一橋家老・新庄能登守直宥(なおずみ)(2)
「一橋さまも、紀州方からのご家老がいなくなられて、お困りであろう」
平蔵(へいぞう 29歳)の問いかけるような言葉に、里貴(りき 30歳)は表情を変えなかった。
「着替えてきます」
隣室へ消えた。
部屋は、通いの手伝いの老婆・お安(やす 60がらみ)によってほどよくあたためられていた。
先任の設楽(しだら)兵庫頭貞好(さだよし 66歳 2150石)は高齢の域にちかづきつつある。
老眼がすすみ、書状を手にすると、眼鏡をあちこち、しばらく、さがす。
耳もややとおくなっているようだ。
聞きなおすことが多い。
話し手のほうへのりだすようにする。
頭に衰えはさしてないみたいだが、言葉がくどくなった。
田沼意誠(おきのぶ 享年53歳 2000石)の生前は、なにごとも控え目にしており、譜代衆との窓口とこころえているふうであった。
後任の家老・新庄能登守直宥(なおずみ 53歳 700石)は、目付(1000石格)、普請奉行(2100石格)を経てきた能吏である。
家老職につく前は、将軍・家治の日光参詣を見こしての駅路の補修を監督していた。
勝手(会計)方にも明るい。
設楽家老は、自分分より一まわり以上も若い新庄に期待をよせた。
もともと新庄家は、近江国坂田郡(さかたこおり)新庄に城をかまえていたための姓であった。
のちに同郡朝妻(あさづま)の城へ移った。
関ヶ原のときには石田三成側についたふりをし、伊賀国上野城にこもって意を徳川家康へ通じた。
その功で常陸・下野2国に3万300石余を領しえた。
新家老の新庄家は、その分家で両番の家格である。
【ちゅうすけ注】新庄能登守の家の菩提寺は、東京文京区の喜運寺と『寛政譜』にあった。奇縁といおうか、長谷川平蔵宣以の前任の火盗改メれ・堀 帯刀秀隆の墓が現存する寺でもある。
ただし、新庄家の墓域が現在しているかどうかは、未確認。
「ですから、藪さまがお会いになっているのですよ」
藪 主膳正忠久(ただひさ 55歳 5000石)は、家重にしたがってニノ丸入りした仁の継嗣である。
大身であるために、紀伊衆の頭目格にまつりあげられ、はやばやと役を離れ、衆のためにあれこれと骨惜しみをしないで動いている。
藍地の寝衣のうえから綿入れを羽織った里貴は、おわかりでしょうに---といった口調であった。
「ごめんなさい。まだ、すっかり終わっているわけではないのです」
「なにが? あ、そうか、それなら、話だけにしよう」
「つまりません。せめて---」
手をとり、乳房にみちびく。
そのまま、掌で覆い、
「藪さまの役目が、まだ、よくわからぬ」
「一橋さまのところへの紀州衆の増員とご加増のお願いです」
(藪 主膳正忠久の個人譜)
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コメント
藤田 覚さん『田沼意次』(ミネルヴァ書房 2007.07.10)を読み返していたら、
次の将軍になることがきまっている家重の小姓に、小納戸頭取を務める藪 通忠の子忠久、および小十人頭を務める岩本正房の子正時、そして意次の3人がめしだされた。
家重の小姓になったことは、意次の将来を運命づけたといってよい。
---と、藪 忠久、そして、正時の妹が大奥にあがり、一橋治済の目にとまって豊之助(のちの家斉)を産むといった、歴史の偶然を暗示していました。
2年半前に読んだ時には、軽く読み流していたヶ所です。
投稿: ちゅうすけ | 2010.03.10 07:31
ということは、藪忠久も、岩本正時も、田沼意次も、現役の父親とは別に、小姓に召されたということでしょうか?
投稿: 文くばり丈太 | 2010.03.10 09:17
>文くばり丈太 さん
3人とも、頭脳・言語がすばぬけていたのが吉宗の目にとまって---といいたいところですが、史実はどうなんでしょう?
まず、田沼意次。家重つきの小姓になったのが享保19年(1734)3月13日---竜助16歳。同年の秋口に小納戸頭取(500石高役料300俵)になった父・主殿頭(600石)は12月に47歳で卒しています。病気がちだったのではないでしょうか。
つまり、そこをみての西丸の小姓組入りの線もないとはいいきれません。親が現役で継子が両番入りしたときは別にその子に300俵です。
岩本正利は、寛延2年(1749)12月27日に西丸の小納戸、翌3年10月2日に西丸の小姓組へ転じています。27歳のとき。当主だった西丸小姓組の兄・正久が29歳で卒したのは寛延2年9月1日。あきらかに後継で、スバ抜けていたからとはいいきれません。
次女・お富が大奥女中をしていて一橋治済に認められ、側室となり、豊之助(のちの家斉)を産んだのは安永2年(1773)10月5日だから、小姓組入りしてから23年後。
藪仙太郎が家重の小姓となったのは享保19年(1734)3月13日で13歳のとき(竜助より3歳下)。父・忠通が1500石の小納戸のころ。
才能という点では、この忠久がもつとも光っていたかも。
なお、父・忠通はそれから20年生き、宝暦4年(1752)に76歳にみまかりました。
。
投稿: ちゅうすけ | 2010.03.10 13:45