お富の方
『鬼平犯科帳』には、大奥へ忍びこんだ盗賊は登場しないから、すっかり安心していた。
じつをいうと、大奥は苦手なのである。
テレビ・ドラマにはよくあつかわれ、視聴率もけっこうとるみたいだが、ちゅうすけはその種の番組はみないから、生半可な知識では顰蹙をかうのがおちだとおもってきた。
池波さんも、文庫巻11[毒]で、あっさり、
「大奥にはな、将軍のお手がついた女どもが何人もいて、それぞれに子を生み、生まれた子の行方も、生んだ女の行方も、いつしか知れず、消え果ててしまいうこきとがあるそうな---」
こう書いて、深くは触れない。
ところが、ひょんなことから、知識のない大奥に触れなければならなくなった
一橋の北 詰の火除け地に開いた茶寮〔貴志〕の女将・里貴(りき 30歳)と、平蔵宣以(のぶため 29歳)が躰をあわせてしまったのである。
それも一回きりとかならそのまま見過ごすのだが、どうやら、平蔵は、光を透きとおらせるほどに青白い肌の里貴魅せられたらしい。
二度、三度の交合ではおさまらなくなった。
しかも、それに〔貴志〕が、紀州衆の猟官がらみのかけひきの場につかわれている気配なのである。
もちろん、平蔵は安っぽい正義感をふりかざす青年ではないから、そのことは傍観しているにすぎない。
が、里貴がそれではすましてくれそうもなくなったきた。
〔貴志〕という茶寮の狙いはなんだと思うかと、正面きって問うてきたのである。
「まさか、左近衛権中将(一橋治済 はるさだ 24歳)さまの、男としての寝床でのちからをのぞきみるためではあるまい」
「それが、まさか、でなかったら、なんとなさいます」
「ぷっ。冗談でいってみただけだ」
「去年、お富(とみ)の方が、豊千代(とよちよ)さまをお産みになりました」
豊千代は、のちの将軍・家斉(いえなり)であり、平蔵が出仕した西丸ののちの主でもあった。
2年前、江戸城の大奥の女中をしていたお富を、治済がたってと望んで側室にもらいうけた。
お富は、紀州藩邸から柳営にはいった有徳院(吉宗)にしたがった、岩本八郎大夫正房(まさふさ 300俵)の曾孫である(紀州藩士の時代は150石)。
諸書は、内膳正正利(まさとし 51歳=安永3年 のち2000石)のむすめと記している。
正利は、正房の3男で、3代目にもなった。
したがって、お富は孫であり、曾孫でもある。
佐藤雅美さんは『田沼意次 主殿の税』(人物文庫)で、お富は不器量だが、将軍・家冶の手がついていたとしているが、いまのところ、ちゅうすけは手元に、お富の容姿に関する史料はない。
正利の正妻は、
「大奥の老女・梅田の養女」
とあり、お富の項にも、
「母は老女・梅田の養女。一橋中納言治済卿につかへ、将軍家のご母堂たり」
大奥の老女が不器量なむすめを養女にとることは少ないのではないかと推測するのは、素人考えであろうか。
Wikipediaの お富の方の項には、大奥で治済が見とめたとある。
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コメント
お富の方の容姿に関する史料ですが、佐藤雅美「十五万両の代償」八頁に紹介されていました。
明和事件で死罪になった山県大弐の孫で幕府に表坊主として仕えた(これ自体驚きですが)竹尾善筑が書き残した随筆「即事考」に
おとみ殿は容儀かくべつ勝れしにもなく、青黒くふとりて、さまでの風姿にあらず
とあるそうです。
山県大弐の孫がさして地位が高くないであろう表坊主とはいえ、幕臣になっていたとしたらそれも驚きですが・・・
まだ本文献を見ていませんし、その内容がどのくらい正確か吟味する必要はあるでしょうけど。
投稿: asou | 2010.04.12 15:56
いつも、珍奇な資料をみつけていただき、ありがとうございました。
佐藤雅美さんの推量のもとが割れましたが、将軍の手がついていたというのはどうなんでしょう。
もちろんウィキペディアも出典はあきらかにしていませんし、「青黒くふとりて」というのが当時の若い女性の体型からいって--という程度ではなかったかと。
治済がお富を側室にしたのは22歳あたりで、お富は20歳前後としますと、それほど不格好でもなかったのではなかろうかと推量するのですが。
又、家斉が生まれた段階では、安永8年の家基の突然死は予測されていなかったとおもいます。
治済が暗殺をくわだてたのではないとして。
しかし、山県大弐JW@TT0zWくるとは。
四谷3丁目からちょっと入った全勝寺に大弐の墓があったように記憶しています。
投稿: ちゅうすけ | 2010.04.13 13:04
「即事考」を図書館に予約しているので、これから内容を確認してみたいです。
お富の方が一橋に移って、一年以内に家斉公が生まれたため?そういう噂があったのかもしれませんが・・・
容姿については、おそらく竹尾善筑も中年過ぎた、お富の方の姿しか知らないと思いますし・・・(善筑は天明年間生まれのようです)まあ、奥女中たちのやっかみはあるかもしれないですね。もっと奇麗な女性は大奥には大勢いるのに、なぜ彼女があんな幸運を?と。
佐藤雅美説では「番茶も出花」というように年頃になれば、どんな女性も魅力を発揮するからその頃に御手がついた、説を獲ってます。
家基毒殺はあまり考えなくてもいいかと思います。田沼が毒殺した説が流された時期もあったようですが、「それをいうなら一番得をしたのは一橋治済じゃないか」という憶測くらいでしょう。仮に動機があっても手段はないと思いますし。
老中や一橋家当主がその気になったら将軍世子を毒殺できる状況があったというのは考えにくいと思います。
たしか狩り(遠乗り?)に出かけた後で気分が悪くなって・・・でしたっけ?
疑おうと思えば疑えますけど、お毒見役だっているでしょうし、普段外を出歩かない人が、たまに外出して張り切ったため疲れた、とかではないでしょうか?
佐藤雅美説ではお富の方を治済が所望したのは、田沼や紀州党とつながりを深めたかったから、という見方のようです。
田安家のように取りつぶされたくなかったためだ、と。
投稿: asou | 2010.04.14 13:34
>asou さん
『実紀』安永8年(1779)2月21日(旧暦)の項。
此日 大納言殿(家基)新井(品川の近く)宿のほとり鷹狩し給ひ。東海寺(沢庵禅師、松平左金吾の墓地)にいこはせらる。俄に御不予の御けしきにていそぎ還らせ給ふ(日記)
同紀によると、家基は、安永7年1月21日千住(北の宿)で狩。
2月7日浅草のほとりで狩。
3月5日浅草のほとりで狩。
3月27日中井のほとりで狩。
---(以下略)毎月のように狩りに出ていますから、結構、足腰をきたえていたようです。
投稿: ちゅうすけ | 2010.04.14 17:16
>asou さん
ちょっと時間ができたので---。
『実紀』の家基の狩の記述(きのうのつづき)
安永8年、不予を覚えた狩まで。
1月9日 小松川のほとりに狩
21日ニ之江(葛飾)のほとりに狩
安永7年
5月1日 浅草のほとりに狩
13日亀有村のほとりに狩
28日深川のほしりに狩
10月2日中野のほとりに狩
27日浅草のほとりに狩
11月13日亀有のほとりに狩
12月21日千住のほとりに狩
家治はこの3倍以上の回数放鷹。
投稿: ちゅうすけ | 2010.04.15 09:47
ありがとうございます。
結構外出してるんですね。
公方様や御世継様の外出って警備とか大変だから中々外へ出られないかと思ってました。
町触で家斉が外へお出ましになるので指定した場所の木戸を閉めるようにっていうのを見た記憶があります。かなり広い範囲で交通規制になっていたような・・世子時代の家定が外出するときも、江戸詰め代官たりまで動員されていたようで・・・
家治公ってもっと引きこもりがちのやや病弱なインテリってイメージでしたが、意外です。(趣味将棋で棋譜も出したとか)
家基の安永七年の五月から十月までが空いているのは、やっぱり暑い季節は避けたといことでしょうか?
投稿: asou | 2010.04.15 13:19
>asou さん
『実紀』によると、家基は、狩とは別に、狩の半分ほどの回数で遊覧にでています。初夏から初秋へかけての期間です。
ほかにも、武芸もやっていましたろう。ですから、足腰は、まあまあだったとおもいます。安永8年に18歳の青年でもありましたし。
投稿: ちゅうすけ | 2010.04.17 19:10
ありがとうございます。
夏は遊覧なんですね、狩りは「冬のスポーツ」なのかも・・・
遅くなりましたが、「即事考」(中央公論社「鼠璞十種」上巻所収)を借り出して読んでみました。お富の方の部分を引用します。(370頁)
岩本氏
岩本氏は二百俵也。其始おとみ殿を父母妊娠の先夜の夢に、みの中へ枡を置、夫より松生しを見る。容儀かくべつ勝れしにもなく、青黒くふとりて、さまでの風姿にあらず。故ありて田沼氏と入魂により、浚明院殿の御次へ出、後御中老と成。此時一橋中納言治済卿より、かの姉御所望あり。かの女性又彼御屋形へ入度由内訴により、つゐにかの方へ進ぜける。(割註)一説に、此時腹に御種ありと云伝、又或説にはいろいろ交雑の噂も立。」
後九箇月にて御誕生ありし。今の上様是也。是よりおとみ殿の威風強く、文化の末死去有し時は、御簾中同様の御手続の入用金三千両を進ぜられ、遺骸は凌雲院におさめまいらせしかど、御位牌は福聚院にうtされ、御仏供料を加進させらる。父内膳正はニ千石の本知に加恩させられ、御側を勤、連枝石見守浦賀奉行をつとめ、後年始御側にうつり、内膳正と改名す。
家治の御手が付いていた云々の出典は「即事考」ではないでしょうか?
九箇月ならハネムーンベビーの可能性もあるような気もしますが・・・
投稿: asou | 2010.04.18 23:49
>asou さん
「即事考」(中央公論社「鼠璞十種」上巻所収)のご紹介、ありがとうございました。
読んだかぎりでは、夢の話は別として、お富が青ぶくれした女性だったとは読みとれませんね。
お富も、一橋の側室になることを希望していたというので、賢さがうかがえます。
投稿: ちゅうすけ | 2010.04.19 18:54