内藤左七直庸(なおつね)(2)
「内藤与(くみ)頭どのについて、ひと言、注意しておいたほうがいいかな」
平蔵(へいぞう 29歳)の盃を満たしながら、佐野与八郎政親(まさちか 41歳 1100石)が、おもいついたといった風情で軽くいった。
盃を膳iへ戻し、平蔵がかしこまる。
政親が述べたのは、意外な事実であった。
西丸・書院番第3の組の与頭・内藤左七(さしち)尚庸(なおつね 64歳 465石)の実父・尚寿(なおひさ 享年54歳)は、50年ほど前に、自裁した。
平蔵にかかわりのある風評であったために、与八郎が記録を調べた。
自裁の原因は記されておらず、「失心」としかいいようがなかったらしい。
しかし、自裁の15年前に、39歳という若さで書院番士を辞している。
そのときには継嗣はおろか、一人の子も得ていなかった。
辞職直後に得た継室は、陪臣のむすめで、すなわち、尚庸老の生母である。
父・尚寿の自裁は、いまの尚庸老が16歳のときであったから、おおよその原因は察しておろうが、目付の訊問にも不明でとおしている。
「事件から50年近くの歳月が経っているが、心の重荷は消えてはおるまいから、こころして面談するように---」
「こころえました」
「それと、老は片耳がまったく用をなしておらぬ。もう一方の耳も老いがすすんでおるようであるから、面談は外の料亭でなく、内藤どのの屋敷でなされよ。料亭では、声が隣室へ洩れようほどに---」
「あい、わかりました」
内藤左七尚庸の屋敷は、湯島5丁目横町で、盟友・長野佐左衛門孝祖(たかのり 28歳 600石)の屋敷とは目と鼻ほどの近まであった。
それもそうだが、妻恋町(つまこいちょう)のお秀(ひで 18歳)が借りている家も近かった。
円満寺の角を右にまがりながら、
(おれとしたことが抜かっていた。とはいえ、城中で出会うと目礼をしているだけの第3の組の内藤与頭の屋敷がここだなど、おもうはずもない。これは、佐左(さざ)が軽率であったというべきであろう)
平蔵は、供の松造(まつぞう 23歳)に聞かれないように、小さく舌打ちして、内藤家の案内を乞うた。
待っていた与頭は、恐縮したふりで、利くほうの耳を向けながら、目のすみで平蔵の所作を計っていた。
佐野与八郎に説明したとおり、長野から頼まれたわけではなく、お秀の命が一刻も猶予できないようにおもったゆえに、われから手当てをしたことをゆっくりと大声で話した。
尚庸は、なんどもうなずきながら、
「嫁に出したむすめのいい分を鵜呑みになされた実家も、ちと、軽率ではありましたな。はっははは」
笑い声は、地声ほど大きくなかったから、ほんとうに笑ったのかどうかは、解(げ)せなかった。
が、次のつぶやきには真実味がこもっていた。
「おんなというものは、嫁にきても、実家(さと)のことを忘れないものでな。家の中の紛争は、それによることが多いといえますな」
(ということは、尊父の自裁も---? いや、このことは、いまはかかわりない)
(内藤左七尚庸の個人譜)
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