〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛(5)
「父上。うちには、どじょうがごじゃいまちぇぬ。なじぇでちゅか?」
屋敷へもどった平蔵(へいぞう 28歳)に、嫡子・辰蔵(たつぞう 3歳)が訊いた。
「どじょう? どこでみた?」
久栄(ひさえ 21歳)が引きとり、きょう納戸町の於亜以(あい 24歳)が継嗣となる男子の宮まいりというので、祝いを述べに行ったところ、慶之丞どのの姉にあたる於葉瑠(はる 4歳)が、庭の奥にある蔵へ辰蔵をいざなったと説明した。
「生まれた男の子を、慶之丞と名づけたのか?」
「さようです」
「慶などというと通り名は、どこから拾ってきたのだ?」
「お口をおつつしみくださいませ。辰蔵が聞きおぼえ、うっかりもらしでもしたら、大事になります」
「栄三郎(正満 まさみつ 29歳)どのは晴ればれであったろう」
若奥方・於亜以は、あの、名町奉行といわれた大岡越前守忠相(ただすけ 享年75歳 1万石)の直系の孫むすめである。
納戸町の長谷川家は、3代将軍・家光(いえみつ)のおん覚えがよく、4070石を給された。
家光には美少年を好む性癖があった、という噂もないではない。
慶之丞の父親・栄三郎と平蔵は従兄弟同士である。
【ちゅうすけ注】ものものしい幼な名をつけられた慶之丞はもとより、その弟・竜之助も元服まもなく病死し、けっきょく平蔵宣以と久栄の次男・銕五郎正以(まさため)が、納戸町の4070石の長谷川家を継いだ。
もっとも、そのことは20年ほど、のちのことである。
この時点では、銕五郎は久栄の腹には、まだ入っていない。
「辰蔵。土蔵はいかがであった?」
「人形が、たくちゃん、ありまちた」
「それだけか?」
「於葉瑠どのが、辰の口を吸いまちた」
「なんだと!」
「ややが、母上のお乳をひとりじめしているので、辰の口を吸いまちた」
平蔵があきれていると、久栄が、
「さすが、お殿さまのお世継ぎでございます。いまから、おんなの子にもてております」
「冗談にも、ほどがある、とは、このことだ。それで、辰蔵、どじょうがほしいのか?」
「どじょうではあまちぇぬ。どじょうでちゅ」
「そうだ、土蔵であったな」
とつぜん、平蔵が松造(まつぞう 22歳)を呼んだ。
「再々ですまぬが、築地の庄田(小左衛門安久 やすひさ 41歳 2600石)さまの役宅へ行き、同心・脇田祐吉(ゆうきち 29歳)どのに、組屋敷へお帰りのせつ、ご足労でも、ニッ目ノ橋北詰のしゃも鍋〔五鉄〕へお立ちよりいただきたいと、申してきてくれ」
「そんな、廻り道をお願いしてよろしいのでございますか?」
「寄り道にはならぬ。弓の3組の組屋敷は、本所・南割下水ぶちなのだ。みやげに、しゃもの肝の甘醤油煮を下げて戻ろう」
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