平蔵宣以の初出仕(2)
「賢丸(まさまる 17歳)さまの白河・越中侯へのご養子入りついて、何か耳にしておらぬか?」
躰をあわせた数がふえるにしたがい、平蔵(へいぞう 29歳)の言葉づかいが粗略になってきていた。
もっとも、1歳齢上の里貴(りき 30歳)にしてみると、そのほうが齢下になったようだと、かえって嬉しいらしい。
越中守とは、白河藩主(11万石)の松平定邦(さだくに 47歳)のことである。
賢丸は、いわゆる三卿の一つ---田安家の、3年前に卒した宗武(むねたけ 享年57歳)の3男、のちの老中首座をつとめた定信(さだのぶ)である。
【ちゅうすけ注】『徳川諸家系譜』によると、宗武の7男なのだが、平凡社『日本人名大事典』が、治察(はるあき)を嫡男とみなしてか、3男としているので、それにしたがった。
『徳川実紀』の安永3年(1774)3月11日の項は、
松平越中守定邦をめして。大蔵卿治察(22歳)卿弟賢丸をやしない。むすめにめあわせよと命ぜらる。
もちろん、将軍・家治からでた案ではない。
史家は、白河藩主・定邦が江戸城内での席を溜詰に格上げしてほしく、それには、徳川家との縁をより濃く---との策であったと見ている。
『新稿 一橋徳川実記』は、同年3月15日の項に、
田安宗武七男賢丸(定信)、松平越中守定邦の養子と定められるるにより、此日治済田安邸を訪(おとな)い、悦びを述ぶ。
幕府から田安家へのあてがい扶持は10万石、それを上回る11万石の白河藩への養子が決まったのであるから、まずは慶事といったおもむきである。
しかし、賢丸当人は、あとになって、そうはとらなかった。
半自伝ともいえる『宇下人言(うげのひとこと)』(岩波文庫)には、
賢丸を(松平)久松家へ養いにやりしは、もと心に応ぜざる事なれども、執政邪路のはからひよりせんかたなくかく為りしなれども、ゆるしたるはわれと治察と重臣なり。断絶するときは、いかに初のこといひわけたらんとて何のかひもありなん。
つまり、まわりの者たちのために、しぶしぶ田安の家をでたのだといっている。
もちろん、20年ほどのちのくり言ではある。
しかも、裏で画策したのは、老中・田沼意次(おきつく 56歳)だといわんばかりの文章である。
そこで、前掲『日本人名大事典』の筆者は、賢丸時代につき、「幼より英邁の誉高く」「早熟の才人であった」「松平家を相続したのも、時の老中田沼意次が、その英邁を忌憚したためであるといわれている」
---この事典、じつは戦前版を戦後に復刻したものである。
戦前の定信評、田沼評をうかがうために、わざわざ引用した。
里貴はすでに寝着で、夜も蒸すほどの季節だけに、胸元を大きくひらき、透けるように青白い乳房の谷間を見せていた。
2人のあいだの膳には、冷や酒の片口と、茶寮〔貴志〕から持ちかえったあわびしんじょがある。
「そうですね」
片ひざを立てた。
寝着の裾がわれ、向かいの平蔵の側からは、太ももの奥まで見えた。
無理に視線をそらし、つぎの言葉を待つ。
「先日、橋向こうのお屋敷の新庄さまと坂上のご用人の朝比奈さまがご会食なさったときに小耳にはさんだのですが、なんでも、大蔵卿さまのご体調がすぐれないようで、白河さまをお戻しになりたいので、民部卿さまのお力をおかりになりたいとか」
翻訳すると、一橋家の家老・新庄能登守直宥(なおずみ 53歳 1000石)と田安家の用人・朝比奈六左衛泰有(やすなり 54歳 500石)が会食し、田安家の嫡男・大蔵卿治察の体調がよくないので、白河藩へ養子にだした賢丸あらため定信を戻してもらうための工作に、一橋家の当主・治済の力添えをたのみたい、ということである。
(朝比奈六左衛門昌繁の個人譜)
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