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2010.03.26

平蔵宣以の初出仕(7)

大川に架かる新大橋の西詰、菅沼新八郎定前(さださき 11歳 7000石)など3家の旗本がだしている辻番所を、まず、のぞいた。

昨夜の番人が目ざくとく認め、菅沼家へ告げに走ろうとしたのを引きとめ、
「昨夜の浪人者は、いかがいたしたかな?」
「朝のうちに、茅場町の大番所へとどけました」
「どこの藩の浪人と申していたかな?」
「駿州・相良藩とか」
本多長門どのだな」

本多長門守忠央(ただなか 64歳)は、相良藩(1万石)の藩主・若年寄であった48歳のとき、(郡上 くじょう)八幡藩の一揆がらみで改易となり、お預けとなったが、のち、許され、いまは養子の兵庫助忠由(ただよし 40歳 500俵)の湯島天神下の屋敷に寓居していた。

参照】2007年8月12日~[徳川将軍政治権力の研究] () ()  () () () () () (

(郡上八幡藩の手落ちを糾弾なされたのは、相良に封じられた田沼侯と、父上から聞いている。そのときの藩士に襲われ、捕らえたのも、なにかの因縁。しかし、そうとわかって逃がしてやれば、ほかの誰かを斬ったろう)

あと味は悪かった。

供侍の桑山友之助(とものすけ 41歳)に、菅沼家に訪(おとな)いを告げさせた。
家老が請け、謝絶したにもかかわらず、客間へ招じいれられてしまった。

7000石の大身の屋敷にふさわしい、美人の召使が茶菓を置いていくと、すぐに当主・新八郎(じつは、元服前なので藤次郎)が家老と34,5歳に見える品のいい女性とともにおらわれた。

藤次郎です。こなたは母者です」
母者と紹介された女性は、平蔵を瞶(みつめ)て、意味ありげに微笑んだ。
(武家出の室にしては、艶っぽい後家だな)
ふっと頭をかすめたが、藤次郎が、剣は何流をお遣いで---と訊いてきたので、視線をそちらへ移し、
「一刀流でした」
「---でしたとは?」
母者のほうが聞きとがめた。

「師が去年、逝かれました」
「なんと申される道場ですか?」
「本所出村町にありました高杉道場と申す、小さな稽古場でございました」

昨夜の経緯は辻番の者から聞いたが、
「見事な剣遣いとか---」
母者が艶っぽい目でいった。

「恐れいります。ほんの子どもだましみたいな---」
「目録はお持ちでしょう?」
「はい」
藤次郎をお教えくださいませぬか?」
「なにをお仰せられますか。当家のご当主であれば、どこの道場でも喜んでお迎えいたしましょう」

母者は、於津弥(つや)と名乗った
藤次郎がひ弱な質(たち)なので、ふつうの道場に入門させたが、気おくれしてすぐにやめてしまうのだと説明した。

藤次郎を見やり、
「西丸に出仕をしたばかりなので、非番の日にしかさらってさしあげることができませぬが、高杉道場では、最初の半年は、毎日、鉄条入りの木刀を振らされ、まず、筋肉を鍛えてから、技の稽古にはいりました。おやりになれますか?」
「それをやれば、長谷川どののように強くなれますか?」
「つづけば---」
「やります」

津弥が、微妙な笑みとともにうなずいた。
「鉄条入りの木刀をつくらせるのに、10日ほどかかります。できたころの非番の日にお持ちいたします」

津弥が家老に合図をした。
式台のところで渡された紙包みには、3両(48万円)も入っていた。

平蔵は、うち2両を、臼井村の剣友・岸井左馬之助(さまのすけ)に送り、出府できないかと問いあわせた。
(嫁をもらい、所帯をはっていたら無理かもしれないな。それりならそれで、結婚祝いだ)


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(菅沼藤次郎定前の個人譜)


       ★     ★     ★

15

いつものように週刊『池波正太郎の世界 15』[堀部安兵衛・おれの足音]が送られてきた。
どちらの作品も、男が成長していく物語である。とくに、大石内蔵助がおりくを迎えた初夜のもようが引用されており、さすが---と、うなった。女性の池波ファンがふえるわけである。


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