一橋家
一橋家の始祖は、吉宗の3男・:刑部卿宗尹(むねただ 享年44歳)であることは、いうまでもない。
母は、紀州藩士で、吉宗とともに藩邸からニノ丸入りした谷口長右衛門正次(まさつぐ)の次女・お梅(うめ のち久とも 享年22歳)であった。
お梅(のち久)は、吉宗の母堂・浄円院(於由利 ゆりの方 享年72歳)にしたがって大奥に仕えていたとき、最初に、幼逝した源三、2年後の享保6年(1721)閏7月15日に小五郎(のちの宗尹)産み、3ヶ月後に卒した。
うわさばなしだとおもうが、お須磨の方が赤坂の藩邸で長男・長福(ながとみ のちの家重)丸を産んで2年後に26歳で病没したため、幼い長福丸のためにと、吉宗は、縁者のむすめを求めるように家臣にいいつけた。
候補にあがったのが、大久保八郎五郎忠直(ただなお)の長女であったが、美人といえなかったので家臣が躊躇していたところ、吉宗は、
「健康でさえあればいい」
懐任となった。
吉宗の女性観を示すもう一つの有名なエピソードがある。
将軍となって江戸城入りしたとき、大奥にいたおんなたちの中から、美人50名を書き出すように命じた。
すわこそと、大奥の女たちはいろめきたった。
ところが、選び出された50名の美人たちを、家元へ返すようにいいつけたのである。
家臣がいぶかると、美人なれば嫁にとの引く手もあまたであろう、不器量だと縁どおくなりがちであると教えたという。
実話かどうかは保証のかぎりではない。
ただ、大奥の経費節減のスローガンとしては気がきいているし、とりわけの美人でない側としては、溜飲がさがる話ではある。
ことのついでに、吉宗の次男・宗武(田安家始祖)の母親・おこまをフォローしてみた。
なかなか見つからない。
『徳川諸家系譜 第1 徳川幕府家譜 柳営婦女伝系 』で、於古牟(こま)の方をそうと納得するまでに3時間も要した。
公文書なのに、宗武の母と書いないのである。
御部屋於古牟之方 竹本茂兵衛正長女、享保元丙中年御本丸え入、其後称御部屋様、同八癸卯年ニ月廿ニ日於御本丸御逝去、葬池上本門寺え、同月廿三日御出棺、此日送葬、
御法名 本徳院殿妙亮日秀大姉
(赤○=於古牟(こま)の方の個人譜)
赤坂の藩邸(中屋敷)から本丸へ入ったお手つきの女性は、おこま一人であったという人もいる。
お久も、上記『柳営婦女伝系』には享保元年に大奥入りしているように記されているが、これは疑わしい。
吉宗の生母・浄円院(お由利の方)が和歌山から江戸城西丸へ移ったのは、享保3年(1718)5月1日である。
藪 内膳頭忠通(ただみち 40歳=享保3年 300石 のち5000石)が迎えに行っている。
【参照】2010年3月11日[一橋家老・新庄能登守直宥(なおずみ) (2) 藪 家の家譜の忠通の項
お久が浄円院付きの女中であったとすると、大奥入りはこのときとなる。
源三、小五郎の懐妊とも歳月があう。
『柳営婦女伝系』に記されているとおり、赤坂の藩邸ですでに側妾になっており、浄円院の江戸下がりでそのお付女中というあつかいになったとも推察もできないことはないが。
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コメント
将軍、ご三家、ご三卿の大奥もそうですが、大名家、大身の内室、側妾関係は複雑なので、いまの倫理観では、なかなか理解がおよびません。ちゅうすけさんのテキストによると、公式文書にも正確には記載されていないようなので、お調べになるたいへんさ、よくわかります。
投稿: tsuuko | 2010.03.15 05:29
歴史をあたるとき、こんにちの倫理観をあてはめてはいけないことは充分にわかっているのです。
しかし、けさも大学頭家---林氏の『寛政譜』をコピーしていて、事績をぐだぐだと書いているので、「なんて自己顕示欲がつよいのだろう」とおもいましたが、いや、とうじとすれば、学者の発言権は、これくらいにしないと通らなかったのかも---と、悟りました。
投稿: ちゅうすけ | 2010.03.15 07:17
む、お古牟(こま)の実兄・九八郎は江戸城の近くの家で焔硝をつくっていた?
父親・茂兵衛は薬込め役だつたのではないのか? つまり、江戸城ではお庭番---だとすれば、屋敷は桜田門周辺だ。
ふむ。再審議だな。
投稿: ちゅうすけ | 2010.03.15 08:50