〔笠森〕おせん
「銕(てつ)だ」
表戸をこぶしの甲でうち、近寄ってきた気配に、平蔵(へいぞう 28歳)が、声を低めて呼びかけた。
つっかい棒をはずした音につづき、三和土(たたき)に棒が転がる乾いた音がし、里貴(りき 29歳)の舌うちと桟をあげるきしみがあって、戸が開くなり、抱きついてきた。
「人目につく。戸を閉めて---」
平蔵の言葉に、右腕は首にまいて口を吸ったまま、片方の手で閉めようとするのだが、うまくいかない。
また舌うちを鳴らし、躰を離してあわただしく用をすますと、また、しっかりと両腕をまわし、
「2夜つづけてお会いできたんですもの。うれしいのです」
目をつむり、唇をさしだした。
舌をからませたまま抱きあげ、座敷でそっとおろし、ならんで横になった。
寝着のすそを割り、指をはわす。
「お酒にしましょうね」
ようやく落ちついて立った。
平蔵も袴を脱ぐ。
「夜着をととのえておきました。お召しかえになって---」
藍色の単衣に着替えると、丹前を肩にかけられた。
「こんなものまで?」
「着ていただけるだけで、うれしいのです」
「脱いだときは?」
「お分かりのくせに---」
鉄瓶から銚子をあげ、酌をしあう。
里貴の透きとおるほど白い肌にうっすらと淡い桜色がさしてきた。
「昨夜の倉地のことだが---」
【参照】2010年2月9日[庭番・倉地政之助満済(まずみ)]
倉地政之助満済(36歳 60俵3人扶持)は、お庭預かりを勤めている。
「内儀は、たしか、おせん---といわなかったか?」
「笠森お仙さん」
「やはり、そうであったか」
8年ほどまえ、銕三郎(てつさぶろう)時代の平蔵は、道場仲間の岸井左馬之助(さまのすけ 20歳=明和2年)と、評判のおせんを検分するために、谷中の功徳林寺門前の茶店〔かぎ屋〕へ、ひやかしに行ったこともあった。
そのころ、14か15歳だったおせんは、色白で、ほっそりした柳腰のむすめであった。
【参照】2008年4月25日[〔笹や〕のお熊] (6)
2008年6月24日[平蔵宣雄の後ろ楯] (10)
うちあけると、不埒(ふらち)なことをするような絵がひそかに出回っていて、銕三郎が左馬之助をそそのかしたが、さすがに、2人とも、お茶だけを呑んで帰った。
(春信 笠森おせん・部分 『芸術新潮』2003年新年号)
おせんが庭番の頭格の馬場五兵衛信富(のぶとみ 55歳=明和2年)の長女で、兄の吉之助通喬(みちたか)とは7つ違い。
【ちゅうすけ注】調べた、2010年2月10日午後2時現在のWikipedia には、信富の父・源右衛門包広(かねひろ 62歳=明和2年)のむすめとあるが、それだと年齢の計算があわない。
「あのころ、拙も若かった」
「ご冗談をおっしゃいます。いまだって、お若い。ほら---こんなに---」
里貴がにぎり、かがんで舐め、ふくんでいた酒をたらした。
「これ、なにをする」
「はい」
手拭で濡れを拭くと、また、しゃぶった。
桜色に紅潮した顔をあげると、倉地政之助が、まる7年にもなるのに、ややができなくて困っているとこぼしたと、打ちあけた。
「そんな話まで交わしたのか?」
「妬(や)けますか?」
「ばか」
「あの細い腰では、できても、難産でしょう」
「里貴はどうだ?」
「産ませてくださいますか?」
「まだ、出仕もしておらぬからなあ」
「さ、子づくりに、はげみましょ」
また、盗聴?
今夜は、AC電源でなく、電池式のボイス・レコーダーを仕掛けるか。
「どうして、拙とこうなった?」
「私が、仕掛けました」
「なぜ、拙だったのだ?」
「面倒をおこすお人ではなさそうだったから---これで、この話は打ち切りましょう」
「ずいぶんと、手前勝手だな。これ、なにをする---」
「手前勝手---おんなは、みんな、そうです。したくても、できない人がほとんどですが---」
布団にもぐったらしく、里貴の声が、こもった。
布団の中まで、レコーダーを入れるわけには行かない。
録音は、やはり、無理らしい。
【ちゅうすけ注】おせんは、けっきょく、この2年後に身ごもって嫡子・久太郎を産み、つづいて8人の子をなし、77歳まで生きた。
墓地は、正見寺(中野区上高田1-1-10)にある。
(正見寺の銘板)
(どちらかが、政之助とおせん夫妻の墓石碑)
| 固定リンク
「147里貴・奈々」カテゴリの記事
- 奈々の凄み(2011.10.21)
- 奈々の凄み(4)(2011.10.24)
- 〔お人違いをなさっていらっしゃいます」(3)(2010.01.14)
- 茶寮〔貴志〕のお里貴(りき)(2)(2009.12.26)
- 古川薬師堂(2011.04.21)
コメント
笠森おせんまで鬼平にかかわってくるこのブログ、面白い。
投稿: kayo | 2010.02.17 09:18
>kayo さん
ありがとうございます。
倉地政之助については、別件で調べたことがあるのです。
お庭番は、他国のことばかりではなく、市井のことも調べるんですね。
京都の御所役人のことは、当然、調べに行ったと類推しています。
それと、銕三郎って、若い頃は、結構、野次馬的なところがあった人のようなので、笠森おせんの店にもひやかしに行ったとあもいます。
野次馬的な好奇心がなければ、火盗改メとして実績もあがらなかったでしょう。
投稿: ちゅうすけ | 2010.02.17 15:29
少し野次馬的な興味を感じて、先日、倉知政之助の家の寛政譜を閲覧したのですが、寛政譜にのっている政之助の子供は男子二名のみだったのですが、お仙は九人の子をなしたと御寺の説明書きにありましたね。
当時は出生してもすぐには届けなくて、ある程度成長してから届けるという話も聞いてはいましたが、倉知家には先祖書きを提出した時点で、「無届の子供」が何人か存在したのでしょうか?
そして、お仙が九人の子をなしたというのは、どういったことからわかったのでしょうか?寛政譜の元史料以外の記録があるのでしょうか?
質問ばかりですいません。
寛政譜と旗本の家の実態とのギャップ(官年と実年齢との違いなど)に最近、興味を覚えておりまして・・・
投稿: asou | 2010.03.02 13:03
>asou さん
いま、確定申告の締め切りに間にあわすように寸暇をおしんで格闘していますので、お仙のことは、申告を終えましてから。
投稿: ちゅうすけ | 2010.03.02 15:26