平蔵宣以の初出仕
裃と袴は、亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)が26年前の初出仕に着たものであった。
母・妙(たえ 49歳)が、
「縁起のものだから---」
3日前に納戸からだし、陰干ししておいてくれた。
若い葉桜の緑がみずみずしい安永3年(1774)4月13日(旧暦)、長谷川平蔵宣以(のぶため 29歳 400石)は、西丸・書院番の第4番組の番士として初出仕した。
西丸の主は将軍家治(いえはる)の世子で、5年前の明和6年(1768)暮れに、大奥から移り住んでいた家基(いえもと 13歳)であった。
竹千代(たけちよ)から家基にあらためたのはその前、明和4年の元服時であった。
書院番第4組の番頭は、水谷(みずのや)伊勢守勝久(かつひさ 52歳 3500石)で、平蔵にとって、思惑どおりの番入りといえた。
与(くみ 組とも)頭は、牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 55歳)で、出仕の申し渡し奉書をうけてから数回、牛込築土下五軒町の屋敷を、あいさつの品ともども訪問しては、初出仕のこころえをたしかめておいた。
【参照】2010年2月1日[牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたか)] (1) (2) (3)
番頭、組頭につきそわれ、謁見の間でまっていると、家基があわられ、
「大儀。こころをいれて、はげむよう」
たどたどしく、それだけいって消えた。
あとは、4番ある西丸の書院番の番頭、与頭にあいさつし、組へ戻って50人いる藩士たちで、出仕している30人ほどと顔をつないだ。
師範掛として、(能見 のみ)松平忠左衛門勝武(かつのぶ 25歳 500石)に引きあわされた。
(どこかで見覚えのある仁だが---?)
記憶をたどっているうちに、
「初見がいっしょでしたな」
先方から、えにしをいわれた。
「やはり---」
平蔵も話をあわせた。
【参照】2009年5月13日[銕三郎、初見仲間の数] (2)
さすが、松平の一門である。
初見は6年前にいっしょにしたとはいえ、出仕は平蔵より3年はやい。
(もっとも、祖父からの遺跡相続も3年はやかったことは、あとで知れたが---)
「よろしく、お引きまわしのほどを」
軽く頭をさげると、
「手前のほうこそ。若年でござる」
えらの張っているので、齢よりは老(ふ)けて見える。
西ノ丸のあちこちを案内してくれながら、厠(かわや)の前で袴を脱ぎ、連れだって用をたしながら、
「ご内室は?」
「は?」
「お齢(とし)ですよ」
「22歳になります」
「ほう。熟(う)れどきですな」
「ご師範どのは?」
「青い実すぎる」
「は?」
「17歳になったばかりで---」
師範掛の妻は、朽木五郎左衛門徳綱(のりつな 26歳 600石)の腹違いの妹と、のちにわかった。
異母妹ということは、継母のむすめということになる。
(それにしても、異なところで、異な話題になったものだ)
前裾をおろしながら、平蔵はとんでもないことをかんがえていた。
(このところ、初出仕の支度にかまけ、御宿(みしゃく)稲荷のほうはご無沙汰だが、あさってあたり、訪(おとな)ってみようか)
【参照】2010年1月18日~[三河町の御宿(しゃく)稲荷の脇] (1) (2)
2009年12月25日~[茶寮〔貴志〕のお里貴(りき)] (1) (2) (3) (4)]
翌日の夕方、平蔵は駕篭屋の〔箱根屋〕の権七(ごんしち 42歳)のところにいた。
師範掛・勝武にかけられた謎を解くためである。
「長谷川さまが、そんなことにお気をおつかいになっちゃあ、なりやせん。ご自分をおいやしめになるだけでやす。そのご゙師範なんとやらにおっしゃってくだせえ。深川の黒船稲荷におもしれえところがあるらしい---と。あとは、あっしが引き受けやす」
(松平忠左衛門勝武の個人譜)
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