同期の桜
「集まるのはこれだけか?」
長野佐左衛門孝祖(たかのり 28歳 600石)が不満声をだした。
「すまぬ。15人ほどに声をかけたのだが---」
申わけなさそうに、浅野大学長貞(ながさだ 28歳 500石)が謝った。
「大(だい)さんが謝ることはない。これが現実というものだ」
平蔵が慰めた。
ところは、妻恋町(つまこいちょう)のお秀(ひで 18歳)の寓居であった。
西丸の若年寄・鳥居伊賀守忠意(ただおき 壬生藩主 3万石)から、佐左(さざ)の室の実家・藤方(ふじかた)家がお叱りをうけたが、長野佐左衛門は、懐妊7ヶ月のお秀のこころの安寧をおもんぱかって、屋敷には戻していなかった。
【参照】2010年4月3日~[長野佐左衛門孝祖(たかのり)] (3) (4) (5)
2010年4月9日~[内藤左七直庸(なおつね)] (1) (2) (3)
それで、盟友3人には格好の顔合わせ場所ともなった。
こんどの集まりを提案したのは、佐左衛門であった。
6年前の明和5年(1768)12月5日に、この年だけの特例だが、2回目の初見(はつおめみえ)があり、10ヶ月間溜まっていた幕臣の子弟150名ばかりが一挙にすませた。
【参照】2008年12月5日~[銕三郎、初お目見(みえ)] (3) (4) (5) (6) (7) (8)
2009年5月29日[ちゅうすけのひとり言] (34)
あの日、家禄が300石以上の者が60名ばかり、興奮して、これからも同期の集まりをしようと誓いあった。
しかし、いざ、集まりを呼びかけてみると、参集したのは半数にも満たない20名であった。
家格と家禄の開きが大きすぎた。
上の6500石、4500石といった大身家からみると、300俵級の者と付きあう気にはならない。
300俵の者とすると、2000石の家の子息は煙ったい。
年齢差もあった。17歳からみると、35歳はおじいさんである。
そんなこんなで、400石から700石、20歳から30歳までの15名が長つづきしたが、その集まりも間遠くなってきてはいた。
15名の一人---(能見)松平忠左衛門勝武(かつつぐ 27歳 500石)が、この12月28日かぎりで西丸・第2の組を辞して静養することになった。
つまりは、出仕がかなわぬ病気もちとなったのである。
勝武の兄も躰が弱く、役につくことなく卒していた。
送別会の呼びかけは、まだ出仕していない浅野大学が引きうけた。
ところが、参加をいってきたのは、勝武のほかには、西丸・小姓組の三浦五郎左衛門義和(よしかず 23歳 500俵)だけであった。
「同期を誓いあっても、歳月が経つと、こんなものか」
「佐左(さざ)やおれはいい。大(だい)だって両番(小姓組と書院番士の家格)だから、空(あき)待ちだ。しかし、このまま役をまちつづけて一生を終わる者もいるのだ」
平蔵が、悟りきった声で話した。
「われわれだって、いつ、卒するかわかったものではない。明日、ころりと逝くかもしれない」
大学の一族、浅野内匠頭長矩(ながのり)は松の廊下で刃傷事件をおこした晩に切腹を命じられた。
「そういえば、人は、生まれたときから死に向かって歩きはじめる---と喝破した文人がいたな」
「だれだ?」
「池波正太郎という文人だ。いまから300年ほどあとに、銕(てつ)のことを書いた」
「ふん」
(松平(能見)忠左衛門勝武の個人譜)
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