平蔵宣以の初出仕(7)
大川に架かる新大橋の西詰、菅沼新八郎定前(さださき 11歳 7000石)など3家の旗本がだしている辻番所を、まず、のぞいた。
昨夜の番人が目ざくとく認め、菅沼家へ告げに走ろうとしたのを引きとめ、
「昨夜の浪人者は、いかがいたしたかな?」
「朝のうちに、茅場町の大番所へとどけました」
「どこの藩の浪人と申していたかな?」
「駿州・相良藩とか」
「本多長門どのだな」
本多長門守忠央(ただなか 64歳)は、相良藩(1万石)の藩主・若年寄であった48歳のとき、(郡上 くじょう)八幡藩の一揆がらみで改易となり、お預けとなったが、のち、許され、いまは養子の兵庫助忠由(ただよし 40歳 500俵)の湯島天神下の屋敷に寓居していた。
【参照】2007年8月12日~[徳川将軍政治権力の研究] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)
(郡上八幡藩の手落ちを糾弾なされたのは、相良に封じられた田沼侯と、父上から聞いている。そのときの藩士に襲われ、捕らえたのも、なにかの因縁。しかし、そうとわかって逃がしてやれば、ほかの誰かを斬ったろう)
あと味は悪かった。
供侍の桑山友之助(とものすけ 41歳)に、菅沼家に訪(おとな)いを告げさせた。
家老が請け、謝絶したにもかかわらず、客間へ招じいれられてしまった。
7000石の大身の屋敷にふさわしい、美人の召使が茶菓を置いていくと、すぐに当主・新八郎(じつは、元服前なので藤次郎)が家老と34,5歳に見える品のいい女性とともにおらわれた。
「藤次郎です。こなたは母者です」
母者と紹介された女性は、平蔵を瞶(みつめ)て、意味ありげに微笑んだ。
(武家出の室にしては、艶っぽい後家だな)
ふっと頭をかすめたが、藤次郎が、剣は何流をお遣いで---と訊いてきたので、視線をそちらへ移し、
「一刀流でした」
「---でしたとは?」
母者のほうが聞きとがめた。
「師が去年、逝かれました」
「なんと申される道場ですか?」
「本所出村町にありました高杉道場と申す、小さな稽古場でございました」
昨夜の経緯は辻番の者から聞いたが、
「見事な剣遣いとか---」
母者が艶っぽい目でいった。
「恐れいります。ほんの子どもだましみたいな---」
「目録はお持ちでしょう?」
「はい」
「藤次郎をお教えくださいませぬか?」
「なにをお仰せられますか。当家のご当主であれば、どこの道場でも喜んでお迎えいたしましょう」
母者は、於津弥(つや)と名乗った
藤次郎がひ弱な質(たち)なので、ふつうの道場に入門させたが、気おくれしてすぐにやめてしまうのだと説明した。
藤次郎を見やり、
「西丸に出仕をしたばかりなので、非番の日にしかさらってさしあげることができませぬが、高杉道場では、最初の半年は、毎日、鉄条入りの木刀を振らされ、まず、筋肉を鍛えてから、技の稽古にはいりました。おやりになれますか?」
「それをやれば、長谷川どののように強くなれますか?」
「つづけば---」
「やります」
於津弥が、微妙な笑みとともにうなずいた。
「鉄条入りの木刀をつくらせるのに、10日ほどかかります。できたころの非番の日にお持ちいたします」
於津弥が家老に合図をした。
式台のところで渡された紙包みには、3両(48万円)も入っていた。
平蔵は、うち2両を、臼井村の剣友・岸井左馬之助(さまのすけ)に送り、出府できないかと問いあわせた。
(嫁をもらい、所帯をはっていたら無理かもしれないな。それりならそれで、結婚祝いだ)
(菅沼藤次郎定前の個人譜)
★ ★ ★
いつものように週刊『池波正太郎の世界 15』[堀部安兵衛・おれの足音]が送られてきた。
どちらの作品も、男が成長していく物語である。とくに、大石内蔵助がおりくを迎えた初夜のもようが引用されており、さすが---と、うなった。女性の池波ファンがふえるわけである。
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