴に訊けばすむことだと気づいた。
一橋北詰の火除け地角の茶寮〔貴志〕へ行こうと支度をととのえているところへ、遣いに出ていた松造(まつぞう 22歳)が戻ってきた。
西ノ丸書院番頭の水谷(みずのや)伊勢守勝久(かつひさ 50歳 3500石)の与(くみ 組)頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 54歳 800俵)の屋敷からの返事をとってきたのである。
「明後日が休仕の日なので、お待ちしている」
「松造。すまないが、もう一度、牟礼家を訪ねてきてくれないか。用件は、〔貴志〕の席がとれるかどうかなので、そこまで一緒してくれ」
とっさに、牟礼与頭を昼餉に招くことを思いついたのである。
〔貴志〕で筆を借り、招き文をしたため、もたせた。
里貴が、
「昼餉どきが終わったので、板場が一服しております。お茶だけでおよろしければ---」
「里貴どのの躰があいていれば、それでいい」
「あいていなくても、あけます」
目と目をあわせて笑った。
お茶を手配して戻った里貴が、
「先夜を思いだすと、躰が熱くなるのですよ」
ほら、まくってさしだしたニの腕が、ほんのりと淡い桜色に染まっていた。
「あの宵は、乳房もそのような色になっていた」
「こんどは、いつ?」
里貴の双眸(りょうめ)の光が増した。
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