茶寮〔貴志〕のお里貴(5)
「お里貴(りき 30歳)を可愛がってやってくだされ。あれは、ふしあわせなおなごゆえ」
明かりが途絶えている三十間堀ぞいを、用意の提灯で足元を照らし北へ歩きながら、田沼意次(おきつぐ 56歳)の言葉を反芻していた。
供の松造(まつぞう 23歳)は先に帰しておいた。
(ふしあわせとは、どういう意味であろう?)
【参照】2010年1月19日[三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇] (2)
2010年1月29日~[貴志氏] (1) (2) (3)
里貴には、たしかに、謎めいたところがある。
紀州藩士・藪 保次郎春樹(はるき 享年27歳=明和4年)の妻だとは言った。
その春樹という夫は6年前に亡じたともいった。
もうひとつつぶやいたのは、ふるさとが紀伊国那賀郡(ながこうり)貴志村ということであった。
貴志村が里貴の生家の知行地であったのか、あるいはそこの村むすめで、その美貌と透けるほどに白い肌に魅せられた・藪 保次郎春樹が、縁者の藩士の養女という形を経て娶ったか。
しかし、それでは、田沼意次とのつながりが薄すぎる。
春樹の没後、今夕招かれた別邸に引きとられた要因にならない。
もしかして、主殿頭の隠し子?
(いや、里貴は30歳、おれが生まれた延享3年(1736)の1年前だ)
主殿頭はいま56歳だから、延享2年には26歳。
意次は江戸の弓町の屋敷で生まれている。
享保19年(1734)、16歳のときから竹千代(のちの家治)に小姓として仕えた。
よほどに怜悧であったのであろう、3年後には従五位下、主殿頭(とのものかみ)を受けている。
そのあいだ、江戸を離れていないから、お里貴が意次のむすめとすると、弓町の屋敷での出事(でごと 情事)の実りとなる。
お里貴の母親は、紀州の貴志村から田沼家へ奉公へあがっていたおんなであろうか。
そのころ、意次は、伊丹家から室をむかえていたが、病床にあったようだ。
嫡男の竜助(りゅうすけ のちの意知 おきとも)は、黒澤家からの継室から寛延2年(1749)の生まれだから里貴の4歳下という計算になる。
真福寺橋の手前、大富町の木戸番で時刻を訊いた。
まもなく五ッ(午後8時)と教えられた。
三河町の御宿(みしゃく)稲荷へは、小半時(30分)とかかるまい。
四ッ(午後10時)に木戸がしまるまでには、行って帰りつける。
橋をわたった。
打ちあわせておいたとおり、表戸をこぶしの脊で三つ叩き、ひと呼吸おき、また三つ叩いた。
戸が小さく開けられた。
するりとはいり、後ろ手にしめる。
「どうなさいました?」
いつものように、浴衣に着替えていた。
尻に手をやって引きよせ、耳を噛み、
「田沼侯に、不思議なことをいわれ、気になったので訊きにきた。すぐ、帰る」
意次の言葉を伝え、
「どういう意味だ?」
「わたしはいま、銕(てつ)さまとこうなって、しあわせだとおもっています」
「現在(いま)のことではない、里貴の生まれかなにかにつながっているのではないのか?」
「生まれは、紀州の貴志村です」
「そこを知行していたのは?」
「知行地ではありません。金剛峰寺さんの支配地です」
「すると、生家は、村長(むらおさ)かなにか?」
「いいえ、自家百姓でした」
「そのむすめが、どうして武家の妻に?」
「養女という形をふみました」
「やはりな---」
「申しあげますと、銕さまに嫌われるかもしれません」
「なぜだ?」
「貴志村は、帰化した者たちの村なのです」
「ずっとずっと昔のことであろう?」
「村人は、村人同士で嫁とり婿とりをつづけるよう.にしてきました」
「------」
「ほら、お嫌いなになった---」
「違う。が、田沼侯はそのことをご存じなのか」
「はい。ご老中さまの先々代が、お代官をなさっていて---」
「もう、いい。言うな。拙は、里貴をいとおしいとおもうだけだ。田沼侯のおっしゃるように、可愛くおもうことにかわりない。今夜は遅いから、帰る。明後日は同輩と飲む。その翌日、来る」
「うれしい。お待ちしています。この季節だと、ごいっしょに、行水ができます」
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