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2010.03.09

一橋家老・新庄能登守直宥(なおずみ)

女中頭・お粂'(くめ 33歳)を相手に、むだ話をつづけた。
女将(おかみ)とわけありにおもえる平蔵(へいぞう 29歳)と見て、それとなく身上をさぐるような問いを発する。

かわすために、配りはじめたばかりの[化粧(けわい)読みうり]をわたした。

第1板は、「丸き顔を長く見する化粧の秘法」

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(佐山半七丸『都風俗化粧伝』東洋文庫より)

はじめは、
「女中顔といわれている私への、あてつけでございますか」
なじりながら、あとは口を閉ざして読みはじめた。

江戸には、丸顔のおんなが多いからと第1板にこれを推したのは、〔音羽(おとわ)〕の二代目元締・重右衛門(じゅうえもん 48歳)の新造・お多美(たみ 33歳)であった。
多美の推察どおりに、[読みうり]は元締たちのシマ内の仮店でよく売れていた。

そう告げると、おは、顔を赤らめながら、
「私どものこの仕事は、35までで、あとは枯れ尾花ですから、どうにかして32か3に見てもらえるように誤魔化すのが勝負なんです」
「おどのは、いまのままでも30前にしか見えないが---」
「お上手がすぎます。お冷やかしになると、女将さんにいいつけますから---」
にらんだ眸(め)には媚びが浮いていた。

(おんなには、お世辞が一番---)
京で[化粧読みうり]の板元を受けついでいる〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 39歳)の人生哲理であった。

料亭の仲居の年齢は35歳までといったおの言葉につられたように、雑司ヶ谷(ぞうしがや)の鬼子母神脇の〔橘屋〕からふっと消えたお(なか 40歳=安永3年)の面影がかすめた。
(おが姿を消してから、7年にもなる。そういえば、〔橘屋〕へも父が亡じてから足をむけていないが---)

参照】2008年8月7日~[〔梅川〕の仲居・お松] () () 
2008年8月14日~[〔橘屋〕のお仲] (1) () (3) (4) (5) (6)  (7) (
2008年11月29日[〔橘屋〕忠兵衛

「どなたのことを偲んでいらっしゃいますの?」
の声にあわてて、
「あは、ははは。なんでもない。おどのに似た美形の仲居がいた、雑司ヶ谷の料亭〔橘屋〕も、とんとご無沙汰してしまっていると気づいたまで---」
「ふっ、ふふふ。また、お上手を。〔橘屋〕さんといえば、お堅いことで知られておりますが、長谷川さまは、あそこのおんなの人とも、わけありだったのでございますか。隅におけません」

冗談に、笑いあっているところへ、里貴(りき 30歳)が入ってきた。
「楽しそうでございますこと」
座をゆずろうと膝立ちしながら、おが詫びをいった。
新庄さまも、さまも、お帰りでございますか? お見送りにもでないで、失礼いたしました」
「かまいません。長谷川さまをお一人にしたのは、私ですから」

出ていったおの足音が消えたところで、
「新家老どのの客は、どの---といえば、主膳正さま?」
「ご存じでございましたか?」
「いや。紀州勢のご重職としか---」

藪 主膳正忠久(ただひさ 53歳 5000石 寄合)の祖は、長福丸家重)が西丸入りしたときにしたがった紀州藩士のなかでも主だった一人であった。
42歳という若さで、宝暦11年(1761)に書院番の7の組の番頭を辞し、あとは無役の寄合に甘んじているのは、紀州勢の元締格として蔭で将軍・家冶の政務を支えているのだと、平蔵は亡父から聞かされていた。

里貴の亡夫の藪 保次郎春樹(はるき)と主膳正忠久との間柄は、訊かないことに決めていた。
口にだすと、いかにも妬(や)いているようにおもわれよう。
(おんなは、いまが幸せならば、むかしの男のことは忘れたいというぞ)

「例のものはお持ちになりましたか?」
「いや。いっしょに帰れるとおもったので---」
「いっしょでは目立ちます。一足先にお出になり、三河町あたりの酒屋で軽くおくつろぎになっていて---」
うなずいた平蔵の頬を、里貴が白い指先でそっとなぜ、微笑んだ。

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096一橋治済」カテゴリの記事

コメント

一橋家シリーズ、実はすごく気になっています。なにしろ、当主治済は色々と暗躍してそうな黒幕キャラですし。

治済の側室で十一代将軍になった家斉公の御生母・お富の方の父岩本内膳正も紀州党ですね。(佐藤雅美作品ではそういう言い方をしていました)
その岩本正利の養女が山村信濃の息子に嫁いでいたり、結構、山村家って抜け目ないような気がします。

一橋家に残る古文書を辻達也先生が調査して解説された「一橋徳川家文書摘録考註百選」という本が出ているようなのですが、その中に中井万太郎が一橋家に食い込もうとしていたと思われるものがあるようです。一橋家側の窓口になっているのがこのお題の新庄直宥のようです。
安永七年頃の話なので、この時期より少し後ですね。すごく気になったので、国会図書館に遠隔複写サービスを依頼しようと思っています。(頁指定できれば利用できるそうなので・・・・)

鼻が利く人たちっているもんですねえ・・・

投稿: asou | 2010.03.09 01:37

>asou さん
お富の方は、4日後の13日から登場します。
治済公の暗躍のことは、『剣客商売』にも書かれていますね。
辻達也さんの『一橋徳川文書摘録考註百選』、お教えありがとうございました。
早速、探してみます。

投稿: ちゅうすけ | 2010.03.09 03:25

【参照】2008年8月14日[〔橘屋〕のお仲]のご指示にしたがい、クリックしていくうちに、(6)で目がとまってしまいました。
銕三郎の実母---小説のお園さんではなく、史実のお妙さん---上総の寺崎の庄屋のむすめさん--が、お仲に告げた言葉に、ホロリとしてしまったのです。
小説では、銕三郎が2歳だかのときに卒したことになっていますが、史実では、平蔵の没する4日前まで生存していたとちゅうすけさんのこのブログにあります。
ああいう、人情がわかっているお母さんなら、姑さんとして付き合っていきたいと感じました。

投稿: tomo | 2010.03.10 06:25

>tomo さん
いつも、たのしいコメントをありがとうございます。
妙が長谷川家にはいったときに、備中・松山藩の元藩士・三原氏のむすめで宣雄の実母がまだ、長谷川家にいたがどうかは不明です。
宣雄の実父はまだ生存していましたから、いたかもしれないと推測もできます。
ただし、戒行寺の霊位簿には記録されていません。
もし、いたとすれば、武士の妻としての教育を、妙にしっかりほどこしたと想像できます。
牟祢(むね)は、幼少時に松山藩の上級藩士のむすめとして育てられていますから。

投稿: ちゅうすけ | 2010.03.10 07:21

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