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2010.03.01

〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛(8)

(万徳院の住持の言葉には、真意がこもっていた)
寺を辞去し、黒船橋北詰の〔箱根屋〕の権七(ごんしち 41歳)の店へむかいながら、平蔵(へいぞう 28歳)は胸のうちで呟いた。

長谷川さま。〔丸太橋(まるたばし)の雄太(ゆうた 39歳)どんが、通りがかりだ、と立ち寄ってきやして、[化粧(けわい)指南読みうり]のお披露目(広告)枠のほうはたちまちきまり、枠を買った店はみんな、こういう[読みうり]ができるのを待っていたと大乗り気だったそうで、長谷川さまの目のつけどころに、改めて感じいっておりやした」
それはけっこうなんだが---と口を濁すと、
「何か、お困りのことでも---?」
すばやく親身に問うてきた。

蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛という盗賊のことをかいつまんで話し、被害にあった藍玉問屋〔阿波屋〕の店のなかに、賊の手に買収された者がいるとしかおもえないが、〔蓮沼〕を捕らえないで、店から罪人をだすというのは、どうも気がすすまない---とこぼした。

「さいですねえ。あっしがいまお聞きしても、〔蓮沼〕の市兵衛ってその盗賊は、よほどにできたお頭(かしら)のようでやす」
「そうなんだが、解(げ)せないところもあるのだ---」

宝暦13年(1763)からの盗歴の表を権七へわたし、

宝暦13年(1763)9月25日 京橋銀座2丁目 
  乾物類卸〔和泉屋〕清吉 570両余

明和2年(1765)10月6日 室町2丁目
  塗物問屋〔木屋〕九兵衛 645両

明和5年(1768)1月16日 湯島坂上
  江戸刷毛本家〔江戸家〕利八 480両

明和7年(1770)4月3日 竜巌島銀町
  下り酒問屋〔鹿島屋〕庄助 725両余

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この秋の藍玉問屋〔阿波屋〕が奪われた570両を加えて、11年間に獲物の総額は、ざっと3000両---〔盗人酒屋〕の〔(たずがね)〕の忠助にいつだっか聞いたところによると、獲物の半分は、つぎの仕込みのこともあるから、頭が取るのが、あの道のきまりのようなものだという。

そうすると、配下に分けたのは1500両。手下が20人いたとして、ならして1人あたり75両---
「ふつうの裏長屋に住んでいたって、5人家族なら、どれほど始末しても年に12両はかかろう。11年間に75両では、配下が黙ってついていくはずがない」
「3000両を、まるまる配下たちに分けたところで、ならして11年で1人頭150両---やってられませんや」

「であろう? これには、からくりがあるはずだ」
「---とおっしゃいますと?」
「有り金全部に手をつけた仕事を、この倍ほどもやって、辻つまをあわせているにちがいない」

が、そうであったとすると、その仕事(つとめ)ぶりは、ふつうの盗賊と変わらないから、〔蓮沼〕組の盗(つとめ)とだれもおもわない。
つまり、半金近くをのこして引きあげる手口は、仲間うちで評判をとるためのオトリでしかない。
それと、火盗改メの捜査を迷わすため。

もっとも、ありこまっち盗む仕事は、江戸ばかりでやっているとはかぎらない。
藩領の町でやったものは、火盗改メに届けがでないこともある。

「そういうわけだから、〔阿波屋〕の頭の白いみずみを捕らえる気がうすれてしまってな」

火盗改め方の助役(すけやく)・庄田小左衛門安久(やすひさ 41歳 2600石)が、はやくも次の職席を求めて働きかけをしていることは、権七にはかかわりがないことなので、黙っていた。

ちゅうすけ付記】〔蓮沼〕の市兵衛の名誉のために書き加えておく。
文庫巻21[討ち入り市兵衛]の鞘師・長三郎のように、市井での表向きの仕事だけで充分に生計(たつき)がたつような配下ばかりを集めていたのであろう。
当ブログでも、左官職・茂三の中塗りの技量も、〔須佐十〕の親方が惚れこむほどであった。


参照】2010年2月11日~[〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛] () () () () () () (

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コメント

池波先生のネーミングのうまさはいうまでもありません。ひとり働き、いま働き、退き金(退職慰労金)などなど、枚挙にいとまがありません。

同時に、ちゅうすけさんも「やるもんだ」と感服しています。たとえば、左官職の親方の屋号「須佐十」。こどものころ、近くに左官の家があり、「長スサをもうちょっと入れろ」などという職人さんのセリフを耳にしました。長スサは、壁土をつなげる刻んだワラのことでした。

こんど、「須佐十」という屋号を見て、あのころの長スサには、「長須佐」の字をあてるんだと合点がいきました。
この親方の名前は十兵衛、それで「須佐十」なんですね。

投稿: tsuuko | 2010.03.01 05:09

>tsuuko さん
できるだけ、史料や資料を参考にしながらすすめていますが、閲覧が簡単にはできない史料もありますし、いいわけになりますが、時間が足りないときも、まま、あります。
そんななかで、手持ちの史料は最大限、生かしているつもりです。
いま、毎日のように眺めているのは『徳川諸家系図』で、田沼意次と一橋治済のかかわりを再勉強しているところです。
長谷川平蔵がどうからむのか。15年後に意次派とみられることを予測しての伏線づくりといえばいいでしょうか。
今後とも、ご支援くださいますよう。

投稿: ちゅうすけ | 2010.03.01 09:59

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