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2010年3月の記事

2010.03.31

ちゅうすけのひとり言(53)

じつは、京都にのぼっていた銕三郎(てつさぶろう 27歳=明和9年 1772)が、[化粧(けわい)読みうり]の利益金の半分を寄進すると申し出て、誠心院(じょうしんいん)の有髪の庵主・貞妙尼(じょみょうに 享年26歳)とかかわりができた。

参照】2009年10月12日~[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () () () () (

参照】2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10


これに、貞妙尼の白い肌のことを書いた。
鬼平犯科帳』巻4[血闘]に、おまさの肌は「江戸の女の常で浅ぐろい」とあるので、京育ちのおの肌を白くしておいた。
銕三郎が初めて抱いた上方のおんなである。
越後育ちの女賊がいればよかったのだが。

里貴(りき 29歳)は紀州生まれだが、貞妙尼の肌をもっと白く、光を透き通らせているとおわせるほど、透明感のあることに昇華させた。

参照】2010年1月19日[三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇] (
2010年3月5日~[一橋家老・設楽(しだら)兵庫頭貞好] () () (

それというのも、里貴の生まれを紀州の貴志村にしたからである。
貴志村にしたのは、ぐうぜんであった。
吉宗意次かかわりで『旧高旧領取調帳』のデータ・ベースで紀州をいじっていて見つけた。
池波さんも座右においていた太田 亮先生『姓氏家系辞書』(秋田書店)で、貴志氏が渡来・帰化人であることをしった。

参照】2010年1月29日~[貴志氏] () () (

_100こんな設定をしてから、5000冊の文庫を収納できる特別製の本棚を眺めていて、60年ほど前に同人雑誌で仲間だった開高 健くんと吉行淳之介さんの『対談美酒について』(新潮文庫 1985.11.25)を手にとり、再読しはじめたら、面白くて独り笑い声をあげながら、ずんずんページをめくった。

こんな会話があり、おもわず膝をうった。

吉行 昭和二十一年だから。その娘はきれいだった。
開高 韓国の人は私もある作品に書いたけれど、素晴らしい皮膚をもっている。
吉行 女性ですか。
開高 はい。全部が全部とは言えません。よくハンセン氏病の初期の状態では、皮膚がとても澄んで美しくなると言われるけど、私が接触したのでは、もうほんとうに病気じゃないかと思うぐらい美しいのがいて、糸偏に光と書いて絖(ぬめ)、絹の最上等のやつね、これでもまだおぼつかないくらい。日本の女性にもときどきありますけれども、韓国の女に見かけるあのすごさに比べると、とても、われわれのはまだ健康すぎて------。
吉行 だめか、日本人の皮膚は美しいとなっているんだけれど。
開高 まだ健康段階にある。デカダンスを通過してない透明さです。
吉行 中国もいいそうですね。凝脂を洗うという句---
開高 ありますな。
吉行 楊貴妃か。
開高 珠の脂ね。
吉行 こごった脂だ。あれも感じがある言葉だけれど、まあそういうものですね。
 (少略)
開高 しかし韓国のあれは実に美しい。雪洞(ぼんぼり)のなかで光を灯しているような感じ、人間の皮膚とおもえない。
吉行 それはちょっと良すぎるんじゃないの。宝くじに当たったみたいなものじゃないのかねえ。

両巨頭の卓越した体験に比較して、ちゅうすけの、なんと貧弱に表現であることか。
書くのを放棄したくなるほど貧困な言辞をもてあそんでいるにすぎない。
ま、体験がないからもあるけれど。

とにかく、貴志村→帰化→村内婚姻→遺伝子の保持→透けるように青白い肌→お里貴

---と空想してきた。

_250空想のきっかけとなったのは、波打つ麦畑の印象的なシーンではじまる映画『刑事ジョン・ブック 目撃者』の舞台---ペンシルベイニア州の、機械文明を拒否したアーミッシュの村であった。

25年も前に封切られた映画だから、若い人は見ていないだろうが、現代の米国に、こんな保守的な宗教グループ(アンマン派信徒)がいることもおどろきなのだが、いや、米国でユダヤ正統派教徒は旧約聖書が定めている700を超える戒律をまもっているようだから、キリスト教徒にアーミッシュ集団がいても不思議ではないのである。

映画は、ハリソン・フォードの刑事と、信徒の若い母親・ケリー・マクギリスとの異なる信仰の壁にさえぎられた恋物語なのだが、マクギリスの魅力に圧倒された。

もちろん、マクギリスは子どものために恋をあきらめる。

里貴には子どもはいない。
前夫とのあいだには、できなかった。
だから、シチュエイションは、異なる。

平蔵の家庭事情を知っていて、里貴は、自ら抱かれるように仕組んだ(うらやましい>ちゅうすけ)。
それまで隠してきたふしあわせの堰が、平蔵をしることで、一気に埋めあわせをすることにもなった。

そのことを、田沼意次もこころえていて、蔭ながら支援している。

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(ハリソン・フォードとケリー・マクギリス)

アーミッシュを百済から渡来した一部の伝統主義者にあてはめてみた。

言いたいのは、人種うんぬんではない。
渡来人ということであれば、日本海側の城下町でうまれたちゅうすけには、色濃く、渡来人の血がはいっているはずである。
司馬遼太郎さんなどによる研究書、朝鮮文化が及ぼした影響についてはかなり読み込んできたはずだから、渡来人、帰化人についてはおおように理解しているつもりで゜ある。

そうでありながら、お里貴の肌の白さは貴志村育ちによると認めざるを得なかった。
古来、わが国では、色白は七難を隠す、という。、
もっとも、才、及ばずして意気あがらず、ではある。

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2010.03.30

茶寮〔貴志〕のお里貴(5)

お里貴(りき 30歳)を可愛がってやってくだされ。あれは、ふしあわせなおなごゆえ」
明かりが途絶えている三十間堀ぞいを、用意の提灯で足元を照らし北へ歩きながら、田沼意次(おきつぐ 56歳)の言葉を反芻していた。
供の松造(まつぞう 23歳)は先に帰しておいた。

(ふしあわせとは、どういう意味であろう?)

参照】2010年1月19日[三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇] (
2010年1月29日~[貴志氏] () () (

里貴には、たしかに、謎めいたところがある。
紀州藩士・藪 保次郎春樹(はるき 享年27歳=明和4年)の妻だとは言った。
その春樹という夫は6年前に亡じたともいった。
もうひとつつぶやいたのは、ふるさとが紀伊国那賀郡(ながこうり)貴志村ということであった。

貴志村が里貴の生家の知行地であったのか、あるいはそこの村むすめで、その美貌と透けるほどに白い肌に魅せられた・藪 保次郎春樹が、縁者の藩士の養女という形を経て娶ったか。

しかし、それでは、田沼意次とのつながりが薄すぎる。
春樹の没後、今夕招かれた別邸に引きとられた要因にならない。
もしかして、主殿頭の隠し子?

(いや、里貴は30歳、おれが生まれた延享3年(1736)の1年前だ)
主殿頭はいま56歳だから、延享2年には26歳。
意次は江戸の弓町の屋敷で生まれている。

享保19年(1734)、16歳のときから竹千代(のちの家治)に小姓として仕えた。
よほどに怜悧であったのであろう、3年後には従五位下、主殿頭(とのものかみ)を受けている。
そのあいだ、江戸を離れていないから、お里貴意次のむすめとすると、弓町の屋敷での出事(でごと 情事)の実りとなる。
里貴の母親は、紀州の貴志村から田沼家へ奉公へあがっていたおんなであろうか。
そのころ、意次は、伊丹家から室をむかえていたが、病床にあったようだ。

嫡男の竜助(りゅうすけ のちの意知 おきとも)は、黒澤家からの継室から寛延2年(1749)の生まれだから里貴の4歳下という計算になる。

真福寺橋の手前、大富町の木戸番で時刻を訊いた。
まもなく五ッ(午後8時)と教えられた。

三河町の御宿(みしゃく)稲荷へは、小半時(30分)とかかるまい。
四ッ(午後10時)に木戸がしまるまでには、行って帰りつける。
橋をわたった。

打ちあわせておいたとおり、表戸をこぶしの脊で三つ叩き、ひと呼吸おき、また三つ叩いた。
戸が小さく開けられた。
するりとはいり、後ろ手にしめる。

「どうなさいました?」
いつものように、浴衣に着替えていた。
尻に手をやって引きよせ、耳を噛み、
田沼侯に、不思議なことをいわれ、気になったので訊きにきた。すぐ、帰る」

意次の言葉を伝え、
「どういう意味だ?」
「わたしはいま、(てつ)さまとこうなって、しあわせだとおもっています」
「現在(いま)のことではない、里貴の生まれかなにかにつながっているのではないのか?」

「生まれは、紀州の貴志村です」
「そこを知行していたのは?」
「知行地ではありません。金剛峰寺さんの支配地です」
「すると、生家は、村長(むらおさ)かなにか?」
「いいえ、自家百姓でした」
「そのむすめが、どうして武家の妻に?」
「養女という形をふみました」
「やはりな---」

「申しあげますと、さまに嫌われるかもしれません」
「なぜだ?」
「貴志村は、帰化した者たちの村なのです」
「ずっとずっと昔のことであろう?」
「村人は、村人同士で嫁とり婿とりをつづけるよう.にしてきました」
「------」

「ほら、お嫌いなになった---」
「違う。が、田沼侯はそのことをご存じなのか」
「はい。ご老中さまの先々代が、お代官をなさっていて---」
「もう、いい。言うな。拙は、里貴をいとおしいとおもうだけだ。田沼侯のおっしゃるように、可愛くおもうことにかわりない。今夜は遅いから、帰る。明後日は同輩と飲む。その翌日、来る」
「うれしい。お待ちしています。この季節だと、ごいっしょに、行水ができます」


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2010.03.29

松平賢(よし)丸定信

雑談の態(てい)で、田沼主殿頭意次(おきつぐ 56歳 相良藩主)が、ふと、洩らした。
「われと、本多紀品(のりただ 61歳)どのには遠すぎる昔のことゆえ、はずすとして、お若い本郷伊勢どのと銕三郎(てつさぶろう 29歳)どのに思いだしてほしいのは、17歳の男子のなにの強さを話してくださらんか。いや、自分のことでなく、友人の話でもいいのじゃが---」
女性の召使いたちは、その前に退室を命じられていた。

田沼とともに、本多采女紀品(のりただ 61歳 2000石)、西丸目付・佐野与八郎政親(まさちか 43歳 1100石)がさりげなく微笑しながら、本郷伊勢守泰行(やすゆき 30歳 2000石)に視線を注いだ。

西丸・小姓組頭取の伊勢守泰行は盃を膳へもどし、端正な面持ちを引きしめ、
「知人のことでもいいとのお言葉でしたから---姓名の儀はお許しいただくとしまして---」

話したのは、一橋小川町の生家の隣家の次男の少年のことであった。
16歳のころから、召使いをつぎつぎと手ごめにし、ついに親から見放され、家を出、湯島天神下の娼家のおんなと素裸の躰をしばりあって相対死して果てた。
「そのように、17歳の性欲を解きはなって死んだその少年が、うらやましくて仕方がありませんでした。嫡男に生まれていなかったら、手前もやっていたかもしれません」

平蔵は、14歳のときに得た初体験を話した。

駿州・田中藩の前藩主・本多伯耆守正珍(まさよし)侯のお考えを実現させるために東海道をのぼり、三島の宿で、町を見て廻ろうとしたとき、本陣{樋口}の主・伝左衛門の手配で25歳の後家と出会い、男になったと。 

参照】2007年7月14日[仮(かりそめ)の母・お芙佐ふさ)] () (

「10歳ごろから、好みのおんなをみると、澱(おり)みたいなものが躰のどこかに溜まっていくような感じをおぼえておりました。それが、後家になったばかりのその人に、やさしく導かれ、おんなの秘処とは、こんなにも繊細で、微妙で、滑らかで、快いものかと、おどろきました」

「想い描いていたとおりであったか?」
源内が訊いた。
「いえ。想像していたものより幾層倍も甘美でした。そして、あそこへの放出の発作が静まると、4年間積もってでいた澱が、きれいさっぱり消えておりました」

「ほう。14歳のときにな。なんともしあわせなご仁じゃ」
意次が感嘆した声で応じた。
(てつ)どののお父上ができすぎておられたのです。なみの父(てて)ごでは、そうはまいりませぬ」
佐野政親が保証した。

「しあわせかどうか。おんなの秘処があれほどに甘美と知ってしまうと、あとの辛抱がむつかしくなります。自力のは味けのうて---」
みんながうなずきながら 軽い笑い声をたてた。

「で、つぎに本物の甘美を手にしたのは?」
「18歳になってすぐのときですから、17歳としてもよろしいかと---」
「ふむ---」
意次がうながした。

参照】2008年1月1日~[与詩(よし)を迎に] (12) (13) (14) (15) (26) (27) (28) (29) (30)  (41

「あの齢ごろでは、小半時(30分)も熄(やす)めば、もう、満ちておりました」
「相手次第だが---」
本多紀品が、茶々をいれる。

本多さまも、さようでしたか?」
平蔵が逆にからかった。
「年寄りをいじめるでない」
紀品が笑いながらたしなめた。

「いや。ご馳走ばなしであった。ところが、17歳の男子で、妻をあてがわれて、抱かないご仁がいてな」
意次は言葉をにごしたが、平蔵には、白河藩主・松平越中守定邦(さだくに 47歳 11万石)の心痛だと察しがついた。
養子に乞われ、その姫を正室にあてがわれた田安家賢丸(よしまる 17歳)が、この1ヶ月、田安邸を出ていかない。
つまり、定邦の姫と同衾していないようなのである。

参照】2010年3月21日[平蔵宣以の初出仕] (

意次源内に、
「媚薬になる草はないものか」
と問い、
「鯨の睾丸でも煎じて呑ませるのですな」
みんなが笑った。

それからしばらく、金力をつけている商人たちの話題に移り、座が終わった。

それぞれが退出するとき、意次が、
平蔵どの。さしつかえなければ、寸時、とどまってほしい」

本多紀品、本郷伊勢守、佐野政親、平賀源内へあいさつし、言われたとおりに待っていると、みんなが門を出る間あいをはかり、意次が、しみじみとした口調で、
「平蔵どの。里貴(りき 30歳)を可愛がってやってくだされ。あれは、ふしあわせなおなごゆえ」


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(久松松平 始祖 定邦・定信(養子の項))


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2010.03.28

平蔵宣以の初出仕(9)

「や、遅れましたかな」
暮れ五ッ半(午後5時)近くに顔をみせた西丸目付・佐野与八郎政親(まさちか 43歳 1100石)は、べつに遅れたわけではなかった。

田沼主殿頭意次(おきつぐ) 56歳 相良藩主)の木挽町(こびきちょう)の別邸の門前で待ちあわせしていた、無役となって閑居をたのしんでいる本多采女紀品(のりただ 61歳 2000石)と、西丸から直接にきた平蔵(へいぞう 29)歳)である。

「なんの、なんの。揃ったところで伺候いたそうかの」
本多紀品の供が門番に訪(おとない)いを告げると、手配がゆきとどいていたらしく、そのまま式台脇のいつもの出入り口へ導かれた。
ここは、田沼老中の私邸のような屋敷だから、招かれた者のほかは訪れない。

通された部屋には、すでに先客が2人いて、歓談していた。
1人はかおなじみの平賀源内(げんない 46歳)で、もう1人は顔は知っているが言葉をかけたことのない仁---西丸・小姓組の番頭格で遇され、頭取と呼れている、本郷伊勢守泰行(やすゆき 30歳 2000石)であった。

本多紀品と佐野政親は、本郷泰行と目顔であいさつを交わしあった。

「初めてごあいさつを申します。西丸・書院番士として出仕したばかりの、長谷川平蔵にございます」
口上をのべると、田沼老中が、
「これはしたり。西丸内でもう、顔なじみとおもっていたが---」
本郷伊勢守が名のる前に、2人を引きあわせた。
こういうところが、田沼らしい気遣いであった。

平蔵が、先日のお廻りのときに不在していた詫び述べると、
「なに、あちらのお年寄どのとの相談ごとのついであってな。お気になさるな」
軽くいなした。

お年寄とは、西丸・老中の板倉佐渡守勝清(かつきよ 69歳 上野・安中藩主)のことであった。
年齢のことをいっているのではない。
老中の、元の職名である。

顔ぶれが揃ったところで、酒肴の膳がはこばれてきた。
盃を干した源内が、
「ほれ。長谷川どののところの、上総(かずさ)で竹節(ちくせつ)人参の植え場を構えたご老体---」
太作(たさく 62歳)です」
「そう。かの仁、なにか言ってきちょったかな?」
「根づいたと申してきました」
「けっこう。あとは、花が咲くのを待つばかりよ」

本郷伊勢)が話しかけてきた。
「相良藩の浪人を召し捕らえられたそうで---」
「もう、お耳を汚しましたか。怪我の功名でございます」

参照】2010年3月23日[平蔵宣以の初出仕] (

田沼意次が口をはさんだ。
「その者のことだが、本多長門守忠央 ただなか 相良前藩主)どののときの旧臣で、わが家臣となっておる者にたしかめたが、召し抱えるにふさわしくない人物とのことであった」
「恐れ入ります」
銕三郎どの---いや、失言、平蔵どのか謝るのは、筋ちがいじゃ」
「はい」


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(本郷伊勢守泰行の個 人譜)

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2010.03.27

平蔵宣以の初出仕(8)

「お目付の石谷(いしがや)さまがお呼びです」
同朋(どうぼう 茶坊主)が耳元でささやまくように告げた。
きのうの小粒(2朱銀 2万円)が効いているらしく、同輩たちに聞き取れないように気をくばっている。

(きたな)
平蔵(へいぞう 29歳)はうなずき、師範役・松平忠左衛門勝武(かつのぶ 25歳 500石)を目でさがし、そばへ寄り、小声で、
「お目付の部屋へ行って参じます」
「何か?」
「さしたることではございませぬ。ちょっと、捕り物に手をかしまして---」

西丸には、目付が6人ばかりいた。
兄事している佐野与八郎政親(まさちか 43歳 1100石)もその一人で、その職に就いて7年になる。
呼び出しをかけてきた石谷重蔵澄清(すみきよ 46歳 2500石)は、年齢も家禄も佐野政親よりも上だが、発令がことしの2月だから、後任であった。

目付の部屋の外で名乗りをあげると、まっさきに佐野政親が顔をむけ、やさしい目でうなずいた。
石谷十蔵が、年齢よりも老(ふ)けて見えるのは、目じりの皺が深いからであった。

別室へ導かれ、町奉行所から調書があげられてきての、と眠そうな口調でいった。
目付が取調べのときの口調を早くも身につけていた。

予想どおり、一昨夜の浪人者の一件の確認であった。
横で、書役(しょやく)が帳面をひろげて待っている。

先方から闇くもに斬りかかったのに間違いないなと念を押されたあと、
「五ッ半(午後9時)すぎに、何用があって大川をわたっておったのだ?」
長野の家で話しこんでいて、つい、時刻をすごしました」
「長野と申すと---?」
「長野佐左衛門です」
「長野さ左衛門---?」

(すらすらと答えてはいけない。応えを用意していたと見抜かれる)
平蔵は、わざと、半端な応え方を考案していた。
「お目付どの、長野うじは、ここの、書院番・第の3の組の番士の、佐左衛門孝祖(たかのり)うじでございます}
書役が口をはさんだ。
「おお。あの長野か---」
もっともらしく、石谷目付が合点した。
とんだ茶番劇であった。

長野の屋敷は---」
「本郷元町です」
「本郷から本所三ッ目へ帰るとすると、新大橋をわたることになる」
「さようです」

「ところで、長谷川。おぬし、剣は?」
「一刀流を少々---」
「抜きあわさなかったわけは?」
「斬っては、ことが面倒になるとおもいました」

「うむ。よく我慢した。それでこそ、お上の直臣である」
「お認めいただき、ありがというございます。ところでお目付どの。お目付どのと小川町にお屋敷のある淡路守清昌 きよまさ 60歳)さまと、どちらが伯父・甥でございましょうか?」

参照】2007年7月25日~[田沼邸] (1) () () (
2007年7月29日~[石谷備前守清昌] () () (

長谷川は、淡路)どのをご存じか?」
話題がころりと転じた。

「はい。田沼侯の別邸でお目にかかりました」
十蔵澄清は、石谷家の祖は、遠州で二階堂とか西郷を称していたが、東照宮さまに任えてからいまの石谷になった---と話し、淡路どのは石谷に改めてから五代目の6男が、わが家は次男の孫が分家をたてたと説明した。
石谷本家の五代目から数えると、淡路どのは六代目にあたり、われも六代目だら、従兄弟同士といえるとも。

「ただ、わがご先祖のほうが、ならして一人あたり2年ずつほど長生きをしたせいで、われのほうが年少となった」
石谷目付は、うれしそうに笑った。
取調べは、こうして終わった。

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2010.03.26

平蔵宣以の初出仕(7)

大川に架かる新大橋の西詰、菅沼新八郎定前(さださき 11歳 7000石)など3家の旗本がだしている辻番所を、まず、のぞいた。

昨夜の番人が目ざくとく認め、菅沼家へ告げに走ろうとしたのを引きとめ、
「昨夜の浪人者は、いかがいたしたかな?」
「朝のうちに、茅場町の大番所へとどけました」
「どこの藩の浪人と申していたかな?」
「駿州・相良藩とか」
本多長門どのだな」

本多長門守忠央(ただなか 64歳)は、相良藩(1万石)の藩主・若年寄であった48歳のとき、(郡上 くじょう)八幡藩の一揆がらみで改易となり、お預けとなったが、のち、許され、いまは養子の兵庫助忠由(ただよし 40歳 500俵)の湯島天神下の屋敷に寓居していた。

参照】2007年8月12日~[徳川将軍政治権力の研究] () ()  () () () () () (

(郡上八幡藩の手落ちを糾弾なされたのは、相良に封じられた田沼侯と、父上から聞いている。そのときの藩士に襲われ、捕らえたのも、なにかの因縁。しかし、そうとわかって逃がしてやれば、ほかの誰かを斬ったろう)

あと味は悪かった。

供侍の桑山友之助(とものすけ 41歳)に、菅沼家に訪(おとな)いを告げさせた。
家老が請け、謝絶したにもかかわらず、客間へ招じいれられてしまった。

7000石の大身の屋敷にふさわしい、美人の召使が茶菓を置いていくと、すぐに当主・新八郎(じつは、元服前なので藤次郎)が家老と34,5歳に見える品のいい女性とともにおらわれた。

藤次郎です。こなたは母者です」
母者と紹介された女性は、平蔵を瞶(みつめ)て、意味ありげに微笑んだ。
(武家出の室にしては、艶っぽい後家だな)
ふっと頭をかすめたが、藤次郎が、剣は何流をお遣いで---と訊いてきたので、視線をそちらへ移し、
「一刀流でした」
「---でしたとは?」
母者のほうが聞きとがめた。

「師が去年、逝かれました」
「なんと申される道場ですか?」
「本所出村町にありました高杉道場と申す、小さな稽古場でございました」

昨夜の経緯は辻番の者から聞いたが、
「見事な剣遣いとか---」
母者が艶っぽい目でいった。

「恐れいります。ほんの子どもだましみたいな---」
「目録はお持ちでしょう?」
「はい」
藤次郎をお教えくださいませぬか?」
「なにをお仰せられますか。当家のご当主であれば、どこの道場でも喜んでお迎えいたしましょう」

母者は、於津弥(つや)と名乗った
藤次郎がひ弱な質(たち)なので、ふつうの道場に入門させたが、気おくれしてすぐにやめてしまうのだと説明した。

藤次郎を見やり、
「西丸に出仕をしたばかりなので、非番の日にしかさらってさしあげることができませぬが、高杉道場では、最初の半年は、毎日、鉄条入りの木刀を振らされ、まず、筋肉を鍛えてから、技の稽古にはいりました。おやりになれますか?」
「それをやれば、長谷川どののように強くなれますか?」
「つづけば---」
「やります」

津弥が、微妙な笑みとともにうなずいた。
「鉄条入りの木刀をつくらせるのに、10日ほどかかります。できたころの非番の日にお持ちいたします」

津弥が家老に合図をした。
式台のところで渡された紙包みには、3両(48万円)も入っていた。

平蔵は、うち2両を、臼井村の剣友・岸井左馬之助(さまのすけ)に送り、出府できないかと問いあわせた。
(嫁をもらい、所帯をはっていたら無理かもしれないな。それりならそれで、結婚祝いだ)


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(菅沼藤次郎定前の個人譜)


       ★     ★     ★

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いつものように週刊『池波正太郎の世界 15』[堀部安兵衛・おれの足音]が送られてきた。
どちらの作品も、男が成長していく物語である。とくに、大石内蔵助がおりくを迎えた初夜のもようが引用されており、さすが---と、うなった。女性の池波ファンがふえるわけである。


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2010.03.25

平蔵宣以の初出仕(6)

長谷川---さん」
師範掛の松平忠左衛門勝武(かつのぶ 25歳 500石)がもしばらくためらったのち、「長谷川」の下に、「---さん」と尊称をつけた。
「さん」つけをしたら、師範掛の格が下がるとでもおもっていたにちがいない。

まあ、幕臣の格は、一に職分、ニに先任後任、三に家禄、四に年齢だから。彼の場合は、一、二、三で平蔵(へいぞう 29歳)に長じている。
だから、別に「---さん」づけすることもない。

しかし、先刻、平蔵の後ろ楯に、老中・田沼主殿頭意(おきつぐ 56歳 相良藩主 3万石)がついていることがわかった。
役人の世界で、後ろ楯の強弱は、一、二、三に優先した。

しかし、後ろ楯をひけらかすと、周囲から嫌われる。
だから、平蔵は、田沼侯の名を、人前で口にしたことは、ほとんど、ない。
なくても、自然にささやかれていくものらしい。

忠左衛門勝武だとて、松平の一門だから、後ろ楯は悪くはないが、能見(のみ)は、庶流と見られている。
額田郡能見(現・岡崎市能見町)を本貫としていた。

長谷川---さん。田沼侯のご用件は?」
「さしたることではございませぬ。お知り合いの本草学者。平賀源内(げんない 46歳)先生からさずかった竹節(ちくせつ)人参が根づいたかとのご下問でした」
「ちくせつにんじん?」
「偽朝鮮人参です。下僕の老後の手すさびににと、平賀先生からいただいたのです」

松平勝武は、それで納得したような面貌になった。
田沼侯は、おれが西丸・書院番士として出仕したのをお気にかけたくださり、わざわざ、西丸までお廻りにきてくださった)
平蔵は、田沼意次の気くばりに感謝したが、田沼のこの声かけにより、平蔵田沼派と目され、のちのち、門閥派に冷遇されることになったのは、ここでの話題ではない。

勝武の顔を見ているうちに、〔箱根屋〕の権七(ごんしち)の、
「深川の黒船稲荷のあたりにおもしえれところがある」
との言葉を伝えまでもなさそうだと判断した。

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2010.03.24

平蔵宣以の初出仕(5)

登城し、黒書院の廊下で、同朋(どうぼう 茶坊主)に、同じ書院番第3の組の番士・長野佐左衛門孝祖(たかのり 28歳 600俵)にわたすようにと、結び文を託した。

佐左衛門孝祖は、6年前iに初見(はつおめみえ)をした仲で、同年齢で禄高も近いので、以後もずつと親しくしてきた。

参照】2009年5月17日[銕三郎の盟友・浅野大学長貞] () (

結び文には、弁当をいっしょにしたいから、五ッ(正午)に控えの間にこれるか? と書いた。

すぐに、返書が届けられた。
小粒(2朱銀 2万円)を手ばやく包み、そっと握らせる。

「承知」とのみ、書かれてあった。
余計なことはやりたがらない性格なのである。

並んで弁当をひろげると、先刻の茶坊主が、香りの高い湯茶を淹れてき、うやうやしく礼をした。
銕(てつ)。包んだな」
後ろ姿を見送りながら、長野孝祖が声をひそめて笑った。
「これからのこともあるからな」
「いくら握らせたのだ?」
「小粒」
「多すぎる。くせになるぞ」

食後の茶で口をしめらせ、並んで厠(かわや)で用をたしながら、互いにつぶやき声で、
「頼みは、ゆうべ、佐左(さざ)の家に五ッ半までいたことにしてくれ」
「わかった。帰宅したら、門番などにも言いつけておく。色事か?」
平蔵は、こんどは2朱銀を2枚、佐左衛門のたもとへほうりこんだ。
「しもじもへの酒代だ」
「おれへの口止め料は、別だぞ」
「こころえている。大学ともども、招待する」

大学とは、浅野長貞(ながさだ 28歳 500石)のことで、初見の仲間であった。

「いつだ?」
「18日の夕べ」
「宿直(とのい)ではない」
大学へは、おれのほうから伝える」
「いつもの、中坂下の〔美濃屋〕だな?」
「不服か?」
「いや。の京都行きの送別会以来だな」

厠を出た2人は、なにごともなかったふうで、それぞれの執務部屋へ戻った。

師範掛・松平忠左衛門勝武(かつのぶ 25歳 500石)が待ち構えていた。
「なにか?」
伺うと、
「お廻りの足をこの西丸までお伸ばしになった相良侯田沼主殿頭意次 おきつぐ 56歳 相良藩主)が、長谷川は? とお名指しでお問いかけになられた」
「失礼いたしました。昼をつかっておりました」
「以後、昼は、お廻りがすんでからするように。それから、坊主をご用部屋へ伺わせることだ」

廻りとは、老中が正午に部屋々々の前をまわることをさす。

同朋頭が、意次の用件を訊いてきた。
16日の夕べ、平賀源内(げんない )が築地の別邸に来るそうだから、無役になって隠居をたのしんでいる本多采女紀品(のりただ 61歳 2000石)、西丸目付・佐野与八郎政親(まさちか 43歳 1100石)ともども、あそびにくるように、との誘いであった。

2朱銀が消えた。
(きょう1日で1分(4万円)がとこふっとんだ。これからは、もっとこまかいお宝を用意しておかないと勝手(家計)がもたない。権七(ごんしち)に相談してみよう)

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2010.03.23

平蔵宣以の初出仕(4)

鋭い一閃がきた。
さっとかわして後退し、提灯を暗殺者へ投げた。
提灯が斬られた。
が、その一瞬に、敵の人相をたしかめた。
浪人者であった。

退りながら、いってみた。
「人違いいたすな。書院番士であるッ!」

相手は、無言のまま、迫ってくる。
「橋番、狼藉者だ」

咄嗟に叫びつつ、後退をつづけた。
仮に、相手を斬ったら、証人が必要になるからでもあった。

ちゅうすけ注】江戸の武家物では、よく人を斬るが、斬った当人も本格的に調べられた。

西詰から、明かりをもった橋番らしいのが、棒を手に近寄ってきた。
舌打ちした襲撃者は、逃げにはいった。

すばやく追い、峰で浪人の右肩を撃った。
うめいてかがみこんだその脊に蹴りを入れた。

つんのめり、苦しんでいる首を手刀で撃ち、橋番に綱をもってくるようにいいつけた。

(御宿(みしゃく)稲荷から帰りを待ち伏せたとはおもえない。
食いつめ浪人の所業であろう)

「物盗りとおもえる。近くの辻番所へ引きたてよ」
「辻番人です」
「これは重畳。してどちら方の?」
菅沼さまほかご3家の---」
菅沼さまと申せば、日光ご奉行の---?」
「さようではありません。野田菅沼さま---」
新八郎さまと申されたかな?」
「さようです」

_360_3
(新大橋西詰、□=菅沼家前の辻番所)

菅沼新八郎定前(さださき 7000石)は、2年前に遺跡をついだばかりで、当年11歳の待命中であった。

ちゅうすけ注】野田菅沼家のことは、宮城谷昌光さん『風は山河より』(新潮文庫 6冊) 

「ごあいさつは、明日、下城の途次にお立ち寄りして申し述べる」
平蔵は、身分と姓名を告げた。

(それよりも、四ッ(午後10時)ちかくまで、なにをしていたか、証拠をつくらねば---)
気が重かった。


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2010.03.22

平蔵宣以の初出仕(3)

田安家は、乞われて白河藩へ養子にだした3男・定信(さだのぷ 賢丸 まさまる あらため 17歳)の縁組を取り消したいと策しているらしいと聞き、
「それでは、相良侯(老中・田沼主殿頭意次 おきつぐ 56歳 3万石)のせっかくのお骨折りが無になるではないか」

平蔵(へいぞう 29歳)がいっているのは、白河藩主・(久松松平定邦(さだくに 47歳 11万石)の懇望をうけ、諸方へ手くばりをして実現にこぎつけた田沼意次の苦心である。

久松松平は、家康の実母・於大(だい)の再婚先つながりとはいえ、最初(はな)からの松平一門ではない。

膳の盃代わりにしている小ぶりの椀の冷や酒をあおった里貴(りき 30歳)が、立てていた片ひざをなおし、
「坂上のお屋敷のことなど、もう、よろしいではないですか? 時がくれば、なるようになるにきまっております」
「なるように、なるか---」
「それより、(てつ)さまの初出仕のお祝いをさせてくださいませ」
「お祝い---といえば、拙のほうから内祝いの品を持参すべきであった。拙としたことが、ぬかっておった」
「わたしからのお祝いは、となりの間で---たっぷりと」

お祝いをするといっただけに、その夕べの所作は、平蔵がもてあますほどに、はげしかった。
里貴が自慢の白い肌を桜色に染めるのも、いつもよりはやいと、下から見ていて平蔵はおもった。

_360_4

_220_3(映画『氷の微笑』の解説パンフで、シャロン・ストーンが、男をベッドに縛りつけ、上半身を佇立して攻めている画面写真をさがしたがなかったので表紙を掲出。上は栄泉艶本華の奥 』)

「ひと月ぶりですもの---」
のけぞりながら里貴は、うわごとのように、いく度もつぶやいた。
髷(まげ)はくずれかけている。
桜色になった両乳房のまん中に、ひと筋、汗のながれたあとがあった。

上から腰をゆすることで、平蔵に愉悦を贈っているとおもいこんでいる。
つまり、祝意を捧げていると---。

そういえば、おんな男の〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳=.明和7年)と最初に睦んだとき、おんなには立役として自分から動いていたのに、あのときは、平蔵を受け入れることで法悦をむさぼっていた。

参照】2008年11月17日[宣雄の同僚・先手組頭] (

突然、家基の甲高い声、
「こころをいれて、はげむよう」
おもい出し、頬をゆるめたが、目を閉じ眉根をよせてはげんでいる里貴には見つからないですんだ。

ぶきっちょに、しかし、律儀にゆすっている里貴の尻を双掌でつかみ、指先で揉んでいて、右の小指が尻の割れ目の濡れた柔らかい肉に触れた。
小指の先をいれ、ぴくつかせる。
たまらず絶叫した里貴が、倒れる樹木kようにかぶさり落ちた。

平蔵も、頂上にかけのぼっていた。


素裸のまま、平蔵の髷を櫛でととのえてやりながら、
「お祝いの前に交わした話、殿中では、お洩らしにならないでくださいませ」
「承知しておる」
「信じておりました」
背後ら、重い乳房を押しつけ、耳たぶを噛んだ。
紅の香りがした。

暗い道を〔箱根屋〕と書いた提灯で照らしながら、京橋川ぞいに東向し、宿老・田沼意次の手くばりの奥深さに想像をはせた。

提灯は、権七(ごんしち)が笑いながら、
「いちいち、お持ちになるためにお立ち寄りいただくのもなんですから、10ヶばかり、つくらせました。お預けになっておおきください」
気を利かせてくれたのである。
御宿(しゃく)稲荷脇へ預けた。

田安家定信(さだのぶ)の戻りを願っているようだが、天下の仕置きに意欲があれば、田安家の者になっては、直接に施政に手をだすことはできなくるはずである。
たしか、家康の遺訓として、ご三家にはそれが足かせとなっていた。
そこのところを、定信はどういいぬけるつもりであろう?

白河藩主としてなら、老中に任じられることもあるではないか。
しかし、お目見(みえ)の家格の家だけでも5000家余ある。
どの家も、人事には異常なほど関心をもっている。
役人の、古今東西の性癖であろう。

公平とおもわれる人事を、果たして、才気ばしっているとの評判が立っている定信が行なうことができるであろうか。

あれこれ反芻しているうちに、新大橋をわたってしまっていた。

と、橋の東詰で、殺気が走った。

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2010.03.21

平蔵宣以の初出仕(2)

賢丸(まさまる 17歳)さまの白河・越中侯へのご養子入りついて、何か耳にしておらぬか?」
躰をあわせた数がふえるにしたがい、平蔵(へいぞう 29歳)の言葉づかいが粗略になってきていた。
もっとも、1歳齢上の里貴(りき 30歳)にしてみると、そのほうが齢下になったようだと、かえって嬉しいらしい。

越中守とは、白河藩主(11万石)の松平定邦(さだくに 47歳)のことである。
賢丸は、いわゆる三卿の一つ---田安家の、3年前に卒した宗武(むねたけ 享年57歳)の3男、のちの老中首座をつとめた定信(さだのぶ)である。

ちゅうすけ注】『徳川諸家系譜』によると、宗武の7男なのだが、平凡社『日本人名大事典』が、治察(はるあき)を嫡男とみなしてか、3男としているので、それにしたがった。

徳川実紀』の安永3年(1774)3月11日の項は、

松平越中守定邦をめして。大蔵卿治察(22歳)卿弟賢丸をやしない。むすめにめあわせよと命ぜらる。

もちろん、将軍・家治からでた案ではない。
史家は、白河藩主・定邦が江戸城内での席を溜詰に格上げしてほしく、それには、徳川家との縁をより濃く---との策であったと見ている。

新稿 一橋徳川実記』は、同年3月15日の項に、

田安宗武七男賢丸(定信)、松平越中守定邦の養子と定められるるにより、此日治済田安邸を訪(おとな)い、悦びを述ぶ。

幕府から田安家へのあてがい扶持は10万石、それを上回る11万石の白河藩への養子が決まったのであるから、まずは慶事といったおもむきである。

しかし、賢丸当人は、あとになって、そうはとらなかった。
半自伝ともいえる『宇下人言(うげのひとこと)』(岩波文庫)には、

賢丸を(松平)久松家へ養いにやりしは、もと心に応ぜざる事なれども、執政邪路のはからひよりせんかたなくかく為りしなれども、ゆるしたるはわれと治察と重臣なり。断絶するときは、いかに初のこといひわけたらんとて何のかひもありなん。

つまり、まわりの者たちのために、しぶしぶ田安の家をでたのだといっている。
もちろん、20年ほどのちのくり言ではある。
しかも、裏で画策したのは、老中・田沼意次(おきつく 56歳)だといわんばかりの文章である。

そこで、前掲『日本人名大事典』の筆者は、賢丸時代につき、「幼より英邁の誉高く」「早熟の才人であった」「松平家を相続したのも、時の老中田沼意次が、その英邁を忌憚したためであるといわれている」
---この事典、じつは戦前版を戦後に復刻したものである。
戦前の定信評、田沼評をうかがうために、わざわざ引用した。

里貴はすでに寝着で、夜も蒸すほどの季節だけに、胸元を大きくひらき、透けるように青白い乳房の谷間を見せていた。

2人のあいだの膳には、冷や酒の片口と、茶寮〔貴志〕から持ちかえったあわびしんじょがある。

「そうですね」
片ひざを立てた。
寝着の裾がわれ、向かいの平蔵の側からは、太ももの奥まで見えた。
無理に視線をそらし、つぎの言葉を待つ。

「先日、橋向こうのお屋敷の新庄さまと坂上のご用人の朝比奈さまがご会食なさったときに小耳にはさんだのですが、なんでも、大蔵卿さまのご体調がすぐれないようで、白河さまをお戻しになりたいので、民部卿

翻訳すると、一橋家の家老・新庄能登守直宥(なおずみ 53歳 1000石)と田安家の用人・朝比奈六左衛泰有(やすなり 54歳 500石)が会食し、田安家の嫡男・大蔵卿治察の体調がよくないので、白河藩へ養子にだした賢丸あらため定信を戻してもらうための工作に、一橋家の当主・治済の力添えをたのみたい、ということである。


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(朝比奈六左衛門昌繁の個人譜)


 

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2010.03.20

平蔵宣以の初出仕

裃と袴は、亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)が26年前の初出仕に着たものであった。
母・(たえ 49歳)が、
「縁起のものだから---」
3日前に納戸からだし、陰干ししておいてくれた。

若い葉桜の緑がみずみずしい安永3年(1774)4月13日(旧暦)、長谷川平蔵宣以(のぶため 29歳 400石)は、西丸・書院番の第4番組の番士として初出仕した。

西丸の主は将軍家治(いえはる)の世子で、5年前の明和6年(1768)暮れに、大奥から移り住んでいた家基(いえもと 13歳)であった。
竹千代(たけちよ)から家基にあらためたのはその前、明和4年の元服時であった。

書院番第4組の番頭は、水谷(みずのや)伊勢守勝久(かつひさ 52歳 3500石)で、平蔵にとって、思惑どおりの番入りといえた。

与(くみ 組とも)頭は、牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 55歳)で、出仕の申し渡し奉書をうけてから数回、牛込築土下五軒町の屋敷を、あいさつの品ともども訪問しては、初出仕のこころえをたしかめておいた。

参照】2010年2月1日[牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたか)] () () (

番頭、組頭につきそわれ、謁見の間でまっていると、家基があわられ、
「大儀。こころをいれて、はげむよう」
たどたどしく、それだけいって消えた。

あとは、4番ある西丸の書院番の番頭、与頭にあいさつし、組へ戻って50人いる藩士たちで、出仕している30人ほどと顔をつないだ。

師範掛として、(能見 のみ)松平忠左衛門勝武(かつのぶ 25歳 500石)に引きあわされた。
(どこかで見覚えのある仁だが---?)
記憶をたどっているうちに、
「初見がいっしょでしたな」
先方から、えにしをいわれた。
「やはり---」
平蔵も話をあわせた。

参照】2009年5月13日[銕三郎、初見仲間の数] (

さすが、松平の一門である。
初見は6年前にいっしょにしたとはいえ、出仕は平蔵より3年はやい。
(もっとも、祖父からの遺跡相続も3年はやかったことは、あとで知れたが---)

「よろしく、お引きまわしのほどを」
軽く頭をさげると、
「手前のほうこそ。若年でござる」
えらの張っているので、齢よりは老(ふ)けて見える。

西ノ丸のあちこちを案内してくれながら、厠(かわや)の前で袴を脱ぎ、連れだって用をたしながら、
「ご内室は?」
「は?」
「お齢(とし)ですよ」
「22歳になります」
「ほう。熟(う)れどきですな」
「ご師範どのは?」
「青い実すぎる」
「は?」
「17歳になったばかりで---」
師範掛の妻は、朽木五郎左衛門徳綱(のりつな 26歳 600石)の腹違いの妹と、のちにわかった。
異母妹ということは、継母のむすめということになる。

(それにしても、異なところで、異な話題になったものだ)
前裾をおろしながら、平蔵はとんでもないことをかんがえていた。
(このところ、初出仕の支度にかまけ、御宿(みしゃく)稲荷のほうはご無沙汰だが、あさってあたり、訪(おとな)ってみようか)

参照】2010年1月18日~[三河町の御宿(しゃく)稲荷の脇] () (
2009年12月25日~[茶寮〔貴志〕のお里貴(りき)] (1) () () ()]

翌日の夕方、平蔵は駕篭屋の〔箱根屋〕の権七(ごんしち 42歳)のところにいた。
師範掛・勝武にかけられた謎を解くためである。

長谷川さまが、そんなことにお気をおつかいになっちゃあ、なりやせん。ご自分をおいやしめになるだけでやす。そのご゙師範なんとやらにおっしゃってくだせえ。深川の黒船稲荷におもしれえところがあるらしい---と。あとは、あっしが引き受けやす」


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(松平忠左衛門勝武の個人譜)


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2010.03.19

私のベスト5

静岡駅ビル7階、SBS学苑バルシェで月1(第一日曜午後1時~)の[鬼平クラス]が満5年を過ぎた。
第1回からの人も、最近からという方もある。
現在のクラスは19名。

で、3月7日に『鬼平犯科帳』、私の〔ベスト5〕を書いてもらった。
参加は、いまのところ、9名。

1位には、ひと言コメントをつけてもらった。

1位---5点
2位---4点
3位---3点
4位---2点
5位---1点

で集計した結果(敬称略)
(氏名の頭の① ② ③---は、その参加者がつけた順位)

1位 本門寺暮雪 19点
    ①松下 享 降りしきる雪の中で本門寺の石段・
     常時向かうところ敵なしの長谷川平蔵が凄い奴
     にもう少しのところで斬られる寸前、人間でなく
     柴犬のおかげて命拾いするという場面。
     スリルがあるけど、少しホッとする雰囲気。  
    ①八木忠由 「凄い奴」との一騎打ちの描写の妙。
    ①落合千恵子 本門寺の石段での決闘、何度も
      読んだのに胸ドキドキ、すごいリアリティー。
    ④村越一彦  

2位  11点
    ①杉山秀子 登場人物のキャラクター、余裕と
      あそび心、最後の場面など。
    ②大久保典子
    ④村越一彦  
    

3位 本所桜屋敷 10点
    ①岡野谷昌巳 親友・左馬之助との再会、又共
     に心を燃やしたおふさとの出会い---。
    ①杉山三雄 若い頃の恋、友情とそり後の現実
     の厳しさなど人生ドラマを感じる。
    
4位 深川・千鳥橋 9点
    ①松本英亜 五郎蔵、鬼平に心底ほれる。
    ②松下 享  

4位 大川の隠居 9点
    ①大久保典子 殺しがなく、遊びである話がおも
     しろい。
    ③村越一彦
    ⑤松下 享


6位 盗法秘伝 8点
    ①村越一彦 舞台が静岡である上、殺しもなく、
     ユーモアが---。
    ③八木忠由

7位 寒月六間堀 6点
    ③杉山秀子
    ③落合千恵子

8位 明神の次郎吉  5点
    ①安池欣一 心の優しい人ばかり

9位 蛇の眼 4点
    ②岡野谷昌巳

9位 密偵たちの宴 4点  
    ②安池欣一

9位 雨引の文五郎 4点
    ②八木忠由

9位 唖の十蔵 4点 
    ②杉山三雄

9位 おれの弟 4点 
    ②杉山秀子

9位 あきれた奴 4点 
    ②落合千恵子

15位 泥鰌の和助始末 3点
    ③安池欣一

15位 高萩の捨五郎 3点
    ③岡野谷昌巳

15位 流れ星 3点
    ③松下 享

15位 老盗の夢 3点
    ③杉山三雄


19位 五月闇 2点
    ④大久保典子

19位 一寸の虫 2点
    ④松下 享

19位 妙義の団右衛門 2点
    ④岡野谷昌巳

18位 山吹屋お勝 2点
    ④八木忠由

19位 隠し子 2点
    ④杉山秀子

19位 女掏摸お富 2点
    ④杉山三雄

25位お熊と茂平 1点
    ⑤大久保典子

25位 兇賊 1点
    ⑤大久保典子

25位 雲竜剣 1点
    ⑤岡野谷昌巳

25位 おまさとお園 1点
    ⑤杉山秀子

25位 駿州宇津山峠 1点
    ⑤村越一彦

25位 お雪の乳房 1点
    ⑤杉山三彦

このほか、松本さんが2以下は甲乙つけがたいとして、記載なし。
落合さんも、いろいろあり、4,5位は省略、


【提案】
あなたの「ベスト5」をコメント欄にお寄せくださいませんか。
1位のみ、1位にあげたわけをひと言つけてください。
ハンドル・ネームでけっこうです。

ほかの人の「ベスト5」への批判はご遠慮ください。

月末あたりに集計してみるのも一興でしょう。

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2010.03.18

一橋家(4)

辻 達也さん編『新稿 一橋徳川実記』(1983.3.31)から、享保20年(1735)9月を引く。

朔日 小納戸 ・山本越中守茂明(しげあきら 56歳 300石)・先手頭 建部(たけべ)甚右衛門広次(ひろつぐ 63歳 800石)、 共に小五郎(のちの宗尹 むねただ 15歳)伝役(もりやく)に任じられ、加増を受け、各1000石となる。
格式・足高(たしだか)は田安伝役のとおり三千石高。広次叙爵して大和守と称す。また近習を用人と改む。

二十三日 小五郎元服し、将軍吉宗の偏諱(へんき)を賜うて、徳川宗尹と名のり、従三位左近衛中将に叙任せられ、刑部卿を称す。

同書、寛保元年(1741)十一月
十五日 一橋邸を受け取る。
二十ニ日 一橋邸へ移るにつき、将軍より唐銅獅子香炉、つい朱布袋香盆、松桜高蒔絵檜箱等の道具を拝領す。

同十一月
二十五日宗尹、老中・松平乗邑(のりむら)、若年寄・本多忠統(ただむね)の案内にて一橋邸へ移る。 


さて、建部家である。
先祖は近江国で伊庭氏であったという。

ちゅうすけのつぷやき】近江の伊庭? 記憶がある。近江八幡生まれの〔伊庭(いば)〕の紋蔵(もんぞう 32歳)という無法な盗賊を仕立てたことがあった。
2008年10月31日[〔伊庭(いば)〕の紋蔵]
いや、本筋とはかかわりがないから、リンクなさるまでもない。

_80家紋は四ッ目結(ゆい)であったというから、とうぜん、佐々木氏かかわり。
池波小説のファンなら、『剣客商売』のヒロイン・佐々木三冬がこの紋のついた小袖を着ていたことをご記憶であろう。
四ッ目結は、近江の佐々木氏の家紋である。

_80_2もっとも、建部本家は、佐々木氏をはばかり、州浜に変えた。
分流である甚右衛門広次のところは、どうどうと丸に四ッ目結を使っていた。

能筆の家柄であった。
それを買われ、2代前が家光に祐筆として仕えた。

広次のもっとも重い役目は、筆頭家老として、一橋家の家政の赤字を、幕府からの賜金で埋めることであったろう。
ある学究の試算によると、11年後の延享3年に下賜された10万石の封地からのあがりが、五公五民という過酷きわまる重税で、一橋家はやっととんとん、四公六民だと大赤字であったと。

広次のもう一つの役目は、当主・小五郎(のちの宗尹 むねただ 15歳)に、神祖・家康の挿話を語りきかせることであった。

弘治2年(1556)、家康15歳。駿河で元服。今川義元の許しをえて、亡父の法会、家臣との対面のため岡崎城へはいった。
本丸には、今川から城代として付けおれていた山田新右衛門などがいたので、
「ここは祖先よりの旧城であるが、自分はまだ年少であるから二ノ丸を使い、万事、新右衛門どののご意見をうかがって---」
この礼をこころえた挙措に、義元も感服したと。

岡崎へ戻ってのことというから、家康、19歳か20歳の梅雨前であろう。
鷹狩りをもよおしたとき、苗床の水田で泥まみれになってはたらいていた農夫に目をやった家康は、
「彼はまさしく臣下の近藤某---」
供の者に呼ばしめた。
近藤とすれば、君主に見られたくない姿なので、わざと顔にも泥していたのだが、仕方なく、野道においていた小刀を腰にしてご前へ出た。
「恥ずかしがるでない。予の所領がすくないために、苦労をかけておる。しかし、いつまでも苦労をさせはしない。きっと報いる。それまで耐えてくれ」
家康の目には涙があった。
近藤の頬を涙が伝っていた。
供の者もいずれも袖をぬらしていた。


       ★     ★     ★

143_360

いつものように『週刊 池波正太郎の世界 14』[真田太平記 三](朝日新聞出版)がとどいた。

「インタビュー」は鬼平もので猫どのを演じる沼田 爆さん。さすがにこころきいた老練な語り口。
お江(ごう)はもちろん、甲賀組の〔草の者〕だが、真田武田信玄に仕えたときの忍びの者は、〔軒猿〕とも呼ばれていたらしい。
それで、当ブログでは、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 享年33歳)は、〔軒猿〕とした。

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2010.03.17

一橋家(3)

吉宗は、後継将軍の予備候補筋として田安家一橋家をたてるとき、役職者は幕府から出向させることとした。

綱吉家宣が、将軍職についたときに、大量の家臣を幕臣にした例を忌避したかったのであろう。
とはいえ、自分に随行してきて家人(けにん)となった紀州藩士は、多くを小納戸や小姓などの側近にふりむけてはいる。

享保20年(1735)9月1日、一橋家の始祖・宣尹(のぶただ 幼名・小太郎)の伝役(もりやく)につけた2人のうち、小納戸から引きあげた山本越中守茂明(しげあきら 56歳 300石)も、出身は紀州藩・小十人頭(300石)であった。
家人となっても、家禄は300石のままで、吉宗の小納戸役を19年間務めた。
伝役となり、やっと1000石に加増された。
我慢強い性格であったのであろう。

伝役が家老と職名を変えたのは、宣尹が10万石の領地を下賜された延享3年(1746)で、このときから、役料が幕府から1000俵、一橋家から1000俵の計2000俵が供されることになった。

ただし、山本茂明は家老の役料がきまる5年前の寛保元年(1741)に62歳で、もう一人の伝役・先手頭からの建部(たけべ)甚右衛門広次(ひろつぐ 63歳 800石)は7年前の元文4年(1739)に卒しているから、この役職は受けていない。

が、一橋家の伝役は3000石高であったから、両者とも家禄は1000石にあがってい、足高(たしだか)2000石をうけていたろうから、実収入はさして差はなかった。

さて、山本家だが、『寛政譜』にあるとおり、三河国のどこかで、(むろ)を称していたらしいが、分家かなにかのとき、山本に改めた。
身上がはっきりしているのは、頑固、武勇の将・本田百助信俊(のぶとし)に属していた弥三郎茂成(しげなり)からである。
のち、茂成は家康の長男・岡崎三郎信康に配され、信康が切腹させられるはめになると、家康の麾下に復することを潔しとしなかったというから、茂成も三河武士らしい一徹者であったといえる。

茂成の次男と孫が紀伊家に任え、その4代目が茂明である。

伝役という役目がら、家政と外交のほとんどが課されていた上、茂明のもうひとつの仕事は、吉宗の人柄を伝えることであったろう。

たとえば、紀伊家の三男として吉宗は将軍・綱吉から、越前の丹生(にう)に3万石の封地が与えられたが、実収は5000石がやっとの土地であった。
津波による被災者がでたとき、急遽、仮屋を設け、衣服・食糧を与え、
「天災によって弱者となったものは乞食ではないのだ。ねんごろに救いの手をつくせ」
上の者は倹約に意をつくし、しもじもをいつくしむという例で、治世者のこころえを話したのである。

こんなことも話した。
近習の少年が宿直(とのい)の夜、外出して夜明けに戻った。
監督者が懲罰に付すべきだと憤怒していたのを知った吉宗は、左右の衆を遠ざけてからその監督者を呼び、
「その小姓は、日ごろ、武芸に励んでいるそうだな? 弓などは名人級とか聞いたが---」
「はい。身をいれて修練しております」
「では、こんどのことは許してやれ。世に全徳の者というのはなかなかいないものだ。一失あれば一得もあるのが人というものである。一善があれば一過はゆるすべきであろう。その少年のやったことは聞かなかったことにし、以後、宿直をしないようにいましめるだけですましてやれ」

同じ年ごろだったときの祖父・吉宗の人柄を伝えるかずかずの逸話を、宣尹がどう受け止めたかがわかる記録は目にしていない。
徒労であったかもしれない。

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(山本越中守茂明の個人譜)


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2010.03.16

一橋家(2)

8代将軍・吉宗の男子たちのことを書いている。

赤坂の藩邸で生まれた第1子は男子で、長福丸(ながとみまる のちの家重)と名づけられたことはすでに書いた。
母親は、紀伊家家臣・大久保家のおんなで、お須磨の方であった。
長福丸を産んで3年後に逝った。

第2子も男子で、正徳5年(1715)11月21日に、赤坂の藩邸で生まれ、小次郎(のちの田安家の始祖・]宗武 むねたけ)と名づけられた。
母親は、藩士・竹本家のおんなで、お古牟こま)であった。
母親は出産から2年後に逝った。

第3子も男子で、享保6年(1721)閏7月15日(『実紀』)、本丸の大奥で生まれ、小五郎(のちの一橋家の始祖・宗尹 むねただ)と名づけられた。
母親は、『一橋徳川実紀』は浪人・谷口長右衛門正次(まさつぐ)の次女・お(うめ のちにお久)としている。
の方は、出産3ヶ月後に逝った。


享保15年(11730)11月15日、この日、右衛門督宗武(16歳)に田安の官邸をつかわされ新造あるをもて。小普請石野左近将監に。その事奉るべき旨命ぜらる(『実紀』)

延享3年(1746)9月14日食邑10万石賜る(『田安徳川 家記系譜』)
 摂津 西成郡ほか3郡 1万3000石余
 和泉 大島郡       1万3000石余
 播磨 加納郡       1万2000石余
 甲斐 山梨郡八代郡  3万石余
 武蔵 入間郡ほか2郡 1万7000石余
 下総 槙尾郡ほか2郡 1万5000石余


どうしてこの記事をいれたかというと、『一橋徳川系図』にこうした記録が記されていないからである。

と思ったら、『新稿 一橋徳川実記』(徳川宗敬 1983.3.31)の、延享3年(1746)9月15日の項に、

将軍御座所において、田安宗武と共に領地下賜の申し渡しあり、宗尹、播磨、和泉、甲斐、武蔵、下総、下野諸国において十万石を受く。

とあった。

ちゅうすけ注】延享3年は、長谷川銕三郎が生まれた年だから、鬼平ファンがこころしておくべき年号の一つである。


享保20年9月1日の『徳川実紀』に、こんな記述があった。

先手頭建部(たけべ)甚右衛門広次(ひろつぐ 63歳 800石)、小納戸山本越中守茂明(しげあきら 56歳 300石)ともに小五郎(15歳)の伝役(もりやく)とせられ加秩あり。各千石になりて、勤仕の間ともに三千石になさる。

小太郎は、この年の9月23日に元服しているから、一橋家を立てたのも、この時期とみてよさそうだ。
あるいは、伝役がつけられた1日か。

2人の伝役の教育が、宗尹の精神形成にいくぶんかの影響をもたらしたことは疑うべくもなかろう。
あすからは、この2人の伝役に触れてみたい。

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2010.03.15

一橋家

一橋家の始祖は、吉宗の3男・:刑部卿宗尹(むねただ 享年44歳)であることは、いうまでもない。
母は、紀州藩士で、吉宗とともに藩邸からニノ丸入りした谷口長右衛門正次(まさつぐ)の次女・お(うめ のち久とも 享年22歳)であった。

(のち)は、吉宗の母堂・浄円院(於由利 ゆりの方 享年72歳)にしたがって大奥に仕えていたとき、最初に、幼逝した源三、2年後の享保6年(1721)閏7月15日に小五郎(のちの宗尹)産み、3ヶ月後に卒した。

うわさばなしだとおもうが、お須磨の方が赤坂の藩邸で長男・長福(ながとみ のちの家重)丸を産んで2年後に26歳で病没したため、幼い長福丸のためにと、吉宗は、縁者のむすめを求めるように家臣にいいつけた。

候補にあがったのが、大久保八郎五郎忠直(ただなお)の長女であったが、美人といえなかったので家臣が躊躇していたところ、吉宗は、
「健康でさえあればいい」
懐任となった。

吉宗の女性観を示すもう一つの有名なエピソードがある。
将軍となって江戸城入りしたとき、大奥にいたおんなたちの中から、美人50名を書き出すように命じた。

すわこそと、大奥の女たちはいろめきたった。

ところが、選び出された50名の美人たちを、家元へ返すようにいいつけたのである。
家臣がいぶかると、美人なれば嫁にとの引く手もあまたであろう、不器量だと縁どおくなりがちであると教えたという。

実話かどうかは保証のかぎりではない。

ただ、大奥の経費節減のスローガンとしては気がきいているし、とりわけの美人でない側としては、溜飲がさがる話ではある。

ことのついでに、吉宗の次男・宗武田安家始祖)の母親・おこまをフォローしてみた。
なかなか見つからない。
徳川諸家系譜 第1 徳川幕府家譜 柳営婦女伝系 』で、於古牟(こま)の方をそうと納得するまでに3時間も要した。

公文書なのに、宗武の母と書いないのである。

御部屋於古牟之方 竹本茂兵衛正長女、享保元丙中年御本丸え入、其後称御部屋様、同八癸卯年ニ月廿ニ日於御本丸御逝去、葬池上本門寺え、同月廿三日御出棺、此日送葬、
 御法名 本徳院殿妙亮日秀大姉

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(赤○=於古牟(こま)の方の個人譜)

赤坂の藩邸(中屋敷)から本丸へ入ったお手つきの女性は、おこま一人であったという人もいる。

も、上記『柳営婦女伝系』には享保元年に大奥入りしているように記されているが、これは疑わしい。

吉宗の生母・浄円院お由利の方)が和歌山から江戸城西丸へ移ったのは、享保3年(1718)5月1日である。
藪 内膳頭忠通(ただみち 40歳=享保3年 300石 のち5000石)が迎えに行っている。

参照】2010年3月11日[一橋家老・新庄能登守直宥(なおずみ) () 藪 家の家譜の忠通の項

浄円院付きの女中であったとすると、大奥入りはこのときとなる。
源三小五郎の懐妊とも歳月があう。

柳営婦女伝系』に記されているとおり、赤坂の藩邸ですでに側妾になっており、浄円院の江戸下がりでそのお付女中というあつかいになったとも推察もできないことはないが。

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2010.03.14

お富の方(2)

家康がご三家---尾張家紀伊家水戸家をたてて、徳川の血筋の保全をはかったことは、小学生でも、高学年になればしっていよう。
---といいきっていいか、どうか、身近に小学生がいないから、自信はあまりない。

八代・有徳院吉宗)が、将軍のスペア供給源として田安家一橋家のニ卿をたて、家重がさらに清水家をたてて三卿としたことも、ちゅうすけ年代では常識なのだが、いまの若い人はどうなのだろう。

吉宗の側室のひとり・お菊(きく)の方(のち、お久とも)が産んだ源三(幼折)、小五郎のうち、吉宗にとって四男にあたった小五郎が一橋家の始祖・徳川宗尹(むねただ)である。

お菊は、浪人谷口長右衛門正次(まさつぐ)の次女と『寛政譜』に記されている。

お菊の弟・新十郎正乗(まさのり)は、小五郎の生誕12年後の享保18年(1733)に27歳で召され、小五郎のお付となり、稟米300俵をたまわった(のちに500石)。

これから推察するに、お菊源三を産んだのは17歳前後か。
小五郎
のときは19歳前後ということであろうか。

小五郎改め宗尹が、宝暦元年(1751)33歳のときに、細田助右衛門時義 ときよし 200俵)のむすめ(17,8歳か)に産ませたのが豊之助、のちの治済(はるさだ)である。

宗尹は明和元年(1764)12月下旬に44歳で薨去、治済は14歳で家督。

明和4年(1767)、治済(18歳)は、京極上総太守公仁親王の姫・在子を正室として迎えるが、彼女は子をなさないまま、3年後に薨じた。

お富が側室となったのはそのあととおもわれる。
安永2年(1773)10月3日に長男・豊千代(のちの家斉 いえなり)が生まれた。
安永8年(1779)の将軍の:継嗣・家基(いえもと)の急逝で、家斉が、家治の養子となり、西丸へはいったのは天明元年(1781)5月18日、8歳のときであった。

安永6年(1777)9月21日に三男・雅之助(のちの斉隆)誕生。

このあいだの女子(早世)と次男・力之助が安永6年5月15日に生まれている。
次男を産んだのは丸山氏のおんなである。

このあと治済は、77歳までのあいだに5子を得るが、産婦はお富の方ではないので省略する。

紀州藩士のむすめであるお富の方が、将軍・家斉の生母として権勢をふるうのは、いまよりもずっとあとである。

ちゅうすけの休むに似た思案は、大奥にいたお治済の目をひきつけ、その側室となって一橋家の奥へはいったとき、ある危惧を予感した田沼主殿頭意次(おきつぐ)が、一橋の北詰に茶寮〔貴志〕を建て、里貴(りき)を女将として送りこんだのではないかとの妄想のようなものであった。

参照】2007年11月27日~[一橋治済] () () (


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2010.03.13

お富の方

鬼平犯科帳』には、大奥へ忍びこんだ盗賊は登場しないから、すっかり安心していた。
じつをいうと、大奥は苦手なのである。
テレビ・ドラマにはよくあつかわれ、視聴率もけっこうとるみたいだが、ちゅうすけはその種の番組はみないから、生半可な知識では顰蹙をかうのがおちだとおもってきた。

池波さんも、文庫巻11[]で、あっさり、

「大奥にはな、将軍のお手がついた女どもが何人もいて、それぞれに子を生み、生まれた子の行方も、生んだ女の行方も、いつしか知れず、消え果ててしまいうこきとがあるそうな---」

こう書いて、深くは触れない。

ところが、ひょんなことから、知識のない大奥に触れなければならなくなった

一橋の北 詰の火除け地に開いた茶寮〔貴志〕の女将・里貴(りき 30歳)と、平蔵宣以(のぶため 29歳)が躰をあわせてしまったのである。
それも一回きりとかならそのまま見過ごすのだが、どうやら、平蔵は、光を透きとおらせるほどに青白い肌の里貴魅せられたらしい。
二度、三度の交合ではおさまらなくなった。

しかも、それに〔貴志〕が、紀州衆の猟官がらみのかけひきの場につかわれている気配なのである。
もちろん、平蔵は安っぽい正義感をふりかざす青年ではないから、そのことは傍観しているにすぎない。
が、里貴がそれではすましてくれそうもなくなったきた。

〔貴志〕という茶寮の狙いはなんだと思うかと、正面きって問うてきたのである。

「まさか、左近衛権中将(一橋治済 はるさだ 24歳)さまの、男としての寝床でのちからをのぞきみるためではあるまい」
「それが、まさか、でなかったら、なんとなさいます」
「ぷっ。冗談でいってみただけだ」
「去年、お(とみ)の方が、豊千代(とよちよ)さまをお産みになりました」

豊千代は、のちの将軍・家斉(いえなり)であり、平蔵が出仕した西丸ののちの主でもあった。

2年前、江戸城の大奥の女中をしていたおを、治済がたってと望んで側室にもらいうけた。
は、紀州藩邸から柳営にはいった有徳院吉宗)にしたがった、岩本八郎大夫正房(まさふさ 300俵)の曾孫である(紀州藩士の時代は150石)。
諸書は、内膳正正利(まさとし 51歳=安永3年 のち2000石)のむすめと記している。
正利は、正房の3男で、3代目にもなった。
したがって、おは孫であり、曾孫でもある。

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佐藤雅美さんは『田沼意次 主殿の税』(人物文庫)で、おは不器量だが、将軍・家冶の手がついていたとしているが、いまのところ、ちゅうすけは手元に、おの容姿に関する史料はない。

正利の正妻は、

「大奥の老女・梅田の養女」

とあり、おの項にも、

「母は老女・梅田の養女。一橋中納言治済卿につかへ、将軍家のご母堂たり」

大奥の老女が不器量なむすめを養女にとることは少ないのではないかと推測するのは、素人考えであろうか。

Wikipediaの お富の方の項には、大奥で治済が見とめたとある。

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2010.03.12

一橋家老・新庄能登守直宥(なおずみ)(4)

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「たったいま、おもいついたのでいうのだが、ご老中・田沼主殿頭意次 おきつぐ 56歳 相良藩主)侯も、ご舎弟の故・能登守意誠 おきのぶ 享年53歳 800石)も、有徳院吉宗)さまにしたがって江戸城入りなさったのはご先代で、主殿頭さまも、能登さまも、いってみれば、ご家人(幕臣)としては2代目ということになる」

平蔵(へいぞう 29歳)をいい分をうけた里貴(りき 30歳)も、そうおっしゃると、寄合の藪 主膳正忠久(ただひさ 55歳 5000石)も2代目だと証言した。

有徳院さまのお側をおつとめになった有馬兵庫頭氏倫うじのり 享年68歳 1万石)家は5代目だし、加納(遠江守久通 ひさみち 享年76歳 1万石)さまのところは2代目半です」
「なんだい、その2代目半というのは?」
「2代目の久堅(ひさかた)さまは、まだ64歳なのに、大岡出雲守忠光 ただみつ 享年52歳 2万石)さまのご次男の久周(ひさのり 22歳=安永3年)さまがご養子におはいりになったものですから、すっかりお老(ふ):けこみになったとの噂です」
「それで、2代目半とは、世間の口の毒はきついというか---}

ちゅうすけ注】このときから21年後の寛政7年(1995)5月6日---平蔵が没する4日前、将軍・家斉(いえなり)は、宣以の病状が重いことを知り、見舞いとして、渡来の超高貴秘薬・〔瓊玉膏(けいぎょくこう)〕をお側・加納遠江守久周に預けた。
長谷川家からは、嫡子・辰蔵加納家へ参上し、拝領した。
2006年6月25日[寛政7年5月6日の長谷川家

里貴は、ほかに数人の高禄の紀州衆の名をあげた。

西丸の書院番頭をつとめている渋谷隠岐守良紀(よしのり 50歳 3000石) 2代目
徒の組頭の桑山内匠政要(まさとし 52歳 1000石) 3代目 
西丸の小納戸組の市川十次郎清移(きよのぶ 37歳 1000石) 3代目

「拙は、有徳院さまが8代をお継ぎになってから数えると、4代目となる。は、ははは」
里貴は、平蔵が軽く笑った真意をはかりかねたように、小首をかしげて瞶(みつめ)た。

田沼侯は別として、紀州衆も、2代目以降ともなると、少々のことでは家禄は増えないから、役高の多い役職をあさるということだな」
「そういうことで、さまのお働きが重宝ということでしょう」
「茶寮〔貴志〕の働きは、そんな単純なことではあるまい?」
「なんとお察しですか?」
里貴の瞳が、澄みきった。

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2010.03.11

一橋家老・新庄能登守直宥(なおずみ)(3)

「その薄着で、寒くはないのか?」
里貴(りき 30歳)は、わざと襟元を開いて白い乳房をさらし、
「寒いといったら、暖めてくださいますか?」
逆に問い返した。

(これで、ほんとうに、武家の内室であったのだろうか)
一瞬のおもいが表情にあらわれたらしい。

「はしたないとおおもいになるかもしれませんが、(てつ)さまだから、甘えているのですよ」
「まだ、終わっていないといったではないか。今宵は、新ご家老の新庄能登( 直宥(なおずみ 53歳 700石)さまへ頼みごとをしておられたという、さまのことを話してくれるはずではなかったのか?」

主膳正 忠久 ただひさ 55歳 5000石)の父・忠通(ただみち)は、八代将軍・吉宗の側近となった紀州衆のなかでは、異例に昇進した一人である。

もちろん、田沼主殿頭意次(おきつぐ 55歳 相良藩主)という例外はある。
紀州藩時代でも江戸藩邸で重きをなしていた有馬四郎右衛門氏倫(うじのり)と加納角兵衛久通(ひさみち)の1万石は別格である。

この2家のほかに、幕臣となって5000石の高碌を給されたのは、有徳院吉宗)の生母・浄円院お由利の方)の実家筋で甥・巨勢(こせ)六左衛門至信(ゆきのぶ)がその一人。

別格はもう一家ある。
長福丸(のちの将軍・家重)の生母・於須磨の実家・大久保の甥・八郎五郎往忠(ゆきただ)の5000石が、それである。

赤坂の藩邸で長福丸に小姓として任え、とともにニノ丸へ入った高井左門信房(のぶふさ)も加増がつづき、最終的には6000石を知行した。

つまり、藪家高井家はニノ丸3人衆と呼ばれ、閨閥ではなかった。

そのあたりのところまでは、平蔵もこころえていた。
しかし、いまは家治の世である。
吉宗からすでにニ代さがっている。
寵児も実力者も黒幕も代替わりしているはずであった。

「長年、ご用人衆をお勤めになっていた成田八右衛門勝豊 かつとよ)さまが、去年の6月、老齢を理由に辞されたことはご存じございますか? ご用人と申されても、100俵月俸10口と少碌なお方でしたからお目からこぼれていたことでしょう」
「老齢というが、お幾つであったな?」
「去年、67歳とか。享保13年(1728)から一橋さまへおはいりですから、かれこれ45年もお勤めだったようです」
「その後釜を、紀州勢でということだったのかな?」

新家老の新庄能登は、番頭上首の末吉善左衛門利隆(としたか 48歳 300俵)に訊いたうえで返事すると応えたらしい。
とうぜんの答弁である。
実務者の思惑を無視しては、いまの武家の社会はやっていけない。

長谷川家は、元今川方といっても、駿州・田中城を守っていたときに武田信玄勢の猛攻にあい、城を捨てて浜松へ走った。
しかし、譜代の者たちからは、今川衆とみられないでもない。
譜代の三河衆は、100年以上も経ているのに、今川義元氏真にいい感情をもっていない。
したがって、元今川衆の結束は堅くない。

紀州勢の結集力は、すごいな)
実感であった。
しかし、いまの平蔵にとって、紀州勢は、目の前の里貴ひとりといってよい。

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(末吉善左衛門利隆の個人譜)


     ★     ★     ★


『週刊池波正太郎の世界 13』[仕掛人・藤枝梅安 三]が送られてきた。

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東海道・藤枝宿は、『鬼平犯科帳』の盗人たち---〔瀬戸川〕の源七、〔五十海(いかるみ)〕の権平などの出身地だし、市の南部には、幕臣としての長谷川家の祖にあたる紀伊(きの)守正長がまもっていた田中城もあるので、10回近く訪問した。
梅安生まれたことになっている、東海道筋・伝馬町の神明社の拝殿の左手、アジサイの植樹のかげに、地元の梅安ファンの手で「生誕の地」という木碑が立てられているが、花どきには、アジサイが邪魔してかくれている。


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2010.03.10

一橋家老・新庄能登守直宥(なおずみ)(2)

一橋さまも、紀州方からのご家老がいなくなられて、お困りであろう」
平蔵(へいぞう 29歳)の問いかけるような言葉に、里貴(りき 30歳)は表情を変えなかった。

「着替えてきます」
隣室へ消えた。
部屋は、通いの手伝いの老婆・お(やす 60がらみ)によってほどよくあたためられていた。

先任の設楽(しだら)兵庫頭貞好(さだよし 66歳 2150石)は高齢の域にちかづきつつある。
老眼がすすみ、書状を手にすると、眼鏡をあちこち、しばらく、さがす。
耳もややとおくなっているようだ。
聞きなおすことが多い。
話し手のほうへのりだすようにする。
頭に衰えはさしてないみたいだが、言葉がくどくなった。

田沼意誠(おきのぶ 享年53歳 2000石)の生前は、なにごとも控え目にしており、譜代衆との窓口とこころえているふうであった。

後任の家老・新庄能登守直宥(なおずみ 53歳 700石)は、目付(1000石格)、普請奉行(2100石格)を経てきた能吏である。
家老職につく前は、将軍・家治の日光参詣を見こしての駅路の補修を監督していた。
勝手(会計)方にも明るい。

設楽家老は、自分分より一まわり以上も若い新庄に期待をよせた。

もともと新庄家は、近江国坂田郡(さかたこおり)新庄に城をかまえていたための姓であった。
のちに同郡朝妻(あさづま)の城へ移った。

関ヶ原のときには石田三成側についたふりをし、伊賀国上野城にこもって意を徳川家康へ通じた。
その功で常陸・下野2国に3万300石余を領しえた。
新家老の新庄家は、その分家で両番の家格である。

ちゅうすけ注】新庄能登守の家の菩提寺は、東京文京区の喜運寺と『寛政譜』にあった。奇縁といおうか、長谷川平蔵宣以の前任の火盗改メれ・堀 帯刀秀隆の墓が現存する寺でもある。
ただし、新庄家の墓域が現在しているかどうかは、未確認。

「ですから、さまがお会いになっているのですよ」

主膳正忠久(ただひさ 55歳 5000石)は、家重にしたがってニノ丸入りした仁の継嗣である。
大身であるために、紀伊衆の頭目格にまつりあげられ、はやばやと役を離れ、衆のためにあれこれと骨惜しみをしないで動いている。

藍地の寝衣のうえから綿入れを羽織った里貴は、おわかりでしょうに---といった口調であった。
「ごめんなさい。まだ、すっかり終わっているわけではないのです」
「なにが? あ、そうか、それなら、話だけにしよう」
「つまりません。せめて---」
手をとり、乳房にみちびく。

そのまま、掌で覆い、
さまの役目が、まだ、よくわからぬ」
一橋さまのところへの紀州衆の増員とご加増のお願いです」

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(藪 主膳正忠久の個人譜)

 

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2010.03.09

一橋家老・新庄能登守直宥(なおずみ)

女中頭・お粂'(くめ 33歳)を相手に、むだ話をつづけた。
女将(おかみ)とわけありにおもえる平蔵(へいぞう 29歳)と見て、それとなく身上をさぐるような問いを発する。

かわすために、配りはじめたばかりの[化粧(けわい)読みうり]をわたした。

第1板は、「丸き顔を長く見する化粧の秘法」

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(佐山半七丸『都風俗化粧伝』東洋文庫より)

はじめは、
「女中顔といわれている私への、あてつけでございますか」
なじりながら、あとは口を閉ざして読みはじめた。

江戸には、丸顔のおんなが多いからと第1板にこれを推したのは、〔音羽(おとわ)〕の二代目元締・重右衛門(じゅうえもん 48歳)の新造・お多美(たみ 33歳)であった。
多美の推察どおりに、[読みうり]は元締たちのシマ内の仮店でよく売れていた。

そう告げると、おは、顔を赤らめながら、
「私どものこの仕事は、35までで、あとは枯れ尾花ですから、どうにかして32か3に見てもらえるように誤魔化すのが勝負なんです」
「おどのは、いまのままでも30前にしか見えないが---」
「お上手がすぎます。お冷やかしになると、女将さんにいいつけますから---」
にらんだ眸(め)には媚びが浮いていた。

(おんなには、お世辞が一番---)
京で[化粧読みうり]の板元を受けついでいる〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 39歳)の人生哲理であった。

料亭の仲居の年齢は35歳までといったおの言葉につられたように、雑司ヶ谷(ぞうしがや)の鬼子母神脇の〔橘屋〕からふっと消えたお(なか 40歳=安永3年)の面影がかすめた。
(おが姿を消してから、7年にもなる。そういえば、〔橘屋〕へも父が亡じてから足をむけていないが---)

参照】2008年8月7日~[〔梅川〕の仲居・お松] () () 
2008年8月14日~[〔橘屋〕のお仲] (1) () (3) (4) (5) (6)  (7) (
2008年11月29日[〔橘屋〕忠兵衛

「どなたのことを偲んでいらっしゃいますの?」
の声にあわてて、
「あは、ははは。なんでもない。おどのに似た美形の仲居がいた、雑司ヶ谷の料亭〔橘屋〕も、とんとご無沙汰してしまっていると気づいたまで---」
「ふっ、ふふふ。また、お上手を。〔橘屋〕さんといえば、お堅いことで知られておりますが、長谷川さまは、あそこのおんなの人とも、わけありだったのでございますか。隅におけません」

冗談に、笑いあっているところへ、里貴(りき 30歳)が入ってきた。
「楽しそうでございますこと」
座をゆずろうと膝立ちしながら、おが詫びをいった。
新庄さまも、さまも、お帰りでございますか? お見送りにもでないで、失礼いたしました」
「かまいません。長谷川さまをお一人にしたのは、私ですから」

出ていったおの足音が消えたところで、
「新家老どのの客は、どの---といえば、主膳正さま?」
「ご存じでございましたか?」
「いや。紀州勢のご重職としか---」

藪 主膳正忠久(ただひさ 53歳 5000石 寄合)の祖は、長福丸家重)が西丸入りしたときにしたがった紀州藩士のなかでも主だった一人であった。
42歳という若さで、宝暦11年(1761)に書院番の7の組の番頭を辞し、あとは無役の寄合に甘んじているのは、紀州勢の元締格として蔭で将軍・家冶の政務を支えているのだと、平蔵は亡父から聞かされていた。

里貴の亡夫の藪 保次郎春樹(はるき)と主膳正忠久との間柄は、訊かないことに決めていた。
口にだすと、いかにも妬(や)いているようにおもわれよう。
(おんなは、いまが幸せならば、むかしの男のことは忘れたいというぞ)

「例のものはお持ちになりましたか?」
「いや。いっしょに帰れるとおもったので---」
「いっしょでは目立ちます。一足先にお出になり、三河町あたりの酒屋で軽くおくつろぎになっていて---」
うなずいた平蔵の頬を、里貴が白い指先でそっとなぜ、微笑んだ。

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2010.03.08

一橋家老・設楽(しだら)兵庫頭貞好(さだよし)(4)

一橋家の筆頭家老・田沼能登守意誠(おきのぶ 享年53歳 700石)の卒日を、『寛政譜』は安永2年(1773)12月19日としている。
これはあくまで、諸手続きをすますための公式の歿日であり、じっさいの命日はこの5日か6日前であろう。
いつか、おりをみて、墓地のある勝林寺(豊島区駒込7-4)へ問い合わせて確認するつもりだが、さしたる重要事項ではではないので、いそぐことはなかろう。

平蔵(へいぞう 28歳)とすると、悔やみを述べに参上するほどに親しくはない---というより、面識はない。
この次に、2歳年長の実兄である老中・主殿頭意次(おきつぐ 55歳 相良藩主)の別邸にまねかれたときに、ひとこと、添えればいい。

しかし、意誠にひいきしてもらっていたらしい茶寮〔貴志〕の女将・里貴(りき 29歳)はそうもいくまい。
葬儀の裏方をつとめたり、菩提寺での仏事の手伝いなどにかかりきりであろうと、訪(おとな)いは遠慮していたが、〔箱根屋〕の権七(ごんしち 41歳)には、こういう時こそ、真実が洩れおちがちだから、〔貴志〕からの駕篭の行く先をしっかり書きとめてもらいたいと、念をいれておいた。

権七は、預かったものがどこかの家の鍵で、奥方・久栄(ひさえ 21歳)には内緒らしいと察し、〔貴志〕がらみとあたりをつけていたが、なにくわぬ顔をつづけていた。

10年前に、芦ノ湯村の阿記(あき 享年25歳)の件にかかわり、その後も近しくしてい、男のおれが惚れこむほどの平蔵だから、おんなたちが放っておくはずがない、まあ、久栄奥方がこころをお傷めにならないていどのことでありれば見ないことにしようと割り切っている。

参照】2007年12月29日~[与詩(よし)を迎えに] () (10) (11) (12) (13) (14) (15) (25) (26) (27) (28) (29) (30) (31) (32) (33) (34) (35) (36) (37
 
やがて新年になり、平蔵も諸方のあいさつ廻りにせわしなかった。
出仕が近いと予想している。

〔化粧(けわい)読みうり〕は、元締衆と〔(みみ)より〕の紋次の手で順当の板行され、板元の〔箱根屋〕の権七(ごんしち 42歳)が、約束の板元料の半金だといい、15両(240万円)を持ってきた。

「板木と絵描きさんの分がはぶけ、紙代刷り賃、それに配達の車代だけでしたから、手前の手元にも15両がそっくりのこっておりやすが、これからどんな損を引くかもしれやせんので、預からせておいていただきやす」
さん。半金なんて、いってないぜ。ぜんぶ、そっちでとっておきなよ」

長谷川さま。金はいくらあっても困るものではございやせん。それに、太作(たさく 63歳)爺(と)っつぁてんの竹節(ちくせつ)人参にも、これからしばらく、金がかかりやしょう。平賀源内(げんない 46歳)先生へのお;礼もすんでいないと、松造(まつぞう 23歳)さんから聞いておりやす。お納めになってくだせえ」

参照】2010年2月7日[元締たちの思惑] (
2010年1月12日[府内板〔化粧(けわい)読みうり] (

おもわぬ大金がはいったので、松がとれたころ、一橋北詰の茶寮〔貴志〕に、盟友の浅野大学長貞(ながさだ 28歳 500石)と長野佐左衛門孝祖(たかのり 29歳 600石)を呼びだしておごってやろうとおもったが、
(いかん。里貴とのことがバレよう。ちょっと金がはいると、すぐに気が大きくなるのは、精神が貧しい。父上なら、そ知らぬ顔で蓄財なされよう)

しかし、昼餉(ひるげ)でなく、夕刻、独りで訪れた。
行く前に、〔箱根屋〕へ寄り、ぶら提灯を借り、風呂敷につつんだ。

里貴が驚いた面貌で、肌を淡い桜色にそめた。
田沼さまの後任のご家老がきまったそうだな」
部屋でいうと、里貴が口に指をあて、この奥の部屋へ、ご当人の新庄能登守 直宥 なおずみ 50歳 700石)が客をしていると告げた。

設楽(しだら)兵庫頭さまもごいっしょかな?」
里貴は頭(こうべ)をふり、女中頭のお(くめ 32歳)にお相手をさせるからお許しをと詫び、奥へ消えた。

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(設楽兵庫頭貞好の個人譜)


[一橋家老・設楽(しだら)兵庫頭貞好] () () () 


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2010.03.07

一橋家老・設楽(しだら)兵庫頭貞好(さだよし)(3)

「このまま、眠ります」
「錠はどうする?」
「あ、忘れていました」
裸のまま、桜色がまだ引かない白い尻をみせつけながら這いで、巾着袋からとりだした四角い棒こみたいな鍵を、平蔵の手におき、
「合鍵をつくらせました。おいでになれる日は、お安(やす 60すぎ)婆ぁさんを断っておきます」
「昼間にきては、〔貴志〕にさしさわりがてるのではないか?」
「だいじょうぶ。女中頭・お(くめ 32歳)を、きちんと仕込んであります」

出るとき、戸の上下の2ヶ所にある鍵穴ヘ差しこんでまわすと、桟が柱の穴に落ちこむ仕掛けになっていた。
ぎゃくにまわすと、桟がもちあがって戸締まりが解ける。

暗い道を、深川・黒船橋たもとの権七(ごんしち)の〔箱根屋〕へむかいながら、藪 主膳正忠久(ただひさ 54歳 5000石) のことを聞きそびれた手ぎわの悪さを反省していた。

〔箱根屋〕では、屋号入りの提灯を借りなければならない。
権七と打ちあわせをするようにいいつくろってある。

平蔵が、〔箱根屋〕へつくまでのあいだを借り、一橋家の次席家老の設楽(しだら)について、若干、記してみたい。

家名のゆえんは、三河国設楽軍川路(かわじ)城に居していたゆえと、『寛政重修諸家譜』にある。
古いものは、東三河のたびたびの戦乱によって失してしまったと。

寛政譜』によると、雅楽助(うたのすけ)貞長(さだなが)は松平清康に属したが、その子・神三郎貞通(さだみち)は今川義元および氏真の配下につき、その後、家康に転じた。

宮城谷昌光さん『風は山河より 第六巻』(新潮文庫)には、元亀2年(1771)、武田方の将・秋山伯耆(ほうき)守信友(のぶとも 45歳)の軍が野田の菅沼新三郎定盈(さだみつ 30歳)を攻めたとき、神三郎貞通(38歳)は、西郷孫太郎義勝(よしかつ)らとともに定盈を援(たすけ)た詳細が書かれている。

ついでだから指摘しておくと、『寛政譜』の項は、姉川の合戦を元亀6年6月と誤植している。元亀は3年(1572)までと表記するのが通例で、同4年は7月28日に天正と改元。

菅沼定盈の野田城は、天正元年(元亀)の春にも信玄に攻められた。
このときも、神三郎貞通は援将の一人として野田城にはいっている。

宮城谷さんは『古城の風景1』(新潮文庫)で、その守りの堅固さを、のちに織田信長楠正成に匹敵すると誉めたことが書きとめられている。

じつは、私事だが、『風は山河より』は、単行本で読み、文庫化されたのを機に再読、三読した。
ゆえに、ちゅうすけにとって、設楽という姓は、きわめて親しいものとなっている。

柳営補任』で、一橋の家老のなかに設楽兵庫頭貞好(さだよし 68歳 2150石)の名があり、親近感をおぼえ、長谷川平蔵とのあいだを夢想してみた。

もっとも、兵庫頭貞好と『風は山河より』の神三郎貞通とは、血胤はつながらない。
家老・貞好は、大久保弥五郎忠時(ただとき 700石)の次男で、設楽家の養子となった。
実家の大久保家とのあいだからは、稿をあらためて述べたい。

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平蔵は、〔箱根屋〕で夜勤の舁(か)き手から提灯をかり、の里貴の家の鍵を懐紙にくるんで封をし、明朝、権七に預けるようにいい、三ッ目通りの屋敷へむかった。


[一橋家老・設楽(しだら)兵庫頭貞好] () () (


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週刊 池波正太郎 12』[剣客商売 三]が送られてきた。
剣客商売]についての、ぼくの最大の謎は、5年前に連載がはじまった[鬼平]文庫巻1[血頭の丹兵衛]では、

いわゆる〔賄賂政治〕の呼び声をたかめた老中の田沼意次政権が倒れ、田沼が失脚すると供に、松平定信政権がこれにかわった。

---と、「賄賂政治家」と認識していた田沼意次を、5年後の『剣客商売』では、三冬意次のむすめという設定にし、田沼を立派な政治家として描いている。
5年間のあいだに、池波さんの心中で、どんな田沼像の変化が、なぜ起きたのかに言及した研究家は、まだあらわれていない。

この号には、それでも、郷土史家・関根徳男さん「田沼意次がつくった明るい時代」という論考はあるが、池波さんの胸中の変化には言及がない。

たぶん、長谷川伸師の「新鷹会」での討論が基底にありそうだとは推測をつけているのだが、まだ調べていない。昭和18年ごろに、「新鷹会」の重鎮でもあった村上元三さんにそれらしい発表作品があるということなのだが。

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2010.03.06

一橋家老・設楽(しだら)兵庫頭貞好(さだよし)(2)

「重職方のなかでも、とくにこころがけているのは、譜代の方がた、わが家の先祖がそうであった今川方からお召しかかえいただいた家いえ、武田家が滅んだあと、秋葉山で誓紙をさしだされた武田の遺臣のご子孫、そして、有徳院殿吉宗)にしたがって直臣におなおりになられた紀州の方々をおぼえるようにしておる」

平蔵(へいぞう 28歳)を冷やかすよう里貴(りき 29歳)が、
「軒猿の子孫とかのお(りょう 33歳)さまは、秋葉山での誓紙とはかかわりがございませんね」
「故人をいたぶるのは、品性にかかわろう」
平蔵の憮然とした言葉に、
「お許しください。つい、本心がこぼれてしまいました」
「本心なら、よけいに許せぬ」
おどけたふうにいい、明るく笑った。

の水死のことを里貴が知っているのは、京に潜入して地下官人(じげかんじん)の不正の手がかりをさぐっていた庭番・倉地政之助満済(まずみ 34歳 60俵3人扶持)の手下あたりがかぎつけたのかもしれれない。

「確か、倉地の新造・おせん(23歳前後)は、西丸・御納戸の頭の馬場善五右衛門信富(のぶとみ 63歳 100俵)どのの長女であったな」
「はい。そのように---」

おせんの実家の本家にあたる馬場家は、数年前に不実のことがあって追放・絶家の処分をうけた。
しかし、甲斐の武川原(むかわはら)根小屋城を本拠としていたころの信濃守信房(のぶふさ)は、武田四将の一とされ、名門であった。

参考馬場信濃守信房公の生涯事跡

徳川陣営に加わったとき、駿河大納言忠長に配されたのが不運のはじまりで、処士に落ち、戻されたときには160俵の微家となっていた。

(いかん。おにこだわり、武田勢を話題にしてしまっている)

「ご家老の設楽(しだら)さまは、〔貴志〕へ喫茶にお見えになることがあるのかな?」
設楽兵庫頭貞好(さだよし)が一橋家の家老に補されたのは、2年前の明和8年(1771)11月1日、63歳のときであった。
先任で51歳の田沼能登守意誠(おきのぶ 800石)がいたから、次席であった。
幕府内での同職のばあいは、先任者が上席となる。

「ご先任でもあり、ご先代・刑部宗尹 むねただ)さまが小五郎(こごろう)を名乗っておられましたときのお勤めもふくめて勘定しますと、40年以上も一橋家をごらんになってこられた能登意誠)さまのご出仕がとどこおりがちなので、お忙しいようで、あまり、おはこびくださいません」
(すると、無役の寄合・藪 主膳正忠久(ただひさ 54歳 5000石)は、だれと会食をしているのであろう?)

ニ呼吸ほど沈黙したところで、
「そろそろ、次の間へお移りになりませんか。せっかくの刻(とき)を お歴々の野暮話に遣うのは、もったいなすぎます---」

里貴が立って、すでに床がのべられている隣室の行灯の芯をあげ、明かるさを強くした。
興奮が高まるにつれ、里貴の白い乳房や下腹が桜色にそまっていくのをたしかめたいと、平蔵が望んでいるからである。

_180「どうぞ」
声がかかった。

平蔵が横になった脇で、里貴は鏡Iにむかっている。
紅をぬぐい、簪(かんざし)、笄(こうがい)のぐあいをたしかめる。
そのしぐさを薄目で眺めている平蔵の気が昂(たかぶ)ってきた。
それを察しながら、わざとじらせているようである。(歌麿『化粧美人』部分)

「どうした? こないのか?」
さま。おさまのことで、おっしゃりたいことがおありなのでしょう?」
襟あしのあたりは、もう、淡い桜色であった。

「あるわけがない」
「うそ」
「おは、京の法輪寺へ眠っている。安らかに眠っている仏に焼餅をやいでどうする」

寝衣をかなぐりすてるようにして、里貴がかぶさってきた。
「信じて、いいのですね? いいのですね?」 
「もう、こうなっているではないか」


[一橋家老・設楽(しだら)兵庫頭貞好] () () (

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2010.03.05

一橋家老・設楽(しだら)兵庫頭貞好

(この、老が会食をした相手は誰であろう?)
三河町の〔駕篭徳〕につめている、〔箱根屋〕の権七(ごんしち 41歳)のところの舁(か)き手・加(かへえ 23歳)と時次(ときじ 21歳)が乗せた客のころおぼえの中の一人に、表四番町の屋敷までおくった藪 主膳正忠久(ただひさ 54歳 5000石)の名があった。

藪 忠久の父・三郎左衛門忠通(ただみち)は、紀州侯であった吉宗が江戸城入りをしたあと、その生母・浄円院に従った重職の一人であった。
忠通は、当座、小納戸としてニノ丸に出候していたが、のち、本城のご用達小姓頭などを経て、主に奥方の勤めにはげみ、ついには5000石の大身となった家柄である。

継嗣・忠久は、42歳という若さで書院番頭の職を辞し、あとは寄合の身分をたもっていた身なのに、このところ3度も茶寮〔貴志〕でだれかと夕餉(ゆうげ)をともにしていた。
平蔵にしてみると、
(なにをたくらんでいるのあろう)
それ以上に気になったのは、藪というめずらしい姓をどこか聞いた気がしたことであった。

どこであったか?

そうだ、里貴は、亡夫は、藪 保次郎春樹(はるき)だったといった。
嫉(や)きごころは湧かなかったのが、むしろ、不思議であった。

しかし、それを自分への口実にし、〔箱根屋〕の権七と、〔化粧(けわい)読みうり〕のことで打ち合わせてくるという口実をもうけ、御宿(みしゃく)稲荷の脇の表戸をそっと叩いた。

戸が内側からあけられ、里貴(りき 29歳)が袴の紐をとって引き入れ、手ばやくしめると、そのままもたれかかった。
「今夜あたり、お越しくださるようなに気がしていました」
口を向けた。
,たしかに、寝衣に着替え、綿入れの半纏をまとっているだけであった。

吸いながら、抱き上げ、居間まではこんだのに、首にかけている腕をはなさず、おりようとしない。
そのまま舌をさぐりあってたわむれ、そっとおろす。

「つい、(てつ)さまのほうが齢上(としうえ)とおもえて、甘えたくなるのです」
あおむけに転んだままいう。
「わしは一人子として育ったゆえ、姉上ができたようにおもい、喜んでおる」

転んだまま平蔵の袴を引いてひざをつかせ、口をさしだした。
かぶさって吸い、寝衣の胸元から乳房をまさぐった。
反って、もう片方もと、せがむ。

しばらくそうしてあそびながら、里貴は、袴を器用に脱がしてしまった。
裾を割って平蔵のものをつかむと、しめたりゆるめたりしてたのしんでいる。

「着替えましょうね」
ようやく起きて、寝着と綿入れをだしてき、片口に冷や酒を注ぎ、
「板場でつくらせました」
数の子のくるみ和えであった。

酌みかわしながら、
「ところで、ご家老・意誠(おきのぶ)さまのお加減はどうなのかな」
一橋家の家老・田沼能登守(53歳 2000石)のことを、さりげなく話題にのせた。
一瞬、里貴は盃をとめたが、すぐに気をとりなおし、
「あまり、およろしくないようです」

「お屋敷は、この先の小川町であったな?」
「よくご存じですこと。広小路横町です」
「亡き父上の教えで、重職方の屋敷、用人どのの名をきちんと調べておぼえるようにしている」

参照】2008年1月19日[与詩を迎えに] (29

「では、もうお一人の一橋家のご家老さま、設楽(しだら)さまのお屋敷もご存じですね?」
「設楽兵庫頭(かみ)貞好(さだよし)さま。65歳。2150石。お屋敷は永田馬場」
「驚きました」
「いや、設楽さまは、拙の兄上同様の佐野与八郎どのの ご近所だから、つい、おぼえた」
「あの、佐野さまは、お兄上ご同様のお方だったのですか?」
里貴。ついに、語るに落ちたな」
「あら。私としたことが---。おほ、ほほほ」
「あは、ははは---」

老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 55歳 相良藩主)の木挽町(こびきちょう)の下屋敷を、亡父に連れられ、本多采女紀品(のりただ 60歳 2000石 無役)、佐野与八郎政親(まさつちか 41歳 1100石 西丸目付)とともに訪れた5年前に、里貴を見かけたといって否認されたことがあったからである。
田沼意誠は、意次の2歳下の実弟である。

(これで、まちがいなく、里貴田沼侯の間者だ)

さまは、用閒(ようかん 間者)のおなごはお嫌いではございませんでしょう?」
里貴は用閒なのか?」
「私は、そうではありません。ほら、軒猿(のきざる 信玄側の忍びの者)の末裔とかで、お(りょう 享年33歳)さんとおっしゃったお方---」
「どうして、それを?」
「おほ、ほほほ。語るにお落ちになりました」
「む」
「かわいいお人」


[一橋家老・設楽(しだら)兵庫頭貞好] () () (

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2010.03.04

ちゅうすけのひとり言(52)

長谷川平蔵の資料しらべで、ずっと懸案になっていることがいくつかあり、その一つが、三方ヶ原の合戦に、徳川方の武将の一人として戦い、討ち死にした長谷川紀伊(き)守正長(33歳)とその弟・藤九郎(19歳)が、どの武将の軍に配されていて、どの段階で戦死したかの資料さがしである。

そのことは、各地での〔鬼平]クラスでも言及してきたから、静岡のクラスの安池さんも気にかけていてくださっていたらしく、三方ヶ原の戦記にふれた新著を2冊、貸してくださった。

_150その一は、岩井良平さん『三方原の戦いと小幡赤武者隊』(文芸社 2008.2.15 \1700)。
著者は、国峰小幡系のご子孫らしく、武田軍の側から三方原の合戦をながめている。

在野の研究者らしく、現地を丹念に取材しているので、同行しているような気分になるのだが、残念ながら、長谷川紀伊守とその弟に触れた文章はきわめて短い。

三方ヶ原に「精鎮塚(しょうちんづか)」と呼ばれていた碑(いしぶみ)があって、徳川側の戦没者の鎮魂のためのものと言い伝えられてきたが、開発のために邪魔になってきたので、除去の話がおきたとき、地元の本乗寺(浜松市三方)の住職・青嶋淳雄師が、長谷川家の子孫ということで、碑を同寺の境内へ移して供養しているという。

それで、クラスとしては、5月の遠出先の一つに、碑に詣で、青嶋師の講話を聴くことを計画している。

もう一冊は、浜松市在住の郷土史家・小楠(おぐす)和正さん『浜松城時代の徳川家康の研究』(発行元も 2009.12.18 \2300.)である。
小楠さんの旧著『検証・三方ヶ原合戦』はかつて紹介したことがあるし、長谷川紀伊守の戦死の様子についての文通も当ブログで公開している。
その結果、諸史書をあたったが判明しないとのことであった。

参照】2008年お月13日[ちゅうすけのひとり言] (14

こんどの新著では、三方ヶ原の合戦では、徳川方の重要な諸将は、ひとりも戦死していないとの結論をだしている。

酒井忠次石川数正本多忠勝榊原康政大久保忠世らの名をあげ、さらに、大久保忠佐大久保忠隣松平甚太郎家忠本多広高本多作左衛門重次柴田康次天野康景平岩親吉などおもな武将たちのほとんどは生還している---として、長谷川紀伊守正長などは新参者で、重きはおかれていなかったといわんばかりの文章である。

たしかに、新参ではあるが、すくなくとも、小川(こがわ)城主であり、田中城の城主もつとめ、浜松へきたときには、20騎をこす配下をともなっていたとおもえる。

三方ヶ原では、酒井忠次の軍に組み込まれていたか、石川数正の軍であったか、これからの研究により、それがあきらかになることを切望している。

参考】三方ヶ原の両軍の陣構え 岩井良平『三方原の戦いと小幡赤武者隊』より 部分

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2010.03.03

竹節(ちくせつ)人参(6)

「よろしいか、人参の天敵は、もぐらじゃ。これをふせぐには、植え場のぐるりに、芦を編んだ簀(す)を深さ3尺(90cm)ほども埋めこむ。もちろん、土の上にも1尺5寸(45cm)ほどでるようにする。夏の日差しがきびしいときにも覆いをかける支えにもなるし、猫やきつねふせぎにもなる」
平賀源内(げんない 45歳)は、太作(たさく 62歳)に丁寧に教えた。

太作は、日光今市の大出家の植え場でしっかりと見てきていたが、初めて聞いたことのように、なんども合点するから、源内も講じる気をそそられている。

「日陰までつくってやる---つまり、乳母(おんぼ)日傘(ひがさ)で育ててやれ、ということですな」
平蔵がちゃちゃをいれた。
「竹節(ちくせつ)人参は、そころへんの商家のむすこたちとは、くらべられないほどに、値打ちがあるのでな。はっ、ははは」

それから、ちょっとのあいだなにかかんがえていた源内が問う
太作どのの植え場は、上総(かずさ)国の武射郡(むしゃこおり)でしたな」
「寺崎村でございます、若---いえ、お殿さまが、村長(むらおさ)の五左衛門さまにかけあってくださり、山のふもと---妙見さんの裏手の山裾を20坪ばかり、植え場にお借りすることができました」

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(赤○=上総国武射郡寺崎  右端=九十九里浜
その左に蓮沼村 明治20年 参謀本部製)

「それは重畳。ただ、上総は、日光や会津、松江など、すでに朝鮮人参栽(う)えをなしている土地よりも暖かそうだ。その寺崎という村の土の色は?」

太作は、若いころに村をでて長谷川家に仕えたので、はっきりとは記憶にないが、山の土は赤っぽく、畑の土は黒っぽかったようであったと応えた。
源内先生。亡父が若かったころ、開拓と地味の改良を指導しております」
「そのことは、備中)どのからつぶさにうけたまわったております」
源内は、植え場は、山の土4、畑の黒土4、川砂を2の割合で混ぜるように、といった。

「くれぐれもいっておくが、砂は川砂で、海砂は厳禁。海砂を雨水で何年さらしても塩気が抜けないのでな。塩気は、人参には毒と覚悟されよ」

そのほか、堆肥にかぎること、夏が終わる時分に種が赤くなるが、収穫した種に土を抱かせて湿気を絶やさないこと、いちど根を獲った植え場は、土を変えても10年間はつかわないこと---をいいきかせた。
太作は、おぼつかない手つきで、それらを克明に書きとめた。

「そうだ。いま書き留めているように、人参の毎日の育ちぶり、手入れのあれこれ、天候も日録しておく」
「かならず、仰せのとおりにいたしますです」

油紙包み10ヶを大事に抱き、くりかえし礼を述べ、仙台藩の蔵屋敷をでようとする太作を呼び止めた源内は、
「太作どのはも左ひざに痛みをおぼえているようだな」
「はい。2年ほど前から、齢のせいか---」
「治療して進ぜよう。エレキテルでエレキを通じると、なおることがある」

左足の股引をひきあげさせ、なにやらおかしげな機械から銅線をひいてひざにあて、把手を風車のようにまわし、刺激を送りこんだ。
「どうかな? ひりりぴりりとくるであろう。これで血のめぐりがよくなり、痛みもとれたはず」
「ほんに、軽くなりました。ありがとうございました」

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2010.03.02

竹節(ちくせつ)人参(5)

「若---いえ、お殿さま。今市の植え場の主・大出さまは、来春に種を播くのではおくれすぎではなかろうかとおっしゃいました」
日光から帰ってきた太作(たさく 62歳)が報じた。
人参は、秋口に赤くなった種を、湿りけをたやさない土になじませ、11月の中ごろに種がわれて糸のような根がでたら、苗床へ植えるのが上策だと。

つまり、いまから種を播いても、発芽はほとんどしないのが、朝鮮人参も、それによく似た性質の竹節(ちくせつ)人参もだということが、いくたの失敗を重ねたすえにわかってきていたのであった。

「爺(じい)よ。そのことは、平賀源内(げんない 45歳)先生からも注意をうけた。爺が寺崎に旅たつ前日に、種播きしてある土を、油紙につつんで届けてくださることになっている」
「それでは若、あさってにも、寺崎へ参り、苗床をつくります」
あわてた太作は、
「お殿さま」
といいなおすこともしないで、旅立ちを宣言した。

平蔵(へいぞう 28歳)もいささかあわて、松造(まつぞう 22歳)の名を口にのせかけ、旅づかれしていると気がついたので、若党・梅次(うめじ 24歳)を呼んだ。

参照】2009年6月19日[宣雄、火盗改メ拝命] (

「仙台堀の上(かみ)ノ橋北詰、仙台藩の蔵屋敷は存じておろう、あそこで寄宿してエレキテルを直しておられる平賀源内先生に、太作が明後日に上総(かずさ)の寺崎へ旅立つゆえ、人参の種を明日までにご用意願いたいとお願いしてきてくれ」

半刻(とき 1時間)もしないで戻ってきた梅次は、明日の四ッ(午前10時)には用意しておくが、教えなければならないこともあるゆえ、かならず本人が参るようにいわれたと、源内の言葉を伝えた。

「爺。拙も参るからなにも案じるでないぞ」
太作が荷づくりのために去ると、入れ替わりに松造が入ってきた。

旅でのこころづかいをいたわってやると、
「殿。太作さんは、〔荒神(こうじん)〕の助太郎のことをお耳にいれなかったようでございますな」
「あわてていたのであろうよ。齢をとると、つい、いままで気にかけたいたことも忘れがちになるものだと、高杉銀平(享年67歳)先生も、晩年にはよくなげいておられた」
平蔵は、太作が速飛脚でよこした報告のことは、松造にはいわなかった。
松造が、どのような見方をしているかに興味があったからである。

松造によると、宇都宮城下で太作が探索費をわたしたて依頼したのは、旅籠〔羽黒屋〕があった戸祭町iに近い材木町の観専寺裏に住んでいる十手持ちの瀬兵衛(せべえ 30がらみ)のことを、
「あれは、郷方(さとかた)によくいる、悪のほうの十手持ちでございますよ」
そう前置きして、太作の横で聞いていたことを話した。

それというのも、京都で、〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 55がらみ)一味の捕り方に加わったことがあったので、自分にもかかわりがあるとおもいこんでいるのである。

参照】2009年9月13日~[同心・加賀美千蔵] () () () () () (

「せっかく、手前がつきとめた盗人宿を、見張っているだけでいいのに、手柄を独り占めにするつもりだったのでしょう、隣近所を聞きこみまわり、気づいた助太郎は、一味の煙草屋とともに消えちまったのです」

このことは、太作の書状に書かれていた。
「それで、手前は、盗人宿にややもいたかどうかを、たしかめました」
「ほう。松造も、なかなか勘どころをおぼえてきたな」

ほめられた松造は、
「しかし、ややの声も、おんなの姿も見られてはおりませなんだ」
「それは残念。しかしな、も、そのことで、聞きこみのむずかしさをこころ覚えたであろう」

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2010.03.01

〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛(8)

(万徳院の住持の言葉には、真意がこもっていた)
寺を辞去し、黒船橋北詰の〔箱根屋〕の権七(ごんしち 41歳)の店へむかいながら、平蔵(へいぞう 28歳)は胸のうちで呟いた。

長谷川さま。〔丸太橋(まるたばし)の雄太(ゆうた 39歳)どんが、通りがかりだ、と立ち寄ってきやして、[化粧(けわい)指南読みうり]のお披露目(広告)枠のほうはたちまちきまり、枠を買った店はみんな、こういう[読みうり]ができるのを待っていたと大乗り気だったそうで、長谷川さまの目のつけどころに、改めて感じいっておりやした」
それはけっこうなんだが---と口を濁すと、
「何か、お困りのことでも---?」
すばやく親身に問うてきた。

蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛という盗賊のことをかいつまんで話し、被害にあった藍玉問屋〔阿波屋〕の店のなかに、賊の手に買収された者がいるとしかおもえないが、〔蓮沼〕を捕らえないで、店から罪人をだすというのは、どうも気がすすまない---とこぼした。

「さいですねえ。あっしがいまお聞きしても、〔蓮沼〕の市兵衛ってその盗賊は、よほどにできたお頭(かしら)のようでやす」
「そうなんだが、解(げ)せないところもあるのだ---」

宝暦13年(1763)からの盗歴の表を権七へわたし、

宝暦13年(1763)9月25日 京橋銀座2丁目 
  乾物類卸〔和泉屋〕清吉 570両余

明和2年(1765)10月6日 室町2丁目
  塗物問屋〔木屋〕九兵衛 645両

明和5年(1768)1月16日 湯島坂上
  江戸刷毛本家〔江戸家〕利八 480両

明和7年(1770)4月3日 竜巌島銀町
  下り酒問屋〔鹿島屋〕庄助 725両余

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この秋の藍玉問屋〔阿波屋〕が奪われた570両を加えて、11年間に獲物の総額は、ざっと3000両---〔盗人酒屋〕の〔(たずがね)〕の忠助にいつだっか聞いたところによると、獲物の半分は、つぎの仕込みのこともあるから、頭が取るのが、あの道のきまりのようなものだという。

そうすると、配下に分けたのは1500両。手下が20人いたとして、ならして1人あたり75両---
「ふつうの裏長屋に住んでいたって、5人家族なら、どれほど始末しても年に12両はかかろう。11年間に75両では、配下が黙ってついていくはずがない」
「3000両を、まるまる配下たちに分けたところで、ならして11年で1人頭150両---やってられませんや」

「であろう? これには、からくりがあるはずだ」
「---とおっしゃいますと?」
「有り金全部に手をつけた仕事を、この倍ほどもやって、辻つまをあわせているにちがいない」

が、そうであったとすると、その仕事(つとめ)ぶりは、ふつうの盗賊と変わらないから、〔蓮沼〕組の盗(つとめ)とだれもおもわない。
つまり、半金近くをのこして引きあげる手口は、仲間うちで評判をとるためのオトリでしかない。
それと、火盗改メの捜査を迷わすため。

もっとも、ありこまっち盗む仕事は、江戸ばかりでやっているとはかぎらない。
藩領の町でやったものは、火盗改メに届けがでないこともある。

「そういうわけだから、〔阿波屋〕の頭の白いみずみを捕らえる気がうすれてしまってな」

火盗改め方の助役(すけやく)・庄田小左衛門安久(やすひさ 41歳 2600石)が、はやくも次の職席を求めて働きかけをしていることは、権七にはかかわりがないことなので、黙っていた。

ちゅうすけ付記】〔蓮沼〕の市兵衛の名誉のために書き加えておく。
文庫巻21[討ち入り市兵衛]の鞘師・長三郎のように、市井での表向きの仕事だけで充分に生計(たつき)がたつような配下ばかりを集めていたのであろう。
当ブログでも、左官職・茂三の中塗りの技量も、〔須佐十〕の親方が惚れこむほどであった。


参照】2010年2月11日~[〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛] () () () () () () (

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