平蔵宣以の初出仕(6)
「長谷川---さん」
師範掛の松平忠左衛門勝武(かつのぶ 25歳 500石)がもしばらくためらったのち、「長谷川」の下に、「---さん」と尊称をつけた。
「さん」つけをしたら、師範掛の格が下がるとでもおもっていたにちがいない。
まあ、幕臣の格は、一に職分、ニに先任後任、三に家禄、四に年齢だから。彼の場合は、一、二、三で平蔵(へいぞう 29歳)に長じている。
だから、別に「---さん」づけすることもない。
しかし、先刻、平蔵の後ろ楯に、老中・田沼主殿頭意(おきつぐ 56歳 相良藩主 3万石)がついていることがわかった。
役人の世界で、後ろ楯の強弱は、一、二、三に優先した。
しかし、後ろ楯をひけらかすと、周囲から嫌われる。
だから、平蔵は、田沼侯の名を、人前で口にしたことは、ほとんど、ない。
なくても、自然にささやかれていくものらしい。
忠左衛門勝武だとて、松平の一門だから、後ろ楯は悪くはないが、能見(のみ)は、庶流と見られている。
額田郡能見(現・岡崎市能見町)を本貫としていた。
「長谷川---さん。田沼侯のご用件は?」
「さしたることではございませぬ。お知り合いの本草学者。平賀源内(げんない 46歳)先生からさずかった竹節(ちくせつ)人参が根づいたかとのご下問でした」
「ちくせつにんじん?」
「偽朝鮮人参です。下僕の老後の手すさびににと、平賀先生からいただいたのです」
松平勝武は、それで納得したような面貌になった。
(田沼侯は、おれが西丸・書院番士として出仕したのをお気にかけたくださり、わざわざ、西丸までお廻りにきてくださった)
平蔵は、田沼意次の気くばりに感謝したが、田沼のこの声かけにより、平蔵は田沼派と目され、のちのち、門閥派に冷遇されることになったのは、ここでの話題ではない。
勝武の顔を見ているうちに、〔箱根屋〕の権七(ごんしち)の、
「深川の黒船稲荷のあたりにおもしえれところがある」
との言葉を伝えまでもなさそうだと判断した。
| 固定リンク
「001長谷川平蔵 」カテゴリの記事
- 口合人捜(さが)し(5)(2012.07.05)
- 口合人捜(さが)し(3)(2012.07.03)
- 口合人捜(さが)し(4)(2012.07.04)
- 口合人捜(さが)し(2)(2012.07.02)
- 口合人捜(さが)し(2012.07.01)
コメント
初出仕の士には師範掛がつくということを、初めて知りました。現在だと、学卒をいっせいに教育しますが、江戸幕府では欠員が出来次第、小普請入りして待命したいた者の中から呼びこまれるわけですから、一人対一人という贅沢な師範掛ですね。
投稿: 文くばり丈太 | 2010.03.25 09:45
>文くばり丈太 さん
いつも、勇気づけてくださり、ありがとうございます。
師範役というのを発見したのは、長谷川平蔵の政敵・松平左金吾が先手組の鉄砲組の組頭を自らすすんで志望したとき、松平庄右衛門親遂(ちかつぐ)が師範掛として左金吾にあてられた史実から教えられました。ただ、記録はあまり目にしていません。
投稿: ちゅうすけ | 2010.03.26 05:14