お富の方(2)
家康がご三家---尾張家、紀伊家、水戸家をたてて、徳川の血筋の保全をはかったことは、小学生でも、高学年になればしっていよう。
---といいきっていいか、どうか、身近に小学生がいないから、自信はあまりない。
八代・有徳院(吉宗)が、将軍のスペア供給源として田安家、一橋家のニ卿をたて、家重がさらに清水家をたてて三卿としたことも、ちゅうすけ年代では常識なのだが、いまの若い人はどうなのだろう。
吉宗の側室のひとり・お菊(きく)の方(のち、お久とも)が産んだ源三(幼折)、小五郎のうち、吉宗にとって四男にあたった小五郎が一橋家の始祖・徳川宗尹(むねただ)である。
お菊は、浪人谷口長右衛門正次(まさつぐ)の次女と『寛政譜』に記されている。
お菊の弟・新十郎正乗(まさのり)は、小五郎の生誕12年後の享保18年(1733)に27歳で召され、小五郎のお付となり、稟米300俵をたまわった(のちに500石)。
これから推察するに、お菊が源三を産んだのは17歳前後か。
小五郎のときは19歳前後ということであろうか。
小五郎改め宗尹が、宝暦元年(1751)33歳のときに、細田助右衛門時義 ときよし 200俵)のむすめ(17,8歳か)に産ませたのが豊之助、のちの治済(はるさだ)である。
宗尹は明和元年(1764)12月下旬に44歳で薨去、治済は14歳で家督。
明和4年(1767)、治済(18歳)は、京極上総太守公仁親王の姫・在子を正室として迎えるが、彼女は子をなさないまま、3年後に薨じた。
お富が側室となったのはそのあととおもわれる。
安永2年(1773)10月3日に長男・豊千代(のちの家斉 いえなり)が生まれた。
安永8年(1779)の将軍の:継嗣・家基(いえもと)の急逝で、家斉が、家治の養子となり、西丸へはいったのは天明元年(1781)5月18日、8歳のときであった。
安永6年(1777)9月21日に三男・雅之助(のちの斉隆)誕生。
このあいだの女子(早世)と次男・力之助が安永6年5月15日に生まれている。
次男を産んだのは丸山氏のおんなである。
このあと治済は、77歳までのあいだに5子を得るが、産婦はお富の方ではないので省略する。
紀州藩士のむすめであるお富の方が、将軍・家斉の生母として権勢をふるうのは、いまよりもずっとあとである。
ちゅうすけの休むに似た思案は、大奥にいたお富が治済の目をひきつけ、その側室となって一橋家の奥へはいったとき、ある危惧を予感した田沼主殿頭意次(おきつぐ)が、一橋の北詰に茶寮〔貴志〕を建て、里貴(りき)を女将として送りこんだのではないかとの妄想のようなものであった。
【参照】2007年11月27日~[一橋治済] (1) (2) (3)
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コメント
陰謀家ともいわれている一橋治済がつくった子は9人でしたか。
こうして整理して示していただくと、すっきりと頭に入ります。
しかも、それが、鬼平に関係しいくるかもしれないとおもうと、よけいに---。
投稿: 文くばり丈太 | 2010.03.14 06:01
>文くぱり丈太 さん
ご好意にみちたコメント、ありがとうございます。
鬼平プログといってもいろいろで、これは、史実を根底に下敷きしての空想まじりのものですから、ほとんどの鬼平(長谷川平蔵宣以でなく)ファンの方には興味が薄いことは覚悟でつづけています。
しかし、史実を掘り出すことも大切だと思います。丈太さんのように方が一人でもいらっしゃるかぎり、つづけねばと、奮起します。
投稿: ちゅうすけ | 2010.03.14 18:55