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2010年2月の記事

2010.02.28

〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛(7)

数ヶ月も前から、〔須佐十(すさじゅう)〕に、中塗りが上手な茂三(しげぞう 30がらみ)を雇わせる。
それには、築地・上柳原町の藍玉問屋〔阿波屋〕のかかりつけの棟梁が〔木曾甚〕で、壁塗りには〔須佐十〕に声をかけるという習慣(しきたり)を調べなくてはならない。

その前に、〔阿波屋〕が大きな商いをしていること、土蔵の建て増しをかんがえていることをさぐりださないと。
また、〔阿波屋〕の主人・重兵衛(じゅうべえ 40歳)に、中寿の祝いをさせるには、そんな祝いごとが真言宗にあることを吹きこまないといけない。

さらにいうと、重兵衛がその祝い酒を使用人たちにふるまいそうな夕べの数日前に、ホトケ草を混ぜた番茶の葉袋を買わせておく手くばりをする。
日数をまちがえると、使いのこりのほうの番茶がつかわれるかもしれない。
新しい番茶袋のどのあたりに、ホトケ草を濃く仕込むかが、決め手になりそうだ。

いや、中寿の祝いの朝、かくしていたホトケ草を番茶袋に入れたすという手もある。
もし、探索方の目が茶の行商人に向けば、店の中の共犯者への疑いの目をそらすことにもなる。

中塗りのうまい茂三は、とっくに飛んでいようから、探すのは無駄骨かもしれない。

重兵衛に中寿の祝いを吹きこんだ深川・奥川橋際の万徳院の住職をあたってみるべきだな。

(それにしても、〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛(いちべえ 50がらみ)という賊、:手はずを大島紬(つむぎ)のようにじつに綿密に織りあげる仁だな。とはいえ、どこかに織りぐるいがあるはずだ)

万徳寺へ向かうために、日本橋川の豊海橋から永代橋へかかった。

寒風に吹かれた大川が、白っぽいさざ波をひろげていた。

いまの火盗改メ・助役(すけやく)の庄田小左衛門安久(やすひさ 41歳 2600石)組が引きついでいる、この10年間の〔蓮沼〕組とおもえる府内での犯行4件ほどにすぎないという。

先だって松造(まつぞう 22歳)へ、筆頭与力・古郡(こごうり)数右衛門(52歳)がわたしてくれた4件は、

宝暦13年(1763)9月25日 京橋銀座2丁目 
  乾物類卸〔和泉屋〕清吉 570両余

明和2年(1765)10月6日 室町2丁目
  塗物問屋〔木屋九兵衛 645両

明和5年(1768)1月16日 湯島坂上
  江戸刷毛本家〔江戸家〕利八 480両

明和7年(1770)4月3日 竜巌島銀町
  下り酒問屋〔鹿島屋〕庄助 725両余

このなかで一つだけ変っているのは、刷毛問屋の〔江戸屋〕が、薮入りの、店の者が実家へ帰った晩に襲われていることである。

ほかの3店は、出身が大坂だから、店の使用人も上方からきているので、薮入りといっても浅草あたりで飲食をして夕方には店へ戻っている。 
  
そんなことを考えながら歩いているうちに、万徳院の門をくぐった。

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(万徳院 『江東区史』1957刊より)

住職・円海師(68歳)は庫裡(くり)へ平蔵(へいぞう 28歳)を招じ、茶をすすめた。

礼を述べてから、真言宗の宗派を訊いた。
「高野山です」
そういえば、深川八幡宮の別当・永代寺に毎年出開帳する成田山がそうであった。

ちゅうすけ注】成田山は、いまは真言宗智山派。

平蔵の胸をかすめたのは、この春まで、京都でねんごろにしていた貞妙尼(じょみょうに 享年26歳)の、光を透きとおらせているかとおもえる青みをおびた白い肌であった。
下腹がふれあった感触までよみがえった。

参照】2009年10月12日~[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] 
 () () () () () () (

誠心院が属していたのは、古義真言宗のうちでも京に本山をおく泉湧寺派であったが、尼は、仏僧たちの横恋慕の犠牲になった。

参照】2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

貞妙尼の白い肌を、茶寮〔貴志〕の女将・里貴(りき 29歳)の肌にみた。

そういえば、紀州(和歌山県)伊都郡の貴志村も、高野山の寺領であった。

(そんな、おのれがまじわったおんなのことを、懐かしがっているときではない)

短刀直入に訊いてみた。
「ご坊は、40歳の中寿の祝いというのをどこでお学びになりましたか?」
弘法大師が40歳のときのお書き留めの『性;霊集』というのがあるのをご存じかな?」
逆に訊かれ、頭(こうべ)をふり、
「『性;霊集』は存じませぬが、京の神泉苑(じんせんえん)の老師から、釈迦が寿量(じゅりょう 80歳)で入寂なされたことから、40歳を中寿(なかじゅ)といい、人生の一区切りとすると教わりました」

「ほう。神泉苑の高僧・天空師にご面識がおありとは---」
「亡父が京都町奉行をうけたまわっておりまして---」
「おお、あの長谷川どのご嫡子でありましたか。これは失礼つかまつりました」

(いまさら認めてくれても、もう、用件は済んだ)
それでも平蔵は、かしこまって礼を述べた。

老師がゆっくりと述べた。
「〔阿波屋〕さんに、中寿の祝いの晩に賊が入ったので、祝いにならなかったと考えてはなりませんぞ。その賊は、蔵の有り金を半分のこして去り申した。さらに、一人の怪我人もでなかった---これを寿といわずして、ほかに、いかなような寿がありましょうぞ」

平蔵は、天啓を感得した気分になり、老師に好意をもった。

この円海師とうち解けたことで、その後、平蔵は悪人たちに慕われることにもなるのだが。

参照】2010年2月11日~[〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛] () () () () () () () 

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2010.02.27

〔須佐十(すさじゅう)〕の茂三

「お役目、ご苦労さまでございます」
平蔵(へいぞう 28歳)を火盗改メの役人とおもいこんでいる手代の富雄(とみお 23歳)は、商人らしくつくり笑いをしながら、これもお義理のあいさつを口にした。

「手代さんは、たしか、富雄とかいいましたな?」
「さようでございます」
「何を調べているとおもうな?」
「お上のことは、とんと---」
「番茶を調べているのさ」
「番茶? 番茶が賊とかかわりがございますのですか?」
富雄の声には、安堵の色がこもっていた。

「手代さんは、酒は?」
「はい、ほんの少々---」
「賊がきた夜の祝い酒は?」
「ご主人さまのお祝いごとでございましたので、盃に3杯ほどいただきました」
「あと、番茶を飲んだかね?」
「いえ。夜中に厠へ起きるのが好きではございませんので---」
「なるほど---」
平蔵が確かめるように富雄をみつめると、目をそらせて、
「ご用がおすみでございましたら、表の仕事がたてこんでおりますので、失礼させていただいて、よろしゅうございましょうか?」
「いや、足をとめさせて悪かった。番茶のことは、ほかにもらさないように、な」

かしこまった富雄が炊事場から店のほうへ去った。
姿がすっかり消えたのを見すまし、
「婆ぁさん、あの手代さんは、ふだんでも晩飯のあとに、茶を飲まないのかな?」
「そういえば、ここ10日ばかり、飲まないようでございましただ。茶碗にのこしておりましたけに」
「10日ばかりな。これで、夕飯のあと、出かけることは?」
「ときどきでございますが、そのあたりの様子をおぼえるというては、1刻半(3時間)ばかり。おおかた、好きなおんなにでも会いにいっとるんだわさ」

その足で、万年橋東の庄田小左衛門安久(やすひさ 41歳 2600石)の役宅を訪ねた。
先手・弓の3番手の庄田組は、火盗改メの助役(すけやく)を勤めている。
同心・脇田祐吉(ゆうきち 29歳)は見廻りにでており、筆頭与力・古郡(こごおり)数右衛門(52歳)が会ってくれた。

先日、脇田同心に、大工の〔木曾甚〕の声がかりで藍玉問屋』〔阿波屋〕の土蔵の新築にかかわった左官職〔須佐十(すさじゅう)〕かかえの職人で、その後、いなくなった者はいないか、調べをたのんでおいたのである。

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(左官職・部分 『風俗画報』明治29年(1896)4月10日号 塗り絵師:ちゅうすけ)

古郡筆頭がもたらしたのは、中塗りのうまい茂三(しげぞう 30がらみ)という渡りの鏝(こて)職が暇をとっていたという。
茂三は、6ヶ月ほどまえにふらりとやってき、その中塗りの腕がいいのですぐに話がきまった。
むっつりした男で、職人たちが酒や博打、おんな買いさそっても、首をふるばかりで交際(つきあ)わなかった。
〔阿波屋〕の仕事のときは、すすんで残業をもうしでた。
(そのときに、金蔵の錠の蝋型をとったな)

しかし、表のくぐり戸の桟はずしは内の者でなければできない。
近づき、抱きこむ手はずがとられたにちがいない。

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2010.02.26

とけい草

眠りを誘うとけい草は、江戸のちょっと大きい薬種(くすりだね)問屋でなら手に入ると、お(もと 37歳)の言葉を、井関録之助(ろくのすけ 24歳)が報せてきた。

(ろく)さん。その眠り薬は、鶴吉(つるきち)に効いたのか?」
平蔵(へいぞう 28歳)が真顔で問うと、
「さあ。鶴坊に確かめるわけにはいきませんが、翌朝、けろりとしていましたから、よく眠っていて、2人のはげしかった果たしあいには、気づかなかったのではないですか」
「しらんぷりをしているってこともある」

録之助が嫌な表情をみせたので、
さん。許せ」
長谷川先輩。鶴坊に読み書きは教えたし、そろそろ、旅にでようかとおもっているんですよ」
「こんどの日光行きで、旅の味をおぼえてしまったのか」

旅が人間を解放することを、平蔵は知りすぎるほど、身にIおぼえがある。

「おさんをどうするのだ」
「それですよ。6年間、すっかり躰がなじんでしまっていますからなあ。しかし、こんどのことで、5夜我慢したのだから、あれが10倍なら50夜の我慢です」
「ばか。そんな理屈がおんなに通用するものか」
「それでは、夜逃げしかないかなあ」
「おいおい」

録之助は、けっきょく、それから幾ヶ月かのち、父親が吉原の女妓と心中したのを機に、北本所の寮から姿を消した。
平蔵との再会は、文庫巻5『乞食坊主』であることは、鬼平ファンならとっくにご存じ。
は、
「安心しきって怠っていたわたしの躰に、飽きがきたのでしょうよ」
「そうではあるまい。母鳥に深く感謝をしながらも、遅すぎた巣立ちをしたまでのことであろう」
平蔵のなぐさめに、空の巣をのぞく母鳥のうつろな目で、おはうなずいた。

本町3丁目の唐和薬種問屋〔小西長左衛門〕方に、平蔵の姿があった。

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(〔小西長左衛門 『江戸買物独案内』 1824年刊)

ここは、〔小西〕系の薬種問屋の長老格の店であった。
本町には、薬種問屋が軒をつらねている。

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(本町薬種問屋 『江戸名所図絵』 塗り絵師:ちゅうすけ)

その中で〔小西長左衛門〕の店にしたのは、日本橋通り南3丁目の白粉問屋〔福田屋〕文次郎の紹介によった。

確かめたのは、とけい草の効き目であった。
薬効にくわしい二番番頭が、初めて服用した人にはみごとに効くと保証した。
「味は? たとえば、酒に混ぜたらわかるかな」
「番茶なら、わからないでしょう」

礼を述べて帰りかけた平蔵に、番頭は、オランダ渡りのちゃぼとけい草は、もっとよく効くといわれておるが、このあたりで扱っている店はあるまい、とつけ加えた。
「蘭法か」
(こんど、平賀源内(げんない 45歳)先生に会ったら---のことだな)

その足で、上柳原町の〔阿波屋〕に聞きこみに行き、主人の中寿(40歳)の祝いの晩に、番茶がでたかどうかを尋ねた。
酒をあまり飲まない2人が、宴で番茶を喫したといわれた。
その番茶のことを飯炊きの婆ぁさんに訊くと、15日ほど前に安かったので、行商人から買ったと。
番茶を飲む者たちは、喫した夜はよく眠れるので、不思議におもいながら飲みつづけたが、このごろは、かつてほど効かなくなったと証言した。

婆ぁさんにだしてもらい、番茶の葉ののこりを改めていると、帳簿つけの手代・富雄(とみお 23歳)が水を飲みたいといって炊事場へあらわれた。

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2010.02.25

日光への旅(4)

「そうか、それほどに絢爛豪華か」
一足先に帰府した井関録之助(ろくのすけ 24歳)の旅ばなしを聞いていた平蔵(へいぞう 28歳)は、話題が東照宮におよんだとき、あいづちをうった。

平蔵どのも、ぜひ、おのれの目で見るといい。当時の徳川どのの財力のほどがしのばれますよ」
「ご老職・田沼主殿頭意次 おきつぐ 55歳)侯が、お上の参詣の費用づくりをなさっておられるようだ。3年先との風説がもっぱらだが、それまでに書院番士として出仕し、供に加えていただければ、拝観できよう」
「ぜひ、選ばれるように動きなされ」

参考日光東照宮

「ところで、粕壁(現・春日部市)宿の脇本陣の亭主におさまっている亀之助(かめのすけ 24歳)の願いごとはどうなりました?」
「どうなったって、さん、帰りに、亀公に会わなかったのか?」
「ちょっと、急いだもので、あそこを素通りして、越ヶ谷宿泊まりにしたもので---」
平蔵は、録之助がなにか手づまをつかったなとは感じたが、さりげなく、
「火盗改メの庄田組の与力・同心たちがさんとすれちがったのは、千住大橋あたりとおもうよ」
「手くばりしてくださったのですね」
「同門のさんと亀公の頼みだから、無碍(むげ)にはできない。これでも、友情には篤いほうでな」
「助かった---」
おもわず、洩らしてしまった。

録之助は、宇都宮城下で〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 65歳前後)に出会ったことも話した。
「その盗賊一味が、駿府と掛川で妙な仕事(つとめ)をしてな」

参照】【参照】2008月15日~[与詩(よし)を迎えに] (16) (17) (18) (19) (20
20091年1月15日~[銕三郎、三たび駿府へ] () () () () () (10) (11) (12) (13
2009年1月21日~[銕三郎、掛川で] () () () (


経緯(いきさつ)を話してやりながら、4年前にi掛川から小川(こがわ)〔中畑(なかばたけ)〕へ、お(りょう 30歳=明和6年)とすごした4泊の旅をおもいだしていた。
(おが生きていたら、〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛の仕事ぶりや、〔荒神〕の助太郎が宇都宮にひそんでいるわけをどう読みとったろう)

助太郎が宇都宮城下にいたことは、太作が飛脚便で報せてよこし、土地(ところ)で十手をあずかっている者にさぐらせているから、今市での竹節(ちくせつ)人参の植え場の見学がおわったら、後便をだすといってきていたが、そのことは録之助の顔を立てて伏せている。

「お(もと)さんに、5夜も一人寝させて悪かったな」
(37歳)は、日本橋室町の茶問屋〔万屋〕の北本所の寮で、店主・源右衛門(げんえもん 52歳)の隠し子・鶴吉(つるきち 12歳)の乳母をしている。
録之助はその用心棒として住みこみ、たちまち、おとできてしまっていた。

参照】2008年8月22日|~[若き日の井関録之助] () (

「40近いおんなの空:閨のうめあわせ欲は、すさまじいですよ、先輩」
「ばかは休みやすみにいうものだ」
「昨夜は、いや、もう---」
鶴吉(つるきち)は幾つになった?」
「12歳です」
「耳ざとい齢(とし)ごろだ。おぬしたちの睦言がこころの傷になることもあろう」

そこは、おもこころえていて、昨夕は、眠り薬を鶴吉に飲ませたのだという。
「眠り薬?」
「なんでも、とけい草とかいう蔓草の茎葉の干したのを煎じた湯を飲ませると、深く寝入って、地震がきても目をさまさないからって、おが請けおいました」
「なんてご両人だ---」
にがりきった平蔵が、すぐに真顔になり、
「おい。いま、とけい草---といったか?」
「ええ」
「おさんは、どこで手に入れたといっていた?」


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2010.02.24

日光への旅(3)

小山(おやま)で早めの昼飯をとり、宇都宮へは七ッ(午後4時)前にはいった。
城を右手に眺めながら、伝馬町から町はずれの戸祭(とまつり)あたりへさしかかったところで、太作(たさく 62歳)が、ついと横道へ曲がった。
つられて、松造(まつぞう 22歳)も井関録之助(ろくのすけ 24歳)もしたがった。

どん。いま、本通りを江曾島(えそじま)の立場(たてば)のほうへ行く、50代半ばの男の行く先をたしかめてから、戸祭郷の旅籠へきておくれ。見失うなよ」
太作の口調にただごとでないものを感じた松造は、荷を録之助へ押しつけ、さっと本通りへでていった。

のこった録之助が、
「何者だ?」
「〔荒神こうじん)〕の助太郎(すけたろう)という盗賊でございますよ」

太作は、14年前に、銕三郎と藤枝の田中城への旅で、箱根の芦ノ湖畔で出会った助太郎について話してきかせた。
「若---もとい、殿が探しておいでなのです」
「14年ものあいだ?」
「賊とわかったのは、殿が18だかのときに、小田原で奴が仕事(ぬすみ)をしたからでございます」

参照】2007年7月14日~[〔荒神(こうじん)〕の助太郎] () (
2008年1月25日~[〔荒神〕の助太郎] () () (
2008年月日~[〔荒神〕の助太郎] () (10

太助どのは、14年前の、そやつの顔を覚えていたのか?」
「若---殿から、いくども聞いておりますから、忘れようったって、忘れるものではございません」
「忠義ものよのう、おぬしは---」
「向こうだって、その気があれば、わたしの顔をおぼえているかもしれませんが、ま、その気配はなかったようで」

話しているうちに、宇都宮城下でも日光道中の北寄りの戸祭郷の旅籠〔黒羽屋〕へ着いた。
ここは、粕壁で泊まった〔藤屋〕の主人にすすめられていた。

風呂をあび、録之助に酒をすすめているところへ、松造が着いた。
尾行(つ)けはじめたところから3丁(300m)ほど巳(み 南)の煙草屋へ入ったので、しばらく物陰でうかがっていたら、なんと、出てくると、こっちへ戻ってきた。
〔黒羽屋〕をとおりこし、1丁ほど先の路地の奥のしもた屋へ消えるところまでたしかめて引き返したと、松造が告げ、太作の指示を待った。
「ご苦労さん。はやく、湯につかってきなされ」
太作はそれきり、助太郎のことは忘れたように口にしなかった。

録之助松造は、明日はいよいよ日光というので気がゆるんだか、地酒が口にあったかして、3本ずつあけ、さっさと布団にはいってしまった。

膳をさげさせてからしばらく考えていた太作は、帳場で番頭になにかを頼んだ。
番頭のいいつけで出て行った小僧が、30歳近い目玉の大きな男をともなって戻ってきた。
多作は、空いている部屋を借り、その男としばらく話しこんでいたが、金を紙につつんでわたすと、そっと部屋へもどり、松造の隣の布団に横たわったが、しばらくすると、年寄りらしい軽いいびきをかきはじめた。


参照】『鬼平犯科帳』文庫巻24[二人五郎蔵]に〔戸祭とまつり)〕の九助の「呼び名」は、ここの地名であろう。

       ★     ★     ★

週刊『池波正太郎の世界 11』[鬼平犯科帳 三](朝日新聞出版)が届いた。

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今週号には、『オール讀物』編集部で池波さん担当だった名女川勝彦さんの[「鬼平名前帳」ができるまで]が寄稿されていておもしろい。
鬼平犯科帳』の盗賊たちの名前といえば、ぼくも調べて、このブロクにあげている。名女川さんの動機fは、登場人物の整理のためであったようだが、ぼくの動機は、雑誌に載った池波さんの書斎の写真に写っていた参考書の脊文字の一つに、明治後期にでた吉田東伍先生著『大日本地名辞書』(冨山房)の1冊を目にし、もしかして、盗賊の呼び名は、地名ではなかろうかと思いついて、調べはじめたのである。

400人ほどでてくる盗賊のうち、300人は上記辞書から採られたと推定できそうであった。もちろん、そのほとんどは池波さんがなにかの機会に取材に訪れた土地にちがいない。

16人は、長谷川平蔵が活躍していた寛政期に板行された鳥山石燕画『画図百鬼夜行』の化け物の名が由来であった。
16人全員は、このブログの盗賊の名でおたしかめいただくとして、とりあえず、数名をあげておく。
呼び名(とおり名ともいう)の色の変わっている「平かな」をクリックで呼びだせる。

〔野槌(のづち)〕の弥平 [1-1 唖の十蔵]
〔蓑火(みのひ)〕の喜之助 [1-3 血頭の丹兵衛]
〔火前坊(かぜんぼう)〕の権七 [1-5 老盗の夢]
〔墓火(はかび)〕の秀五郎 [2-2 谷中・いろは茶屋]
〔網切(あみきり)〕の甚五郎 [5-5 兇賊] 
〔狐火(きつねび)〕の勇五郎 [6-4 狐火]
〔犬神(いぬがみ)〕の権三郎 10-1のタイトル
〔蛇骨(じゃこつ)〕の半九郎[10-6 消えた男]
〔土蜘蛛(つちぐも)〕の金五郎 11-2のタイトル

地名のほうは、その県の、あるいは市の観光資源のつもりで調べ、掲示した。

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2010.02.23

日光への旅(2)

越ヶ谷宿はずれでの事件からあとは、その日の泊まりの粕壁宿(かすかべ 現・春日部)まで、なんのこともなくすぎた。
3人は、まだ明るいうちに、本陣〔高砂屋〕彦右衛門方の向いの旅籠〔藤屋〕にわらじを脱いだ。

部屋は、太作(たさく 62歳)と松造(まつぞう 22歳)が相部屋、井関録之助(ろくのすけ 24歳)は別部屋であった。
録之助は、夕食をことわり、
「道場で相弟子だった、本陣の次男坊と会ってくる」
本陣へ通じている道へ消えた。

季節はずれとみえ、本陣には大名一行はなく、役人らしいのが数組宿泊していた。
刺を通すと、次男坊は、本陣から2丁ばかり南へ寄った中宿の脇本陣格の〔高砂屋別館〕の差配をしているとのことであった。

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(粕壁宿 左緑○=本陣 右緑○=脇本陣
道中奉行製作『日光道中分間延絵図』部分)

道場では、録之助からよく教えられていたのである。
年齢も近く、気もあった。
家から送られてくる充分な金でよく、いっしょに遊んだ。

それが、高杉道場が閉ざされて10ヶ月ほどなのに、24か5で、脇本陣の若亭主である。
(親にめぐまれると、亀之助のように、若くして一家をかまえられる。ひきかえ、30俵2人扶持のご家人の父親、しかも妾腹のわしときたら---)
さすがに録之助もしょげたが、ともかく、〔高砂屋別館〕の戸口に立った。

と、仕切り枠からこっちを見ていた亭主・亀之助(かめのすけ 25歳)が、
井関さん」
転げるようにとびだしてきた。


旅籠の奥庭の塀の外に、亀之助の住まいが建てられていた。
高杉道場の3倍はあるではないか」
感嘆の声をあげると、
「このあたりでは、土地はただみたいなものですから---」
それでも亀之助は小鼻をうごめかした。

酒になった。
こんどの日光行は、長谷川先輩の指示によるものだと打ちあけると、
銕三郎先輩は、京都からお戻りに---?」
初めて知ったらしい。

そこで、京の町奉行だった備中守宣雄(のぶお 享年55歳)の病死のことや、跡目相続をして平蔵名を襲名していることなどを話してやると、感にえた口調で、
長谷川先輩と、岸井先輩は天性の剣技をおもちだったからなあ」
「おいおい、それではおれの剣技が一段劣るといわれているようで、おもしろくないぞ」

長谷川先輩を剣魔とすれば、井関さんは剣鬼といったところでした」
亀之助のあわてぶりに笑いあってすませたが、越ヶ谷はずれで掏摸たちをこらしめた話をすると、亀之助はとたんに真顔になり、じつは、日光道中の古利根川の手前を左に折れた寺町通りのすぐの普門院が無住寺になったのをいいことに、浪人たちが住みついて、なにかと悪さを重ねている。
宿場役人も、相手が悪いと手をださない。

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(左赤丸=普門院 右緑○=本陣 同上)

「どうでしょう、井関先輩。こらしめて、追っ払うわけにはいかないでしょうか」
平蔵から、こんどの旅では太刀を抜くことを禁じられているから、鉄条入りの木刀で傷めつけるとしかできないが、
「追っ払うといっても、また帰ってきて、さんがけしかけたとわかると、ここがあぶなくなるよ」
「わたしも、嫁を迎えたばかりだから、それは困るなあ」
「いっそ、長谷川先輩に飛脚便をだして、平蔵さんの知り合いの火盗改メに出張ってもらってはどうだ?」
「やってくださるだろうか?」
「亀さんは、宿場のお偉いさん方へ奉加帳をまわし、火盗改メの出張り賃を集めるのだな。火盗だって、ゼニには弱いのもいるだろうよ。だが、飛脚便は、ここの問屋場をつかってはだめだ。まさかのときにバレる。そうだ、わしが飛脚賃と文を預かって、古河(こが)宿あたりから托すというのはどうだ?」

話がきまり、録之助はちゃっかり、倍の飛脚賃を預かった。

翌朝、宿を発(た)つとき、番頭に平蔵あての亀之助の書状に自分の分を添えたのをわたし、
「江戸への飛脚賃は、いかほどかな?」


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2010.02.22

日光への旅

「おや、井関さま---」
翌日の昼、戻ってきた松造(まつぞう 22歳)のうしろの、井関録之助(ろくのすけ 24歳)の姿をみとめた太作(たさく 62歳)がおどろいた。

日光街道の草加(そうか)宿の旅籠〔岩木屋〕長七方の門口である。

「仔細は松造どのから聞いてくれ。それより、飯だ。腹がへっている」

太作が泊まった部屋へ、昼餉(ひるげ)の用意ができるまでの虫おさえにと、向かいの茶店から草もちとせんべいを、番頭に買ってこさせた。

草加宿は、野田が醤油づくりの本場になってから、醤油によるせんべいを名物にくわえた。

草もちをほおばっている録之助を横目に見ながら、松造が話したところによると、往復6里(24km)を歩きづめで疲れたこともあり、江戸の手前の千住大橋で舟をやとった。

547
(千住大橋 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

大川橋(吾妻橋)の手前で、はっと気づいた。
「わが殿に相談すれば、きっと、井関さんに用心棒を頼めとおっしゃるはず、と」

611
(大川橋 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

それで源森川から横川へ入ったところで舟を待たせ、大法寺の隣に建てられている茶問屋〔万屋〕の寮へかけこんだ。
わけをきいた録之助は、すぐに、長谷川屋敷へ。
「若---殿さまは、なんと仰せられた?」
よ。お上の日光参詣に先がけて、お参りしてこい、ってなものさ」

平蔵は、3両(48万円)の旅費とともに、忠告を 一つ添えた。
「どんな事態になっても、太刀を抜いては、ことが面倒になる。高杉道場が閉じられたときに持ち帰ったはずの鉄条入りの木刀をもっていけ」

将軍・家治(いえはる)の日光東照宮詣(もう)では、3年後の安永5年(1776)の初夏に行われた。
大行列であった。
供に加えられた幕臣たちは『寛政重修諸家譜』に麗々しく書き加えている。

菅沼攝津守虎常(とらつね 59歳 700石)は、将軍参詣の翌年まで、日光奉行の職にあった---というより、この大行事を画策した老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 55歳 相良藩主)の意を帯しての赴任だった。

日光奉行の在地は、夏組と冬組にわかれており、菅沼摂津守は、秋から春先への冬勤務であった。

旅籠は、雨による川留めでもないかぎり、ふつうは昼飯はださないのだが、とくべつにととのえた。

3人は、手ばやくすませ、1里28丁(7km)北の次の宿場、越ヶ谷(こしがや)へむかった。
太作松造が並んで歩いた。、
録之助は、木刀を入れた袋を肩に、前の2人にはかかわりがない者のように、しかし、なにかあったたらすぐに前へ出るべく、3間(5m)ばかり後ろをわき見をよそおいながらついていた。
前の2人は、知らない者には、親子づれに見えたかもしれない。

越ヶ谷宿では、なにごとも起きなかった。

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(越ヶ谷宿部分 道中奉行製作『日光道中分間延絵図)

ほっと一息ついたとき、宿はずれの元荒川に架かった橋のたもとからでてきた4人ばかりが、行く手をさえぎった。
中の一人、〔左利(ひだりき)〕の佐平(さへい 30歳)がすごんだ。
「おい、爺ぃさんよ。痛い目にあう前に、ふところのものをこっちへ渡してもらおうか」

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,(越谷宿はずれの元荒川 同上)

ついと前へでた録之助は、すでに木刀を袋からとりだしていた。
「胡麻の灰らしいな。佐渡奉行どのから、坑道の水運び人足が足りないからって頼まれていてな。ちょうどよかった、いちどに4人、都合がついた」

男たちが黙って短刀(どす)を抜いた瞬間、うち2人がしゃがみこんでうめいていた。
佐平が左手で突きを入れたときには、すでに短刀を落として左腕をおさえてとびはねていた。
のこる一人が逃げかかるのを、とびかかって肩を撃った。
よろめいて、倒れた。

あっけなかった。
腕前の差があまりにもちがいすぎた。

録之助は、4人の目先に木刀をちらつかせ、
「骨折させては、佐渡で人足をしてもらえなくなるから、手かげんしてやったのだ」

宿場役人に縛り綱をもってかけつけろと告げに、松造が問屋場へ走った。

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2010.02.21

竹節(ちくせつ)人参(4)

っあん。ちょっとはやいが、ここらで昼にするかね」
日光街道の草加宿の手前、八幡社への参道の入り口をすぎたところで、太作(たさく 62歳)が松造(まつぞう 22歳)に声をかけた。

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(草加宿・部分 道中奉行製作『日光道中分間延絵図』)

2人は、南本所三ッ目通りの長谷川屋敷をでてから、4里(16km)ほどのあいだ、ほとんど口をきいていない。
旅は、しゃべると疲れが速い、というのが、太作のいい分で、松造は仕方なくしたがってきた。

ころあいの茶店に入り、太作が荷を預けて厠へ入ったとき、中年の男が寄ってき、
(とら)どんではねえか?」

目をあわせれると、
「やっぱり、寅松どんだったか」
松造が〔からす山〕の寅松として掏摸(すり)をはたらいていたときの名で呼んだ。

参照】2008年9月9日[中畑(なかばたけ)のお竜] (

「若党づくりとは考えたもんだ。それにしても、カモの爺ぃのふところにゃあ、5両(80万円)はまちげえなくへえってる---」
「〔左利(ひだりき)〕の佐平(さへえ 30歳)どんよ。間違えないでもらいたい。おれはいまは、このあいだまで火盗改メをなさっていた長谷川さまの若党なんだよ」
「ぷッ。火盗改メとは、聞いてあきれるぜ。冗談も休みやすみにしておくれ」
「信じないなら、この場はみのがしておくが、これから先、つきまとったら、村役人か、陣屋の者に突き出すぜ」
「大きくでたな」

そのとき、太作がもどってき、
「齢(とし)をとると、厠(かわや)が近くなっていけない。おや、っあん、お知り合いかね?」
「こちらは、掏摸の〔左利き〕の佐平兄ィというんだけど、おれが長谷川さまに仕えているといっても信じないから、村役人にとっ捕まえてもらって、佐渡の金山の水汲み人夫へ送ってもらおうかとおもっているところ---」

はやくも事情を察して、
佐平さんとやら。っあんは、まこと、長谷川さまの配下ですよ。目黒・行人坂の火付け犯をお召しとりになった長谷川さまのお名前は、ご存じだろう?」
「へえ---」
「わしらは、これから、日光ご奉行の菅沼攝津守さまのところへ用足しにゆくところでな。うそだとおおもいなら、いっしょについておいで。そこで捕まるのも、名誉かもしれない」

「とんでもねえ。では、寅松どん。せいぜい、気をつけてゆきねえ。この街道すじには、同職の者が多いからな」
佐平は、粕壁(かすかべ)のほうへ足早にくだっていった。

軽い昼食をとりながら、太作が、
っあん。いまの男は油断がならない。っあんは、ここの宿の〔岩木屋〕へわけを話して2,3日泊まって、江戸へ引き返しな」
太作さんは、ひとりで、どうなさる?」
「ここから鳩ヶ谷へぬけて、べつの道を行けば、待ち伏せにあわなくてすむ」

「わかった。泊まることはない。すぐに江戸ヘ戻って、殿さまのご指示をいただく。太作さんこそ、〔岩木屋〕で待っていなさるといい」
「そうするか」

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2010.02.20

竹節(ちくせつ)人参(3)

太作(たさく)。上総(かずさ)へ帰るまえに、日光に詣でてみないか?」
長谷川平蔵(へいぞう 28歳)が、暇をとる下僕の太作(62歳)へ問うた。

「あの、大権現さまの---」
「そうだ。日光といったら、下野(しもつけ)国のあそこしかないわ」
「日光を見ずして、結構というな、といわれております。願ってもないお話でございますが、そのような結構なところへ、なにゆえにわたくしめが?」
「竹節(ちくせつ)人参は、日光の山中で採れる、と申したであろうが」

太作が故郷の上総国武射郡(むしゃこおり)寺崎村へ帰って植え場をつくるのは、朝鮮人参に代わる竹節人参である。

「日光ご奉行の菅沼攝津守虎常 とらつね)さまには、太作も面識があろう」
「はて---?」
「4年前に、信濃町の戒行寺の境内で会ったではないか」
「おもいだしましてございます。ご内室、ご令息ご夫妻とごいっしょでございました」
「お屋敷は、久栄(ひさえ 21歳)の実家(さと)の近くだ」

参照】2009年3月15日~[菅沼攝津守虎常] () () () (

その菅沼(59歳 700石)が秋から春先にかけて赴任している日光奉行所へ、太作の植え場づくりの資になるようなあれこれを調べる裁許をねがっておくから、東照宮に詣でたあと、あちこち、教えを乞うてみよ、と伝えた。

もちろん、日光側で植え場をやっている今市の大出家への引きあわせ状は、平賀源内(げんない 45歳)と田沼意次(おきつぐ 55歳)の用人・三浦庄ニ(しょうじ)からもらっておくつもりである。

「日光は、雪がつもっていよう。寒さじたくは充分にしておくように」
平蔵は、江戸から宇都宮を経由して日光まで30余里、往復10泊の旅費、今市での滞在費と手土産代として10両(160万円)をわたした。

「若---お殿さま。これは多すぎますです」
おしかえす太作に、
「じつは、太作一人分ではないのだ。松造(まつぞう 22歳)をつける。つまりは2人分ゆえ、決して多くはない」

老齢に近くなっている太作の体力を憂慮しての介添えに、太作は反対を言いたてなかった。

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2010.02.19

竹節(ちくせつ)人参(2)

太作が、お願いごとがあると、申してお待ちしておりました」
久栄(ひさえ 21歳)の機嫌は、いたってよくない。
里貴(りき 29歳)と知りてあってから、密会だけでなく、五ッ半(午後9時)すぎの帰館が多いからであった。
もっとも、今夜は、田沼邸からだから、平蔵(へいぞう 28歳)は声も荒立てないですんだ。

太作(たさく 62歳)は、平蔵が生まれる前、すなわち、長谷川家の屋敷が赤坂築地(現・港区赤坂6-11)にあった時代からの奉公であった。

「用件を聞いたかな?」
「なんでも、お暇をお願いしたいと---」
「17歳のときからだから、45年も勤めてくれた」
(てつ)---いえ、お殿さまのすべてを見ているわけでございますね」
「なにを言いだすやら。そちとの寝屋の睦言までは見てはいない」

「それでは、ほかのどなたかとの睦言は知っているのでございますか?」
「妙にからむではないか。なにか、言いたいことでもあるのか」
「いいえ、ございませぬ。お殿さまは、長谷川家の大事なお方でございますゆえ、いささかのことには目をつむるように、お舅(しゅうと)どのから、きつく申しわたされました」
「亡き父上に、感謝」
「ばかみたい」

太作は、平蔵がまだ14歳のとき、三島で男になる手はずをつけてくれた。

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙佐(ふさ)]

そのことを、父・宣雄(のぶお 享年55歳)にも母・(たえ 48歳)にも告げることはしなかった。
いってみれば、一人っ子であった銕三郎(てつさぶろう)にとって、年齢が大きく離れた、なんでも話せる兄のような存在であった。

あくる朝はやく、裏庭にしつらえた15階段を、鉄条入りの木刀を振りながら昇降をくりかえしていると、湯桶に汗拭きの手拭を入れた太作がやってきた。

「奥から聞いた。暇をとってどうする?」
手拭をしぼってわたし、この朝寒のなか、平蔵が片肌を脱いで汗を拭くのを、すがすがしい目で追いながら、
「生まれた、寺崎へ帰って、お迎えをまちます」

寺崎は上総(かずさ)の、長谷川家の知行地(220石)の一つである。
いまは、千葉県山武市寺崎
五左衛門の後裔は、戸村を称しておられる。

「昨夕、ご老中の田沼主殿頭意次 おきつぐ 55歳)侯から、太作の仕事を申しつけられた」
不審顔に変わった太作に、竹節(ちくせつ)人参の植え場のことを説明し、
「10年か15年がかりの仕事らしいから、太作には80歳まで達者でいてもらわねば、拙が腹を切ってお詫びをしなければならなくなる」
「若---いえ、殿さま。もったいないことを---かたじけのうございます」
涙声になっていた。

太作の肩に止まった枯葉をはらってやりながら、
「やってくれるか?」
「はい。石にかじりついてでも、やりとげますです」
「拙も、ときどき、様子を見に訪れるつもりである。それから、村長(おとな)の五左衛門どのには、相応の土地を手あてするよう、今日にでも書き、飛脚便を出しておこう」

いまの村長の五左衛門は、母・の兄にあたる。

平蔵は、書状に太作の住まう家を建てておくことも書き加え、その費用として50両(800万円)を包んだ。


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2010.02.18

竹節(ちくせつ)人参

「この席に、備中守 宣雄(のぶお) 享年55歳)どののお顔が欠けているのが、いかにも残念」
この家の主の老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 55歳 相良藩主)のこころのこもったの言葉に、長谷川平蔵(へいぞう 28歳)は、あやうく、涙をおとしそうになった。

席にいた、
本多采女紀品(のりただ 60歳 無役 2000石)、
佐野与八郎政親(まさちか 42歳 西丸目付: 1100石)、
石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ 59歳 勘定奉行 800石)、
赤井安芸守忠晶(ただあきら 47歳 先手・弓の2番手組頭 1400石)
一様にあいづちをうった。

ひとり、平賀源内(げんない 45歳)だけが浮かない顔をつづけていた。

参照】2007年7月25日~[田沼邸] () () () (
2007年7月29日~[石谷備後守清昌] () () (

みとがめた意次が、
源内どの。どうかしたかな?」
「いや。長谷川備中どのがおられぬと、せっかく持参した竹節(ちくせつ)人参の種の始末に困るのでな」

竹節人参は日光の山中で見つかった、朝鮮人参に似た薬用植物として、注目されはじめていた。
といっても、本多紀品や佐野政親には無縁のものであった。
日本から銀を流出させている長崎貿易の輸入品目の一つが朝鮮人参で、もう一つが生糸であったことは、たいていの徳川時代の経済史に記されている。

「なぜ、長谷川備中どのでなければならぬのかな?」
意次の問いに、
「かの仁は、知行地の開拓により、百石をうわまわる新田を開かれた。ご内室も、知行地の長(おさ)のおなごと聞きました。それで、もしやして、竹節人参の植え場を、知行地で試みてくだされるかもしれないと期待しておりましてな」
「それなら、嫡子の銕三郎---いや、平蔵どのがおるではないか」

平蔵
に顔をむけた源内が、
平蔵どのは、いつであったか、新案の立て方をお訊きなったことがござったな?」
「はい。うかがいました」
「竹節人参の栽培をやってみるか?」
「せひにも---」
「10年がかりで、とりかかってみられい」
「10年がかりですか?」
「さよう。植え場の秘伝は、ここに記しておいた」

勘定奉行で、長崎奉行を兼任し、銀の流出をもっとも憂慮していたことのある石谷備後守が、
「京では、いろいろとご苦心であったが、こんども、ご公儀のためにもなります」
励ましてくれた、

「京では---」の石谷の言葉の意味を知っているのは、田沼主殿頭だけであった。

参照】2009年7月15日~[小川町の石谷備後守邸] () (

       ☆      ☆      ☆   

週刊『池波正太郎の世界 10』は、早くも10冊目。今週号は[人斬り半次郎]ほか数篇。
幕末ものが好きな人にはたまない。


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2010.02.17

〔笠森〕おせん

(てつ)だ」
表戸をこぶしの甲でうち、近寄ってきた気配に、平蔵(へいぞう 28歳)が、声を低めて呼びかけた。

つっかい棒をはずした音につづき、三和土(たたき)に棒が転がる乾いた音がし、里貴(りき 29歳)の舌うちと桟をあげるきしみがあって、戸が開くなり、抱きついてきた。

「人目につく。戸を閉めて---」
平蔵の言葉に、右腕は首にまいて口を吸ったまま、片方の手で閉めようとするのだが、うまくいかない。

また舌うちを鳴らし、躰を離してあわただしく用をすますと、また、しっかりと両腕をまわし、
「2夜つづけてお会いできたんですもの。うれしいのです」
目をつむり、唇をさしだした。

舌をからませたまま抱きあげ、座敷でそっとおろし、ならんで横になった。
寝着のすそを割り、指をはわす。

「お酒にしましょうね」
ようやく落ちついて立った。
平蔵も袴を脱ぐ。

「夜着をととのえておきました。お召しかえになって---」

藍色の単衣に着替えると、丹前を肩にかけられた。
「こんなものまで?」
「着ていただけるだけで、うれしいのです」
「脱いだときは?」
「お分かりのくせに---」

鉄瓶から銚子をあげ、酌をしあう。

里貴
の透きとおるほど白い肌にうっすらと淡い桜色がさしてきた。
「昨夜の倉地のことだが---」

参照】2010年2月9日[庭番・倉地政之助満済(まずみ)]

倉地政之助満済(36歳 60俵3人扶持)は、お庭預かりを勤めている。

「内儀は、たしか、おせん---といわなかったか?」
「笠森お仙さん」
「やはり、そうであったか」

8年ほどまえ、銕三郎(てつさぶろう)時代の平蔵は、道場仲間の岸井左馬之助(さまのすけ 20歳=明和2年)と、評判のおせんを検分するために、谷中の功徳林寺門前の茶店〔かぎ屋〕へ、ひやかしに行ったこともあった。
そのころ、14か15歳だったおせんは、色白で、ほっそりした柳腰のむすめであった。

参照】2008年4月25日[〔笹や〕のお熊] (
2008年6月24日[平蔵宣雄の後ろ楯] (10

うちあけると、不埒(ふらち)なことをするような絵がひそかに出回っていて、銕三郎左馬之助をそそのかしたが、さすがに、2人とも、お茶だけを呑んで帰った。

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(春信 笠森おせん・部分 『芸術新潮』2003年新年号)

おせんが庭番の頭格の馬場五兵衛信富(のぶとみ 55歳=明和2年)の長女で、兄の吉之助通喬(みちたか)とは7つ違い。

ちゅうすけ注】調べた、2010年2月10日午後2時現在のWikipedia には、信富の父・源右衛門包広(かねひろ 62歳=明和2年)のむすめとあるが、それだと年齢の計算があわない。

「あのころ、拙も若かった」
「ご冗談をおっしゃいます。いまだって、お若い。ほら---こんなに---」
里貴がにぎり、かがんで舐め、ふくんでいた酒をたらした。
「これ、なにをする」
「はい」
手拭で濡れを拭くと、また、しゃぶった。

桜色に紅潮した顔をあげると、倉地政之助が、まる7年にもなるのに、ややができなくて困っているとこぼしたと、打ちあけた。
「そんな話まで交わしたのか?」
「妬(や)けますか?」
「ばか」

「あの細い腰では、できても、難産でしょう」
里貴はどうだ?」
「産ませてくださいますか?」
「まだ、出仕もしておらぬからなあ」

「さ、子づくりに、はげみましょ」

また、盗聴?
今夜は、AC電源でなく、電池式のボイス・レコーダーを仕掛けるか。

「どうして、拙とこうなった?」
「私が、仕掛けました」
「なぜ、拙だったのだ?」
「面倒をおこすお人ではなさそうだったから---これで、この話は打ち切りましょう」
「ずいぶんと、手前勝手だな。これ、なにをする---」
「手前勝手---おんなは、みんな、そうです。したくても、できない人がほとんどですが---」
布団にもぐったらしく、里貴の声が、こもった。

布団の中まで、レコーダーを入れるわけには行かない。
録音は、やはり、無理らしい。

ちゅうすけ注】おせんは、けっきょく、この2年後に身ごもって嫡子・久太郎を産み、つづいて8人の子をなし、77歳まで生きた。
墓地は、正見寺(中野区上高田1-1-10)にある。


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(正見寺の銘板)

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(どちらかが、政之助とおせん夫妻の墓石碑)


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参考笠森お仙 の画像検索結果 - 画像を報告


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2010.02.16

〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛(6)

「〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛(いちべえ)さん、おもっているより、はるかに思慮深いお人のようですな」
まわりにどのような耳があるか知れたものではないので、長谷川平蔵(へいぞう 28歳)は、知人のことを噂してでもいるように、敬称つきで話した。

本所・二ッ目橋北詰のしゃも鍋屋〔五鉄〕で、心得た三次郎(さんじろう 24歳)が、入れこみ座敷のいちばん奥まった仕切りに席をつくってくれた。
2階にしますか、と指で天井を指したのを、平蔵が首をふって断ったからである。

指定した時刻の六ッ(暮れの6時)に、火盗改メ同心・脇田祐吉(ゆうきち 29歳)が、のっそりと〔五鉄〕へ入ってき、平蔵の手招きで席についていた。

「さようですな。万端、ぬかりがありませぬ。で、こんどは、どのような所作を?」
脇田同心もこころえて、調子をあわせた。

鍋と酒を注(つ)げたあと、帰りに肝の甘醤油煮をと、指を3本立てた。
うなずいた三次郎が板場へ引いた。

脇田どのは、さんに左官のことを噂なさりましたか?」
わざと、〔木曾甚〕の屋号をはぶいた。
「左官?」
「新蔵づくりには、左官が大きくかかわります」
「見すごしていました」

火と鍋が2人の膳のあいだに置かれ、燗酒もそれぞれの膳に配されたところで、献杯のやりとりがあり、
長谷川さま。じつは、お願いしたことを悔いております」
「-----?」
「お頭が、春にお役ご免になったらと、もう、次の職席を上ッ方へ働きかけておられるとの噂を耳にしたのです」
「それはお気が早い。しかし、いまのお席(先手組頭 1500石高)は、お役不足ではあります」

脇田祐吉のお頭・庄田小左衛門安久(やすひさ 41歳 2600石)の先手組頭は、足(たし)高なしの持ち高勤めなのである。

「しかし、先任の---」
と口にしたところで、平蔵が首をふり、
「あちらも、持ち高勤めでしたな」
笑いながらうなずいた。
脇田同心が口にしようとしたのは、この7月まで加役(かやく 火盗改メの冬場の助役(すけやく))であった島田弾正政弥(まさはる 37歳)も2500石の高碌での持ち高勤めをしていたということであった。

参照】島田弾正政弥は、2010年2月11日[〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛] (

鍋をつつきおわると、平蔵三次郎に肝の甘醤油煮をもってこさせ、一つを本所・南割下水ぎわの組屋敷へ帰る脇田同心にもたせた。

それから、通路をへだてた向こう北側で鍋を賞味していた松造(まつぞう 22歳)に、
「ゆっくり呑んでゆけ。帰りにこれを持ち帰り、奥方へ渡せ。もう一ヶ所、確かめておきたいところへまわる」

三次郎から提灯を借りて、でていった。
提灯の灯は、新大橋をわたったのち、、どうやら、三河町の御宿(みしゃく)稲荷を目ざしているようであった。

ちゅうすけ注】三河町2丁目(現・千代田区内神田1丁目6)にある御宿(しゃく)稲荷は、『鬼平犯科帳』巻22長篇[迷]p113 新装版p108 で、平蔵おまさが待ち合わせの場所---御宿(しく)稲荷として登場。
 
参考御宿稲荷神社

【参照】2010年2月11日~[〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛] () () () () () () () 

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2010.02.15

〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛(5)

「父上。うちには、どじょうがごじゃいまちぇぬ。なじぇでちゅか?」
屋敷へもどった平蔵(へいぞう 28歳)に、嫡子・辰蔵(たつぞう 3歳)が訊いた。

「どじょう? どこでみた?」
久栄(ひさえ 21歳)が引きとり、きょう納戸町の於亜以(あい 24歳)が継嗣となる男子の宮まいりというので、祝いを述べに行ったところ、慶之丞どのの姉にあたる於葉瑠(はる 4歳)が、庭の奥にある蔵へ辰蔵をいざなったと説明した。

「生まれた男の子を、慶之丞と名づけたのか?」
「さようです」
などというと通り名は、どこから拾ってきたのだ?」
「お口をおつつしみくださいませ。辰蔵が聞きおぼえ、うっかりもらしでもしたら、大事になります」
栄三郎正満 まさみつ 29歳)どのは晴ればれであったろう」
若奥方・於亜以は、あの、名町奉行といわれた大岡越前守忠相(ただすけ 享年75歳 1万石)の直系の孫むすめである。

納戸町の長谷川家は、3代将軍・家光(いえみつ)のおん覚えがよく、4070石を給された。
家光には美少年を好む性癖があった、という噂もないではない。
慶之丞の父親・栄三郎平蔵は従兄弟同士である。

ちゅうすけ注】ものものしい幼な名をつけられた慶之丞はもとより、その弟・竜之助も元服まもなく病死し、けっきょく平蔵宣以久栄の次男・銕五郎正以(まさため)が、納戸町の4070石の長谷川家を継いだ。
もっとも、そのことは20年ほど、のちのことである。
この時点では、銕五郎久栄の腹には、まだ入っていない。

辰蔵。土蔵はいかがであった?」
「人形が、たくちゃん、ありまちた」
「それだけか?」
於葉瑠どのが、の口を吸いまちた」
「なんだと!」
「ややが、母上のお乳をひとりじめしているので、の口を吸いまちた」

平蔵があきれていると、久栄が、
「さすが、お殿さまのお世継ぎでございます。いまから、おんなの子にもてております」
「冗談にも、ほどがある、とは、このことだ。それで、辰蔵、どじょうがほしいのか?」
「どじょうではあまちぇぬ。どじょうでちゅ」
「そうだ、土蔵であったな」

とつぜん、平蔵松造(まつぞう 22歳)を呼んだ。
「再々ですまぬが、築地の庄田小左衛門安久 やすひさ 41歳 2600石)さまの役宅へ行き、同心・脇田祐吉(ゆうきち 29歳)どのに、組屋敷へお帰りのせつ、ご足労でも、ニッ目ノ橋北詰のしゃも鍋〔五鉄〕へお立ちよりいただきたいと、申してきてくれ」

「そんな、廻り道をお願いしてよろしいのでございますか?」
「寄り道にはならぬ。弓の3組の組屋敷は、本所・南割下水ぶちなのだ。みやげに、しゃもの肝の甘醤油煮を下げて戻ろう」

参照】2010年2月11日~[〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛] () () () () () () () 

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2010.02.14

〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛(4)

「黒江町の棟梁・〔木曾甚〕について、うわさを耳にしたことはないかな?」
〔木曾甚〕に聞きこみに行くまえに平蔵(へいぞう 29歳)は、ちょっと足をのばして、黒船橋北詰で駕篭屋をやっている〔箱根屋〕権七(ごんしち 41歳)方へ顔をだしていた。

「うわさって、どんな風(かざ)むきのでやす?」
不審な、といった顔をした権七が問いかえした。

「あそこが仕事をした店が、盗賊には入られたとか---そういった悪いうわさだ」
「聞いてやせんねえ。手堅い仕事をするって話が耳に入ってきたことはありやすが---」
「やはり、そうか」
あてがはずれたって感じの声だったのであろう、権七がおっかぶせて、
「やはり---って、なにか見込んでおられやしたんで?」

平蔵は、内緒だがと口どめしてから、このひと月ほど前に、上柳原町の藍玉問屋〔阿波屋〕に賊が賊が押しいったのだが、どうやって家の中に入ることができたのかわからない、この春に蔵の新築を請けおった〔木曾甚〕の職人の中に、戸口の細工をした不心得者がいはしなかったかと疑ってみたまでだ、と打ちあけた。

「そんなことなら、〔木曾甚〕にじかにおたしかめになればよろしいのに---」
にやりとした権七は、
長谷川さまがお立ち寄りくださった筋は、これでございやしょう」
権七は、3枚ほどの紙片を神棚かりおろした。

一橋前の茶寮〔貴志〕から載せた客の行き先と日付が記されていた。
「お申しつけとおり、加平(かへえ 23歳)たちが舁(か)いた分だけで、ほかの舁き手には洩らしておりやせん」
「それでけっこう。かたじけない」
ふところにしまい、
「茶寮の女将が住まいに帰るとき、連れそった男は、その後、いなかったか?」
喉もとまででかかったのを、かろうじて呑みこんだ。
(藪へびになるところであった。おれもどうかしている)

気にはしていないつもりなのに、庭番の倉地政之助満済 まずみ 34歳)にこだわっているらしい自分に、苦笑した。

〔木曾甚〕の棟梁・甚四郎(じんしろう)は、気性のさっぱりした男であった。
平蔵の問いかけの応えに、よどみがなかった。
遣った大工たちは、みんな8年以上もの子飼いの者で、この3年のうちに雇ったのは、13にしかならない走り遣いの子で、鉋(かんな)も鋸(のこ)も、まだ持たしてはいないと断言した。

(〔蓮沼はすぬま)〕の市兵衛(いちべえ)一味が、これまでに、押しこんだ店々の書き留めがあつまるのを待つしかないか)
四ッ目通りの〔盗人酒屋〕の〔たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 享年51歳)が、こういうときにいてくれたらとのおもいが、深まった。
忠助どんといえば、おまさ(17歳)はどこに?)

参照】2010年2月11日~[〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛] () () () () () () () 


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2010.02.13

〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛(3)

「その、指先の藍色は?」
長谷川平蔵(へいぞう)の問いかけに、同心・脇田祐吉(ゆうきち 29歳)が初めて気づいたらしく、乗りだして店主・〔阿波屋〕重兵衛の指先をのぞきこんだ。

「大坂の本店で手代だったときから藍玉に触れておりますから、洗ってもおちないのです」
「ほう。そうすると、藍色が濃いほど、店での格が高いということだな」

店の者全員を集めて、指を示させた。
番頭1人、手代2人、小僧が3人。
手代・富雄(とみお 23歳)の藍色が淡かった。

「この者は?」
「帳簿つけが巧みなので、品のほうはあまり扱わないのです」
重兵衛がかばった。
色の白い、いかにもおんな好きのする若者であった。
「帳簿つけ、な---」
平蔵のつぶやきに、富雄は、はずかしげにうつむいてしまった。

賊たちは侵入してくると、二階に寝ていた者たちを下に追いおろし、重兵衛の部屋へとじこめ、別の組が下女と飯炊き婆を抜き身でおどしながら、同じ部屋へ押しこんだが、合鍵をもっていたらしく、蔵の錠前は自分たちで解錠し、金を運びだししたという。

「家の中への侵入口は?」
「それがどうも、のみこめないのです」
賊たちが大戸の通用口をくぐって去ってから、いましめを解きあい、家中の戸締まりを調べたが、どこも異常はなかった。

「すると、出ていった通用口から入ったことになるが---」

ふだんは、西本願寺の四ッ(午後10時)の鐘で、小僧たち3人が拍子木を打ち、
「火の用心」
と呼びあいながら、すべての戸締まりをしてまわるのが本店からのしきたりだが、その夜にかぎり、祝い酒のせいで欠かしていた。

「子どもたちにも、ふるまったのか? 呑みつけていないから、効いたであろう」
「呑ませたのは、千慮の一失でございました。本店の大旦那にいいわけがたちません」

「それで、盗(と)られた金は?」
「本店へ送る品物代でございました」
「全部、が?」
「いえ、盗(と)られた金が、でございます。残してくれた金のほうは、店の者たちの引退(ひ)き金の積み立てやら、薮入りの節季金(せっきがね)やら---」
「儲け金(もうけがね)やらか」
「恐れいります」
「まあ、小判には用途は記されていまから、なんとでもいえる」

口調をあらためた平蔵が、
「賊のありようで、気のついてたことは?」
しばらく考えた重兵衛が、
「そういえば、はじめからしまいまで、言葉がありませんでした」
「口をきかなかったということか?」
「はい。すべて、手の形を合図に決めていたようです」
「よく、思いだしてくれた」

(いつであったか、御厩河岸の茶店の女将あった小浪(こなみ)が24歳のとき、賊の配下の方言から国元が割れることになるのだと、〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 48歳=当時 初代)を諭(さとした)したと、話してくれたことがあった)

参照】2008年10月29日[うさぎ人(にん)・小浪(こなみ)] (

平蔵は、脇田同心に 目で報せ、聞きこみを打ち切った。
表へ出てから、
「〔木曾甚〕へまわり、棟梁・甚四郎(じんしろう 50歳)に会ってみます。脇田さんには申しわけないですが、江戸の外で〔蓮沼(はぬま)〕の市兵衛一味のとおもわれる盗みなかったかどうか、代官所と近在の藩へ訊きあわせる手つづきを、お願いします」

上柳原町の東端で別れた。

参照】2010年2月11日~[〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛] () () () (5) () () () 

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2010.02.12

〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛(2)

「蔵が一つ、新築のようだが、建てたのは、いつ?」
江戸湾にめんしている上柳原町の〔阿波屋〕重兵衛方で、長谷川平蔵(へいぞう 28歳)が店主の重兵衛(40がらみ)iに訊いた。

上柳原町には〔阿波屋〕のほかに、〔熊野屋〕〔播磨屋〕〔嶋屋〕〔藍屋〕と藍玉問屋が軒をつらねている。
いずれも、大坂が本店の出店である。

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取引き商品としての藍玉が世に出まわりだしてから、まだ5年ばかりでなのである。

主な産地である阿波国や播磨国からの荷を着けるのに、海ぞいのほうが便利がよいのと、江戸へ出店するのが遅れたために、日本橋川ぞいには倉庫がとれなかったせいもある。
上記の問屋たちよりも遅れた店は、大川べりの佐賀町あたりに店をかまえざるをえなかったらしい。

上柳原町の藍玉問屋では、それでも[阿波屋〕が一番の古顔で、店構えもほかの問屋よりすこし大きい。
「商いがふくらんできましたので、この春、建て増しました」
「行人坂の大火から2年と経っていないのに、よく、大工の手があったな」
「はい。この店舗を建てましたときからのご縁で、〔木曾甚〕さんの棟梁が手くばりしてくださいました」

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(赤○=上柳原町の〔阿波屋〕、緑○=火盗改メ役宅・庄田家)

〔木曾甚〕の住まいは、深川の黒江町であった。
(これは幸い。〔丸太橋)の元締と〔箱根屋〕の親方・権七(ごんしち 41歳)の地元だ。何か、手がかりがつかめるかもしれない)

当夜の経緯(ようす)を聞くと、みんな寝入っていて、賊が入ったのに気がつかなかったという。
「手前の、中寿(なかじゅ)の祝い酒をふるまったものですから」
「中寿?」
「はい。40歳なもので---」
「40歳になったのは、今年の正月であろう? なぜ、年の瀬の近くに祝いを?」
「中寿を祝うということ、しらなかったものですから---」

(ふつうの人は、中寿を祝う習俗をもたない。まてよ、中寿ということを聞いたのは---京都の神泉苑(じんせんえん)の老師からであった)

参照】2009年11月19日~[三歩、退(ひ)け、一歩出よ] () (

「ご宗旨は、真言宗でしたか?」
重兵衛は、きょとんとした顔をしたが、しばらく考えて、
「はい。深川・奥川橋際の万徳院さんですが、まだ、墓地はいただいておりません。手前が大坂の本店からこちらをお預かりして、まだ、仏をだしておりませんのでございます」

重兵衛によると、万徳院を引きあわせてくれたのも、〔木曾甚〕の甚四郎(じんしろう 50歳)棟梁であったと。
さきごろ、万徳院の老住持が嫁の話をもってき、そのとき齢をたしかめられたので、40と告げたら、中寿の祝いをするようにすすめられたというのである。

「すると、大坂の本店の三番番頭であった重兵衛どのがこの店をまかされて、このあたりの一番店に仕上げられたというわけだな」
「恐れいります」
まんざらでもない顔つきであった。

「雇い人たちの素性は?」
「みんな本店から参った者ばかりでございます」
「店の者はそうであろうが、奥と台所まわりの者は?」
「下女と飯炊き婆さんはこちらで雇いましたが、口入れ屋が身許を保証しております」
(〔蓮池(はすいけ)〕一味が、中寿の祝い酒の夜を狙って押し入ったのは、たまたまであろうか?)

平蔵は、重兵衛の両手の指先が紺色に染まっているのに目をとめた。

参照】2010年2月11日~[〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛] () () () () () () () 

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2010.02.11

〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛

「ほう、1100両あったのに、うち、570両しか盗(と)っていかなかった、というのですな?」
火盗改メ助役(すけやく)・庄田小左衛門安久 やすひさ 41歳 2600石)の筆頭与力の古郡(ここおり)数右衛門(52歳)の言葉を、長谷川平蔵(へいぞう 28歳)が復唱した。

「そのことから賊は、〔蓮沼はすぬま)〕一味であろうと推測しております」
「〔蓮沼〕?」
「首領が〔蓮沼市兵衛(いちべえ)と申す者だそうでございます」

古郡筆頭の説明をかいつまんで書くと、この10年ばかりのあいだに、、〔蓮沼〕一味の仕事とおもわれる盗難が4件ほど記録されている。
一味の者が捕まったとか、賊が手がかりを置いていったということではない。
侵入しても、有り金を根こそぎ盗んでいくのではなく、その店があとの営業にさしさわらないだけのものを残しておいて去るのだという。
また、盗みはするが、女たちに手をつけないばかりでなく、一人も殺傷をししない手口などから、逮捕された盗賊たちが、
「それは、〔蓮沼〕のお頭のお盗(つと)めでしょう」
敬意まじりに指摘しているのだと。

それで、530両を残していった〔阿波屋〕でのやり口から、前任の嶋田弾正政弥(まさはる 37歳 2500石)から申し送られた推測であった。

嶋田さまと申せば---」
「さようです。長谷川さまのお父上の後任として、先手・弓の8番のお頭にお就きになると同時に、火盗改メの助役に任じられたお方です」

嶋田政弥と聞いた平蔵は、亡父・宣雄(のぶお)の後任ということより、いまは、土岐一門の支流として興味をもった。
茶寮〔貴志〕の女将・里貴(りき 29歳)から、紀伊藩の侍女・鷲津(わしのつ)が土岐のおんなと打ち明けられていたからである。

参照】2010年1月29日~[貴志氏] () () (
 

だが、いま、土岐家や鷲津家にかかずらわっては、話が混乱する。
ここは、〔蓮沼〕の市兵衛に的をしぼる。

ちゅうすけ注】盗賊の首領・〔蓮沼〕の市兵衛は、文庫巻21[討ち入り市兵衛]に登場したときは79歳であったから、あの佳篇を寛政5,6年(1793~4)ごろの事件と見ると、いまは安永2年(1773)の11月---20年ばかり時計の針を戻したころのこととみておこう。
討ち入り市兵衛]には、こう書かれている。

蓮沼の市兵衛は、すでにのべたごとく、掟の三ヶ状をまもりぬいた盗賊で、それが証拠に、これまで市兵衛が押し込んだ商家は、いまも一つのこらず繁盛しているそうな。
押し込んだときも、有り金のすべてを盗むようなまねを市兵衛はしたことがない。p145 新装版p149

平蔵は、古郡筆頭に、これまで〔蓮沼〕一味が押し入った商家の屋号と町名の名簿を松造に持たせてほしいと依頼し、自分は脇田同心と、上柳原町の〔阿波屋〕へ向かった。

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(先の火盗改メ・嶋田弾正政弥の個人譜)

参照】2010年2月11日~[〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛] () () () () () () () 


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2010.02.10

火盗改メ・庄田小左衛門安久(2)

(庭番組とのかかわりを、訊かないでよかったのだ)
本願寺の手前の備前橋を西へわたりながら、平蔵(へいぞう 28歳)が、小さくひとりごちた。
橋下の築地川の川面は、草色のしぼり布のようなさざ波をひろげては消し、その声を呑みこんだ。

供の松造(まつぞう 22歳)は聞きもらしたらしく、
「なにか、おっしゃいましたか?」
「いや。この寒いのに、松造はよく勤めてくれる、と言ったのだ」
「ありがとうございます」

平蔵が昨夜から反芻していたのは、里貴(りき 29歳)と、倉地政之助満済(まずみ 34歳 60俵3人扶持)のとりあわせであった。
御宿(みしゃく)稲荷脇の家を訪れたとき、2人ともきちんと着物を着ていたし、寝間へ入ったときにも情事のあとの匂いはこもっていなかった。

しかし、玄関には、政之助の履物が見えなかったし、戸を開ける前に、里貴は一瞬、逡巡した気配であった。
(なぜ、ためらったのか)

里貴がおもしろがって拷問と呼んでいる行為のとき、
(ありえない)
と信じたかったので、問い質(ただ)すことができなかった。

その分、拷問ふうないたぶりを強めたかもしれないが里貴は、透明なほどに白い肌を淡い桜色に紅潮させて応じてきた。
最初の宵、里貴の肌色の玄妙な変わりように気がついた平蔵は、それからは、灯芯を細めることを里貴に禁じた。
「そんなことでお気がたかぶるのでしたら---」
里貴はも笑いながら、その後は、横になるまえに明かりを強くした行灯を、すこし離して足側へ移すようになった。

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(英泉『婦恕のゆき』部分 イメージ)

(おんなというのは、幾つになっても分からない)

「殿。道が違います」
松造に注意された。
入り堀をはさんで本願寺の北、岡山(備前)藩・池田内蔵頭侯の広大な中屋敷がめぐらせている塀のはずれを北へ曲がろとしたのである。

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(西本願寺 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

火盗改メ助役(すけやく)の庄田小左衛門安久(やすひさ 41歳 2600石)の役宅は、南へ折れたほうが近道であった。

もともとは3000石の家格であった庄田邸は、1500坪をこえる屋敷地を賜っており、多数の樹木が塀越しに枝を道にさしのべている。
夏にはいい日陰をつくってくれているのであろうが、冬のいまは、落ち葉をちらしているだけであった。

門番に案内を通じると、すぐに、玄関脇の応接の間へ案内された。
待つまもなく、遣いにきた脇田同心(29歳)をしたがえた、羽織袴の50歳前後の役人が入ってき、筆頭与力の古郡(ここおり)数右衛門(52歳)と自己紹介をし、
「本役・赤井組の筆頭・(たち 与力)どのから、ご紹介いただいたのです。お頭に話したところ、すぐにもお力を借りるようにとの仰せであったので、ご足労をお願いした次第---」

言い終わらないうちに、一見してお頭・庄田小左衛門と思える小太りの仁がずかずかとあらわれ、
長谷川うじかな、庄田です。この組は、30年来このかた、加役を仰せつかっていなかったので、経験者がほとんどいなくてな」

「しかし、ご隠居されている熟練の方々もおいででしょうから---」
平蔵がとりなしたが、それと気づかない庄田組頭は、
「もちろん、隠居たちの知恵も借りるつもりだが、長谷川うじも、万事、古郡与力と相談の上、せいぜい、知恵を貸してやってほしい」
高いところからものを言うことになれきっている口調で言うだけ言って、さっと消えた。
(いったい、火盗改メの職務をなんとこころえているのだ)
亡父・宣雄とくらべて、あまりにも違う庄田組頭に、平蔵は、これは出世一途の人だ---と観じた。

組頭が消えると、古郡筆頭が事件の説明をはじめた。
盗賊に入られたのは、役宅から数丁しか離れていない、大川河口ともいえる、江戸湾ぞいの上柳原町の藍玉問屋〔阿波屋〕重兵衛方で、被害額は570両であった。

「なによりも 小癪なのは、お頭が加役をお受けになるのを見すかしていたように、この11月の15日に押しこんだのです。組としても、体面もありますから、ぜひとも挙げたい」

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(庄田小左衛門個人譜)

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2010.02.09

庭番・倉地政之助満済(まずみ)

(てつ)だが---」
閉まっている表板戸をコツコツと叩くと、内側に人の気配がしたので、平蔵は小声で名乗った。
一瞬、逡巡があって、つっかい棒がはずされ、降ろし桟をあげ、戸が1尺(30cm)ほど開いた。

開いたむこうに、灯を背にした里貴(りき 29歳)の顔があった。
「客があります」
「出直(でな)おそう」
「いいえ。さまさえかまわなければ、私はかまいません」

居間にいたのは、30代なかばの、鬚の剃りあとの濃い武士であった。
(どこかで、見かけたような覚えがあるが---江戸ではないような)

銕三郎さまです」
里貴が、なぜか、相続前の通称で紹介した。
倉地です」

武士が名乗ったので、記憶がよみがえった。
京都西町奉行所の役宅の、亡父・宣雄(のぶお 55歳)のところへ、夜遅くにきて、密談をしていた男であった。
平蔵は、通りすがりに目礼をしたまま、あいさつもしなかった。

長谷川さまの若さまでございすね」
倉知が丁寧な言葉づかいで、問いかけた。
(さすがだ。廊下を通り過ぎただけなのに、見覚えていたのだ)

「京都の役宅でお会いしましたか?」
里貴とのかかわりがわからないので、言葉を濁して訊いてみた。

「はい。若さまと、同じことを調べに上っておりました」
「そうとは存ぜず、失礼しました」
「あれは、むずかしい探索でございました」
「いかにも。で、その後は?」
「目鼻がつきそうになりました」
「やはり、山村信濃守 良旺 たかあきら 45歳  500石)さまのお手柄で?」
「ええ、まあ---」
倉知はあやふやに応え、これにて、失礼つかまつると立ち上がった。

見送って戻ってきた里貴に、
「突然来て、悪かったようだな」
「いいえ。さまこそ、まずかったのではございませんか?」

それには答えず、
「近く、木挽町からお呼びがあるようだ」
「殿さまは、このこと、ご存じではありません」
倉地どのから書き上げがいくのでは---?」
「その心配はないとおもいます」

「あの仁は、庭番であろう?」
「吟味は、拷問でなさってくださいませ」
嫣然とした笑みをのこして、着替えに立った。

枕元にしかけた隠しマイクがひろった会話を、少々、プレイ・バックしてみようか。

倉地は庭番であろうが---」
「くすぐったい。はい、政之助満済(まずみ)というお庭番」
「どうして、木挽町の殿に告げ口しないといいきれるのだ?」
「お庭番には、しもじもの色事をさぐるお役目はございません。ああ、そこ---」
「-----」
「-----うふ」
「しもじものな」
「はい、しもの---ああ、大きい」

手をのばして、なにかを探したはずみにコンセントがはずれたらしく、あとは記録していなかった。


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2010.02.08

火盗改メ・庄田小左衛門安久

佐野の兄上。火盗改メの助役(すけやく)にお就きになった、庄田小左衛門安久 やすひさ 42歳 2600石)さまのことを、お教えください」
長谷川平蔵宣以(のぶため 28歳)が、西丸目付・佐野与八郎政親(まさちか 41歳 1100石)の下城時刻をみはからい、永田馬場東横寺町の屋敷を訪ねている。
佐野の兄上---と、こころやすげに呼んでいるのは、亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)が生前、一人っ子の銕三郎(てつさぶろう 跡目相続前の通称)のことをおもんばかり、与八郎に兄代わりを頼んだ。

そうした、へだてを感じない仲なので、目付という役目がら、客を嫌わねばならない立場にもかかわらず、与八郎は、平蔵の来訪を歓迎してくれる。

平蔵の盃を満たしてやってから、
庄田うじのなにが訊きたいのだ?」

きのう、(先手・弓の3組)の同心・脇田祐吉(ゆうきち 29歳)が庄田組頭の遣いといってやってき、
「組頭がお待ちになっているゆえ---」
いまは火盗改メ役宅となっている、築地・万年橋東の屋敷へお越しねがいたいと言われたので、明日、参上するつもりだが、
「なにしろ、突然のことゆえ、庄田さまのご気性も存じあげないので---」

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(青○=庄田邸 左の緑地=采女ヶ原馬場、右=西本願寺)

2人の前には、それぞれ、夕餉の膳が配されている、といっても、たいした料理ではない。
披露できるのは、蛤と蛸の酒蒸しとしらすのたまり醤油煮ぐらい。
来客あつかいではないのである。
それだけに、平蔵も気楽に訪問できた。

「あのご仁は、400俵の分家から、2600石のご本家へ養子におはいりなったから、万事につけて硬くお考えになる。こたびの火盗改メも、冬場の助役なのだから、気軽におこなしになればよろしいのに---」
「兄上。父上も発令は助役でしたが、それなりに重くうけとめておりました」
「そうであったな」
「いちど、夜の見廻りのお供をしたことがありますが、辻番所や町役人などがあいさつに待ちうけており、ものものしゅうございました」

参照】2009年6月19日[宣雄、火盗改メ拝命] (

しばらく雑談をしていると、
(てつ)どの。一橋北詰の火除けの茶寮のことは、もう、いいのか?」
与八郎のほうから切りだしてきたので、瞬間、平蔵はひやりとした。
以前、お(りょう 享年32歳)とのことを、やんわりと諭(さと)されたことがあった。

参照】2008年12月20日~[西丸目付・佐野与八郎政親] () () (

里貴(りき 29歳)とのことが、もう、バレているはずはないとおもいなおし、
「兄上から、営内でも禁句と教わりのしたゆえ、放念しました」
「うむ。そうそう、近く、田沼主殿頭意次 おきつぐ 55歳 老中)侯の別邸に呼ばれた。どののところへも、お誘いがあるはず。こころしておくように」

佐野邸を辞したのは六ッ半(午後7時)ごろであった。
松造(まつぞう 22歳)は、飯どきだからと遠慮し、提灯を置かせて、先に帰した。
(これから御宿(みしゃく)稲荷に参詣すれば、里貴も帰っているころあいだな)
足は自然とお堀端ぞいに三河町へ向かっていた。

里貴の家に、ほかの男がきているなどとは、おもいもしなかった。

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Photo


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2010.02.07

元締たちの思惑(4)

「化粧(けわい)の品々---白粉、口紅、黛(まゆずみ)、香油、鉄奨(かね)、鬘(かつら)や、売薬のように利幅の大きい品は、売りが風評にされやすいてから、目はしのきいた店主なら、お披露目(広告)の大切さをよく知っているはず。京都でわかったことはお披露目の効きもすばやくあらわれるということ。だから、そういう店にすすめるとよろしい。しかし、売薬の選定には注意が必要。効かなかったという風評のつたわりも速い---」

元締衆は笑ったが、実務を仕切る小頭たちは笑わなかった。
それを見定めて、平蔵(へいぞう 28歳)は、いけそうだと判断した。

音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうええもん 47歳)の新造・お多美(たみ 32歳)が、微笑みながら口をはさんだ
「帰らはってから、姐(あね)さんや近所の若いむすめっ子に訊いてみはったらよろしおす。月のものはきちんときてるか? そんとき苦労はないか? 冷え症か? 頭痛は? 肌荒れは?---いうて」

元締たちが顔を見合わせてうなずきあった。
愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 43歳)が、小頭は残り、元締衆は席を変え、近くの〔弁多津〕で手打ち---と提案したので、元締たちは出ていった。

ちゅうすけ注】芝・神明前の小料理屋〔弁多津〕は「のっぺい汁」が名物と、『鬼平犯科帳』巻6[礼金二百両]p24 新装版p25 に初紹介された。
筆頭与力・佐嶋忠介のなじみの店なので、元締衆と鉢合わせしたかも。
もっともこのとき、佐嶋は、先手・弓の1の組の平与力で、火盗改メではないから、江戸城の五門のうちのいずれかの門の警備を指揮していたはず。
非番で、呑みにきていたという線もないではない。

残った小頭たちに、お多美が化粧指南師の手習いは、15日あとからはじめるから、それまでに指南師を置く白粉店のお披露目枠をうめておくように言い、自分も〔弁多津〕へ移った。
多美を案内するとの口実をつけて、〔耳より〕の紋次(もんじ 30歳)も抜けた。

化粧指南の版木は京都からくること、お披露目枠はおのおのの元締分ごとに1枠1両2分(24万円)で、計8枠12両(192万円)、元締方の取り分は2割の2両1分3朱(38万3000円)で、お披露目の板木彫り料はその中から支払うこと、と説明すると、
「なるほど。同じ店がつづけたほうが、われわれの板木彫りの手間賃が浮くってことでやすね」
於玉ヶ池(おたまがいけ)の伝六(でんろく)が早速に理解した。
「元締衆は、そういう細かいところまでには気がまわらないだろうから、手下の若いのを一杯呑ますぐらいの小銭は浮く」

「もう一つ---お披露目の板木彫り師の引きあわせとかなにやかやの相談料として、紋次どのに1板につき1分(4万円)ずつ、元締からとしてわたしてやってもらいたい。その半分の2朱(2万円)は、板元の〔箱根屋〕が戻す」

平蔵は、腹の中では板元の〔箱根屋〕の権七(ごんしち 41歳)に、きちんとお披露目枠の代金を持参した小頭へは、2分(8万円)の報償金(ほうびがね)を出すようにいうつもりであったが、この場では口にしなかった。

平蔵が隠してしておいたことがもう一つ、あった。
京都の〔左阿弥(さあみ)〕の角兵衛が最新板としてとどけてくれた〔みやこ板・化粧読みうり〕である。

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(佐山半七丸『都風俗化粧伝』 東洋文庫から合成)

いつものものが2枚あわさった大判で、[細い目のときと、大きすぎる目の化粧法」をのべたものである。
おそらく、次は、目じりの下がったのと上がったのを出すであろう。
それほど、お披露目枠の申し込みがふえているということである。
江戸では、夏祭りのころの特別号外としよう。


        ★     ★     ★

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『週刊池波正太郎の世界 9』[真田太平記 二]が贈られてきた。
上田市の『真田太平記記念館』は4度訪問したし、別所の湯には3回入った。
しかし、上田市というと、真っ先にうかぶのは、〔蓑火(みのひ)〕の喜之助であるのは、どうしたことであろう。
「忍びのもの」という言葉より、「軒猿」のほうになじんでしまった。困ったものだ。

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2010.02.06

元締たちの思惑(3)

「現物を見ないと、ご納得がいきますまい」
長谷川平蔵(へいぞう 28歳)は、話し終わって気をたかぶらせている松造(まつぞう 22歳)に、
「例のものを---あ、背の低いのを、のほうだけでいい」

3日前に速飛脚便で届いたばかりの[みやこ板・化粧(けわい)読みうり]を、松造が全員に配りおえると、〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 47歳)の内儀のお多美(たみ 32歳)に、
「先日、お預けした[よみうり]をお持ちいただいていたら、こちらへ---」
声をかけ、受けとった。

「おのおの方、いまお配りしたのは、拙が江戸へもどってからも、祇園の〔左阿弥(さあみ)〕の角兵衛(かくべえ 40がらみ)どのが板行なさっているものの、18番目の[読みうり]です」

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(佐山半七丸『都風俗化粧』(東洋文庫)より)

「18番目といわれたが、何か月のあいだに?」
訊いたのは、〔於玉ヶ池(おたまがいけ)〕の伝六(でんろく 32歳)であった。
「拙が京へ上ったのが去年の9月、第1板をだしたのが師走だったから、まる10ヶ月で---」

「江戸でもその調子でお考えでやすか?」
これは、〔丸太橋(まるたばし)〕の元締のむすめ婿の雄太(ゆうた 39歳)。
「それは、板行してから、おのおの方が決めることです」

「この、背の低いのを---という内容は、どうやって選んだのでやすか?」
木賊(とくさ)〕の今助(いますけ 26歳)ものってきた。
今助の女房の小浪(こなみ 34歳)とは面識がある。
「さあ、そのことにつていては〔左阿弥〕の二代目はなんにもしらせてはきていないが、この前の板で背の高いのを---というのが人気があったからではないかな。〔音羽〕のご新造どの。この話題は、若いおんなには興味がありそうですか?」

多美は、化粧指南師の卵を育てる役を買ってでている。
「髪型、化粧、着るもの---自分がきれいに見えることに興味をもたへんおんなは、一人もいはらしまへんえ」
とつぜん、京ことばで答えられ、みんなは〔音羽〕の重右衛門が、祇園の〔左阿弥〕の元締のところで修業していたことを、あらためておもいだした。
その〔左阿弥〕がかかわっている[化粧読みうり]の意味もおぼろげに理解した。

重右衛門がはじめて口をきいた。
「お多美のきれいなもの、芸についての目のたしかさを、長谷川さまがお認めくださり、上野一帯をシマの〔般若(はんにゃ)〕の猪兵衛(ゐへえ 26歳)元締が、湯島天神の寄りあいの間を、化粧指南師の習いどころとして手当てしてくださった。猪兵衛どん、あらためてお礼をいわせてもらいます」

参照】2010年1月17日[お逢対の日] () (

重右衛門が頭をさげたので、ほかの元締衆や小頭たちも、口々に謝辞を送った。

「ところで、元締衆および小頭の方々にとって、いちばん肝心なことは、お披露目枠を1年通して買い占めてくれる店を、しっかりとつかむことです。[化粧読みうり]のお披露目が効くという噂は、3板もでないうちにひろまるが、第1板がでないうちにそれを信じてくれる店をみつけなければならない。効き目は、京の〔紅屋〕と〔延吉屋〕が証人になってくれるはずだから、問いあわせ飛脚を送らせるようにすすめていただきたい」

「風評をつくるということでやすな」
丸太橋〕の雄太がつぶやいた。

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2010.02.05

元締たちの思惑(2)

顔ぶれが揃ったところで、この家の主(ぬし)で勧進元格の〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 43歳)が声をかけた。
「そろそろ始めたいので、お席へ、どうぞ」

伸蔵の嫡男・伸太郎(しんたろう 23歳)が、新しい座布団を壁ぞいにならべ、その後ろにいままで使われていたのを裏返して置いていった。

どういうふうに席につくのか、興味津々の平蔵(へいぞう 28歳)は、指定された伸蔵元締の右手から眺めていると、反対側には、顧問格の〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 46歳)、そのうしろに新造のお多美(たみ 32歳)、さらにうしろに小頭・〔大洗(おおあらい)〕の専二(せんじ 35歳)がかしこまった。

その隣は、関取ふうの巨躰の〔薬研堀(やげんぼり)〕の為右衛門(ためえもん 50歳)で、うしろに小頭・〔於玉ヶ池(おたまがいけ)〕の伝六(でんろく)。

次が浅草・今戸の一帯をしきっている〔木賊(とくさ)〕の2代目を継いで2年ほどになる今助(いますけ 26歳)で、小頭は〔銀狐(ぎんこ)〕の乙平(おつへい 31歳)。

つづいて山下・上野広小路一帯を預かっている〔般若(はんにゃ)〕の猪兵衛(いへえ 26歳)と小頭代理の〔黒門町(くろもんちょう)〕の儀助(ぎすけ 24歳)が、席が高すぎるといった落ち着かない表情で坐った。

丸太橋(まるたはし)〕の元締の代理ということで、自ら末席についたのは、元締のむすめ婿・雄太(ゆうた 39歳)と、2番手の小頭・千吉(せんきち 26歳)であった。

要するに席は、元締になった年次順にしたがっていた。
(城内の秩序と変わらないな)

平蔵は、一癖ありそうな元締衆と小頭たちを見わたし、火盗改メの頭になったとして、与力を元締、同心を小頭とおもい、統御していく修練の場とおもうことにした。

さて、平蔵側の隣には、板元を引き受けさせられた駕篭屋の主・〔箱根屋〕の権七(ごんしち 41歳)。
羽織姿で坐っていると、なかなかの貫禄で、箱根の雲助あがりとはとても見えない。

つぎの〔耳より〕の紋次(もんじ 30歳)は、名だたる元締衆と同席して興奮しているが、早めに来て、ちゃかり売りこんでいたから、これからは、自分のところの〔読みうり〕のネタ元には困らないであろう。

平蔵は、伸太郎を招き、うしろに松造(まつぞう 22歳)の席をしつらえさせ、玄関脇の部屋で待機しているのを呼んもらった。

松造が席につくと、伸造元締が簡単にあいさつをし、左手のお歴々は互いに存じよりの者ばかりだからと、右の平蔵松造を紹介し、つづけて権七紋次に流した。

長谷川さま。ご説明ください」
愛宕下〕にうながされ、平蔵は組下の与力・同心たちに言いわたす気分になって、
「これからのことは、ここだけの話にとどめていただきたい。じつは、京都で、祇園の〔左阿弥(さあみ)〕の元締どのと組んで、〔化粧(けわい)読みうり〕を板行したのは、お披露目枠を売ってお足を稼ぐのが目あてではなかったのです。あ、紋次どの。あと半年、くれぐれもこのことを書かないでもらいたい。
じつは、ある役所の不正をあばくために、不正をしている役人の家族---といっても、おんなたちですが、化粧指南師のところへおびき寄せ、不正のしっぽをつかむのが目的であった」

元締衆の目の色が変わり、みんな、身をのりだしてきた。
とりわけ、目を輝かせたのが、〔於玉ヶ池〕の伝六であった。

「ところが、お披露目枠の奪いあいが起きただけで、不正役人の家族はひっかかってこなかった。武士の商法とはよくいったもので---」

聞いていた側に軽い笑い声がひろがった。

「つまり、拙は、父孝行ができなかったのです」
権七が言葉を足した。
「ご承知とおもいますが、長谷川さまのお父上は、目黒・行人坂の火付け犯をお挙げになり、京都町奉行におなりにったお方です」

「放火犯人を挙げるより、役人の不正をあばくほうがもっと難しいということです。まあ、行人坂の火付け犯の逮捕も、こちらの伸蔵元締どののお力のほうが大きかった。ことほどさように、いまの武士は質が落ちている」

みな、うなづいて、いやらそうしてはいけなさそうやらで、困った表情をつくった。

「〔化粧読みうり〕のお披露目枠の扱いを〔左阿弥〕の2代目・角兵衛どのに一手におまかせした。そのときの角兵衛2代目について見聞したのが、ここにひかえている松造です」

松造が、角兵衛の切きりだし方をなぞった。
「まず、しょっぱな、四条通り麩屋町東入ルの大店(おおだな)・〔紅屋〕平兵衛方へへえっていって、旦那にお目にかかりてえ、〔左阿弥〕の2代目が、お店(たな)のお得になる話をもってめえりやした---と、こうでさあ。いえ、若元締は、はんなりした京ことばでおやりになりやしたが---」

「〔紅屋〕は、〔左阿弥〕の縄ばり内にあったらしく、角兵衛さんの顔を見た番頭は、すぐに奥座敷へ招じやした。
江戸でご身分のあるさるお方が、京洛で只の〔読みうり〕(フリーペーパー)を板行するにあたり、そのお披露目枠の権利を、父の円造におまかせになった。
〔読みうり〕の内容は、おんなたちに、綺麗になる方便(ほうべん)を指南するもので、刷り数は、とりあえず2000j枚、くばるのは、〔左阿弥〕が取り仕切っている祇園社と清水寺さんの縄ばり内でだしている仮店が、齢ごろのおんな客に手渡す」

「で、お披露目枠だが、8枠しかねえんで、ご近所のよしみで真っ先に〔紅屋〕さんへ話をもってきた。8枠全部をさしあげてえが、それではこちらさんの引き札(広告チラシ)になってしまい、真実味がうすくなる。どうだろう、半分の4枠でこらえてもらえねえだろうか---こうでさあ」

小頭たちが感心したように、聞き入っていた。

参照】2009年8月22日~[〔左阿弥〕の角兵衛] () (


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2010.02.04

元締たちの思惑

京・祇園の〔左阿弥(さあみ)〕の2代目元締・角兵衛(かくべえ 40がらみ)のところへ行(や)った万吉(22歳)・啓太(20歳)からの、待ちわびていた速飛脚便がとどいたのは、2日前であった。

すでに19板刷られている[みやこ板・化粧(けわい)読みうり]の板木はすべてのこっているとともに、最新板とその前の板の刷りあがりが20枚ずつ、添えられていた。
板木は、3荷にわけて中山道の便に託したが、20板まで板行したら始めの板に戻すことを、〔紅屋〕〔延吉屋〕とも話しあって決めたので、江戸で使いおわったら、また送りかえしてほしいとも記されていた。
しっかりした筆づかいだから、角兵衛の手によるものと、平蔵(へいぞう 28歳)は判じた。

荷送りを中山道にしたのは、これから冷雨の多い時期に入るから、川止めを避けたのである。、

追って書きに、〔延吉屋〕の化粧指南師のお(かつ 32歳)どのが、江戸へ帰りたがっている、とあった。
(江戸へ帰りたがるって、〔狐火きつねび)のお頭から許しがでるはずはなかろうに---それとも、自活に自信がもてたか)
平蔵は小さく舌うちした。

参照】2009年8月24日~[化粧指南師お勝] () () () () () () () () (

とどいた最新板のうち20枚を若党・松造(まつぞう 22歳)にもたせ、芝・北新網町の〔愛宕下(あたごした)〕の元締・伸蔵(しんぞう 43歳)の家へ向かった。
板元を引きうけた駕篭屋の親方〔箱根屋〕の権七(ごんしち 41歳)と、相談役の両国広小路の〔耳より〕の紋次(もんじ 30歳)とは、伸蔵宅で落ちあう手はずにしてあった。

北新網町へついてみると、予定していなかった新顔を、紋次がともなっていた。
両国橋西詰・広小路から柳原土手、柳橋一帯をしきっている〔薬研堀(やげんぼり)〕の為右衛門(ためえもん 52歳)と、小頭・〔於玉ヶ池(おたまがいけ)の伝六(でんろく 27歳)と紹介された。
伝六は、.為右衛門元締が若いときから小泉町に囲っていた妾・お(きょう)に産ませた子だと、あとで聞いた。
は、20年近く前に病死したので、元締の家に引きとられて育ったという。

「〔音羽(おとわ)の若元締のすすめで、一口、のせていただくことにいたしやした」
相撲取りのような体格の為右衛門は、殊勝にも、平蔵に頭をさげた。
伝六は、見すえるように平蔵をみつめただけであった。

「小頭。これから談合するのは、まったく新しい生業(なりわい)の手だてでやす。素直にうけとらねえと、ことがもつれやす」
見かねたらしい〔愛宕下〕の伸蔵が、やんわりとたしなめた。
「わかっておりやす。そういう新しいことを考えだしなすったのがお武家さんだということなんで、どんなお人かとおもったら、あっしとどっこいどっこいのお若い方なんで、世の中、変わったと、つい、考えこんでしまって---失礼のほど、ごめんなすって」

「小頭どのは、お幾つにおなりで?」
平蔵がこだわらずに話しかけた。
味方にしなくてもいいから、敵にはまわすな---お竜(りょう 享年33歳)の口ぐせの一つであった。
「27歳のかけだし者でやす」
「小頭どの。これからの世の中は、年齢でわたるのではありませぬ。知恵でわたります。拙はいま、28歳です。この案は、去年、京都にいたとき、〔左阿弥〕の元締といっしょにおもいつきました。小頭も、ことの次第がのみこめたら、もっといい案をつくりだされるあろう」
「知恵でわたる?」
「あとで、顔が揃ったらあらためて話しますが、これは、風評をつくり、つくった風評を金にかえる策なのです。そのもとは、お隣の紋次どのがすでにやっていることを手直ししただけです」

伝六は、意外なものを見るような目つきで、〔耳より〕の紋次をみた。
これまでは、ケチな〔読みうり屋〕としか見ていなかったが、同年輩の平蔵に、風聞を金に変えているいわれ、たしかに、噂話を売って身すぎをしている男にちがいないとおもえてきたらしい。、
見方を変えると、人間の評価まで変わる。


       ★     ★     ★

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週刊『池波正太郎の世界8』[仕掛人・藤沢梅安 二]が贈られてきた。
1週間が「アッ」というまだ。
梅安は、藤枝の旧東海道筋の神明さんの門前の榎の巨樹の下の桶屋の子としての生まれだから〔藤沢姓〕。

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(藤枝宿・神明社 幕府道中奉行制作『東海道分間延絵図)

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(現在の神明社)

いま行って見ると、榎の巨樹ではなく銀杏の古樹である。

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2010.02.03

与頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ)(3)

(てつ)さま。驚きました」
部屋へ入ってくるなり、里貴(りき 29歳)が、掌にひろげた懐紙を差し出した。
さま〕という呼びかけは、寝間でだけ---とのとり決めを、あわてたせいか、忘れてしまっている。

どうした? と顔を向けた平蔵(へいぞう 28歳)に、
牟礼(むれい 郷右衛門勝孟 かつたけ 54歳)さまからのおこころづけには、お2人のお昼餉(ひるげ)代を超えるほどのお足が包まれておりました」
(爺さんめ、味なことを---)
「折角だから、もらって、茶寮のみんなで分けたらどうかな?」
「いいえ。それはなりません」
「なぜだ? こころづけは、多いほうが、みんな喜ぶであろう」
「癖になるばかりではありません。少ないお客さまに粗末な態度で接するようにもなります」

茶寮〔貴志〕では、こころづけは、だれが受けても、それ用の箱へ入れ、月末に等しく割って分けることにしているのだと説明した。
こころづけを怠った客の分は、食事代の5分(ぶ 5%)を店がその箱へ入れる。
この店を開いて以来の決まりごとだと、里貴が力んで言った。

書院番の与頭ともなれば、日もちのするかつお節などは他所へまわしきれないほどとどいているに違いない。

「わかった。こうしてくれるか」
明朝、板場の者が日本橋北詰の魚市に仕入れに行ったとき、ついでに、新鮮な鯛を一枚買ってもらいたい。

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(日本橋魚市 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

2朱銀(2万円)を里貴にわたす。
「鯛の代金の釣りは、包丁人への手間賃だ」

その鯛を包丁人の一人に持たせ、里貴とともに、牛込の軽子坂をのぼりきり、道なりに右に折れ、万昌院という寺の前をすぎて突きあたったら左に曲がった先の牟礼家へとどけてほしい。

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(右下青○=牟礼家 右最下の通り=神楽坂肴町 尾張屋板)

「あくまくでも、〔貴志〕からのお礼と告げ、料理人を伴ってきているので、ご迷惑でなければこの者に、刺身と焼きものと鯛めしを作らせる---ともちかけてみてくれるか」

「時刻は?」
「七ッ(午後4時)の下城であろうから、そのころから調理を始められるように訪ねてくれるか」
「そのように---」

「しかし、牟礼どのは座をお外しにならなかったから、こころずけは家で包んでいたのだな」
「招待されたと見せかけて、招待をなさるおつもりだったのですね」
「いや。諭(さと)されたのであろうよ。まだ出仕もしていない若い者が、与(くみ 組)頭などを招待するとはなにごとかと」
「そういうものでございますか?」
「ただ飯を喜ぶ上役のほうが多かろうがな」
「これから、気をつけて見きわめておきます」

女中頭・お(くめ 32歳)が襖の外から呼んだ。
立っていった里貴との会話が漏れ聞こえた。
「〔駕篭徳〕の舁き手が、押しつけられたといって駕篭賃を差し出しています」
「まあ。駕篭賃まで---」

平蔵が声をかける。
「女将どの。その〔駕篭徳〕の舁き手に、牟礼家までの道筋を描いてもらっておきなさい」


       ★     ★     ★
ニュースとしては、若干、出遅れた恨みはあるが、一刻争うネタでもありませんし、鬼平ファンとしては知っておきたい事実なので。
SBS学苑パルシェ(静岡駅ビル)の[鬼平クラス]でともに学んでいる八木忠由さんの提供による2009年12月18日の静岡新聞の記事。

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静岡県焼津市小川(こがわ)の曹洞宗寺院信香院(高田路久住職)はこのほど、8月の駿河湾の地震で倒壊した開基で駿河小川城主の長谷川正長公(1535~1572)の墓石を再建した。同地震では、ほかにも数基の墓石が倒れたり、ずれたりすル被害があったが、正長公の墓の再建で院内の補修はほぼ完了した。

小川の豪族に生まれた正長公は駿河小川城主当時、暴風雨で大破した仏教道場に新たな堂を建立し、長谷山信香院と名付けた。この記録を基に同院は正長公を開基としている。(中略)
正長公は今川家に仕えた後、徳川家康の家臣となり、家康唯一の敗戦といわれる三方原の戦で戦死した、3人の子は家康に旗本に取り立てられ、分家した次男宣次の7代目宣以は池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」のモデルとなった。


参考】2007年6月25日[田中城しのぶ草] (11
2007年4月6日[寛政重修諸家譜] (


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2010.02.02

与頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ)(2)

長谷川うじ、お子は?」
西丸書院番4の組の与(くみ 組)頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 54歳 800俵)が、箸を置き、訊いた。

甘酢のきいた蓮根をつまんでいた平蔵(へいぞう 28歳)も、つられて箸置きへ戻し、
「豚児(とんじ)・豚女(とんじょ)が一頭ずつ---」
「それは、お速い---」
里貴(りき 29歳)が横をむいて笑いをかくしたようなのを、目の隅にとらえながら、余事(よじ)はことさらには口にのせないとおもっていた勝孟が、子どものことを話題にした真意をはかりかね、
「与頭さまのところのご子息は13歳と申されましたが---?」

「次男がな。8年前に逝った長子が生きておれば16歳---いや、逝った子の年齢(とし)をかぞえてもせんない」
里貴が口をはさむ。
「ご内室さまも、さぞや、お悲しみでございましたでしょう。おんな親は、いつまでも死児の年齢を忘れないと申します」
「さよう。室の苦しみは、わしとて身にしみて感じている」

牟礼与頭は、悲しみをはらうように白髪頭をふり、
長谷川うじは、水谷(みずのや)番頭(ばんがしら 伊勢守勝久 かつひさ 51歳 3500石)さまのご養子・兵庫(ひょうご 30歳)さまをご存じとか---?」
「初見(はつおめみえ)がごいっしょでした」

5年前---.明和5年12月5日前後のことを走馬灯のようにおもいだした。

参照】2008年12月1日~[銕三郎、初お目見(みえ)] () (2) (3) (4) (5) (6) (7) () 
2008年12月3日~[水谷(みずのや)家] () (

聞いてはならない話がはじまると察した里貴が、お茶をおもちしますと、立っていった。
里貴が廊下を立ち去る足音をたしかめるように、与頭はしばらく口を結んでいたが、
水谷のお頭へのお目どおりの機会は手くばりするが、兵庫さまのことは話題にのせないように---」
「は---?」
水谷家へお入りになってあしかけ7年になるというのに、お子がおできにならない」
「ご内室はたしか、番頭さまのお姫さま---」
「さよう。しかし、脇にも、できた気配がない、と、番頭さまがなげいておられたが、兵庫さまの出が出じゃからの」

兵庫(30歳)は、越前・福井藩(25万石)の支藩、鞠山藩主・酒井飛騨守忠香(ただか 1万石)の3男であった。
養父・伊勢守勝久の父、京・祇園の執行の行快(ぎょうかい)は、兵庫の大叔父にあたる。
男性として子宝になるものをもっていないらしいとわかっても、実家へ返すわけにはいかない。

「そういうことだから、番頭さまに、お孫の話題は禁物なのじゃ」
「きっと、こころえました」

与頭の牟礼勝孟が招待に気軽に応じてくれたわけを、平蔵はやっと飲み込めた。

見送りにでた里貴に、牟礼はそっとこころづけをにぎらせ、駕篭に身を入れ、ふりあおいで、
長谷川うじ。こころきいた昼餉(ひるげ)、久しぶりに堪能いたしたこと、くれぐれも礼を申す」


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2010.02.01

与頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ)

(20年余のあいだ、大過なく西丸の書院番士をこなし、去年の秋、やっと与(くみ 組)頭にのぼったご仁だが、亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)のことを、どう見てくれていたものか?)

西丸の書院番4の組の与(くみ 組)頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 54歳 800俵)が茶寮〔貴志〕 へやってくるまで、長谷川平蔵宣以(のぶため 28歳)の胸中を去来していたのは、このことであった。
京都町奉行にまで昇進した宣雄を、ふかく妬んでいるようなら、水谷(みずのや)伊勢守勝久(かつひさ 51歳 3500石)の4の組入りの希望をあらためなければならない。

牟礼与頭の屋敷は、牛込築土下五軒町だから、〔貴志〕までは15丁(1.6km)ほどの距離だが、平蔵は〔箱根屋〕の権七(ごんしち 41歳)に、三河町の〔駕篭徳〕につめている加平(かへえ 23歳)と時次(ときじ 21歳)を迎えに行くように手くばりしてもらっていた。

玄関に駕篭がついたようであった。
女将の里貴(りき 29歳)に念を入れ、出迎えと案内はまかせきっている。
部屋の下座に坐りなおした。

「こちらで、お待ちかねでございます」
里貴が如才なく導いてきた。
「や、お待たせ申した」
牟礼勝孟は、おもったよりも老けた感じであった。
鬢はほとんど真っ白であり、細身の躰の腰もかすかに曲がりかけていた。

すすめられて上座を占めた勝孟に、平蔵は丁重にあいさつを述べた。
「いや。このような品のいい店にお招きいただき、恐縮至極」
恐縮した体(てい)を示したあと、
「お父上とは、番入りが1年違いでの。うん、わしのほうが1年半ほど遅れではあったが、年齢が近かったので、組違いでも、よく話をしたものじゃ。もっとも、志はだいぶに異なっておったがの。長谷川どのはうさぎ、わしはであったな」

そのことを別に苦にしているふうにも見えなかった。
突然、年齢を訊かれた。
答えると、
「うちの継嗣はまだ幼くて13歳でな。長生きをせいという天のおぼしめしであろうかの」
笑い顔に邪気がなかった。

里貴が女中を指揮して昼餉を運んできた。
「ほんのおしめりだけ---」
酒をすすめられると、
「いや、弱いものでの。そういえば、お父上もお弱かったが---」
「晩酌は拙のみで酌(く)みました」
注がれた盃を干さなかった。
(酒がいけないとすると、音物(いんもつ)か)

亡父・宣雄の生母が、水谷家が藩主をしていた備中・松山藩の処士のむすめであったこと告げると、牟礼よりも里貴のほうが興味を示した。
「祖母どのの教育がよすぎて、父はなにごとにも精通できたようですが、拙は文字通りの不肖の子でして---」
里貴が小さく笑い声をたてた。
一昨日の、寝屋(ねや)での平蔵の所作をおもいだしたのであろう。

参照】2007年5月21日~[平蔵宣雄が受けた図形学習] () (
2007年5月22日~[平蔵宣雄の『論語』学習] () (
2007年5月25日[平蔵と権太郎の分際(ぶんざい)]
2007年12月18日~[平蔵の五分(ごぶ)目紙] () () ()]

そういう次第なので、水谷組に入れていただきたいと頼むと、番頭からも、空きができたらすぐに手はずをととのえるようにいわれている、との言質がとれた。

分かったのは、牟礼勝孟は、余計な言辞をもてあそばない人柄だということであった。
聞き役のほうが得意らしい。
平蔵は、安心して、亡父の京都での仕事ぶりを話した。

「京都町奉行までのぼられたのに、無念であったろう」
牟礼の言葉には、こころがこもっていた。

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