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2010.03.11

一橋家老・新庄能登守直宥(なおずみ)(3)

「その薄着で、寒くはないのか?」
里貴(りき 30歳)は、わざと襟元を開いて白い乳房をさらし、
「寒いといったら、暖めてくださいますか?」
逆に問い返した。

(これで、ほんとうに、武家の内室であったのだろうか)
一瞬のおもいが表情にあらわれたらしい。

「はしたないとおおもいになるかもしれませんが、(てつ)さまだから、甘えているのですよ」
「まだ、終わっていないといったではないか。今宵は、新ご家老の新庄能登( 直宥(なおずみ 53歳 700石)さまへ頼みごとをしておられたという、さまのことを話してくれるはずではなかったのか?」

主膳正 忠久 ただひさ 55歳 5000石)の父・忠通(ただみち)は、八代将軍・吉宗の側近となった紀州衆のなかでは、異例に昇進した一人である。

もちろん、田沼主殿頭意次(おきつぐ 55歳 相良藩主)という例外はある。
紀州藩時代でも江戸藩邸で重きをなしていた有馬四郎右衛門氏倫(うじのり)と加納角兵衛久通(ひさみち)の1万石は別格である。

この2家のほかに、幕臣となって5000石の高碌を給されたのは、有徳院吉宗)の生母・浄円院お由利の方)の実家筋で甥・巨勢(こせ)六左衛門至信(ゆきのぶ)がその一人。

別格はもう一家ある。
長福丸(のちの将軍・家重)の生母・於須磨の実家・大久保の甥・八郎五郎往忠(ゆきただ)の5000石が、それである。

赤坂の藩邸で長福丸に小姓として任え、とともにニノ丸へ入った高井左門信房(のぶふさ)も加増がつづき、最終的には6000石を知行した。

つまり、藪家高井家はニノ丸3人衆と呼ばれ、閨閥ではなかった。

そのあたりのところまでは、平蔵もこころえていた。
しかし、いまは家治の世である。
吉宗からすでにニ代さがっている。
寵児も実力者も黒幕も代替わりしているはずであった。

「長年、ご用人衆をお勤めになっていた成田八右衛門勝豊 かつとよ)さまが、去年の6月、老齢を理由に辞されたことはご存じございますか? ご用人と申されても、100俵月俸10口と少碌なお方でしたからお目からこぼれていたことでしょう」
「老齢というが、お幾つであったな?」
「去年、67歳とか。享保13年(1728)から一橋さまへおはいりですから、かれこれ45年もお勤めだったようです」
「その後釜を、紀州勢でということだったのかな?」

新家老の新庄能登は、番頭上首の末吉善左衛門利隆(としたか 48歳 300俵)に訊いたうえで返事すると応えたらしい。
とうぜんの答弁である。
実務者の思惑を無視しては、いまの武家の社会はやっていけない。

長谷川家は、元今川方といっても、駿州・田中城を守っていたときに武田信玄勢の猛攻にあい、城を捨てて浜松へ走った。
しかし、譜代の者たちからは、今川衆とみられないでもない。
譜代の三河衆は、100年以上も経ているのに、今川義元氏真にいい感情をもっていない。
したがって、元今川衆の結束は堅くない。

紀州勢の結集力は、すごいな)
実感であった。
しかし、いまの平蔵にとって、紀州勢は、目の前の里貴ひとりといってよい。

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(末吉善左衛門利隆の個人譜)


     ★     ★     ★


『週刊池波正太郎の世界 13』[仕掛人・藤枝梅安 三]が送られてきた。

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東海道・藤枝宿は、『鬼平犯科帳』の盗人たち---〔瀬戸川〕の源七、〔五十海(いかるみ)〕の権平などの出身地だし、市の南部には、幕臣としての長谷川家の祖にあたる紀伊(きの)守正長がまもっていた田中城もあるので、10回近く訪問した。
梅安生まれたことになっている、東海道筋・伝馬町の神明社の拝殿の左手、アジサイの植樹のかげに、地元の梅安ファンの手で「生誕の地」という木碑が立てられているが、花どきには、アジサイが邪魔してかくれている。


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096一橋治済」カテゴリの記事

コメント

御三卿の家の人事ってすごく興味深いです。実は出世のバイパスコースなんじゃないかって気もします。

安永二年当時からかどうかはまだ調べていないのですが、文化年間の武鑑によると田安一橋の用人ともなると布衣で役高三百石に役料二百俵、ここから幕府の西の丸納戸頭などに転じることもままあったようで、
家格がさほど高くなく家録の少ない旗本には垂涎の的だったかもしれないです。
文化十三年の田安家の場合、八人いる
用人のうち家録百俵が二人、百俵三人扶持が二人いました。家格はおそらく小十人ではないでしょうか(寛政譜を調べないといけないでしょうが)

両番筋から御使番・徒頭を経て目付、奉行に進むエリートコース(大岡越前や遠山景晋)

お目見え以下あるいは両番筋でないお目見え以上から勘定方の登用試験を経て叩き上げていって場合によっては勘定奉行になるコース(小野一吉や根岸肥前)

この二つ以外のバイパスコースがもしかしたら御三卿の家のスタッフにはあったのかもしれないと想像しています。

逆に足高の制度ができてから、大身の旗本は、よほど使命感に燃えた人でないかぎり「お役に就こう」という気にはならなくなったんじゃないかという気もします。
この話に出てくる「藪さま」のように五千石ともなると、ほとんどの御役目が「持ち出し」になってしまうでしょうね。

投稿: asou | 2010.03.11 12:02

すいません、訂正です。
田安家用人の場合、「役高四百石、役料二百俵」でした。

役高三百石、役料二百俵は「田安家の御勘定奉行」の方でした。
こちらも家録百俵前後の旗本にとっては結構「おいしい」と思います。

投稿: asou | 2010.03.11 13:46

>asou さん
一橋家の用人、『文化武鑑』(柏書房)でご確認になったのですね。役料2000石とあるのが家老です(当初はお伝といったようです)。
ぼくは、安永の用人を『柳営補任』で調べました。これだと、前職と次職が書かれているので、asouさんの説を検証しやすいですね(まだやってはいませんが---)。もちろん、一人ずつ、『寛政譜』であたることもできますが、寛政と文化とではタイムラグがありますから---。
確定申告のまとめをしながらで、治済の周辺をしらべるのに手一杯の感じでぎゅうぎゅういってます。
それなのに、ツィッターなんかをはじめてしまって。困った性格です。
これから、一橋家の10万石の知行地の割り出しに図書館へ行ってきます。
甲斐以外ヒントがないので大弱りです。甲斐は、田沼失脚で相良と交換したのでわかっているのですが。

投稿: ちゅうすけ | 2010.03.11 14:50

>ぼくは、安永の用人を『柳営補任』で調
>べました。これだと、前職と次職が書か
>れているので、asouさんの説を検証しや
>すいですね
ありがとうございます。『柳営補任』がありましたね。
田安一橋用人のリストはたしか寛政のころまでは「柳営補任」に載っているのでしたね。すぐには無理でも、来週あたり図書館に行って、やってみようと思います。

投稿: asou | 2010.03.11 15:26

>asou さん
『新稿 一橋徳川実記』(これは紀ではなく記 1983.3.31 徳川宗敬刊行)の安永7年7月23日の項(p151)に、

河州楠葉村中井万太郎に領地御用を命じ、20人扶持を給す。

とありました。
一橋家の領地10万のうち、1万石ほどが摂津にあったからでしょう。

投稿: ちゅうすけ | 2010.03.13 10:20

ありがとうございます。
扶持を支給ということは完全な士分になるということなのでしょうか?
すでに「名字帯刀」は明和のころに許されているようなので(御触れ書き天明集成)、それまでは「浪人」という表現だったようなのですが・・・主君がいれば士分になるということに?
一橋家側も「御用達にするが、扶持は支給するかどうか」どうも最初は支給しないつもりだった様子もあるようで・・・
中井の一族は余程士分に対するこだわりがあったのでしょうか。
辻先生が古文書を調査解説されたものを今国会図書館にコピー依頼しているので、結果が待たれます。
御紹介の本は調べればこちらの県内にあるかもしれませんので探してみます。

投稿: asou | 2010.03.13 17:43

父親のほうは、郷士じゃなかったでしょうか?
つまり、土地もちの元武士。
旧『枚方市史』の記載は前に書きました。
万太郎は、農地改良の一種の技術屋だったようですから、そんなことで扶持がでたのでは?
楠葉村は幕領だったのか、一橋家へ下賜されていたのか、これから、調べてみます。

投稿: ちゅうすけ | 2010.03.14 08:10

鳶魚翁の話では郷士という言い方をしていましたし、当時の世間一般の認識でもそうだったのだとは思いますが、どうも幕府の認識というか法的な位置づけでは「浪人」という扱いになるようです。

『御触書天明集成』1949号によると

          浪人 中井万太郎
父二左衛門儀、度々 御為筋之儀申立、
多分之御益も有之候ニ付、子孫永々名字帯刀并河洲交野郡楠葉村住居差免候、以来
御為筋之存寄有之候ハゝ、支配之御代官え
可申立旨被申渡候、

これは明和九年二月に勘定奉行あてに出されたものらしいですが、幕府としては中井万太郎は「浪人」と認定しているのではないか、と思います。
また、小野直賢「官府御沙汰略記」にも、中井清大夫が支配勘定に取り立てられたときの記事に清大夫の出自を「大坂表 中井仁左衛門という浪人がいて、その弟である」と書かれており、幕府としてはあくまで「浪人」という表現になっているようです。

郷士とはなにか、浪人とはなにかという定義を私もわかってはいないのですが・・・
楠葉の中井のような人たちを郷士という概念があって、世間一般で言い習わしてはいても、幕府の公文書の上ではあくまで「浪人」なのではないか、と想像しています。

中井一族はおそらく江戸時代以前、兵農分離までは地侍というか土豪のようなものだったのではないか、とは思いますが・・・

投稿: asou | 2010.03.14 14:25

『天明集成』、書架のどこかにあるはずなんで、確かめてみます。
郷士は自尊称、処士、牢人、浪人は、武家階層の言葉だったのかも。

投稿: ちゅうすけ | 2010.03.14 17:32

羽曳野市元軽里在中の麻ですが、中井万太郎さんの名前が、過去帳に出てきました。枚方の磯村家、伏見の本陣北国屋 宇野家と関係あり。本行寺という寺も。私のとこも縁あるようです。よろしくお願いいたします

投稿: 麻 誠之助と申します | 2011.10.28 18:43

>麻 誠之助さん
ようこそ、いらっしゃいました。
羽曳野市元軽里にお住まいだそうですね。
まったくの奇遇です。ぼくは昭和20年に千代田台にあった大阪陸軍幼年学校49期として在校しており、日曜日には富田林や石川周辺をよく散策しておりました。

終戦の翌々夜、米軍が大阪に上陸したという虚報に本部があわてて閉校をきめ、深夜、歩いて古市駅から京都へ経由で帰省しました。

ところで、過去帳というのは、麻家のそれでしょうか? もし、そうなら、麻家と中井万太郎との関係をぜひ、お書きください。
わくわくしながら期待し、お待ちしております。

投稿: ちゅうすけ | 2011.10.29 07:29

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