茶寮〔貴志〕のお里貴(りき)(4)
松造(まつぞう 22歳)を遣いにだすとき、太作(たさく 55歳)に道筋をよく訊いてゆくように言葉を足した。
太作には5年前、北本所の石原町(現・墨田区石原2丁目)の書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら 55歳 150俵)の屋敷を訪ねさせたことがあった。
「齢のせいで、うろ覚えだども、三ッ目ノ橋をわたっての、法恩寺橋からの道を西へ4丁ばっかいくと、徳山(とくのやま)さまのお屋敷のある石原町へでる。その手前を右手にとってすぐのあたりで、ま一度訊くことだな」
太作は、齢とともに気がゆるむと郷里の上総弁が多くでるようになった。
【参照】2008年9月29日~[書物奉行・長谷川主馬安卿] (1)
主馬安卿の家の者の返事だと、明後日が宿直(とのい)明けだから、午後なら在宅しているとのことであった。
書物奉行は音物(いんもつ 贈り物)が少ない。
家の者としては、平蔵宣以(のぶため 28歳)の訪問は、大歓迎であった。
「有徳院殿(吉宗)に従って二の丸入りし、その後、500石から600石前後の録高にすすみ、数年前に歿した仁のう。これはむずかしい。姓の一字とか、どのあたりに屋敷があったとか、ちょっとした手がかりはでもあればのう」
「それが、かけらほども---紀州藩での知行地に貴志村がふくまれていたやもしれないといった程度でして---」
長谷川主馬は、5年前よりも薄くなった髷(まげ)を傾け、
「うーむ、どのように探せばよいものか。10日か15日もお待ちいただくことになりますぞ」
「かまいませぬ。よろしゅうにお頼みもうします」
帰り道、平蔵は、
「おれは、なんのために、こんなことにかかずらわっておるのか」
つぶやいた。
が、かつて経験したこともないほど底の深そうな謎に挑戦する、若者特有の向こう見ずな勇気と、なぜともしれない不安にもひたっていた。
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