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2010年4月の記事

2010.04.30

〔蓑火(みのひ)〕のお頭(13)

白粉問屋〔福田屋〕では、長谷川平蔵(へいぞう 30歳)を目ざとく見つけた一番番頭の常平(つねへい 48歳)が、
「おどん」
仕事の手をとめたお(かつ 33歳)に、手をふり、そうではないと示した。

「ご当主・文次郎どのに頼みごとがある」
常平が奥へ小走りに消え、やがて、文次郎(ぶんじろう 41歳)ともどもにあらわれ、中庭に面した座敷へ招じた。

「南伝馬町2丁目の両替商〔門(かど)屋〕の店主をご存じなら、番頭ともども、こちらへ来てもらいたいのだが。店の命運にかかわるほどの話だと伝えてくださってよろしい」

番頭の常平が、あわてて座敷をでていった。
〔野田屋〕は、京の小町紅の仕入れ代金などの為替決済などに〔門屋〕を使っていると文次郎が話し、平蔵が相槌をうちながらお茶をすすっているまに、〔門屋〕の店主・嘉兵衛(かへえ 55歳)と番頭・富造(とみぞう 62歳)が伴われてきた。
嘉兵衛は、胃の腑でも患っているのか、痩せて、青黒い肌をしていた。

道々に常平が説明したのであろう、額が畳につくほどにお辞儀をしたが、目尻には、武家の若造に為替のことがわかってたまるかといった気負いがみえた。

「〔門屋〕どの。お忙しいのにわざわざお運び願ったのは、金蔵(かねぐら)が、日本一の盗賊に狙われているからです」
嘉兵衛もと富造も、さすがに、表情をあらためた。
気配を察した文次郎と常平が、こころのこりな顔で座をはずした。

「この2年、いや3年---そうだな、5年がうちに新しく雇いいれた者の名と、齢かっこう、その役どころを書いてみなさい」

2人が相談をし、富造が書いてさしだした紙を見、
岩次郎 52歳 下男
を指さし、
「この仁を雇いいれたのは?」
「3年前です。信濃・佐久郡の岩村田城下の、同業の〔春日屋〕さんの請(う)けで---」
「その〔春日屋〕を介して雇った者は、この書き出しの中には、ほかにおらぬかな?」
「はい、5年前に小僧として入り、いまは手代をしております由三(よしぞう 19歳が---」

平蔵は、〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ 54歳)のおそろしいほどの遠慮と深謀をしり、身がふるえほどに感銘を覚えた。
(〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 享年33歳)が心酔したのも当然だ)

その〔蓑火〕は、軍者(ぐんしゃ 軍師)の一人であったおを盟友・〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 55歳)に譲り、備前岡山の浪人で〔殿さま栄五郎(えいごろう 30半ば)という、頭も剣の腕も秀でたのを軍者として配下にくわえたという。

参照】2008年11月2日[『甲陽軍鑑〕] (

〔門屋〕はおろか、〔福田屋〕へもおへも報復の手がおよばないように、〔蓑火〕一味に手を引かせるには、〔殿さま栄五郎のものの考え方をもうすこし知りたい。

こういうときに、おまさ(19歳)の父親・〔(たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 享年53歳)がいてくれたら、どれほどこころ強いか。

参照】2005年2月12日{[鶴(たずがね)〕の忠助]
2008年4年29日~[{盗人酒屋〕の忠助] () () () () () () (

参照】2010年4月26日~[〔蓑火(みのひ)のお頭] () (10) (11) (12) (14) (15) (16

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2010.04.29

〔蓑火(みのひ)〕のお頭(12)

下城の帰り、鎌倉町横丁の角で足袋・草履をあきなっている〔遠州屋〕へ立ちよるのが、平蔵(へいぞう 30歳)のきまりになっていた。

〔遠州屋〕は、老夫婦がやっている小さな店で、むすめと婿夫婦は神田須田町で草履問屋をやっているとのことであった。

店の横の3畳の部屋を借りたとき、長谷川と名乗ったら、「あの、行人坂の大火の火付け人を逮捕してくださった火盗改メの長谷川さまのご縁の方かと訊かれ、そうだと応えたら、一もニもなく承知してくれた。
大火にあったが、むすめ婿が店を再建してくれたと自慢もされた。

3畳の間では話もできはないから、万吉(まんきち 24歳)と啓太(けいた 22歳)をいちいち竜閑橋北詰の茶店へつれだすのは不便でもあったが、そのうち、心得て、時刻になると、2人は先にきて茶を飲んでいるようになった。

2丁西の御宿(みしゃく)稲荷脇の里貴(りき 30歳)の家で打ちあわせることも考えたが、なにも2人に里貴との仲を教えることもないと断じた。

この日、万吉が新しい報らせを告げた。
見張っていた〔尻毛(しりげ)〕の長吉(ちょうきち 31歳)が動いたといった。
「指の脊ぇまで毛むくじゃらどしたよって、まちがいおまへん」

7日前に平蔵が尾行(つ)けたのとまったく逆の道順をたどり、外堀端から南大工町と南鍛冶町のあいだの道を南伝馬町2丁目へでる手前で、あたりに人影がないのを見すまし、猫の鳴き声を真似たという。
すると、商家の裏手とおもえる路地から、50男があらわれ、何かを手わたし、ちょっと会話してすぐに別れ、〔尻毛〕はそのまま、引き返したというのである。

万吉どん。でかした」
「その商家、両替屋で〔門(かど)屋〕いいます」

平蔵が、にっこりと面持ちをくずし、
「見張りはそこまでだ。〔遠州屋〕を引き払おう。ついでに、そろそろ、貞妙尼(じょみょうに 享26歳)ことも忘れられたころあいだ、〔音羽(おとわ)〕の元締にお願いして、京へ戻してもろおう」

顔をみあわせた万吉啓太は、複雑な表情をし、
「どないしても、京へ戻らなあきまんやろか?」
「なんだ、なじみのおんなでもきたのか?」
そうではなく、平蔵の下で密偵の仕事をつづけたい、という。

「それはいかぬ。おれは平の書院番士として出仕して2ヶ月にもならぬ。火盗改メになるのは30年も先であろうよ」
2人はしょげかえった。

ちゅうすけ注】平蔵が実際に火盗改メを下命されたのは30年先ではなく、22年先ではあった。

〔遠州屋〕の老夫婦に、礼として小粒をひとつひねって押しつけ、その足で日本橋通3丁目箔屋町の白粉問屋〔野田屋〕へまわった。


       ★     ★     ★

『週刊 池波正太郎の世界 20 幕末新撰組/近藤勇 』(朝日新聞出版)が送られてきた。

N

A_2タイトルにもかかわらず、巻末[わたしと池波作品]は『鬼平犯科帳』で久栄夫人役の多岐川裕美さん。
ぼくは撮影所で出をまっている裕美さんを見かけたことがある。
鬼平の居間からつづいている廊下が左手へおれたセットで、この日はカメラが狙わない場所の椅子に、引く裾をまくって坐り、30分間ほどもじっと動かないで、役への没入をしているふうで、役者さんもたいへんだなあとおもった。

ぼくだって、このブログを書くためにパソコンへ向かう前には、手当たりしだいに文庫『鬼平犯科帳』をとりあげ、どのページでも開いて数ページ読んでから、キーをたたきはじめる。


参照】2010年4月26日~[〔蓑火(みのひ)のお頭] () (10) (11) (13) (14) (15) (16

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2010.04.28

〔蓑火(みのひ)〕のお頭(11)

「とりわけの用があったわけではないのです。近くまできたので、万吉啓太の両人を借りたお礼をいいたくて---」
元締・〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 49歳)は笑い、
長谷川さま。ご用もねえのにお訪ねいただける間柄になっていることのほうが、嬉しゅうございやす」

万吉(まんきち 24歳)と啓太(けいた 22歳)は、京・祇園の元締・〔左阿弥(さあみ)〕の円造(えんぞう 60すぎ)のところの若い衆だが、在京時代の平蔵が、〔貞妙尼(ていみょうに)を殺害した僧たちを割りだすための密偵として使った。
ほとぼりを冷ますために、江戸の〔音羽〕の元締のところへ隠れさせた。

参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] () () () () () () (

「昼餉(ひるげ)には、ちと、早うござんすが、軽く---」
案内にたち、母親・おくらがやっている音羽8丁目の表通りに面した料理屋〔吉田屋〕へ、裏から入っていった。
それだけ親しみをあらわしたつもりであろう。

おっかけるようにあらわれて座についた内儀・お多美(たみ 33歳)に、お(かつ 34歳)への気づかいを謝した。
「とんでもおへん。ほんまぁのお化粧指南の技を若い娘(こ)ぅたちに仕込んでやってもろて、こっちぃこそ、おおきにおもうてますねん」

重右衛門が訊いた。
長谷川さま。万吉どんと啓太どんでお手が足りてやすか? 足りなかったら、遠慮なさらないで、いいつけておくんせえ」
「手はいまのところ足りています。が、元締。〔蓑火(みのひ)〕という盗賊(つとめにん)のお頭のことを耳になされたことはありませぬか?」
「盗賊のお頭で、〔蓑火〕? いっこうに---」
「それならよろしいのですが---」

「それよりも、先日、似顔絵を50枚ばかりいただき、シマ内の仮店に配りやした〔荒神こうじん)〕の助太郎(すけたろう 55がらみ)とお賀茂(かも 35歳前後)を見かけたという報(し)らせは、まだとどいておりやせん」

賀茂(かも 36歳)の人相書はお(かつ 34歳)とお乃舞(のぶ 15歳)の証言で、助太郎のは松造(まつぞう 24歳)と宇都宮から上布させた近所の者の記憶により、〔耳より〕の紋次(もんじ 32歳)が懇意にしている町絵師・長谷川伯斉(はくさい 56歳)が描いた。

それを木版に彫り、刷ったものを元締たちに50枚ずつわたし、それぞれのシマ内の店に配ったのが7日前であった。

長谷川さま。北千住は〔花又(はなまた)〕の茂三(しげぞう)元締がこころがけておりやす。しかし、東海道の第一の品川宿、中山道の同じく板橋宿、それに甲州路の新宿の元締衆にも手伝ってもらってはいかがでやしょう。手くばりはあっしがいたしやすが---」
平蔵に否やはなかった。

「その3宿の元締衆が、もし、〔化粧(けわい)読みうり〕をやりたといったら、これまでの元締衆への仲もよしなに---」
音羽〕の元締は、自分の顔が売れることゆえ、二つ返事で了解した。、


参照】2010年4月26日~[〔蓑火(みのひ)のお頭] () (10) (12) (13) (14) (15) (16

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2010.04.27

〔蓑火(みのひ)〕のお頭(10)

小石川大塚町の斜(はす)向いの菅沼藤十郎定享(さだのり 46歳 2022石)邸は、ゆうに2000坪はありそうなほど、広大であった。
もちろん、大塚町という、台地ではあるが、府内のはずれに近いところなので、広い屋敷地をたまわっているのであろう。

門構えも塀(その実、家士や下僕の長屋の脊)も堂々としている。

脇玄関まで、筆頭与力・脇屋清吉(きよよし 200石)が迎えにでていた。
2年ごしの沙汰なしの詫びごとが互いに終わり、
「日本橋川から西の事件になりそうなので、助役(すけやく)の松田善右衛門勝易 かつやす 1230石)さまのお手のうちかとおもいましたが、目当ての主がどうやら神田橋に近いところを足場にしておるやに見えますのと、脇屋さまとのなじみのこともありまして---」
平蔵(へいぞう 30歳)のいい分に。、
「よくぞ、覚えていてくだされた。日本橋から北は本役、南は助役と、一応はきまってはおりますが、何分にも相手が相手ですから、並みの役所のように縄張りどおりとはいかないことは、上つ方もお認めになっておりますゆえ、一向にかまいません」

平蔵は、まだ、しかとしたことはわからないので、しばらくは下僕に見張りをさせてかおくが、機が熟したら一報すねゆえ、それまではなにごともなかったふうに扱ってほしいと頼み、ついでの折りにでも、菅沼のお頭から、西丸・書院番4の番頭・水谷出羽守勝久(かつひさ 54歳 3500石)へひと声かけておいていただくと、休みがとりやすいと申しのべた。

脇屋は承知し、費(つい)えは遠慮なく請求するようにとうながした。

小石川大塚吹上の通りを富士見坂へ向かって歩きながら、平蔵は妙なことになったと、胸中でつぶやいていた。
(〔蓑火(みのひ)〕の喜之助(きのすけ 57歳)の盗人宿にいる〔尻毛(しりげ)〕の長助(ちょうすけ 31歳)のことを明示しなかったのは、なぜであろう?)

いまは四谷の戒行寺(現・新宿須賀町9)の長谷川家の墓に分骨が眠っている〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 享年33歳)に問いかけた。

(お、どうしてだと、おもう?)
が笑った。

(てつ)さま。『孫子』の[虚実編]にいうではございませんか。兵を形(あらわ)すの極(きわ)みは、无形(むけい)に至(いた)す。无形なればも、深閒(しんかん)も窺(うかが)うこと能(あた)わざるなり(こちらの布陣の最善は形にしないことである。無形であれば、相手方が潜入させている間者も報告のしようがない)」

深閒---そうか、火盗改メの同心はもとより、密偵もつけいる隙がない。

(しかし、なんのために?)

「それは、さまが、〔蓑火〕のお頭に好意をおもちだから、捕まらせたくないのでしょう?」
「なにを馬鹿な。〔蓑火〕は盗賊だぞ」
「わたしもお見逃しになりました」
「それは---」
「盗賊にも器量人はいます。げんに、〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛(いちべえ 55歳)お頭の探索から手をお引きになったではありませんか?」

参照】2010年2月11日~{蓮沼(はすぬま〕の市兵衛] () () () () () (

架空の問答をつづけている間に、〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 49歳)の家の前に立っていた。


参照】2010年4月26日~[〔蓑火(みのひ)のお頭] () (10) (11) (12) (13) (4) (15) (16

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2010.04.26

〔蓑火(みのひ)〕のお頭(9)

(おや、あれは〔尻毛しりげ)〕の長助?)
外堀の東沿い、鍛冶橋をすぎた横丁からついと前にでた、指の脊まで毛むくじゃらの30男に、長谷川平蔵(へいぞう 30歳)はひとりごちた。

わずかに猫背ぎみのうしろ姿も、〔尻毛〕の長助(ちょうすけ 31歳 )にそっくりであった。
長助とは最初、8年の前に、阿記(あき 享年24歳)の見舞いに、芦ノ湯村へ急いでいた六郷の渡し場で会った。
美濃(みの)国方県郡(かたがたこうり)尻毛(しっけ)村(現・岐阜県岐阜市尻毛)の出身なのだが、手足の指まで黒い毛が密生しているために、仲間うちでは(しっけ)と呼ばれないで(しりげ)と愛称されている。
30年近くのちに、長右衛門と改めて『鬼平犯科帳』の一篇を飾った。

参照】2008年7月25日[明和4年(1767)の銕三郎(てつさぶろう)] (

のちに、〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ 54歳)の配下の小頭格の一人と知った。
その後、姿は見せない[蓑火〕の喜之助を介し、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 享年33歳)やお(かつ 33歳)、小浪(こなみ 35歳)、さらには〔五井ごい)〕の亀吉(かめきち)といった盗(つと)め人と知りあった。

参照】2008年8月29日~[〔蓑火(みのひ)〕のお頭]  (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (
2008年10月23日~[〔うさぎ人(にん)・小浪] (1) (2) (3) (4) (5) (6)  (

供の一人の松造(まつぞう 24歳)に、〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(49歳)元締に預かってもらっている万吉(まんきち 24歳)と啓太(けいた 22歳)を借りうけ、屋敷に待たせておくようにいいつけた。
「10日はお借りすることになろうと、丁重に断っておいてくれ」

南横町西会所で手ばやく袴をとって供の者に持たせて帰し、着流しで尾行(つ)けつづけた。
一石橋をすぎ、竜閑橋をわたり、鎌倉町横道の荒物商い〔信濃屋〕へ入っていった。
しばらく見張ったが出てこないので、〔信濃屋〕は〔蓑火〕の江戸での盗人宿の一つとふんだ。

三ッ目の通りの屋敷へ帰り、しばらくすると、万吉啓太がやってきた。
見張りと尾行の仕事だというし、2人とも喜んで、
「京都でやったののおさらいやよって、大事おへん」
胸をはった。

門番小屋の隣の物置につかっていた空き部屋を片づけ、当座の寝ぐらとしたが、すぐに見張り所に泊まりこむことになる。

翌日、若侍・桑島友之助(とものすけ 42歳)に、与(くみ)頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 55歳 800俵)あての欠勤願をとどけさせた。
添え状には、火盗改メ本役・菅沼藤十郎定享(さだゆき 45歳 2022石)の役宅となっている小石川大塚町に近い屋敷へ注進におよびたいことがある旨を認(したた)めた。

前任・赤井越前守忠晶(ただあきら 49歳 1400石)が京都東町奉行へ転じたあと、先手・弓の2番手組頭と同日(安永3年3月20日)に菅沼定享が火盗改メを命じられていた。

目白台に組屋敷がある先手・弓の2番手の与力・同心たちとすれば、役宅が15丁ほどの近まになり、内心、大歓迎であったろう。

菅沼邸で門番になじみのある筆頭与力・(たち)伊織(いおり)に刺を通すと、伊織は数年前に卒し、息・朔蔵(さくぞう 20歳)が勤めにでているが、いまの筆頭は次席であった脇屋清助(きよよし 47歳)であるが、どちらに取りつぐのかと問われた。
脇屋与力とも話しあったことがあった。

参照】2009年12月11日[赤井越前守忠晶(ただあきら)] (
2009年2月8日[高畑(たかばたけ)の勘助] (

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(菅沼藤十郎定享の個人譜)


参照】2010年4月26日~[〔蓑火(みのひ)のお頭] (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16

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2010.04.25

女将・里貴(りき)のお手並み(3)

長谷川さま。牟礼(むれい)さまがお着きでございます」
襖の外から里貴(りき 30歳)が声をかけると、牟礼郷右衛門勝孟(かつたけ 55歳 800俵)は、やっと掌を離した。

里貴が、「与頭(くみがしら)さま」と役職名でなく、親しみをこめて「牟礼さま」と姓を告げてくれたことに、牟礼は親身を感じた。
場所柄からいって、かなりの重職たちが利用している茶寮〔貴志〕である。
牟礼の西丸・書院番与頭(くみがしら)などは、この店ではいかにも軽々しかろう。

型どおりのあいさつの交歓のあと、
長谷川うじ。里貴どのの心くばり、感心のいたりでありますぞ。倅・千助(せんすけ 14歳)がもう5年早く生まれてくれており、里貴どのがもう10歳ほど遅くお生まれになっておれば、ぜひにもと懇願しましたであろう」
牟礼は手ばなしであった。

ちゅうすけの蛇足)手は襖の前で離れていたと書いたばかり---。

里貴は大仰にのけぞり、
「こんなおばあちゃんで申しわけございません」
齢にこだわってみせた演技であった。

「それも、牟礼さまのお気くばりによっておりましょう」
平蔵(へいぞう 30歳)が、さりげなくお世辞を発した。

女中頭のお(くめ 33歳)の指図で、膳がはこばれた。
「静かだが、ほかの座敷は?」
気づいて牟礼が訊いた。

「お断りしてあります。だって、私が牟礼さまにお礼をする夕べでございますもの」
「それは恐縮至極。国持ちのお大名衆にでもなったようなここちだ」
「存分におくつろぎくださいませ」
里貴は、つきっきりであった。

急におもいついたといったふうに、
「この春のお城での謡はなんでございました? 4年前に招きがあり、落縁の隅で拝観いたしました」
1月3日の恒例の謡曲始の式のことをいっている。

「それはそれは。それがしは西城の書院番士として出仕して以来、25度も新春の祝いを経験しておるが、観能の式典の席に着いたことは一度もなくての---はっ、ははは」

能がおわると、将軍が着ていた肩衣(かたぎぬ)を脱ぎ、観世太夫に授ける。
つづいて老中・若年寄が準じた。

猿楽の徒には、井桁に積みあげた銭緡(ぜにさし)が報償された。

ちゅうすけ注】銭緡については、『鬼平犯科帳』文庫巻1[浅草・御厩河岸]で、密偵・岩五郎いわごろう)が緡売りに出る場面で、「当時の銭は〔穴あき銭〕であるから、これを藁(わら)でよった緡へそ差して束(たば)ねてえおく。この緡の内職は火消役屋敷の小者の内職なのだが、岩五郎はこれを仕入れて売り歩く」

「猿楽衆へ賜う銭緡は、ご書院番のご進物役の方々がお積みあげのなるとお聞きしておりますが---」
やんわりと里貴が謎をかけた。

たしかに、銭差しの積みあげ役は、進物の士の仕事の一つでもあった。
ただし、進物の士は、本丸10組、西丸4組の書院番組からのみ出るのではない。
本丸6組、西丸4組の小姓組番士からも、、それぞれの組から5名ずつ選ばれる。
合計で120名の進物の士がいることになる。

参照】2010年4月11日[内藤左七直庸(なおつね)] ((

牟礼与頭も平蔵も、里貴の胸の内をたちまち察した。
先日、そのことを話しあったばかりであった。
もつとも、平蔵は、わが家の歴代で進物の士の名誉を受けた者はいないと、半分、あきにらめていた。

里貴がかけた謎の成果も大きかったろう、この年(安永4年)の11月11日、40人ばかり選ばれた進物の士のな中に、平蔵の名もあった。


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(長谷川平蔵宣以の個人譜)


_100ちゅうすけのつぶやき】働く女性が増えた---というより、大事な仕事の大きな部分を女性が担っている今日、女性にどう協力してもらうかが、上司としての器量であろう。
数年前、パトリシア・コーンウェルという米国の女性作家が、スカーペッタというヴァージニア州の検視局長をヒロインにすえたシリーズを日米で大ヒットさせた。3万枚の読者カードを分析した結果、専門職についている日本女性の願望は、スカーペッタのようにセックス関係抜きの男性の後ろ楯であることがわかった。

平蔵里貴の関係は、男性側は不倫といえようが、器量と器量がむすびついた関係と称してもよかろう。


参照】2010年4月23日~[女将・里貴のお手並み] () (

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2010.04.24

女将・里貴(りき)のお手並み(2)

「ようがす。加平(かへい 24歳)によっくいいふくめておきやす」
駕篭屋〔箱根屋〕の主(あるじ)・権七(ごんしち 42歳)が引き受けた。
加平は〔箱根屋〕の舁(か)き手なのだが、平蔵(へいぞう 30歳)の密命をうけて、時次(ときじ 22歳)とともに三河町の〔駕篭徳〕に詰めている。
一橋北詰の茶寮〔貴志〕で飲食を終えた客だけを乗せ、帰る屋敷を手控えて平蔵へ報じてきた。
加平時次の正体は、まだ、里貴(りき 30歳)にはあかしてない。

安永4年1月16日、平蔵は夕餉(ゆうげ)を、与頭(くみがしら)の牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 55歳 800俵)と摂(と)ることになっていた。
牟礼与頭のほうから、〔貴志〕の女将・里貴に会いたいとのぞんだのである。

参照】2010年4月11日[内藤左七直庸(なおつね)] (

牟礼与頭が里貴のこころづくしに感服したことのおこりは、じつは平蔵のさしがねであったのだが。

参照】2010年2月1日~[与頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ)] () (

〔牛込(うしごめ)築土(つくど)下五軒町にある牟礼の屋敷へ、加平たちの迎えの駕篭が七ッ半(午後5時)の小半刻(30分)前に達しているように、権七に念を入れたのである。

もちろん、里貴には、当日の飲食代と送り迎えの駕篭料、手土産には本町1丁目の菓子舗〔鈴木越後〕の折箱代として、お(かつ 34歳)から渡された6朱(6万円)を前渡ししていた。

Photo
(当時、江戸一番の菓子舗といわれていた〔鈴木越後〕
『江戸買物独案内』 文政7年 1824刊)

ちゅうすけ注】2007年5月28日[宣雄、先任小十人頭へご挨拶
森山孝盛が上記に記している〔鈴木越後〕の菓子折が1両(16万円)もしたというのは、森山特有の誇大癖といえようか。「手記」を冷静に読むと、自分であつらえたことではなく、噂を記しているとしかおもえない。田沼時代をことさらに悪くおもわせるためである。
どんなに高くても、2朱(2万円)もとったらほかとの競争に負け、松平定信の緊縮時代はおろか、維新まで店がもったはずがない。
維新時の当主が「うちの味が、薩摩や長州の田舎者の舌にわかってたまるか」と店を閉めたという伝説がのこっている。
2006年06月06日[『鬼平犯科帳』のもう一つの効用

(おへ返すのは、〔化粧(けわい)読みうり〕の板元料のあがりの裾分けが権七からきたときにすればいい)
平蔵は勝手にきめこんでていた。
いい気なものである。
とはいえ、おんなたちが平蔵につくすのは、平蔵にそなわってっている徳と、やさしさのためもある。
現代の上司も、女性の部下に慕われ.るかどうかで、業績の半分近くが左右されるともいわれている。

牟礼与頭の駕篭が着いた。
玄関先で待ちかまえていた里貴が先頭にたち、駕篭から降りる勝孟に白い手をさしのべて躰を支えたのには、その背後にいた女中頭のお(くめ 34歳)が、あやうく驚きの声を発するところであった。
開業から2年半になるが、客にそのようなことをした里貴を見たことがなかったからである。

はづかしかることなく掌をあずけた牟礼は、
「長女にしてもらってから、このかたのことである」
悦にいり、履物を脱いでも放さなかった。
里貴里貴で、片手は牟礼の腰に添えられていた。


参照】2010年4月23日~[女将・里貴のお手並み] () (

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2010.04.23

女将・里貴(りき)のお手並み

「与(くみ 組)頭さま。ちょっとお耳を---」
江戸城内の黒書院の前の廊下で、平蔵(へいぞう 30歳)が、すれ違った牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 55歳 800俵)を柱の陰にいざなった。

安永4年(1775)の新年の行事が片づき、城内の晴れがましさ、あわただしさも平常にもどった10日過ぎであった。
「茶寮〔貴志〕の女将が、お運びいただける日と時刻をうかがってほしいとのことでした」
「む?」
「いつぞやのお礼に、一夕、お招きしたいと---」
「さようか。そちもいっしょであろうな?}
「はい」

16日の七ッ半(午後5時)ということに決まった。
牟礼与頭は非番の日であり、平蔵は当直(とのい)ではなかった。

「では、そのように伝えます」
「うむ」
なにごともなかったように別かれた。

:下城のとき、供の松造(まつぞう 24歳)に、その旨をしたためた文をもたせ、自分は日本橋通3丁目箔屋町の白粉問屋〔福田屋〕へ向かった。

一番番頭の常平(49歳)が目ざとく認め、たすき掛けで仕事をしていたお(かつ 34歳)に声をかけた。

「出られるか?」
うなずき、
「お(せん 28歳)さん、あと、おねがいね」
たすきと前掛けをお乃舞(のぶ 16歳)へ渡し、ついてきた。

浮世小路の蒲焼〔大坂屋〕の2階の小座敷に落ち着いた。
酒は、まだ仕事中ですからと断ったので、平蔵だけが呑み、白焼きにすこしだけ箸をつける。

「その後、新大橋西の奥方はどうなっている?」
新大橋西詰に屋敷がある菅沼藤次郎(とうじろう 12歳 7000石)の母親・於津弥(つや 36歳)のことを訊いた。
藤次郎の剣術の稽古が日暮れ前にあがると、平蔵はそのまま辞去していた。
津弥も、
「四ッ目の別荘でお酒のご相伴を---」
口説いたことは忘れたみたいに、ほとんど顔を見せない。

のほうは月に4度ほど、〔野田屋〕の仕事のあと、お乃舞とともに髪結い、化粧という名目で呼ばれているが、化粧は湯殿で、3人とも裸姿でおこなっている。

参照】2010年4月18日[お勝と於津弥] 

「ええ。無難に勤めてますが、そろそろ、葭町(よしちょう)のほうへお引きあわせをと---」
葭町には、陰間茶屋があった。
売れない役者も座敷をつとめていた。

「それはいかぬ。目付に知れると、菅沼家が断家される」
「どうすればよろしいのですか?」
「もうしばらく、つつづけておいてくれ」

話題を変えた。
京都で評判をとった、むくの木の皮を煎じた髪の艶(つや)をたかめる祇園町の〔平岡油〕は、江戸にきているか訊いた。
「いいえ」

参照】2009年10月26日[貞妙尼(じょみょうに)の還俗] (

芝神明一帯の香具師(やし)の元締・〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 45歳)を〔野田屋〕の主・文次郎(41歳)ところへ相談にやるから、祇園町の〔平岡油〕の話をしてやってくれ」

平蔵とすれば、いろいろ世話になっている〔愛宕下〕のに、なにか儲け口を授けてやりたかった。
〔愛宕下〕がとりしきっているお披露目枠のひとつに、芝神明前に〔花露屋〕という伽羅之油を商っている店があった。

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(〔花露屋〕 『江戸買物独案内』文政7年 1824刊)

ここに〔神明油〕をつくらせ、〔野田屋〕ほかで売らせれば、〔愛宕下〕の伸蔵の手元にもいくばくか利益の分け前がころがりこむと考えたのである。

「おのほうにも、売り上げの分戻(ぶもど)しが入るだろう」
(てつ)さま。もしかして、お手元が不如意なのでは?」
「おのほうは、どうなのだ?」
京都のときの六分ほどに落ちているが、お乃舞のかせぎもあるから、ゆとりはあるとの返事をしながら、脊をむけ、
肩から細い組紐で斜(は)すに脇腹におとしている小さな巾着を胸元から引きだし、ニ朱銀を3枚(6万円)、懐紙をひねって差し出した。

「ここでの持ちあわせは少なくて。つぎには、もっとご用意しときます」
店が忙しいから、先に失礼すると立ち、
(てつ)さま。たまには真剣をお使いください。あのころのことをおもすだすと、腰がしびれてくるんですよ」

顔も赤らめず、階段をおりていった。
(おんなも、三十路(みそじ)なかばともなると、直截(ちょくせつ)だなあ。この小粒は返しておいたほうが無難のようだ)


参照】2010年4月23日~[女将・里貴のお手並み] () (


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2010.04.22

同期の桜(4)

(ひで 18歳)に夕餉(ゆうげ)の礼と、
「良いややを産むように」
はげまし、妻恋稲荷の脇をぬけて本郷通りの方へ帰る浅野大学長貞(ながさだ 28歳 500石)には、来春には奉書がくるであろう、と勇気づけた。

妻恋稲荷から連想が御宿(みしゃく)稲荷へ飛んだかして、妻恋坂を東に下りながら、
(まだ、六ッ半(午後7時)をすぎたころあいであろう。ちょっと寄って行くか。しかし、妻恋坂で久栄(ひさえ 22歳)でなくて、里貴(りき 30歳)をおもいだすというのも、不謹慎ではあるな)
かすかに声にだして苦笑した。

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(妻恋明神社 『江戸名所図会』塗り絵師:ちゅうすけ)

池波さん流に書いてみる。
ものの本によると、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征のときの宿営の地がここと。
帰途、上野(こうずけ)国碓氷(うすい)の峰で「吾(あ)が嬬(つま)よ」といわれたのにちなむと。
嬬・弟橘媛(おとたちばなひめ)は身を沈めて嵐を鎮めた。

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(弟橘媛入水 『江戸名所図会』塗り絵師:ちゅうすけ)

蛇足をくわえると、弟橘媛は神奈川県川崎市のあたりの女性ともいう。
現地妻の気配。
戦前の小学校では、そんなふうに教えなかった。

御宿(みしゃく)稲荷には、珍しく、まるで迎え灯ともおもえる灯明が灯っていた。
(この灯に招かれたのかも---)

戸を拳の脊で3つ叩き、間をおいてもう一度、叩いた。
戸をへだてて気配が伝わってきた。
いつものことながら、期待が股間からあがってくる。

板戸が3分ほどあいたので、視線を周囲の走らせてから躰を斜(しゃ)にしてすりぬけた。
もどかしげにつっかい棒をかませた里貴(りき 30歳)は、桜色の寝着の上に羽織った緋色の丹前の前をひらき、はげしく抱きついてきた。

「どうした?」
「だって、7日ぶりですもの」
「そんなことを、勘定しているのか?」
「切なくて---」
「ちょっと、顔を見に寄っただけだ」
「いや!」

口を吸い、
「お酒、足りてますか?」
「夜風で、醒めてきた。冷やでいいよ」
「どこからのお帰りですか?」
「妻恋町」
「おさん、障(さわ)りなく?」

手早く、酒と大豆煮が膳に配された。
あいかわらず、盃でなく小椀であった。

初見(はつおめみえ)の同期の松平忠左衛門勝武(かつのり 27歳 500石)が、療養のために大晦日の前に役を辞するので、その送別の宴の打ちあわせであったが、盟友3人のほかに参加をいってきたのは、三浦左膳義和(よしかず 23歳 500俵)一人きりであったことをばらすと、
「三浦さましおっしゃると、お遊喜(ゆき)のお方さまの---」
「孫だ」

「(清水宮内卿)さまは、わたしと同じ延享2年(1746)のお生まれですから、ことさらに、耳ざとくなります」
松平万次郎と名乗りを与えられ、宝暦8年(1758)、15歳で清水の館へ住んだ。

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』で、役宅が清水門外となっているが、清水家の呼称はこの門によるのかもしれない。
2008年2月24日[本所三ッ目へ] (

こんなうわさを耳にしたことがあると、里貴が笑いながらささやいた。
九代将軍さまは、頭脳は明晰であったが、お言葉だけでなくお躰もご不自由ぎみであったように洩れている。
ご不自由なお躰でお子をおつくりになるのは、さぞかしたいへんであったろうと。

「こんなふうではなかったかとの、うわさがあります」
上にまたがり、股間に顔をうずめた。

       ★     ★     ★

週刊『池波正太郎の世界 19』[真田太平記 四]がいつものように送られてきた。
申しわけないような、ありがたい気持ちでお受けしている。

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この号でもっとも啓蒙されたのは、筒井ガンコ堂さんの「井波 (上)」。
池波さんの先祖が富山県井波の宮大工であったことは、エッセイで知っていた。

『鬼平犯科帳』のかすかな核がメグレ警視ものであると推測をつけ、シムノン家の先祖が住んでいた、ベルギーのリンブルグ州庁舎の人にヴィレンティンゲン村のその家まで案内してもらったこともあった。

また、富山県出身の盗賊が、『鬼平犯科帳』文庫巻12[いろおとこ]の〔鹿熊〕の音蔵、〔舟見〕の長兵衛、〔神子沢〕の長兵衛、〔松倉〕の清吉、おせつをはじめとして、10数名も創造されていることから、故郷へのおもいが強いことは推察していたが、ガンコ堂さんの文章で、豊子夫人も訪ねさせるほどの執着であったことを初めてしり、見えない血の濃さというものをしみじみ感じた。

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2010.04.21

同期の桜(3)

(てつ)が、先刻、提案した本所のしゃも鍋の---」
「ニッ目の橋の北詰、〔五鉄〕」
佐左(さざ)の発言に、平蔵(へいぞう 29歳)が応えた。

佐左とは、西丸・書院番第3の組の番士の長野佐左衛門孝祖(たかのり 28歳 600俵)がことの、盟友仲間での呼び名である。

左膳(さぜん)がくるといえば、縁につながろうと考えなおす輩(やから)が集まってくるかもしれない。そうなると、その〔五鉄〕で歓送会が開ける」
左膳こと、三浦左膳義和(よしかず 24歳 500俵)は、西丸の小納戸だが、祖母・於遊喜(ゆき)が九代将軍・家重(いえしげ)の情愛をうけ、万次郎を産んだ。
万次郎は、のちの三卿の一---清水家を立てた。

於遊喜は、浪人・三浦五郎左衛門のむすめだが、家譜にあるとおり、(形原)松平又十郎親春(ちかはる 500石)の養女ということで形をととのえた。
五郎左衛門の系譜は不明であるが、幕臣にとり立てられ、500俵を給された。

佐左の発案だが、よしたほうがいい。そのような下ごころの者が集まっても、忠左(ちゅうざ)は喜ぶまい」
このたびの手くばりをした浅野大学長貞(ながさだ 28歳 500石)が否を入れ、平蔵が肯首した。
「しゃも鍋は、おれたち3人だけの寄りあいの場所にとっておこう」

松平といえば、長野郷左衛門孝祖も入り養子である。
実家は、(久松松平の分流・孫四郎勝友(かつとも 500石)で、その次男。

ちゅうすけ注】長谷川家は、(久松松平とのかかわりが少なくない。
マイナス側をいいたてると、筆頭は老中・松平定信平蔵田沼派とみたか、あるいはもののかんがえ方が田沼的とみなしたかして、家財を減らす火盗改メに足かけ8年間をすえおき、借財をふくらませたばかりか、父にも息子の辰蔵にも授賜した諸太夫(従五位下、なんとかの守)を与えなかった。
2006年7月28日[トップの情報源] 
もう一人は松平左金吾定寅(さだとら 2000石)。
2009年8月16日~[現代語訳『よしの冊子』(,まとめ)] () () () () () (

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(三浦左膳義和の個人譜)


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2010.04.20

同期の桜(2)

「で、(だい)。忠左(ちゅうざ)の屋敷は、どこだ?」
長谷川平蔵(へいぞう 29歳 400石)が、盟友・浅野大学長貞(ながさだ 28歳 500石)に訊いた。
忠左とは、西丸・書院番第2の組の番士・(能見松平忠左衛門勝武(かつつぐ 28歳 500石)のことである。
この年(安永3年 1774)の大晦日(みそか)ちかくに番を辞して無役となり、療養に専念することになった。

忠左の屋敷は、番町御厩(おうまや)谷であった。
「そのあたりは、裏四番町だったな」
本多采女紀品 のりただ 61歳 2000石)さまの屋敷から坂をくだったあたりだ)
平蔵は、火盗改メをしていた本多紀品の仮牢や白洲のつくりを見学したことがあった。

参照】2008年2月18日~[本多采女紀品] () (
 
左膳は?」
大学長貞が呼びかけた15名の中でただ一人、参加と返事したのが、三浦左膳義和(よしかず 28歳 500俵)であった。
左膳の屋敷は表四番町と聞き、
「なんだ、隣組か---」

「じつは、あちこちから集まるとおもっていたので、本所・二ッ目の橋東詰のしゃも鍋〔五鉄〕の2階を予定していたのだが、は市ヶ谷牛小屋跡だし、佐左(さざ)は本郷元町、忠左左膳が四番町では、本所は遠すぎる。変わりばえしないが、飯田町中坂下の〔美濃屋〕か、市ヶ谷八幡境内の〔万屋〕しか顔がきかぬ」
「市ヶ谷八幡は番町には近いが、高い石段が忠左の躰にはこたえよう」
浅野大学が心配した。

ちゅうすけ注】市ヶ谷八幡宮の境内の料亭〔万屋〕で座敷女中をしていたのが、『鬼平犯科帳』文庫巻4[おみね徳次郎]のおみねである。
また、巻6[狐火]では、鬼平おまさを呼ぶ。
---平蔵がおまさをみちびいた場所は、市ヶ谷八幡宮境内にある〔万屋(よろずや)〕という料理茶屋の〔離れ〕であった。ここは平蔵なじみの茶屋だ。

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(市ヶ谷八幡 石段上右に料亭 本殿右斜め前に茶屋
『江戸名所図会』部分 塗り絵師:ちゅうすけ 拡大図

「〔美濃屋〕の酒はうまい」
長野佐左衛門孝祖(たかのり 28歳 600俵)の誉めことばで決まった。

三浦左膳は、去年の5月から西丸・小納戸(こなんど)として勤めていた。
「要するに、大番組とか小十人組とかの勤務の士は、西丸は縁が遠いというわけだ」
佐左が直言したが、平蔵大学は相づちをうたなかった。

(職場の縁が薄いということもあろうが、初見(しょけん)がいっしょという縛りそのものに無理があるのだ)
もともと、地縁、血縁、同じ釜の飯縁、同門縁にはかなわない。
こころが通っていない縁は弱い。
金(かね)つながりであっても、金の切れ目が縁の切れ目---というではないか。


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2010.04.19

同期の桜

「集まるのはこれだけか?」
長野佐左衛門孝祖(たかのり 28歳 600石)が不満声をだした。

「すまぬ。15人ほどに声をかけたのだが---」
申わけなさそうに、浅野大学長貞(ながさだ 28歳 500石)が謝った。
「大(だい)さんが謝ることはない。これが現実というものだ」
平蔵が慰めた。

ところは、妻恋町(つまこいちょう)のお(ひで 18歳)の寓居であった。
西丸の若年寄・鳥居伊賀守忠意(ただおき 壬生藩主 3万石)から、佐左(さざ)の室の実家・藤方(ふじかた)家がお叱りをうけたが、長野佐左衛門は、懐妊7ヶ月のおのこころの安寧をおもんぱかって、屋敷には戻していなかった。

参照】2010年4月3日~[長野佐左衛門孝祖(たかのり)]  () () (
2010年4月9日~[内藤左七直庸(なおつね)] () () (

それで、盟友3人には格好の顔合わせ場所ともなった。

こんどの集まりを提案したのは、佐左衛門であった。
6年前の明和5年(1768)12月5日に、この年だけの特例だが、2回目の初見(はつおめみえ)があり、10ヶ月間溜まっていた幕臣の子弟150名ばかりが一挙にすませた。

参照】2008年12月5日~[銕三郎、初お目見(みえ)] () (4) (5) (6) (7) (8) 
2009年5月29日[ちゅうすけのひとり言] (34

あの日、家禄が300石以上の者が60名ばかり、興奮して、これからも同期の集まりをしようと誓いあった。
しかし、いざ、集まりを呼びかけてみると、参集したのは半数にも満たない20名であった。
家格と家禄の開きが大きすぎた。
上の6500石、4500石といった大身家からみると、300俵級の者と付きあう気にはならない。
300俵の者とすると、2000石の家の子息は煙ったい。
年齢差もあった。17歳からみると、35歳はおじいさんである。

そんなこんなで、400石から700石、20歳から30歳までの15名が長つづきしたが、その集まりも間遠くなってきてはいた。

15名の一人---(能見松平忠左衛門勝武(かつつぐ 27歳 500石)が、この12月28日かぎりで西丸・第2の組を辞して静養することになった。
つまりは、出仕がかなわぬ病気もちとなったのである。
勝武の兄も躰が弱く、役につくことなく卒していた。

送別会の呼びかけは、まだ出仕していない浅野大学が引きうけた。
ところが、参加をいってきたのは、勝武のほかには、西丸・小姓組の三浦五郎左衛門義和(よしかず 23歳 500俵)だけであった。

「同期を誓いあっても、歳月が経つと、こんなものか」
佐左(さざ)やおれはいい。(だい)だって両番(小姓組と書院番士の家格)だから、空(あき)待ちだ。しかし、このまま役をまちつづけて一生を終わる者もいるのだ」
平蔵が、悟りきった声で話した。

「われわれだって、いつ、卒するかわかったものではない。明日、ころりと逝くかもしれない」
大学の一族、浅野内匠頭長矩(ながのり)は松の廊下で刃傷事件をおこした晩に切腹を命じられた。

「そういえば、人は、生まれたときから死に向かって歩きはじめる---と喝破した文人がいたな」
「だれだ?」
池波正太郎という文人だ。いまから300年ほどあとに、(てつ)のことを書いた」
「ふん」

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(松平(能見)忠左衛門勝武の個人譜)

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2010.04.18

お勝と於津弥

「ご内室さま。化粧(けわい)の具合・不具合は、その日のお肌のありようによります。湯化粧と申しすとおり、湯上りがもっとものりがよろしいのですが---」
(かつ 「33歳)のすすめで、於津弥(つや 35歳)は、すぐに風呂の用意を命じた。

乃舞(のぶ 15歳)が手提げの化粧箱のぬか袋をあらためた。
目ざとく認めて、
「とくべつにあつらえたものか」
「越後米のぬかに、馬歯莧(うまひゆ)を煮出して乾かした粉がまぜてあります。毛穴の脂気をのぞきます」
「馬歯莧とは、初めて聞く」
「若いむすめたちがにきびで悩んでいるとき、この草を煎じた湯で顔をあらいます」

平蔵(へいぞう 29歳)は、おを於津弥へ引きあわせせると、あとはおんなたちにまかせ、庭で藤次郎(とうじろう 11歳)の竹刀を受けていた。
始めて4ヶ月がすぎた藤次郎は、いまでは毎朝と夕べ、鉄条2本入りの木刀を息をあがらすことなく、60回は振りきっている。

湯殿がにきわしくなった。
洩れてくる嬌声を気にしている平蔵に代わり、浴室をのぞいて見よう。

なんと、湯で顔の毛穴をひらかせる於津弥ばかりか、おもお乃舞もすっぱだかではないか。

津弥は洗ってもらったらしい、つやつやした髪をうえにまるめ、すきどめにしていた。
その鉄火おんなふうの髪型が気にいっらしく、湯気の曇りをいくどもぬぐわせながら、お乃舞がささげている鏡を、湯舟の中からのぞきこんでいる。

「ご内室さま。お肌をおととのえますから、この腰かけにおかけください」
のみちびきにしたがった於津弥の背中をお乃舞がぬか袋でこすった。
ひらかれた股のあいだに腰をおちつけたおは、首すじから乳房へむけ、ぬか袋を泳がせ、わざと乳首に触る。
はじめはそのたびに、眸(め)を見ひらいていた於津弥も、そのうちに頬を上気させてきた。

のぬか袋が下腹へおり、
「ご内室さま。殿方は、ここの毛並みを気になされます」
「どのまように?」
「からまると、殿方の切っ先が傷つきます」
「どのように整えるのか?」
「軽石で先端をこすり切ります」
「整えてくだされ」

の小指の先が秘頂を軽くなぶりながら、軽石が動く。
弥津の躰がぐらりと右に傾き、湯舟もたれた。
左手がおの肩に置かれた。

「ご気分でも---?」
問いかけには、かすかに頭をふり、ひたりきっている。
その顔に、お乃舞が絞った手拭をあてて蒸した。

「ご内室さま。いまいちど、湯におつかりくださいませ」
意思のない人形そっくりに、重そうに腰をあげ、湯へ。
と、お乃舞がすばやくいっしょに入り、乳首を吸いはじめた。

ちゅうすけ注】いやはや。こんなはしたない場面をのぞくことになろうとは---。
たち3人---お乃舞とその妹・お(さき 12歳)が菊新道(きくじんみち)の旅籠〔山科屋〕へ落ち着いたとき、訪ねていった平蔵が、3人を浮世小路の蒲焼の〔大坂屋〕へつれだした。

蒲焼に大喜びの姉妹の横の、おが、
「なにかお気になさっていることがおありのようですが---」
問われて、つい、お津弥のあつかいに困っていると打ちあけてしまったのが、この日の経緯(いきさつ)を招いたらしい。
なりの報恩のつもりであった。

ついでに記しておくと、おは日本橋3丁目通箔屋町の白粉問屋〔福田屋〕に筆頭化粧指南師として復職でき、お乃舞はこの1年間に修行した髪結い師として同じ職場ではたらくようになった。
妹のおは、〔福田屋〕から楓川をはさんだ対岸の大原稲荷社脇に借りたしもた屋で家事をこなしている。

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2010.04.17

久栄の懐妊

「身ごもったようです」
夕餉(ゆうげ)のとき、久栄(ひさえ 22歳)がうちあけた。

辰蔵(たつぞう 5歳)、(はつ 2歳)につづく3度目の孕(はら)みなので、あっさりした口調であった。
「生まれるのは?」
「月のものが停まったのがこの月の初めですから、来年の夏ごろかと。近く、とりあげ婆さまのところで診(み)てもらいます」
「なにはともあれ、めでたい」
「猫腹だとおっしゃられるかと、おもっていました」

「なにをいう---子は多いほどよい」
そう答えてから平蔵(へいぞう 29歳)は、30人兄弟姉妹で、おんなの10番目と自嘲ぎみにいった菅沼家の後家・於津弥(つや 35歳)が、暗夜の階段の踊り場でもたれかかってきた重い躰の感触をおもいだした。
(なんということだ、おもいだすにもこと欠いて---今夜あたり、久栄を寝間へ招いておくか)

辰蔵---と、男、おんな、ときましたから、こんどは男かとおもわれます」
「その男とおんなが、いまのところ、無事に育っているのだから、つぎはどちらでもいい」
「いいえ。わたくしの顔つきがきつくなったから、男でございましょうと、有羽(ゆう 40歳)が太鼓判をおしてくれました」

有羽は、平蔵の母・(たえ 49歳)づきの小間使いである。
16歳のときから長谷川家に奉公にあがり、そのまま嫁にもいかず、屋敷のなかのこまごましたことの片づけにあたっていた。

いまは、暇をみては、辰蔵のしつけにあたっていた。
「七代さまは、こうなさいました」
「備中守さまは、こうでした」
口ぐせであった。

〔七代さま〕である宣雄(のぶお 享年55歳)が、なんども縁談話をもちかけたが、
「お屋敷においてくださいませ」
首を縦にふらなかった。
少女時代に、よほどに辛いおもいをしたのであろう。

京都で病床についた宣雄が、銕三郎を枕頭に呼び、
「江戸の留守宅をとともに守ってくれている有羽は、かんがえてみると、長谷川家におんなの一生をささげたようなものだ。終生、気にかけてやれ」
言いのこした。

平蔵は、おどけて、
「子を産んだことにない有羽に、腹の中の子が男かおんなか、いいあてられるわけはない」
笑いとばしたが、よけいなことを口にしたと、しばらく後味が苦かった。

久栄の面相がきつくなっているのは、腹の子が男の子だからではなく、おれの所業が気にくわないからだ)
これも、口にしてはいけない。
うっかり言うと、溜めていた不満が一気にふきだすことは目に見えていた。

風が雨戸をたたきはじめたころ、桃色の寝衣に着替えた久栄が、足音もたてずに、するりと横に入った。
顔を平蔵の胸にくっつけ、しばらくふるえていたが、腰紐を抜き、寝衣の前をひらいた。

ちゅうすけ注】このとき懐妊していた子が、『鬼平犯科帳』巻10[追跡]で、辰蔵からへそくりをせびられる次女・(きよ 15歳)である。

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2010.04.16

お勝からの手紙(5)

(やっぱり、見落としがあった)
平蔵(へいぞう 29歳)が独り合点してうなずいので、権七(ごんしち 42歳)が口まで運んでいた盃を戻した。

「-----?」
掌で制した平蔵が、いまは上総(かずさ)の寺崎村で竹節(ちくせつ)人参の植え場をつくっている太作(たさく 63歳)が、宇都宮の城下で〔荒神(こうじん)〕の助五郎(すけごろう)とその一味らしい者を見かけた顛末(てんまつ)を語った。

参照】2010年2月24日~[日光への旅] () () (

「すると、長谷川さま---いえ、(てつ)っつぁんが京の荒神口の太物屋(もめん衣類の店)で取り逃がしたお賀茂(かも 35歳)とそのむすめっ子も宇都宮にいたわけでやすな」
「そうらしい」

権七は、おが着府したら、宇都宮でお賀茂の顔をみた近所の者を上府してもらい、おともども、絵師に印象を告げ、似顔絵を描かしたらどうであろうと、提案した。

「似顔絵か。さん、火盗改メが似顔絵を描かせるのは、火付けと主殺しだけなのだよ」
「旅の入費なら、[化粧(けわい)読みうり]のあがりからでます」

平蔵は、京の絵師・北川冬斉(とうさい 40すぎ)の酒やけのした顔をなつかしくおもいうかべ、苦笑した。

「絵師のことは、〔耳より〕の紋次(もんじ 31歳)が、親しいのがいるといっていたな」
「そんじゃ、明日にでも紋次どんにつなぎ(連絡)をいれときやす」

参照】2008年8月11日~[〔菊川〕の仲居・お松] (10) ((11)

「その似顔絵をどう使うつもりかな」
「木版を彫らして、元締衆に配り、シマのなかを洗ってもらいやす」
さんは、江戸に潜んでいるとでも?」
「いえ。しかし、おどんが江戸へくだったと知ったら、やってこないともかぎりやせん」

似顔絵ができたら、京都東町奉行所の同心・加賀美千蔵(せんぞう 32歳)にも送るこころづもりになった。

参照】2009年9月13日]~[同心・加賀美千蔵]() () () () () (6)
2009年9月30日[姫始め] (

参照】2010年4月12日~[お勝からの手紙] () () () (4

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2010.04.15

お勝からの手紙(4)

権七どのは、寸時、残ってくだされ」
支払いをすませた〔福田屋〕の常平(つねへい 48歳)とつれだって〔丸太橋(まるたばし)〕の元締代理・雄太(ゆうた 40歳)がのれんをはねたとき、平蔵(へいぞう 29歳)が〔箱根屋〕の権七(ごんしち 42歳)を呼び止めた。

(このようにするするとことが運んでいいものかな。どこかに見落とし,があるのではないか?)
しかし、権七には洩らさなかった。

「ここは(ごん)さのなじみかな?」
料亭の旦那たちと、ときどき使っているがと応えながら、
(なにか、密談でも?)
権七は、そんな面持ちで訊いた。

「小部屋があったら、移りたい」

奥の小座敷に、新しい酒席がもうけられた。
肴は、味つけの高野豆腐。

(かつ 33歳)が、おんなおとこのお賀茂(かも 35,6歳)に目をつけられ、それで京にいられなくなったと打ち明けると、眉根を寄せただけで感想は口にしなかった。
以前の権七なら、煮えくりかえっている腹の中を、そのまま表情にあらわした。
(さすがに、貫禄が大きくなってきている)
権七が箱根にいられなくなったのは、〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 55歳)とお賀茂がからんでいた。

参照】2008年3月27日~[〔荒神(こうじん)の助太郎] () (10

(てつ)っつぁん」
取り決めどおり、2人きりのときの呼び方になった。

に目をつけたということは、もしかすると、〔荒神(こうじん)〕の助太郎がこの世の者でなくなったか、捕まって牢にはいったか---したのではないか、と権七は推察した。

「お賀茂の躰が、本卦がえりしたのかもしれない」
平蔵は、おがそうなったのを見ているだけに、おんなおとこ(女男)のありように、いくらかは通じているつもりであった。

「本卦がえりしたとなると、〔荒神〕の奴が黙って見逃さないでやしょう?」
助太郎も55歳だ」
「55歳でおんなをあきらめますかね?」

「父上は54歳で京都町奉行に赴任なされるとき、母上をお連れではなかった。上方にお住まいのときにも、それらしいおんなもいなかった」
「まあ、そのほうの欲情は人それぞれでやしょうから---」
「それもそうだ---」
40歳代はどうだ? と訊きかけてやめた。
(武士が口にする言葉ではない)

代わりに、
「お島坊は幾つになったかな?」

権七・お須賀(すが 36歳)夫婦のむすめ---お(しま)
の名付け親は平蔵であった。

「正月がくると8つでやす。もう、一人前のむすめ気どりで---。辰蔵さまは?」
「同じく、年があけると6歳。子どもが育つのは、あっというまだな」
「それだけ、親のほうも、あっ、というまに歳を経ておりやす」
「まったくな」


       ★     ★     ★

週刊『池波正太郎の世界 18』[仕掛人・藤枝梅安四/殺しの掟]が送られてきた。深謝のきわみ。

18__360

この号の読みものの一つは、講談社で池波さんを担当した小島 香さんの「ネバー・エンディング・ストーリー」である。おまさ救出だけでなく、『梅安冬時雨』も未完であったことを思い出させていただいた。しかし、それをかんがえる残り時間は、ぼくにはない。おまさ救出で手いっぱい。

_100もう一つ教えられたのは、テレビで佐々木三冬を演じた大路恵美さんの殺陣(たて)の稽古の打ち明け話。木刀の素振りで腕がぶるぶる震えたと。
これは、つい先日ブログに書いた菅沼新八郎(11歳)の稽古はじめに遣わせてほしいようないい体験談である。


参照】2010年4月12日~[お勝からの手紙] () () (4) (

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2010.04.14

お勝からの手紙(3)

「化粧(けわい)読みうり」を請けおっている元締衆のうちで、まだ、化粧指南師がととのっていないところがあったかな?」
平蔵(へいぞう 29歳)から事情を聞いた権七(ごんしち 42歳)は、一瞬かんがえ、
「そういえば、〔丸太橋(まるたばし)〕の元締代理(雄太 ゆうた 40歳)が扱っている、日本橋通3丁目箔屋町の〔福田屋〕の指南師が、忙しすぎて躰がもたないとかこぼしていると聞きやしたが---」
「〔福田屋〕なら、お(かつ 34歳)が化粧指南師をはじめた店だ。〔丸太橋(まるたばし)〕の元締に、主(あるじ)・文次郎の顔なじみのおをどうであろうと、あたってみてもらえないであろうか?」

合点した権七は、夕餉どきにもかかわらず、丸太橋へ出向いた。

翌夕、下城して帰宅した平蔵を、門番部屋で権七と〔丸太橋〕の雄太(ゆうた 40歳)、それに〔福田屋〕の一番番頭・常平(48歳)が待っていた。

参照】2010年1月20日[日本橋通3丁目〔福田屋〕]

「着替えてくる」
着流しであらわれると、権七が案内にたち、菊川橋西詰の酒亭〔ひさご〕へみちびいた。
それぞれの盃が満たされたところで常平が、
「いつもお目にかけていただき、ありがとう存じます。まずは、お口よごしを---」

〔福田屋〕、とくに主の文次郎は、自分が見つけてきたおが出戻ってくれるのは大よろこびである。
いまいる化粧指南師お(せん 27歳)も、仕事が軽くなることに異論がないばかりか、京仕込みの技法がじかに見習えるのだから、先輩として立てるといっていると。

参照】2009年6月6日~[火盗改メ・中野監物清方] () () 

丸太橋〕の雄太も、
長谷川さま。こんどの〔化粧読みうり〕のことでは、人びとの気持ちの底にあるのがどういうものかということを気づかせていただきやした。八幡さまの境内に仮店をだしている連中も、お披露目の力というもののこわさと効き目を肝に銘じたようでようでやす」
手ばなしであった。

わがことのように、目を細めて聞いていた権七が、
「じつは、元締衆が、長谷川さまを柳橋かやぐら下あたりにお招きして、お礼の宴をはりたいと申しておられやす」
「気持ちはありがたいが、このことがお上に聞こえると、拙が困る。丁重にお断りしておいてほしい」

「旦那、いえ、長谷川さま。千住(せんじゅ)宿の元締〔花又(はなまた)〕の茂三(しげぞう 60歳)が1枚、加わりたいもんだといってやしました」
「それは、元締衆と、〔耳より〕の紋次(もんじ 31歳)どの、それに権七どのがお決めになることです。拙がかかわることではない---そう、〔花又〕の元締にお伝えください。千住宿の元締が加われば、品川宿、新宿の元締も黙ってはいないでしょう。そのあたりまで目くばりして、談じてください」

丸太橋〕がうなずき、平蔵の盃に注ぎ、
「長谷川さまが元締衆の招きをお断りになったために、集まりの口実が遠のきやした」
「おや、いつも集まっているのではないのですか?」
「それが---」

〔野田屋〕の常平番頭が、卒なく口をはさんだ。
「まもなく上方から、出戻ってくるすご腕の化粧指南師・おの迎える宴なら、長谷川さまもお加わりになるのでは---?」

平蔵権七に釘をさした。
「〔音羽(おとわ)〕の元締のところのご新造・お多美(たみ 33歳)どのに筋をとおしておくように---」

参照】2019.2.16[元締たちの思惑] (

参照】2010年4月12日~[お勝からの手紙] () () (4)  (

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2010.04.13

お勝からの手紙(2)

長谷川平蔵(へいぞう 29歳)は、銕三郎(てつさぶろう 27歳)時代に、お勝(かつ 31歳)を抱いたことがある。

それまでのおは、同村出身のお(りょう 享年33歳)のおんなであった。
だから、おにとっては、銕三郎が31歳で初めてむかえいれた男ということであった。

参照】2009年8月4日~[お勝、潜入] () () () (
2008年10月12日~[お勝という女] () (2) (3) (4)

_100の、いわゆる立ち---男役としての恋人であったお(りょう )が事故で水死(享年33歳)した直後のことであった。(お勝のイメージ)

その後は、20歳ほども齢下のお乃舞(のぶ 15歳)という子に、こんどはおが、お(りゅう)が自分にしてくれた愛撫をほどこした。 

それで銕三郎は、おとの男とおんなとしてのかかわりは終わったとおもっていた。

ところが、手紙によると、10月(陰暦)の半ばに、お乃舞と妹をつれて京を発(た)ち、江戸へ向かったとあった。

平蔵が早飛脚便を手にしたのは、10月の20日を3日もすぎていた。

(てつ)さまへのおねがいは、わたしたち3人が安んじて住める家をさがしておいてくださることです。
狐火きつねび)〕のお頭(かしら)は、とりあえずは、寺しま村のぐうや(寓屋)に住めとおっしゃってくださいました。
あそこは、おお姉(ねえ)さんとくらしたことがあるから、ようす(様子)はよくわかっていますが、ごふない(府内)にとおすぎます。

そう申したら、きくじんみち(菊新道)の[山科屋(やましなや)〕をおしめしくださいました。
江戸へつきましたら、おしらせいたします」

読みおえた平蔵は、すぐさま、深川の黒船橋詰の町駕篭〔箱根屋〕の権七(ごんしち 43歳)へ相談をかけた。


参照】2010年4月12日~[お勝からの手紙] () () (4)  (


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2010.04.12

お勝からの手紙

朝日をあびた銀杏の葉の一枚々々が小判色に輝くのを見た平蔵(へいぞう 29歳)は、
(冬がそこまで来ている)
と実感した。

B_120_2そんなとき、京都のお(かつ 33歳)から小浪(こなみ 35歳)あての文の中に、平蔵へのものが同封されていたと、〔木賊(とくさ)〕の今助(いますけ 27歳)のところの若いのが届けてきた。(歌麿 小浪のイメージ)

今助は、父親・林造(りんぞう 享年62歳)の跡を継ぎ、浅草・今戸の香具師(やし)のシマをりっぱにまもっている。
小浪は、今助の女房として、料亭{銀波楼(ぎんぱろう)の女将におさまっていた。

(てつ)さま。
わたし、京にいられなくなりました。
いえ、〔延吉屋〕さんをしくじったなんてことではないんです」

〔延吉屋〕は、四条堺町の白粉問屋である。
は、この店で化粧(けわい)指南師として、いろいろな収入を得ている。

1日に2分(8万円)にもなる日が少くないらしいかった。
1ヶ月には12両(192万円)を超えた。

参照】2009年8月31日[化粧(けわい)指南師のお勝] (

「[化粧(けわい)読みうり]が種ぎれとか、売れなくなったわけでもありません」

参照】2009年8月31日[化粧(けわい)指南師のお勝] (

狐火きつねび)〕のお頭(かしら 54歳)から、引き込みに戻れといわれたわけでもありません」

の手紙は、女のおしゃべりと同じで、まどろっこしいが、おつきあいいただきたい。
たぶん、書きづらい理由(わけ)なので、先のばしにしているのであろう。

「お乃舞(のぶ 15歳)との仲も、えんまんです」
(円満---とは、まったく夫婦気どりで、いい気なものだ)

参照】2009年9月26日~[於勝の恋人] () (2) (
2009年10月26日[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく)] (

「変なおんなに見こまれてしまったのです。
おきゃら(伽羅)のあぶらを求めにきた、痩せた色黒のその30女は、わたしを見るなり、りょうめ(双眸)をもえるようにかがやかせ、手をとりにきたのです。

それから、毎夜のようにわたしの帰りを待ちぶせています。
そのおんなは、3歳ほどのおんなの子をつれています。

わたしが無視したら、お乃舞の妹をさらおうとしました」
(お賀茂(かも 35歳)だ)
平蔵にはぴんとくるものがあった。

しかし、いまは出仕の身である。
京都へ飛ぶわけにもいかなかった。
京都にいる〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 40歳)か、〔左阿弥(さあみ)〕の元締・角兵衛(かくべえ 43歳)に見張るように頼んでも、あるいは東町奉行所の加賀美(かがみ 32歳)同心にしらせても、その前におは京を離れていよう。

このときほど、宮仕えの身に歯ぎしりしたことはなかった。
それと、おにお賀茂のことを話しそびれたことも悔やまれた。
(たしか、〔中畑(なかばたけ)のお(りょう 享年33歳)には、〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 55,6歳)の名を告げたが、おへまでは伝わっていまい)

そのおの分骨は、長谷川家の香華寺、四谷の戒行寺の墓の下に納まっていた。


参照】2010年4月12日~[お勝からの手紙] () () (4)  (


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2010.04.11

内藤左七直庸(なおつね)(3)

「ようこそ、お越しになされた---」
牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 55歳 800俵)の、牛込築土下五軒町の屋敷である。

西丸・書院番第4の組---つまりは、長谷川平蔵宣以(のぶため 29歳 400石)が属している組の与(くみ 組とも書く)頭を2年前から勤めているご仁である。

平蔵が出仕前の去年、茶寮[貴志〕へ招待して、恥をかいた。
その顛末は、↓

参照】2010年2月1日~[与頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ] () (2) () 

いうなれば、老獪、硬骨、遠謀のご仁である。

こんども、柳営で、書院番第3の組にいる盟友・長野佐左衛門孝祖(たかのり 28歳 600石)の愛人の住まいの件で、平蔵もかかわりがあるとの中傷があり、兄として私淑している西丸・目付の佐野与八郎政親(jまさちか 41歳 1100石)の助言で、牟礼与頭に伺いをたてたところ、双方が非番の日に屋敷へくるようにいわれた。

城中での威厳は、まったく消している。
で、平蔵も、つい、気をゆるし、
「飯田町中坂下に、父の代から懇意にしている料亭〔美濃屋〕へお運びいただこうとも考えましたが、また、おさとしをいただくのも---と存じまして」
「なに、足場は中坂がいいが、手前としては、料理人までも寄越しされた、一橋北の茶寮〔貴志〕の女将---なんというたかな---」
里貴(りき 30歳)---と」
「そうそう。あの里貴女将に、いまいちど会い、あのときのこころないやり方を詫び、料理人のお礼もいいたい」
牟礼与頭は、遠くを眸(み)るように目を細めた。

(ここで調子にのって、お招きしますなどと申してはならぬ)
平蔵は自分をいましめ、
「第3の組の内藤(左七尚庸 なおつね 64歳 465石)与頭さまから、なにかお話がございましたでしょうか?」

嫁にだしたむすめの愚痴を柳営内にもちこんだ藤方家へは、若年寄から注意がくだされ、たとえ脇腹を借りようと、子をふやしておくことは、幕臣として当然の務めであるにもかかわらず、主人の子を宿している者を追い出すとはもってのほか---と、妬心(としん)をきつくたしなめられたという。

ちゅうすけ注】戦国時代の名残りで、兵士は多いほど国力になるとのいい訳で、武士はいいおもいを享受できた。

牟礼与頭は、平蔵が盟友のために拠出した金子の出所の詮索はしなかった。
亡父・宣雄の力量とともに、知行地の新田開拓、理財の才についてもよく知られていたからであろう。

「そういたしますと、長野佐左衛門にはお咎めはないことに---?」
「そうではない。家政もできないようでは、一家の主人としての力量が足りないというお叱りがあった」
「妬心はおんなの武器でございましょう」
「男の妬心は、地位に向かっているだけよ。とくに役人は、な」
「しかし、その妬心がありますゆえ、男は仕事に精をだします」
「そうであればよいが、の」

そろそろ辞そうかとおもったとき、
「勤め向きには馴れたかの?」
「なかなか、でございます」
「書院番士としての箔は、進物のお役につくことでありますぞ」
眸(め)の光が違っていた。

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2010.04.10

内藤左七直庸(なおつね)(2)

内藤与(くみ)頭どのについて、ひと言、注意しておいたほうがいいかな」
平蔵(へいぞう 29歳)の盃を満たしながら、佐野与八郎政親(まさちか 41歳 1100石)が、おもいついたといった風情で軽くいった。
盃を膳iへ戻し、平蔵がかしこまる。

政親が述べたのは、意外な事実であった。
西丸・書院番第3の組の与頭・内藤左七(さしち)尚庸(なおつね 64歳 465石)の実父・尚寿(なおひさ 享年54歳)は、50年ほど前に、自裁した。

平蔵にかかわりのある風評であったために、与八郎が記録を調べた。
自裁の原因は記されておらず、「失心」としかいいようがなかったらしい。

しかし、自裁の15年前に、39歳という若さで書院番士を辞している。
そのときには継嗣はおろか、一人の子も得ていなかった。
辞職直後に得た継室は、陪臣のむすめで、すなわち、尚庸老の生母である。

父・尚寿の自裁は、いまの尚庸老が16歳のときであったから、おおよその原因は察しておろうが、目付の訊問にも不明でとおしている。

「事件から50年近くの歳月が経っているが、心の重荷は消えてはおるまいから、こころして面談するように---」
「こころえました」
「それと、老は片耳がまったく用をなしておらぬ。もう一方の耳も老いがすすんでおるようであるから、面談は外の料亭でなく、内藤どのの屋敷でなされよ。料亭では、声が隣室へ洩れようほどに---」
「あい、わかりました」

内藤左七尚庸の屋敷は、湯島5丁目横町で、盟友・長野佐左衛門孝祖(たかのり 28歳 600石)の屋敷とは目と鼻ほどの近まであった。
それもそうだが、妻恋町(つまこいちょう)のお(ひで 18歳)が借りている家も近かった。

円満寺の角を右にまがりながら、
(おれとしたことが抜かっていた。とはいえ、城中で出会うと目礼をしているだけの第3の組の内藤与頭の屋敷がここだなど、おもうはずもない。これは、佐左(さざ)が軽率であったというべきであろう)
平蔵は、供の松造(まつぞう 23歳)に聞かれないように、小さく舌打ちして、内藤家の案内を乞うた。

待っていた与頭は、恐縮したふりで、利くほうの耳を向けながら、目のすみで平蔵の所作を計っていた。
佐野与八郎に説明したとおり、長野から頼まれたわけではなく、おの命が一刻も猶予できないようにおもったゆえに、われから手当てをしたことをゆっくりと大声で話した。

尚庸は、なんどもうなずきながら、
「嫁に出したむすめのいい分を鵜呑みになされた実家も、ちと、軽率ではありましたな。はっははは」
笑い声は、地声ほど大きくなかったから、ほんとうに笑ったのかどうかは、解(げ)せなかった。

が、次のつぶやきには真実味がこもっていた。
「おんなというものは、嫁にきても、実家(さと)のことを忘れないものでな。家の中の紛争は、それによることが多いといえますな」

(ということは、尊父の自裁も---? いや、このことは、いまはかかわりない)


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(内藤左七尚庸の個人譜)

 

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2010.04.09

内藤左七直庸(なおつね)

(てつ)どのが非難されていては、兄者(あにじゃ)格として、見逃すわけにもまいらぬ」
「仰せのおりです」
すなおに頭をさげた。
とはいうものの、腹の底では、
長野佐左衛門孝祖(たかのり)め、奥の一人ぐらい、押さえきれないでどうする)
いささか、むっとしていた。

平蔵(へいぞう 29歳)は、城内で、目付・佐野与八郎政親(まさちか 43歳 1100石)の伝言を受けとった。
「下城の時、拙宅へ立ち寄られたし」
それで、こうして、永田馬場南横寺町・佐野邸の書院で対峙(たいじ)している。

長野孝祖の妻女が、実家・藤方家へ、夫が小間使だった女を囲っていて、その片棒を、平蔵がかついだと愚痴ったのである。

参照】20104月3日~[長野佐左衛門孝祖(たかのり)] () () (
 
かついだどころではない、金子も17両(272万円)も用立てた。
返済は出世払いということにしてあるが、返ってくるなどとは露おもってはいない。
(どうせ、知恵をはたらかせた[化粧](けわい)読みうり]で得た金子である、友の役にたてればいうことはない)
最初(はな)から捨てた気でいる。

しかし、ふりかかってはきた火の粉ははらわないわけにはいかない。

藤方といわれますと、小納戸の?」
「さよう。あの勘右衛門忠英(ただふさ 58歳 600石)どのだ」

藤方忠英は、北畠家の出であることを鼻にかけ、ことごとに、
「礼法の本筋はここうでしたな」
注釈を加えるものだか、西丸の主・家基(いえもと 13歳)も辟易ぎみと洩れてきていた。

「それでな、与(くみ 組とも)頭の内藤どのも聞き捨てもならず、(長野)佐左衛門(孝祖)に事情を質(ただ)したところ、どのが金主としれての---」

西丸・書院番第3の組の与頭は、内藤左七直庸(なおつね 64歳 465石)であった。

「たしかに、用立ててやりました。その小間使いが、いじめに抗しきれずに首でもくくったら家門の恥とおもいまして---」
「そうであろう。しかし、藤方のほうではそうはおもっていないようだ。じつのところを、与頭・内藤どののご都合をうかがい、釈明なさっておくほうがいい」
「かしこまりました。わが組の与頭・牟礼(むれい)さまへも、お話しておきます」
「そうなさるがよろしかろう」
「お教え、ありがとうございました」

「そう、あらたまるでない。供の者たちは帰し、酒でも酌みながら、巷のおんなどもに評判の[化粧読みうり]のことでも聞かせてくだされ」
「あ。発覚(ぱれ)ておましたか。これは恐縮」
「目付職をあなどるでない。はっ、ははは」


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(藤方忠英とそのむすめの個人譜)

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2010.04.08

長野佐左衛門孝祖(たかのり)(5)

「3の組の長野さまからです」
いつもの同朋(どうぼう 茶坊主)が小声でいい、折った紙片をすばやく手渡してくれた。
西丸・書院番3の組の長野佐左衛門孝祖(たかのり 28歳 600石)からの文であることはわかった。

厠(かわや)へ立ち、開くと、

(今宵、妻恋町(つまこいちょう)へ来てくれ)

とだけ、認(したた)めてあった。

妻恋町といえば、平蔵の頼みで、広小路の元締・〔般若(はんにゃ)〕の猪兵衛(ゐへえ 27歳)が孝祖の愛人・お(ひで 18歳)のために手くばりした家である。
そのために、平蔵は17両(272万円)を用立てた。
家賃の3年分の前払いやら、所帯道具・当座の生活費、それに猪兵衛への謝礼であった。

訪ると、あの夜以来初めて顔を見るおが、目立つほどに太めの腹で出迎えた。
玄関と2部屋の家だが、おひとりの暮らしには充分である。

「わざわざ、済まぬ」
奥の部屋から、孝祖が声があった。

「あの夜、すでに---?」
「そうだ。いま6ヶ月だ。それで、相談がある」
が、湯飲みに酒、小鉢に胡瓜もみを膳にのせてだした。

「金なら、しばらく待ってくれ」
「いや。金は足りている」
「む?」
は、竃(かまど)の前で、こちらに脊をむけたままであった。

「流すところを、〔般若(はんにゃ)〕の元締に訊いてくれないか?」
の肩がふるえているのを目の隅でとらえ、
「断る」
のふるえがとまった。

「産ませるんだな」
「室が承知すまい」
「奥方にはかかわりない。おどのの気持ちのほうが大切だ」
「うむ」
「生まれてから先のことなら、相談にのる」

なんともやりきれない、重い気分で三組坂(みくみざか)を下った。
戸口を出るとき、おが涙を拭きながら、深ぶかと頭をさげたのが、せめてもの救いであった。

般若〕の猪兵衛に、どんなに言ってきても、聞くなと、怒った声で禁じ、
長谷川さまのご命令にそむくようなことは、決していたしやせん」
猪兵衛が胸をたたいたのを見て、いささか怒りがおさまった。

御厩河岸で渡し舟に乗りながら、
(おれも、大きな口をたたけたものではない。阿記(あき 享年25歳)に産ませた於嘉根(かね 9歳)を上総(かずさ)の寺崎へやったきりだ)

参照】2008年7月27日~][明4年(1767)の銕三郎] (11) (12) (13) (14
参照】2008年3月19日~[於嘉根という名の女の子] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (


       ★     ★     ★

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きのう、週刊『池波正太郎の世界 17』[剣客商売 四]が送られてきた。
巻末のシリーズ・俳優さんによる『わたしと池波作品17』は、『鬼平犯科帳』で井関録之助を明るく演じている夏八木 勲さん。筵を躰に巻いての撮影のときの秘話が笑わせる。いつも、ひょうきんで生一本の録之助らしい。


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2010.04.07

菅沼家の於津弥(つや)(2)

「一度、本所・四ッ目の別荘でゆっくりとお酒のご相伴をいたしとうございます」
嫡男・藤次郎(とうじろう 11歳)が席をはずしたてすきに、母親で後家の於津弥(つや 35歳)がつぶやくようにもちかけた。
平蔵(へいぞう 29歳)は、聞かなかったふりでさりげなく、
「奥方さま。藤次郎どのの躰の加減に気をお配りになるもよろしいが、ご自身のことをお考えになったらいかがでしょう?」

「申されてみると、3年前に、殿がお逝きになってから、桜花(はな)も紅葉(もみじ)も看(み)にでていませぬ」
「それでは足腰が弱りましょう。階段の上り下りでもなさって、お鍛えになりませぬか?」
「手始めだけでも、先生が手をとってお教えくださいますか?」
途端に、のりだした。

着物では無理だから、亡夫の袴でも穿(はく)ようにすすめると、
「藤次郎の稽古着の替えでよろしいでしょうか?」
すぐに着替えに立っていった。

津弥の亡夫・菅沼織部定庸(さだつね 7000石)は、無役の寄合のまま、3年前、35歳で歿していた。
病床がちのくせに、子だけは一人前につくった。
一男七女。うち、於津弥が産んだのは、嫡男・藤次郎と次女だけであった。

いいつけられたらしく、小間使いが灯(ひ)を入れた提灯を平蔵にわたす。
庭に面した縁側で、藤次郎が、
「夕焼けがあまりにも見事であったので見とれておりました」
「詩など、つくれたかな」
首をふって自室へさがった。

木製の階段は、庭の南端の母屋からは見えないところに設けられていた。
津弥は、もう着替えて待っていた。
11歳の藤次郎の稽古着なので、よろずが小さく、腕は袖から8分ほども露出している。
襟も、乳房を覆いきれないで張りきっていた。

「肌襦袢もお腰もとってじかに袴を穿きました。内股のあたりが、からっと開いた感じです」
「お腰?」
「あ、江戸でいう、けだし、湯文字です。母の実家が〔因幡屋〕という屋号の昆布問屋だったのです。京の女房さん言葉ときいています」

「奥方さま。足がもつれては危ないでしょう、股立(ももだ)ちをおとりください」
「どうすれば---?」
平蔵が手をのばして袴を両脇をつまみあげて締め帯にはさむとき、腰のたっぷりとした肉置(ししお)きに触れた。
それだけで、於津弥は気持ちをたかぶらせてきた。

「先生。こわいから手をつないで上りましょう」
いわれるままに左手でにぎり、右手で足元を照らす。
「よろしいですか、右足から踏みだして---一、二、三、四、五段。残りは五段です。六、七、八、九、踊り場」

最上段の踊り場で、もう、息があがっていた。
「下ります」
「待って。下が見えるとこわいから、灯を消して---」
自分が吹き消した。
暗闇になった。
月はまだ上っていない。
「九、八、七」

津弥がとまった。
「こわい」
「ちゃんと、お護りしております」
「上へ戻りましょ」

おそるおそる後退して、踊り場に立つ。
平蔵に躰をくっつけ、
「聞いてください」
ささやきはじめた。

自分は、8万石の牧野家備後守貞通(さだみち)の17男13女の10番目の女子である。

母は江戸の藩邸にあがっていた市井の女で、殿のお手がついたが、自分が幼いときに亡じたし、父・貞通も25年前の寛延2年(1749)に京都で卒したため、大名家の姫として生まれながら、肩身の狭いおもいをしながら育った。

「名づけにしてからがいい加減で、お通夜(つや)ですもの。ひどい話です」

大身・菅沼家に19歳で嫁入りしたが、ここでも、病がちの身にもかかわらず夫は、何人もの側女をもっていた。
自分は、次女と嫡男を産んだだけで、3歳違いの亡夫から、16年間、いとおしまれた記憶はない。

藤次郎を産んでからは、まるで、お床すべらかしでした。24歳ででございますよ」

藤次郎は2年前に遺跡相続がみとめられたから、家名と家禄は安泰である。
それからは、自分の生きたいように生きていくつもりでいた。

「先生にお会いして、いまがその時、とおもい立ちました」

足腰を鍛えるのは、おんなの内所の弾(はずみ)も強まると聞いたことがあるからと。

「奥方さま。藤次郎どのの出世のさまたげになるようなことだけは、お控えください。家臣たち口の端(は)にのぼらないうちに、戻りましょう」
「今夜は、黙って戻ります。その前に、一度だけ、力強く抱きしめてください。宣(のぶ)さまのその、たくましい腕で---」
躰のすべての重みを平蔵にあずけた。


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(於津弥の実家・牧野家での30人兄弟姉妹

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2010.04.06

菅沼家の於津弥(つや)

藤次郎(とうじろう 11歳)どのは、格段の進歩をなされた」
平蔵(へいぞう 29歳)の称揚に、於津弥(つや 35歳)がにんまりうなずいた。
「お蔭をもちまして、気分もずいぶんと明るくなりました」

稽古を終えた藤次郎は、水風呂を浴びるために湯殿にいた。
面打ちを受けていた平蔵は、汗ひとつかいていなかった。

稽古をはじめて2ヶ月ほどたった、夏の夕暮れであった。
西丸・書院番4の組へ出仕して1ヶ月がすぎると、つぎの月から月に4夜ほど宿直(とのい)がまわってきた。

宿直の日は、1泊2日の勤務となる。
3ヶ日目は非番ということで、出仕しなくてもよい。
夏の暑いあいだは、非番の日の陽が落ちる前の半刻(1時間)を、菅沼家への出稽古にあてていた。

師範にとこころづもりをしていた上総(かずさ)・臼井村の剣友・岸井左馬之助(さまのすけ 29歳)は、母親の具合がすぐれないために出府いたしかねると、送った2両(32万円)を律儀に返してきた。

「素振(すぶ)り用の鉄条入りの木刀も明日からは、4半分(しはんぶ :経0.7mm)から倍の半分(はんぶ 経1.5mm)の鉄条入りに格上げです」
「たのもしゅございます。(ふじ)もはげみ甲斐があったと申すもの---」

高杉道場の入門者は、まず、鉄条入りの樫棒の素振りから始めたが、ひ弱な体質の藤次郎のために、最初は4半分、半分の鉄条入りの木刀を特別にあつらえた。

じつは、半分のが2本入りのものも作らせてあるが、いちどに見せると藤次郎が萎縮するとおもい、まだ持参していない。

参照】2007年11月1日[多可が来た] (
2008年5月12日~[高杉銀平師] () (

津弥が、小間使いになにやら言いつけた。
水浴びをすませた藤次郎が入ってくると、於津弥は残念そうにはわずかにずって座をゆずり、
(のぶ)先生が、上達がはやいとお誉(ほ)めでしたよ」

長谷川先生が、いつのまにやら、〔先生〕に変わっているのに、藤次郎は頓着なしで、
には、朝夕の階段の上り下りを、もう20回ずつふやせと仰せになりました」
上り下りは、最初の10回ずつから、いまでは60回ずつになっていた。

「それでは、日に160回も?」
大仰に驚いた表情をつくったが、平蔵を瞶(みつめ)た眸(め)は媚(こび)をたたえていた。
(武家の室にしては、表情の大きな女(ひと)だな)

藤次郎どの。武術の稽古に入ったのだから、自分のことをと呼ぶのはふさわしくない。拙(せつ)というようになされ」
「はい。ご指導、かたじけのう存じます」
生真面目に頭をさげた藤次郎に、
「所作・作法までの、ご伝授、このとおりでございます」
単衣の胸元で掌をあわせたが、双眸(りょうめ)はあやしげな光をはなって平蔵に注がれていた。

小間使いが行灯をはこんでき、平蔵の前には湯呑茶碗を置いた。
口もとへ運ぶと、酒の香りがした
問いかける感じで於津弥をみると、軽くうなずいて微笑み、
「お疲れなおしでございます」
「陽のあるうちは口にしないようにしているのですが---」
「もう、沈んでおりましょう。藤次郎、先生が陽が沈んだかどうか、お気になさっておいでだから、庭をたしかめてきなさい」
藤次郎が立って行くと、
「一度、本所・四ッ目の別荘でゆっくりとお酒のご相伴をいたしとうございます」

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2010.04.05

お里貴の行水

「お湯かげんは、これでよろしいでしょうか?」
裏庭から、里貴(りき 30歳)の声がかかった。

縁側のすぐ下から行水の大たらいまで細板の簀子(すのこ)を敷きつめ、手桶をかたわらに置き、裾をまくった浴衣姿でこちらをみていた。
簀子におり、手首をひたす。

「まだ、着替えていらっしゃらなかったのですか。お湯がさめてしまいますから、お急ぎくださいませ」
脊を押され、寝間で浴衣に着替えた。

縁側へ戻ると、素裸の里貴が、灯火もほとんどとどかないのに、はっきり白いとわかる脊をむけていた。
気配にふり向いた顔は、いたずらっ子がいたずらにとりかかる前のような笑顔であった。
つられて、平蔵里貴の浴衣の横へ脱いだが、
「お腰のあてのものは、寝間へお置きになっては?」
あわてて、寝間ではずした。

盥に腰をおろしても、湯はあふれなかった。
延ばしきれないから、軽くまげた。
「いっしょには浴びないのか?」
「底が抜けてしまいます」
「やってみれば?」

おそるおそるまたぎ、両足とも立て膝にして腰をおろし、正面した。
平蔵も膝を曲げているので、尻がすべりおち、下腹が密着した。
腕をまわして引きよせ、耳もとでささやいた。
里貴と、こんなふうに行水するとは、おもってもみなかった」
平蔵の両肩に手をおき、乳頭がかすかに触れるほどのへだたりをとっている里貴も、低いあまえ声で、
「育った貴志村では、初夏から秋へかけては行水でした。でも、藪家へ嫁いでからは、行水をしたことはございません」
「盥や簀子を、いつ、揃えた?」
「この家へ越してすぐに、貴志村での家でのことをおもいだしまして---」

庭のぐるりに視線をはしらせ、
「覗かれる心配は?」
「節目のない板に取り替えましたし、きのうも棟梁にしらべさせました」
浮かせかけた腰をつかんで引きおろし、尻を太股におちつかせた。
茂みと茂みが触れあい、湯のさざめきにより、からみあったり離れたり---。

「背中をお流ししましょう」
「いいのだ。きのう、流した」
「奥方さま?」
それには応えず、
「拙が里貴の脊中をこすってやるよ」
「うれしい。あ、感じた」
尻をあげ、あてた。
そのまま、もたれかかる。
乳房が胸板を押す。

両掌でつかみ、動けなくする。
「寝屋でな」
「はい---あ、動いています」
「門を叩いて、名乗っているのだよ」
「なんと?」
(てつ)だと---」

「なりませぬ。夜あそびしてきて子はいれませぬ」
「夜稽古が長びた」
「なんのお稽古?」
「色の道」
「馬鹿ばっかり」
声をそろえて笑った。

「こんなに楽しい行水、初めて---」
「拙も---」

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(国貞『仇討湯尾峠孫杓子』 写し:ちゅうすけ)

たらいから簀子へ移り、平蔵の背中の水気を拭く。
平蔵は、その手から手拭をとり、里貴の前を拭いた。
乳房を拭くと、血が通ったように肌が淡い桜色になった。
「もう、だめ。立っていられません」
駆けあが り、横に倒れた。

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2010.04.04

長野佐左衛門孝祖(たかのり)(4)

「1刻(2時間)ほど前に、権七(ごんしち 42歳)どのから届きました」
帰宅すると、久栄(ひさえ 22歳)が木綿の巾着をさしだした。
ずいぶんと重い。
懐紙の上にひろげると、15枚(240万円)ほどの小判のほかに、2朱銀(2万円)がざっと80ヶ(160万円)ばかりあった。

権七はなにか言っていたか?」
「持参くださったのは、権七どのではなく、お店の加平(かへえ)さんとかいう、23,4のいい若い衆でした」
加平なら、ほかに書付を置いていったろう?」
久栄が文函(ふみばこ)から紙片をだした。

久栄。勝手(家計)が苦しいことはわかっておる。しかし、小判の15枚は、あることにどうしても必要なのだ。小粒の半分は、そなたにわたす」

平蔵(へいぞう 29歳)は、長野佐左衛門孝祖(たかのり 28歳)と愛人・お(ひで 18歳)のことは話さない。
ただ、湯島天神下の元締〔〔般若(はんにゃ)〕の猪兵衛(いへえ 27歳)にどうしてもわたさなければならないのだとだけ打ち明けた。

(友に交わるにはも三分(ぶ)の侠気(きょうき)を帯(お)ぶべし---というではないか。もっとも、こんどの場合は3分(12万円)ではすまなくて、17両(270万円)ほどについたが)
内心で苦笑した。

菜根譚(さいこんたん)』の3分の侠気は金銭の単位でなく、与謝野鉄幹作詞とつたえられている「人を恋うる歌」の{友選ばば書を読みて、六分の侠気四分の熱---」の侠気---男ぎであることはいうまでもない。

「湯をお使いなりますか?」
「いっしょに入るか」
「ご冗談を。ここは向島・寺嶋村の寓家ではありまませぬ。湯殿も手狭だし、家臣たちの目もあります」

久栄が嫁入りしてきたとき、7日ほど、〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 49歳=明和6年 1769)が、初夜をお2人きりでお楽しみになさいと貸してくれたのが、寺嶋村の寮であった。
勇五郎の趣味で、湯殿がとくべつに広く、湯桶も2人が入って戯(たわむ)られるほどの大きさに造りかえてあった。

参照】2009年2月16日[寺嶋村の寓家] (
2009年2月17日~[隣家・松田彦兵衛貞居] () (

湯を使っていると、久栄が浴衣すがたで入ってき、
「背中をお流しします」
浴衣を脱ぎ捨て、腰掛けを指さした。

「おいおい。家臣たちが笑うぞ」
「殿の背中をお流しするのは1年ぶりです」
「あとが怖いな」
「流しのお手当ては寝屋でお支払いいただきます」
「やっぱりな」
「はい」
笑顔にすごみがでていた。

しばらくぶり見ると、腰のまわりの肉づきが太くなっている。
若年増の体形であった。
抱いているときには、それほどとはおもえないのたでが。
辰蔵(たつぞう 5歳)と初(はつ2歳)を産んだ腹の線は、いくらかたるみ気味であった。

湯桶の中から手をのばして乳房にさわり、下へおりて芝生の先端を軽くなぶり、
「3人目が、入っているのではないのか?」
「なにをおっしゃいますか、種もお播きにならないでおいて---」
平蔵の指をとって割れ目にみちびき、挑発した。

(酒は古酒、おんなは年増というけれど、久栄も子を2人もなし、年増の域に片足はいってきている。今宵は若年増を堪能させてもらうか)

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2010.04.03

長野佐左衛門孝祖(たかのり)(3)

宴が終わった。

長谷川さま。お酒がすすみませず、残ってしまいました。お持ち帰りくださいませ」
〔美濃屋〕の玄関へ送りにでてきた源右衛門が、角樽をさしだした。
受けとると、満杯の重さであった。
言いあらそうのも大人げないと、そのまま受けとり、礼を述べておいた。

市ヶ谷牛小屋の屋敷へ帰る浅野大学長貞(ながさだ 28歳 500石)が中坂をのぼっていくのを見送った平蔵(へいぞう 29歳)と長野佐左衛門孝祖(たかのり 28歳 600石)は、神田川へ向かいながら、
佐左(さざ)。座敷での件だが---」
「助けてくれるか?」
「うん?」

長野孝祖がいうには、内室の妬心(としん)がはげしくて、もう1日も屋敷にとどめておけないと。
さりとて、手をつけてしまった手前、実家に返すわけにもいかない。

「手放したくないのだろう?」
「じつは、それもある」
「とりあえずは、別宅に囲うんだな」
「それには、先立つものが、な」
「わかった。お主の屋敷の近くあたりはゆっくり探すとして、とりあえずの避難場所は、下谷(したや)広小路あたりでもいいか?」

平蔵は、とっさに、広小路の元締・〔般若(はんにゃ)〕の猪兵衛(ゐへえ 27歳)に頼むことをおもいついていた。

「おんの字だ。おれの屋敷から小半時(30分)もかからないで行ける」
もう、決まったような口ぶりになっていた。

「おいおい。佐左が会いに行けるとしても、睦みあえるかどうかは、わからないぞ」
「広小路なら、池之端の出会茶屋を使えばいい」
「なんだ、お主。前にもやっているな」
「屋敷でてきないときにな」

本郷元町の長野邸の前で立ちどまり、もしものことがあってはならない。今夜から預かるから、着の身着のままでよい。すぐ、連れてこい。半刻(1時間)もしたら、おれからの使いと名乗る者が門を叩くから、会えば、隠れ場所が聞ける、と談じた。

おびえたように出てきた小柄なおんなは、お秀(ひで 18歳)と告げた。
三組(みくみ)坂をおりきるまで、黙ってついてきた。

同朋町(どうぼうちょう)の〔般若〕の猪兵衛の家は、さすがに明かりをつけていた。
平蔵の不意の訪れにもおどろかず、わけをきくや、
「よございやす。2,3日がうちに、妻恋町(つまごいちょう)あたりにそれらしい家をみつけやす]
早くも事情を呑みこみ、居合わせた小頭・〔黒門町(くろもんちょう)〕の儀助(ぎすけ 25歳)を、長野邸へやった。
「小頭のお前のこと、こころえているとはおもうが、香具師(てきや)の言葉遣いをして、長谷川先生に恥をかかすんじゃねえぞ。お店(たな)者らしい言葉で、そうだな、うちの〔化粧(けわい)読みうり〕のお披露目枠を買ってくださった、湯島切り通し坂下の伽羅油問屋〔西宮〕の者といい、長野さまがお出になったら、そっと、わしの名を告げ、打ち明けてこい。この役は、お前しか、できねえ」

(さすがだ。猪兵衛は元締になっただけに、機転もきくし、人遣いをこころえてきている)
平蔵は、猪兵衛を見直した。
「元締。残りもので申しわけないが、昨日、新川に着いた灘の酒だ。小頭が戻ってきたら、いっぱいやってくれ」
〔美濃屋〕がくれた角樽を押しつけ、懐の2両(32万円)を、家賃の前払といって包んだ。

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2010.04.02

長野佐左衛門孝祖(たかのり)(2)

「滝がいかにも涼しげで、ほっとします」
いつもの滝がおちている部屋へ、みずから案内してくれた〔美濃屋〕の亭主・源右衛門(47歳)へ、平蔵(へいぞう 29歳)が感謝した。
ほかの客の指名を断ってあててくれたことがわかっているからである。

九段坂からひとつ北、飯田町中坂下の角の料亭〔美濃屋〕のその座敷は、坂を利用した滝が望め、滝つぼには菖蒲が、遅咲きの花を、まだ、のこしていた。

長谷川さま。ご出仕、おめでとうございます」
祝辞をのべた源右衛門が、
「こころばかりのお祝いをさせていただきます」

そろそろ、浅野さまがお見えでございましょうと、如才なく引き上げていった。

廊下に人影がないのをたかめ、声をひそめた平蔵が、
「お主、おんなができたのか?」
「さすがに、鋭い」
長野佐左衛門孝祖(たかのり 28歳 600俵 西丸・書院番第3の組)が苦笑した。

「それで、先刻、おれに鎌をかけてきたな」
孝祖が応えかけたとき、女中がお連れさまがおみえになりましたと告げたので、平蔵が指を口にあてて制した。

浅野大学長貞(ながさだ 28歳 500石)が座についたところで、源右衛門が女中に角樽をもたせてあらわれ、
長谷川さま。おめでとうございます。きのう、灘から新川に着きました新酒・剣菱でございます。冷やでお召しあがりくださいませ」
銚子に入れ替えてまいります---とさげた。

乾杯をすませ、
浅野のところには、まだ、出仕のご奉書がまいらぬか?」
「小姓組は、書院番とちがって組数が少ないから、なかなか、空(あき)がでないのだよ」
長野の問いを横取りした平蔵がなぐさめた。

浅野は名流である。
赤穂浪士を生むことになった内匠頭矩(なかのり)は、長貞の祖父の実兄にあたった。

病身の兄に代わって家督したが、母親が正室でないことが障壁になっているようにも見受けられた。
そこのところを、平蔵がかばったのである。

話題が途絶えたところで、平蔵が京都でやって成功した[化粧(けわい)読みうり]のことを話した。
「その、化粧指南師をして稼いでいるおというのが、平蔵に貢いでいるのか?」
(今夕の中野孝祖は荒れている)
「はずれ。おはおんなおとこ(女・男)でな、男を受けいれない」
「しかし、貢ぐことはできる」

佐左(さざ)、言葉がすぎるぞ」
さすがに浅野長貞も我慢ならずにたしなめた。

また会話が絶えた。
料理に専念せざるをえなかった。

佐左。お主の先刻の件、大学に話してもいいか?」
「いや、自分で話す---」
箸を置いた孝祖が、室が3人目にやっと男の子を産んだのはいいが、難産で産道の口が元どおりにならなくなった。
それで、寝屋のこともままならなくなり、小間使いに代わりをさせたところ、室の悋気がひどいのだと。

「深刻だが、そのことで、平蔵にあたるのはよくない」
浅野大学が、もちまえのやさしい声でたしなめた。

「わかっている。平蔵のようにうまくやれないから困っているのだ」
「おいおい。言うに事欠いて、おれがうまくやっているなどとは、いいがかりだぞ」
「すまぬ。ところで、平蔵。おれの家で話しこんだことになっている夕べは、いったい、なにがあったのだ」
「白状すると、室がいま6ヶ月なもので、佐左の家の近くの菜畑で息抜きをしていた」
「お互い、悩みはあるわけだ」
笑って、氷解した。
神田明神社の脇、湯島2丁目に菜畑と呼ばれる娼家が5,6軒あった。


       ★     ★     ★


例によって、きのう、週刊『池波正太郎の世界 16』[鬼平犯科帳の世界 四]が届いた。感謝。


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中 一弥さんの表紙は、[密偵たちの宴]の場面。「作品の舞台裏」は、『オール讀物』の担当編集者だった名女川勝彦さんが、肩入れしたいたおまさの登場が、連載3年目の[血闘]で遅かったと指摘しておられる。
そのわけを、(2995.03.03);に[女密貞おまさ][テレビ化で生まれたおまさと密偵] で推理している。
このほか、尾美としのりさんの[しぶしぶ引き受けた忠吾役から学んだこと」が新鮮。

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2010.04.01

長野佐左衛門孝祖(たかのり)

半蔵門で待ち合わせた長野佐左衛門孝祖(たかのり 30歳 600俵)と平蔵(へいぞう 29歳)が、千鳥ヶ渕ぞいに、中坂下の料亭〔美濃屋〕へ向かった。

長谷川、今夕の払いは持つなどと大見得をきったが、無理しているのではないか? 備中 宣雄 のぶお 享年55歳)どのの役高もはずされたのであろう?」
いつもは無駄口をきかない長野孝祖が、めずらしく冷やかしを口にした。

京都町奉行の格高は1500石だから、死去とともに足高(たしだか 役席高と家禄との差)1100石がつかなくなった。
役料の原米600石はいわずもがなである。

「まあ、今夕くらいのことなら、なんとかなる」
平蔵が胸をはった。
「まさか、貢いてくれる大年増でもできたのではあるまいな?」
おもわず、長野を瞶(みつめ)た。
(いつもの長野でない)

「じつは、剣術の指南料がはいってな」
「目付に知れないようにするんだな」
幕府は、お目見(みえ)以上の士の内職をこころよくは見ていない。

指南料を前払いした菅沼藤次郎(11歳 7000石)の母・於津弥(つや 35歳)に、昨日の下城の途中に会った。
やはり、客間にとおされた。
庭の邪魔にならないところ---納屋の脇にでも、10段ほどの木製の階段をつくり、とりあえず鉄条入りの木刀ができるまで、朝夕10度ずつ上り下りして足腰をならしておいてほしいと告げたのである。

図を懐紙に描いて於津弥iへわたすとき、故意かどうか、、懐紙の下で、支えているこちらの指に於津弥の指が触れた。
津弥はそのまま、図に見いっているふりをして指を離さず、別の指で、
「ここのところに、藤次郎が踏みはずさないように欄干(らんかん)をつけては---」
かすかに媚(こび)をふくんだ眸(め)で、問いかけた。

図を押しやって指を離し、
「いえ。落ちないのも稽古のひとつなのです。それに、木刀を横に薙(な)いだときに邪魔になります」
藤次郎のほうは瞳(ひとみ)を輝かせて聞き入り、うなずいた。

辞去するとき、家老がまた紙包みを用意していた。
「木刀代を忘れておりました」
受け取った。
3両(48万円)入っていた。

その3両を、いま、ふところに持っているが、長野には出所は話さなかった。

「年増にもてる秘訣(ひけつ)を教えてくれないか?」
「人ぎきの悪い冗談はよせ。年増なんかにもててはおらん。室ひと筋だ」
「なにがひと筋なものか。浅野の頼みごとで安房・朝夷郡(あさいこおり)江見村へ出張(でば)ったとき、妙齢の年増もちゃんと木更津通いの船に乗っていたというではないか」

(お(りょう 32歳=明和8年 1771)のことがどこで発覚(バレ)たか、松造(まつぞう 23歳)でないとすると、火盗改メ・永井組有田同心? ま、おは逝ったし、ここは白(しら)をきっておくにかぎる)

参照】2009年5月21日~[真浦(もうら)の伝兵衛] () () (

「人の噂も75日というが、長野が聞いた噂は3年前のものだ。黴(かび)がはえておる」
「どういうおんなであったのだ?」
「忘れたが、お主こそ、できたのではないか?」
「ふふ」
「変だぞ、きょうの長野は---」

飯田町中坂下の〔美濃屋〕へ着いたので、この話題はごく自然に消えた。


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