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2010年5月の記事

2010.05.31

火盗改メ・菅沼藤十郎定亨(さだゆき)(5) 

行灯(あんどの)の灯が蚊帳ごしに、里貴(りき 31歳)の白い乳房と桃色の小さな乳頭を浮きあがらせていた。

睦みの高まりの中で、里貴の肌が内側から桜色に変わっていくのを睎(のぞ)むのを平蔵(へいぞう 30歳)が悦(よろこ)ぶので、ことの前に、ことさらに灯芯を高くしている。

参照】2010年3月6日[一橋家老・設楽(しだら)兵庫貞好(だよし)] (

乳首を人差指と薬指ではさみ、中指の腹で敏感な乳頭をかすかに刺激する。
「さきほど、菅沼藤十郎定亨 さだゆき 46歳 2025石 火盗改メ)どのが、新大橋広小路の藤次郎(とうじろう 12歳)のことを話したとき、お前、おれの顔をうかがったろう。なぜだ」
はさんでいた指先にちょっと力を入れた。

「痛ッ! だって、(てつ)さま、お母ごの於津弥(つや)さまからお口説(くど)かれになっているのでしょう?」
「しっていたのか?」
{手にとるように---。36歳の大年増だそうじゃ、ございませんか」
「大年増ではあるが、名前どおり、艶っ気は衰えてはおらぬ」
強くつかまれた。
「これ!」
「嫉(や)けます」

手首をつかんで引きはなし、
「あちらは、いまごろ、小間使いを相手に、立役(たちやく)を演じておろう。しかし、どうして、しったのだ?」
「間諜を放っております、ご油断なさいますな」

たっぷりした腰を引きよせ、
倉地政之助満済 まずみ 36歳 庭の者支配)の手の者か?」

参照】2010年2月9日[庭番・倉地政之助満済(まずみ)]

「いいえ。ほかにも、いろいろ利き耳の者がおります」
「まさか、ここの縁の下にひそんではおるまいな?」
さまとの睦言(むつごと)なら、たっぷりと聞かせてやりとうございます」
「少しは、たしなみということもあろうというもの--」

深川の黒船橋北詰の駕篭屋〔箱根屋〕では、木戸が閉まる四ッ(午後10時)も近いというのに、土地(ところ)の元締代理の〔丸太橋(まるたばし)〕の雄太(ゆうた 41歳)が権七(ごんしち 43歳)と話しこんでいた。

平蔵を認めた権七が、
「ちょうどいいあんべえでやす。〔丸太橋〕の若元締が、元締衆のまとめ役ということで、〔化粧(けわい)読みうり〕の一口あたりの2000枚という刷り数を、3000枚にふやしてほしいと---」
「5割ふやすのはいいが、そうなると、お披露目(ひろめ)枠料も2割はあげないといけないが、枠の買主衆との話しあいは---?」
「ついておりやす。刷り増しは店方の希望でやす」

参照】2010年1月8日~[府内板化粧(けわい)読みうり] () () () () 

話をきめてから、
「じつは---」
火盗改メ・菅沼組頭へ発起(ほっき)した、夜廻り助っ人と手札のことを打ち明けた。

「火盗のお頭のお名を記した手札が、本当にいただけますんで---?」
丸太橋〕は、信じられないといった表情であった。

いずれ、大塚のほうの役宅から呼び出しがこようから、手伝い夜廻りのできる元締衆は手札を受け取りに行くことになろうが---にかぶせ、
(ごん)さんのところへは、この2,3日のうちに火盗改メの同心が意向をたしかめにくるだろうから、元締衆それぞれの諾否を訊きだしておくことだ」
「承知いたしやした。長谷川さまのお顔をおつぶしするようなことはいたしやせん」

「〔箱根屋〕の親方さん。うちは、お手数でやすが、いただきてえほうに○」

丸太橋〕の雄太は、長谷川平蔵の智謀に、あらためて恐れ入ったふうであった。
帰ったら、女房にしている元締・源次のむすめに、尾ひれをつけて話すことであろう。
「おめえ、考えてもみねえ。香具師(やし)のおれっちが、火盗改メのお頭から、じかに、お手札をいただくなんざあ、お江戸始まってからこっちの、快挙だぜ」


参照】2010年5月27日~[火盗改メ・菅沼藤十郎定亨(さだゆき)] () () () (4) (5) () () (

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2010.05.30

火盗改メ・菅沼藤十郎定亨(さだゆき)(4)

長谷川どの。新大橋広小路の藤次郎(とうじろう 12歳)がこと、よろしゅうにお願いしますぞ」
突然、話題を変え、菅沼藤十郎定亨(さだゆき 46歳 2040石)は、火盗改メとはかかわりのない、藤次郎の名をだした。

参照】2010年5月20日[菅沼藤次郎の初恋

一族とはいえ、定亨田峯(だみね)菅沼だし、藤次郎野田菅沼の直系であった。

(於津弥(つや)どののことが伝わってしまっているのか)
咄嗟(とっさ)にひらめいたのはそのことであったが、菅沼定亨の表情からは、そのことではなく、まっとうに、野田菅沼の嫡男の成長を、一族の一人として案じ、眼前に剣の師・平蔵(へいぞう 30歳)がいるので、話題の最後として、口にしたにすぎないようであった。

参照】2010年4月6日~[菅沼家の於津弥(つや)] () (

藤次郎の名が出たとき、里貴(りき 31歳)が眦(まなじり)で、一瞬、平蔵(へいぞう 30歳)の表情をうかがったようだが、すぐに隣の脇屋筆頭与力(47歳)への酌でごまかした。

(四ッ目の別邸へ誘われたが、行かなくてよかった。行っていたら、於津弥を抱くことになっていたかもしれない)
遅ればせの安堵であった。

参照】2010年4月6日~[菅沼家の於津弥(つや)] () (
20104月18日[お勝と於津弥

色恋のことで他人からとやかく言われたくない。
理屈がとおらない道であることも少なくない。
たとえていうと、両掌を打ちあわせ、
「とちらの掌が鳴ったか?」
問いかけるようなものであろうか。
きっかけはどうあろうと、双方にその気がなければ、恋の妙音は発しない。
そう観じているし、これまでのおんなとの経緯(ゆくたて)を考えてみても、結果としては、魚ごころ・水ごころであった。
どちらが魚で、どちらが水とは、きめられない。

藤次郎どのは、7000石の当主におなりなる方ゆえ、剣の道というより、人の道を学んでいただきたいとおもっております」
「異論ござらぬ。亡き新八郎定庸(さだつね 享年33歳)に代わってお願い申す」
「承りました」
菅沼織部定庸は、4年前の明和8年の12月に34歳で亡じていた。

「けっこうな味加減であった」
菅沼定亨が立った。
着していたのは、野袴であった。

脇屋筆頭が玄関へ先んじ、待たしていた馬を呼んだ。
馬は、火除け地で草を食むともなく、なぶっていたらしい。

菅沼組頭を見送ってから、部屋へ戻りながら、
「今夕は、黒船橋の権七どんに会わねばならぬ」
「遣いをだします」
「む---?」
「〔駕篭徳〕に、〔箱根屋〕の舁き手が詰めておりましょう?」
「知っていたのか?」
「あの舁き手の者たちへ、少し遅れると、告げにやりましょう」

参照】2010年1月8日~[府内[化粧](けわい)読みうり] () () () () 
2010年1月12日~[お人違いをなさっていらっしゃいます] () () (

「それこそ、筒抜けだ。深川の櫓下の灯が落ちるまでに行きつけばいい」
「うれしい。先にお帰りになって、お待ちになっていてくださいませ」
(「先にお帰りになって」---なんだか、夫婦気どりだな)

里貴が駕篭で帰ってきた。
いつものように腰丈の浴衣に着替え、傍らに膝をくずして坐った。
「待っていてくださる方がいるのって、ほんとうに励みになります」

「行水、なさいますか?」
手が、もう、袴の結び目にかかっていた。
「お(しげ 60すぎ)にいって、昼間から水をはって、温めてもらっておきました」
「それより、先に蚊帳の中であろう? その前に、菅沼うじの田中城攻めのこと、どこから聞いた?」
「蚊帳の中でお話しします」

参照】2010年5月27日~[火盗改メ・菅沼藤十郎定亨(さだゆき)] () () () (4) (5) () () (

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2010.05.29

火盗改メ・菅沼藤十郎定亨(さだゆき)(3)

長谷川どのの組は、人選にたいへんでござろう?」
会話が一瞬、途絶えたところで、なにをおもったか、先手・弓の2番手の組頭で、火盗改メの本役を勤めている菅沼藤十郎定亨(さだみち 46歳 2024石)が、他人事(ひとごと)のようにつぶやいた。

先手・弓の7番手の組頭の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 67歳 1450石)が、日光社参の組に選抜されたのはいいが、宿泊・炊き出し・予算などのこともあり、組下の半数しか供奉がかなわないので、選ばれた組の長は、みんな難渋していた。

選定の内幕が洩れると、組の規律と士気にかかわってくるからである。
もちろん、組頭がじかに人選するわけではなく、先手組のばあいは、それぞれの組に、5名から10名いる与力の、筆頭と次席といった役付が素案をつくり、組頭に提出するしきたりになっている。

しかし、告示の時期が早すぎると、よけいな思惑が飛びかうことになり、遅すぎたら、配下は支度が間に合わなくなる。
その時期選びは、微妙といってよかった。

菅沼さまは、このまま、火盗改メの役をおつづけになるおつもりでございますか?」
菅沼定亨が、日光参詣の話題をさりげなくもちだしたのは、先手・弓の2番手の組下の中に、不満を口にしている与力・同心がいるので、ここで、心の奥を吐きだし、脇屋筆頭からみんなへ伝えさせたいとおもっている、と平蔵は察した。
(そうか。それも招待の狙いの一つであったか)

「将軍家をはじめ、お歴々の衆が江府をお離れになったとき、府下をしっかりお護りするのは、臣下の義務(つとめ)というもの」
菅沼組頭は、自分にいい聞かせるように語調をつよめた。

「とりわけ、先手・弓の2番手のわが組は、有徳院殿(吉宗 よしむね)さまの日光社参からこちらの47年間の 火盗改メの経験を通算しますと、34組の中で、2番目に長いのです」
脇屋筆頭与力も、組頭の意を汲んだようなことを口にした。

ちゅうすけ注】長谷川平蔵宣以(のぶため)が先手・弓の2番手の組頭となった翌天明7年(1787)から50年を遡って計算すると、2番手が157ヶ月、鉄砲(つつ)の11番手が104ヶ月と逆転し、2番手組がもっとも経験豊富となる。平蔵は、その組のお頭に任じられたのだから、よほど期待されていた。
とはいえ、これから20年後のことではあるが---。

「お頭に火盗の令がくだったのは、お上に、日光ご参詣の目途(めど)がついたときともおもわれます」
脇屋は、自分の推察をつけくわえた。

菅沼組頭がわずかに、眉根を寄せたのを見てとった里貴(りき 31歳)が、
菅沼さまのご先祖は、大権現(家康 いえやす)さまの田中城攻めにご参戦iなり、ご武勇をお立てになったやに伺っております。その前、長谷川さまのご先祖が、田中城をお守りになっており、甲州勢と手ごわくお戦いになったとか---」

あっさりと、話題が振れた。

参照】2007年06月01日~[田中城の攻防] () () (
2007年6月19日~[田中城しのぶ草] ((2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)
2007年4月5日[寛政重修l諸家譜] ()

(いつの間に、誰に訊いたのか)

里貴の言葉には、菅沼定亨よりも、平蔵のほうがおどろいた。
寝屋で、田中城のことも、祖・紀伊守(きのかみ)正長(ながまさ 37歳=戦死)のことも、田中藩主であった本多伯耆守正珍(まさよし 66歳 前・田中藩主 4万石)侯のことも、洩らした記憶がない。
本多侯といえば、父・備中守宣雄(のぶお 享年55歳)が亡じてから、芝口双葉町の藩の中屋敷への参上も怠っていた。

平蔵の顔をなにげないふりで見た菅沼組頭は、かすかに目元を微笑ませてから、
「女将どのは、紀州のどちらの出かな?」
「那賀郡(ながこおり)の貴志村でございます」
「といわれても、わが方は、新左(しんざ 新左衛門 菅沼攝津守虎常とらつね 61歳 700石 日光奉行)どのと異なり、同じ菅沼でも、紀州には縁が薄く、貴志村といわれても、な」

参照】2009年3月19日~[菅沼攝津守虎常] () () () (

「金剛峰寺さんの寺領の村でございます」
「真言宗か?」
「はい」
「いや。立ち入ったことを訊いてしまった。許されよ。これからもよろしゅうにな」
「こちらこそ、ご贔屓にお願いいたします」
頭をさげた。


参照】2010年5月27日~[火盗改メ・菅沼藤十郎定亨(さだゆき)] () () () (4) (5) () () (


       ★     ★     ★

調べものに追われていて紹介が遅れてしまったが、週刊『池波正太郎の世界 24』[夜の戦士 火の国の城ほか]---いわゆる、忍びの者シリーズが送られてきていた。

24_36


懐かしかった---というのは、巻末の「池波さんと私」で落合恵子さんが「読売映画広告賞」での池波さんのことを話していたからである。
こまの審査員は、池波さん、落合さんといっしょにぼくも、10年以上もつとめた。
最終審査は年1回、3人のほかに映画雑誌の編集長の尾川さんの4人が同席して行なった。
池波さんは、一言居士で、「ぼくは、あれ」とひと言きり。
もっとも、審査の前は、お互い、気ぜわしいタイプだから、30分も前には会場にきて、雑談を交わした。

仕事の分野が異なるので、わけへだてなく会話した。

あの10数年間を、落合さんの言葉を読みながら思い出した。

審査が終わってからの帰りは、池波さんはほとんど落合さんと相乗りの車であった。
ぼくは、大手町からメトロで3駅なので、送迎の車はいつも断っていた。大気汚染をすこしでも減らしたかったから。
いまでも、ほとんどはメト利用である。
パルプ節約のために、本の上梓もひかえて、もっぱら、ブログ。
iPadが普及したら、電子本なら考えてもいいが。

この『Who’s Who』も、いい編集者がついて、このファイルとコノファイルをつないで---と電子本になることを、ときどき夢見ながら書いている。

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2010.05.28

火盗改メ・菅沼藤十郎定亨(さだゆき)(2)

「ところで、長谷川どの。香具師の元締への申し渡しだが、名簿は---?」
訊いたのは、先手・弓の2番手で、いま、火盗改メに任じている菅沼組の筆頭与力・脇屋清助(きよよし 47歳)であった。

「町方のことゆえ、町奉行所に手控えがありましょう。門前の盛り場のことは、月番の寺社のお奉行のところに---」
「なるほど。しかし、町奉行所の手を借りると、せっかくの案が先方に筒抜けになり、お株を奪(と)られてしまいます」

(非常のときというのに、この人たちは、どこまで、縄張り争いをするのか)

そのおもいは伏せ、平蔵(へいぞう 30歳)が、
「深川・黒船橋北詰に、〔箱根屋〕という駕篭屋業を営(いとな)んでいる権七(ごしち)という誠実な男がおります。拙の大伯父で、先手・弓の7番手---」
といいかけたところで、菅沼藤十郎定盈(さだみつ 46歳 2024石)が受け、、
「組頭の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 67歳 1450石)どのですな」

太郎兵衛正直は、菅沼定亨よりも家禄はやや低いが、先任だから、序列は高い。
太郎兵衛の先手組頭の拝命は14年前からで、菅沼定亨は昨年の晩春であった。
火盗改メの経験も、正直は通算で21ヶ月、定亨のほうは今月を入れて15ヶ月足らず。

「はい。大伯父が火盗改メを拝命していたころ、権七もちょっとした手柄をたて、ご褒美をいただいております。その者へお問い合わせになれば、それ相応の名簿が得られましょう」

脇屋筆頭与力が懐紙に、権七の名と屋号を記した。
明日にでも、本所・深川担当の同心が訊きに立ち寄るであろう。
(これで、権七の顔が、また一つ、広くなるというもの---)

里貴(りき)が戻ってきた。
眦(まなじり)のあたりの桜色が白い面持ちから退(ひ)いていないところをみると、ほかの座敷へあいさつにまわったのではなく、手洗いあたりで下腹のほてりを冷ましていたのであろう。
(躰が馴染みあってきた分、感じやすくなったようだ。そういう熟(う)れた齢ごろなのかもしれない)

新しい銚子から、菅沼組頭には形だけ酌をし、脇屋へ差し向けた。
脇屋筆頭は、あわてて懐紙をしまい、両手で受ける。

「組頭さま。香具師の元締が集める夜廻りに、きつく申しわたしてくださいますよう。盗賊は徒党をくみ、刃物ももっておりましょう。素人が3人や5人で捕縛できるものではありませぬ。捕縛のこと、きっといましめ、さとられないように、一人でいいから、帰りついた家に目印をつけるだけですませと。あとは、翌朝、菅沼さまのお手の方々が捕り物にお出張(でば)りください。一人を責めれば、数人の賊を白状いたします」

菅沼組頭が、「もっとも」とうなずいた。
「不寝(ねず)の番をかならず置き、なん刻(どき)でも受けるよるようにしておこう」


_360
(菅沼藤十郎定亨(さだゆき)の個人譜)

_360_2
(長谷川太郎兵衛正直(まさなお)の個人譜)


参照】2010年5月27日~[火盗改メ・菅沼藤十郎定亨(さだゆき)] () () () (4) (5) () () (

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2010.05.27

火盗改メ・菅沼藤十郎定亨(さだゆき)

「先刻、お見えになっておりす」
門口で待っていた女将・里貴(りき 31歳)が、双眸(りょうめ)を嫣然(つややか)にほころばせ、平蔵(へいぞう 30歳)を迎えた。
眸の色気は、玄関にあがったときには、消していた。

「お着きになりました」
襖をあける。
「遅れまして、申しわけありません」

菅沼藤十郎定定亨(さだゆき 46歳 2020石)と、筆頭与力・脇屋清助(きよよし 47歳)がふりかえり、平蔵を見た。
ということは、2人は下座で待っていたことになる。
役宅から、島田慶四郎と名乗った同心が、西丸へ、脇屋与力の書簡をとどけてきた。
それには、火盗改メ・本役の菅沼組頭が、先日の茶寮〔貴志〕で一献さしあげたいから、今夕、下城の際にお立ち寄りいただければ幸甚(こうじん)、とあった。
「承知つかまつった」
返事をことづけた。

上座につくことを遠慮したが、2人が肯(がえん)じなかったので、仕方なくг型の短いほうへ着席するしかなかった。
「女将どのが、田沼意次 おきつぐ 57歳 相良藩主)侯の筋と聞き、お見知りおきいただこうと存じてな」

それが、口実にすぎないことは、すぐにわかったが、いまが男ざかりのはずの菅沼の顔色が、なんとなく冴えないのが気になった。
心の臓のあたりに病根をかかえているふうであった。
里貴が酒をすすめても、ほとんど口へはこばなかった。

引きかえ、脇屋筆頭は、遠慮しなかった。
事態を語るのがもどかしげなほど、盃をかさねている。
もっとも、里貴も心得ており、注ぐ量を加減していた。

筆頭が語ったところを要約すると、このごろ、真夏のせいで、夜には海風を呼びこむために雨戸をしめないで寝(やす)む商家も少なくない。
その戸締まりの悪さが盗賊に狙われた被害が頻発している。

菅沼組頭の要請で、月番の若年寄・久世出雲守広明(ひろあきら 45歳 関宿藩主5万8000石)から、非番の先手組、手すきの小姓組番士や書院番士へ夜廻りの指令がだされた。

夜廻り組が巡行しているあいだは、たしかに盗賊はひそんでいたが、一行が去ると、押し入るので、あまり効果はなかった。

「一夜のうちに数ヶ所に押し入るので、手の打ちようがない」
脇屋が嘆いた。

「しかし、心得のある盗賊であれば、人びとの眠りのあさい夏場は仕事をしないように聞いておりますが---」
「それでござる。盗むというより、その家のものをおどして奪っていくのは、5両(80万円)とか10両(160万円)といった小口がほとんどで---」

菅沼組頭が口をはさんだ。
「商家ばかりではなく、ご家人(けにん)のところも狙われておる」
「それも、当主が宿直(とのい)で家をあけており、隠居の年寄りやおんなだけというところが多いのです」
脇屋筆頭が言葉を添えた。

「先手組の方々をさしおき、拙ごときに妙案があるはずはございませぬが---」
平蔵が申しでたのは、夜廻りの増員として、町内の有力者から有志をつのり、巡邏の数をふーやしてみては、という案であった。
そのため、町人の巡邏の組々に、火盗改メの手札をわたし、駆りだされている先手組や両番(小姓組と書院組)の夜廻りと行きあったら、その手札を提示させる。

先手組や書院番士を夜廻りさせると、幕府は特別手当を支給しないわけにはいかない。
幕臣たちが勘定高くなっていたというより、武家の生活がそれだけきびしくなってきていたのであろう。

手札は、菅沼組頭の役宅へ、それぞれの元締か一番小頭を呼びつけて下付すればよい、とも提案した。

この奇想天外な案に、菅沼定亨は、
(長谷川平蔵という若者、このような案を、いったい、どこから思いつくものか。ただの旗本とは、とても、おもえない)

里貴も、自分が惚れて情を交(かよ)わせている(てつ)さまの、底知れない発案の才に、あらためてを双眸(りょうめ)を細め、惚れなおし、下腹の奥を熱くした。

で、とってつけたように、
「ご妙案でございますこと---」
そして、ちょっと、失礼いたします、と出ていった。
代役は女中頭のお粂(くめ 36歳)と新人の女中のお栖美(すみ 21歳)がつとめたが、役不足の撼(うらみ)はぬぐえなかった。

会話が沈んだ。


参照】2010年5月27日~[火盗改メ・菅沼藤十郎定亨(さだゆき)] () () () (4) (5) () () (

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2010.05.26

ちゅうすけのひとり言(57)

物語の進行中の時制(安永4年)から1年後---安永5年(1776)4月13日に首途(かどで)した将軍・家治(いえはる 39歳)の壮挙である日光参詣に供奉(ぐぶ)の選抜をめぐる、幕臣のあいだの一喜一憂のはしばしを報告している。

とりあえず、長谷川家の本家・太郎兵衛正直(まさなお 67歳 1450石)がからんでいる、先手30組の選抜のリストを公開しよう。
(このリストは、本邦初出のはず)

弓組10組の組頭
 (○選抜。 年齢は安永4年。1番組から順)

平岡与右衛門近敬(ちかよし 74歳 300俵) 
  菅沼藤十郎定亨(さだゆき 46歳 2024石)
長田甚左衛門繁走尭しげたけ 55歳 1300石)
 蒔(まい)田八郎左衛門定賢(さだかた 39歳 1800石)
能勢助十郎頼寿よりひさ 72歳 300俵)
  遠山源兵衛景俊(かげとし 68歳 400石)
長谷川太郎兵衛正直まさなお 67歳 14350石)
嶋田弾正政弥(まさはる 39歳 2500石)
  橋本阿波守忠正(ただまさ 65歳 500俵)
  篠山吉之助光官(みつのり 60歳 500石)


鉄砲(つつ)20組の組頭(同上)

  三浦五郎左衛門義如(よしゆき 57歳 500俵)
  大岡忠四郎忠居(ただおき 45歳 1430石)
  杉浦長門守忠興(ただおき 55歳 620石)
大久保弥三郎忠厚(ただあつ 55歳 550石)
倉橋三左衛門久雄(ひさお 66歳 1000石)
小笠原兵庫住甫(すみやす 38歳 300石)
  荒木十右衛門政為(まさため 52歳 1500石)
安部兵部信盈のぶみつ 52歳 1500石)
遠藤源五郎常住つねずみ 59歳 1000石)
松田善右衛門勝易かつやす 53歳 1230石)
○浅井小右衛門元武(もとたけ 66歳 540石)
山本備前守義詔(よしみち 59歳 300俵)
  松本仁右衛門近富(ちかとみ 75歳 1,500石)
  牧野内匠資成(すけしげ 1500石) 
○織田図書信方(のぶかた 58歳 1500石)
  戸田五助勝房(かつふさ 52歳 1500石)
  市岡左兵衛正軌(まつのり 82歳 400石)
熊倉兵庫頭茂政(しげまさ 47歳 300石)
松下隠岐守照永(あきなが 52歳 700石)

こうしてリスト化してみると、選抜の基準はあってなきがごとし---ともいえる。
このさい、高齢者に華をもたせてもいないし、永続勤務を賞しているわけでもなさそうである。

基準がないところには、情実がはびこるともいえる。
さらに調査・考察を要する。


このリストが、以上の30名の後裔の方々のお目にとまり、ご先祖さまの日光随伴についてのエピソードが伝わっていたら、お聞かせいただきたいもの。
 
 

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2010.05.25

亡父・宣雄の三回忌(3)

「腹の中の子に、障(さわ)りはないのか?」
自分の位置に枕を置き、するりとはいってきた久栄(ひさえ 23歳)の腹に、掌(たなごころ)をあてて平蔵(へいぞう 30歳)がたしかめた。

亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)の三回忌の供養が終わり、親類たちも引きあげ、辰蔵(たつぞう 6歳)、(はつ 3歳)も寝入り、平蔵もほっとして横になっていたときであった。

「お隣りの松田さまの於千華(ちか 40歳)さまから、5手ほど教わっております。今夜はその3で---」
「その5までも、あるのか? しかし、於千華どのは、新三郎どの一人しか産んではいないのに、ずいぶんと究めたものだな」
「このことが好きおなごなら、とことん究めます」
久栄、お前は好きなのか」
「はい。好きで好きでたまりませぬ」
平蔵の手首をとり、指をみちびいた。

しぱらく、お互いの指でじゃれあっている。

「ご本家の於佐兎(さと 60歳)大伯母さまが、そっとお洩らしなりましたが、あちらは、いまでもだそうでございますよ」
「いつの間に、そんな話を交わしたのだ?」
「お水をご所望で、調理場へごあんないしたときに---」
「油断も隙もあったものではない」

「於佐兎大伯母さまは、お姑さまのことを、脇腹を断ちきったとお誉めでしたが、お舅どのはずっと、お姑さまだけでしたのでしょうか?」
久栄は、どう見ている?」
「長谷川家の血---というより、武家方は、子が多いほどよろしいのですから---」
「長谷川家の血?」
「よそに、お子だけはおつくりになりませぬよう。(てつ)さまのお子は、私が、もういい、といわれるほど産みますゆえ---」

息づかいが荒くなってきていた久栄が、薄い上がけの布団をはぎすて、寝衣の裾をからげ、うつ伏せになるとひざで支えて尻をあげ、
「その3でございます」

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』部分 イメージ)

平蔵がその3を終え、久栄にかぶさった。

横になって向きあい、互いの躰をゆっくりと撫ぜあいながら、
「お舅どのは、このことよりも、もっとご興味のあることがおありになったのでしょう」
「いや。わしはそうはおもわぬ。わしが生まれ前に、ことが過ぎたので、飽いたのであろうよ」
(てつ)さまは、まだ、お飽きになりませぬか?」
「その4と、その5を試み終えれば、飽きてくるかもな」
「では、明晩、その4を---」
「急ぐには及ばぬ」
「お、ほほほ。本音がでました」
「あ、はははは」
「お飽きになるのを、いつまででもお待ち申しあげております」

「よい、三回忌の供養であった」
「いいえ、1回きりでございました。三回忌なら、その4、その5を終えませぬと---」
「わかっておる」

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2010.05.24

亡父・宣雄の三回忌(2)

小野どのも日光へ供奉(ぐぶ)なさるのでしょうな?」
本家の当主で、先手・弓の7番手の組頭の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 67歳 1450石)が、同じ8番手の次席与力・小野史郎(しろう 50歳)に問いかけた。

太郎兵衛正直の組も、史郎の組と言うより、組頭・嶋田弾正政弥(まさはる 39歳 2500石)も、来年4月に挙行される将軍・家治(いえはる 39歳)が念願の日光社参の供に選ばれた。

本丸に30組ある先手からは、弓が10組中、5組、20組ある鉄砲組からは10組の組頭に参列警護の内示があった。

太郎兵衛正直としては、先手組頭の足かけ13年におよぶ在任中のもっとも晴れがましい任務であったから、機会さえあれば話題にする。
この夕べも、昨年、勤めを辞した長谷川久三郎正脩(まさむろ 65歳 4070石)はともかくとして、この家の主婦である久栄(ひさえ 23歳)の実家・大橋与惣兵衛親英(ちかひで 62歳 200俵)にはその内示がなかったのであるから、日光まわりの話題は控えるべきであった。

しかし、弓・八番手の嶋田組内山与力の顔をみて、おさえきれなかった。
一旦、口に出してしまったものは、ひっこめるわけにはいかない。

供奉のことを訊いたのは、選抜された組の組下全員が参列するわけではなく、1組の与力10人、同心30人から半数前後が筆頭与力と次席によってふるいにかけられる。
組とすれば、綱紀粛正の一つとしてとらえていた。

もっとも、太郎兵衛正直の7番手は、与力は10騎だから5騎は参加できるが、嶋田組の8番手の与力は5名だから参列は3騎にかぎられる。
それで、
小野どのも日光へ供奉(ぐぶ)なさるのでしょうな?」
という、一応は敬意をこめた問いかけになった。

「はい。筆頭の秋山どのが、ここ1,2年、体調がおすぐれにならないので、手前が組をまとめることになっております」
小野次席の声も、どことなく弾(は)ずんでいた。

が、先手の与力(寄騎)といっても、その人数に間に合うだけの馬が調達できないから、同心と同じく与力は徒歩であった。

備中守宣雄 享年55歳=安永2年)どのも、あと3年、長生きをしておられれば、晴れの行進に参加できたものを---」
太郎兵衛正直の室・於佐兎(さと 60歳)が、宣雄の内妻・(たえ 50歳)に気づかって言葉をつないだが、は、
「いいえ。あの人は、荒々しい火盗改メより、京都町奉行のほうが性(しょう)にあっておりましたろう」

一同、仏壇に眸(め)をやり、合点(うなず)いた。
ひとり、平蔵(へいぞう 30歳)だけは、腹の中で、つぶやいていた。
(父上のことだ、お上(かみ)も下(しも)も勝手(財政)元が苦しいときに、無理算段しての参詣を、大権現さまは笑っておられよう、とおっしゃったろう)

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2010.05.23

亡父・宣雄の三回忌

(旧暦)安永4年(1774)6月12日は、現代なら7月中旬であろう。
江戸は、梅雨が明けきり、まぶしく輝く入道雲が盛り上がっている季節であった。

その七ッ(午後4時)すぎ---。

東本所三ッ目通りの長谷川平蔵では、読経を終えた妙典山戒行寺からから招かれた日選(にっせん)老師が、駕篭に身をあずけ、参会客たちの見送りのあいさつをうけていた。

八代当主であった備中守宣雄(のぶお 享年55歳)の三回忌の経をあげ終え、帰るところであった。

老僧の駕篭が正門をくぐり、新大橋へ通じている通りのほう、左へ折れたのを見とどけると、一同は仏間へ引きとり、門扉が音をたてて閉ざされた。
武家方では、ふつうは表門扉は閉めておく。
公儀筋の使者を迎えたときなどでないと、ふだんは大扉は開かない。

仏間へ参集しているのは、本家・太郎兵衛正直(まさなお 67歳 1450石 先手・弓の7番手組頭)夫妻、分家の大身で納戸町の久三郎正脩(まさむろ 65歳 4070石)夫妻、久栄(ひさえ 23歳)とその実家・大橋与惣兵衛親英(ちかひで 62歳 200俵)夫妻など、親しい親戚にかぎられていた。

本妻同様であった妙(たえ 50歳)の実家の兄で、上総国武射郡(むしゃごおり)寺崎村の村長(むらおさ)・戸村五左衛門(ござえもん 58歳)は、お経料がとどけていた。
寺崎村には、長谷川家の知行地(220石余)があった。

宣雄の終焉の地が京都であったために、西町奉行所からは、事前に与力一同よりとして線香がとどいていただけであった。

いくつかの記録に差違のある宣雄の命日については、すでに解説しているので、下の【参照】をおあらためいただきたい。

参照】2009年11月20日~[京都町奉行・備中守宣雄の死] () () () () () () (

平蔵が用人・松浦与助(よすけ 59歳)に目顔で合図すると、それぞれの前に酒と料理が配膳された。

後家のが下座から参会への謝辞を述べ、低頭しおわり、平蔵(へいぞう 30歳)と内室・久栄(ひさえ 23歳)が全員に酌をしてまわっていた。

本家の当主・太郎兵衛正直の室・於佐兎(さと 60歳)が、
「しかし、おどのは偉い。こちらの分家にかぎらず、長谷川家は脇腹に子を産ませることに長(た)けた当主どのが多かったが、そなたさまは宣雄どのの首に綱をつけ、伝統をぴたりと断ちきりなされた」

内室たちが賛辞をおくり、当主たちは目を交わしあい、白けた表情をとったところへ、松浦用人が、
「殿が京へご栄転になるまで組頭をお勤めになっておられました、先手・弓の8番手から、次席与力の小野史郎(しろう 50歳)さまが焼香だけとおっとしゃって、お見えでごいます」

平蔵がすぐに出迎えに立ち、案内してきた。
「用務のため、遅れて申しわけございませぬでした」
香華料を供え、焼香をすますと、お膳が用意されており、久栄が銚子を手に、待ちかまえていた。

小野与力は、そのまま帰れなくなり、着座して、懐からだした用箋を示し、
「長谷川組頭どのの五分(ごぶ)目紙といわれ、組下全員が持たされていた碁盤目でございます」

話題が脇腹子から転じそうなのを察した太郎兵衛正直が乗りだした。
「なんでござるかな」

参照】2007年12月18日~[平蔵の五分(ごぶ)目紙] () () (

故・平蔵宣雄が、小十人頭から、先手・弓の8番手の組頭へ栄転してきたのは明和2年(1765)、47歳のときであった。
前職に就いたのが40歳の壮年時で、細かな文字も自在に読めたから、この五分目紙を板刻し、書類は枡目紙を下敷きにし、升目にあわせて書き、紙の節約を図かった。
そのまま、先手8番手にも応用した。
宣雄が京都へ栄転、後任の島田弾正政弥(まさはる 2500石)も36歳という若さでの着任であったから、五分目紙はそのまま引きつがれた。

しかし、いまでは筆頭与力・秋山善之進が54歳、小野次席が50歳となり、細字がかすむようになったので、
「今夕は、五分目紙を仏前にお返しするお許しを乞いに、参じました次第でございます」

これには、老父夫妻たちが声をあげて笑った。
備中どのの名案も、齢には勝てぬな」
(てつ)どの。備中は京都町奉行所でも、五分目紙を使わせていたのかの?」
「存じませぬ」
「55歳じゃったから、いかに鉄人・舅どのも、それはなかったろう」
大橋親英が仏壇をふりむいてつぶやいた。


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2010.05.22

本丸・小姓組第6の組(2)

「いや、ご師範役どのに、いたく喜ばれた」
浅野大学長貞(ながさだ 29歳 500石)が、盟友同士なのに、頭をひくくさげげた。
4,5日前に茶寮〔貴志〕へ招待した本丸・小姓組第6の組の師範役・河野鉄三郎利通(としみち  41歳 職給300俵)が、女将・里貴(りき 31歳)のもてなしぶりに、もう、満足しきったらしい。

「よせ、(だい)らくしくもない」
たしなめたのは、礼をうけた平蔵(へいぞう 30歳)であった。

つづけての料理茶屋は、用人に渋い顔をされるのでな---ということで、市ヶ谷牛込の浅野邸へ招かれた。

「宅も、ご満足だったようで、帰ってきてからというもの、里貴と申されるのですか、女将どのの話しばかりで、手がつけられませぬ」
あいさつにでた内室の於四賀(しが 22歳)が、妬いたふりをする。

「おめでたは、いつごろで---」
里貴の話題からそらすために訊いた。

「来春の予定でございます」
「拙のところも、同じころかと---」
長谷川のところは、3人目だよ」
「おうらやましい」
「なに、一人目が通れば、あとは、つぎつぎですよ」

四賀が笑いながら引きさがると、大学が声をひそめ、
「於喜和((きわ 24歳)の隠棲どころ、かたじけない。お喜和から、くれぐれもお礼を、と頼まれておる」

母違いの妹・お喜和は、16歳で嫁(か)したが、夫がその年に病死したので、戻ってきていた。
そして、養子口が見つからない腹違いの兄・周五郎(しゅうごろう 25歳)と、ただならない関係をつくってしまった。

参照】2010年5月17日~[浅野大学長貞(ながさだ)の憂鬱] () () (

不祥事が目付などの耳にはいらないうちにということで、とりあえず、於喜和を妻恋(つまこい)稲荷社の横手の路地の奥の一軒家へ隔離した。
新しい女中も雇ってつけた。

自制では周五郎の躰から離れることができなかったおんなの深い欲心は、隔離という荒っぽい処置で、じょじょに沈静にむかっていた。

もちろん、上野一帯の香具師の元締・[般若(はんにゃ)〕の猪兵衛(いへえ 28歳)の手の者が、しばらくは終日見張ってはいたが。

この家は、同じ盟友・長野佐左衛門孝祖(たかのり 29歳)の情けをうけたお(ひで 享年18歳)を匿(かくま)うために、平蔵が手くばりしたものだが、おは死産で、自分も助からなかった。

参照】2010年5月13日[長野佐左衛門孝祖(たかのり)の悲嘆]

「ところで、日光ご社参組からはずされた組の、無念の声は耳にはいっておるか?」

日光社参とは、将軍・家治(いえはる)が、来年---安永5年(1776) 4月16日から行う、大行事である。
八代将軍・吉宗(よしむね)が行った享保13年(1728)以来、48年ぶりの祝事に選出される名誉もさることながら、大方は、久びさに遠出ができるという浮かれ気分のほうが強かったかもしれない。

大学が勤仕している本丸・小姓組第6から第10の組までが供奉(ぐぶ)から洩れた。

「わが組の悲歎は、先夕、ご師範どのがいわれたとおりだ。この機に、転職を画策なされた番頭・小堀式部政明(まさあきら 39歳 5000石)どのへ嗟嘆が集まっておる」
「先夕は、場が場がだけに、口にするのをはばかったが、そのような人事の秘密が洩れるというのは、いささか、解(げ)せぬ」

平蔵は、亡父・宣雄が京都西町奉行のときの山城代官が、小堀式部政明であり、そのように猟官せずとも、柳営内の諸方に 牽く手くばりがしてある仁にみえた、と告げた。
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その瞬間、躰をあわせた貞妙尼(じょみょうに)との出事(でごと 交合)の記憶がよみがえったが、なんと、里貴とのそれと重なり、おのそれは薄れつつあった。
(現世(うつせみ)とは、このことかもな)

「それもある。おれはまだ、出仕3ヶ月だからよくはわからないが、噂の火の元は、隣の第7の組の与(くみ 組)頭・能勢半左衛門頼喬(よりたか 54歳 700石)どのとの説も、ひそかにひろまっておる」
「なぜに、第7の与頭どのが---?」

大学の解説によると、4年前に本丸・小姓組の番頭となった中坊讃岐守秀亨(ひでみち 55歳 4000石)は、このところ体調がすぐれないので、幕府は日光参列は無理と判断、そうそうに選抜が除外した。
そのついでに、6番手以下をはずことにしたと読んだ能勢与頭は、非難がおのれの組にこないように、非が第6の組へ向くように筋書きを書いたのだと。

中坊どのお加減は、それほどにお悪いのか?」
「ほとんと登城されていないようだ」
「ふむ」

中坊讃岐守秀亨といえば、銕三郎時代の平蔵が、駿府奉行をしていたその継妻のところへ、当時6歳だった与詩(よし)を養女にもらいうけにいった、父親その人である。

与詩(18歳)は、離縁されて、納戸町の大叔母・於紀乃(きの 76歳)の介護をしている。
与詩をうけとりにいかされた道中に、阿記(あき 享年25歳)と出会い、お嘉根(11歳)をもうけた。

【参照】2007年12月21日~[与詩(よし)を迎えに] () () () () () () () ()  (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15)  (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)(26) (27) (28) (29)  (30) (31) (32) (34) (35) (36) (37) (38) (39) (40) (41


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(中坊讃岐守秀亨の個人譜)


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(能勢半左衛門頼喬の個人譜)


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2010.05.21

本丸・小姓組6の組

「先夕、招いてくれた茶寮〔貴志〕を、こんどは、おれ持ちで、河野ご師範役を接待したいのだが、同席してくれるか? もちろん、女将どの自らの給仕が目あてだ」
本丸の同朋(どうぼう 茶坊主)が、書箋をとどけてきた。
本丸・小姓組6の組に、この2月から番士として出仕している、浅野大学長貞(ながさだ 29歳 500石)の頼みであった。

「明後日の夕方でよければ、ご馳走になる」
返書に小粒を添えた。

平蔵(へいぞう 30歳)は、本城に10組ある小姓組については、あまり通じていないが、大学に師範役としてついた河野鉄三郎利通(としみち 41歳 職給300俵)のことは、聞かされていた。

番士となって10年以上になるのに、家督もならず、功績らしいものといってなく、まあ、大過なく勤務してきたが、師範役という名誉職をもらってからは、ことごとにうるさいらしい。
(だい)め、篭絡をはかったか)

そのころの幕臣は、いくらかでも地位があがると、つけとどけを期待していた。

帰宅した平蔵が、すぐさま遣いを本所・石原町(現・墨田区石原2丁目)へ走らせ、書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら 57歳 150俵)に、河野氏の家系を、明夕までにほしいと頼んだ。

届いた書き上げによると、宗家は伊予国の土豪だが、甲斐へ移って信玄勝頼に仕え、のち、徳川陣営に転じていた。
その支家の歴代は、小十人の組下、大番の番士、ニ丸留守居などを経、銕三郎利通の代となって初めて小姓組という陽があたる職についたといえた。

もっとも、父・源左衛門教通(のりみち 66歳 500石)が西丸の広敷用人として現役を放さないので、利通はそうしたときの小姓組の番士の職奉300俵を父の家禄とは別にうけていた。

ちゅうすけ注】このときから13年ほどのちに、長谷川平蔵宣以の長女・(はつ)が嫁いだ吉十郎広通(ひろみち 650石)の河野家とは、同じ越智(おち)氏系の河野姓ではあるが、子孫はほとんどつながっていない。

長谷川安卿は、ついでだからと、浅野大学の上役で番頭の小堀式部政明(まさあきら 39歳 5000石)のことも写してくれていたが、輻輳ぎみになるので、いつかの機会に記利すことにしよう。

〔貴志〕へは、予約ついでに顔をだし、軽く盃をかたむけ、明後日を期して引きあげた。

その日---。

平蔵はひと足さきに、〔貴志〕で待った。

里貴(りき 31歳)が、わざと女将らしい艶っぽい声で、
「お着きになりました」

河野師範役と浅野大学が連れだって着席した。
里貴の配慮で、上座に河野、折れた左手に並んで大学と平蔵の席がしつらえてあった。

河野は、大学から、老中・田沼意次(おきつぐ 57歳 相良藩主)かかわりのおんなと耳打ちされていたのであろう、里貴の酌を、かしこまって受け、
「女将どのは、相良の殿と---?」
いわずもがなのことを口にした。

「いえ、出が紀州ということだけで、みなさまがそうおとりになっているようでございます」
応えながら、否定はしなかった。
(これで、への師範役の接し方が変われば、安いものだ)
里貴には、あまりぶったくるな---といってあった。

心得ている里貴は、大学とはつきあいが長いようなふりをしながら、河野を主客としてもてなすので、利通も上機嫌で酒をすごした。

それでも、本丸・小姓組10組の中で、来年の日光参詣から洩れたことをうらめしげにぼやいいた。
選ばれたのは、1番手から5番手の組で、6の組から10の組までは江戸警備に残されたのであった。

「番頭どのが、組をお替わりになる工作がひびいているのだ」
たしかにその後、番頭の小堀式部政明は、将軍の日光参詣の直前---安永5年(1776)の2月、西丸の書院番頭へ転じた。

西丸の主(あるじ)は世子の家基(いえもと 15歳)で、参詣には随行しない。

「諸掛りを惜しんでいるにすぎぬ」
ふだんは言動に慎重な河野師範役が、番頭を痛罵した。
里貴のすすめ上手で、酔いが深まっていた。

宴が終わったときには、足元がふらつき加減で駕篭にたおれこんだ。
屋敷は、平蔵の本家にあたる大伯父・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 67歳 1450石 先手・弓の7番手組頭)と同じ、番町新道一番町であった。
市ヶ谷牛小屋の浅野が、途中までつき添った。

御宿(みしゃく)稲荷脇の里の家で、かってしった棚から冷酒をだして呑みなおしていると、駕篭が戸口に着いた気配であった。

脇をあわただしく通りぬけながら、
「着替えますから、そのままお呑みになっていて---」
隣室へ消えた。

慣れてしまっている平蔵は、ふりむきもしないでうなずいた。

里貴は、例の腰丈の浴衣で、下にはなにも着ず、透きとおるほどに白い太腿(ふともも)をまともに見せつけながら、
「あれで、よろしかったのですか?」
「上等々々。大学も喜んでいた」
「しゃ、ご褒美ください」
あぐらの平蔵の着物の裾をさっとひらき、下帯の前をずらした太ももの上に、大股をひろげ、真向かいから腰をおとし、口うつしの酒をもとめた。

甘えることで、情愛を深めている。
惚れている男と2人きりだと、おんなは、いくらでも、淫らになれるものらしい。


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(河野銕三郎利通の個人譜)


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2010.05.20

菅沼藤次郎の初恋

「先生。お教えください」
稽古を終えた菅沼藤次郎(とうじろう 12歳 7000石)が、いつになく真剣な面持ちで切りだした。
並んで井戸水で汗を拭いていた平蔵(へいぞう 30歳)が眸(め)を向けると、
「このごろ、道場仲間が隠しもってきた絵を示されると、股間があつくなるのです。どうしてですか?」
顔も赤らめずに問うた。

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(北斎『ついの雛形』 イメージ)

平蔵の指導で、剣術の基礎もでき、体力もついたので、毎日の稽古は小野派一刀流の直流、若松町の竹尾太吉道場へ通っている。

この日、母親の於津弥(つや 36歳)は、またも昨日から、召使いのお(きく 17歳)を伴い、東本所四ッ目の別邸へ泊りこみででかけており、留守であった。

参照】2010年4月18日~[お勝と於津弥] () (

そういえば、姉が湯を使っているのを覗き見したがっていると、お津弥が笑いながら告げたことがあった。

「姉上の入浴姿を見たときも、あつくなるか?」
「いいえ。なりません」
「どうして---?」
「乳のふくらみが小さいし、股がまだ黒くなっておりません」
あっけらかんと応えた。

「でも、小間使いのおの下腹は絵のおんなのように黒かったので、あつくなりました」
「見たのか」
「はい。母上の寝所から厠へいくとき、前をあけておりました」

「それは、いいことだ。(ふじ)どのに、男としての力がみなぎってきておるのだ。男としての力が満ちてくれば、剣も、さらに強くなる。だから、おのことは忘れよ」
辻褄のあわない返事をしていたが、2人ともそのことに気がつかない。

「先生。夜、床(とこ)へはいっても、絵のおんなの姿をおもいだすと、股のものが硬直します」
「そこにこそ、男の力が宿っておるのだ」
「でも、絵のように太くも長くもありませぬ。---拙の、いまのままの大きさでは、描かれているようには、おんなの股へはいっていけぬとおもいます」

まじめに訊いた。
「女の股へはいると、どうなるとおもうのだ?」
「道場の齢上の方々は、この上なく、気持ちがよくなると---」

「そうだな。男の力が、おんなのほうの気持ちに火をともし、気分よくさせられる。だが、どのの齢では、まだ、そこまではいくまい。もう少し、待て」
「はい」

それからまた、藤次郎が口をひらいた。
「先生」

竹尾道場の仲間の有馬熊五郎(くまごろう 14歳 3000俵)とは、屋敷が近い。
道場帰りに浜町堀ぞいに、小川橋をわたり、松島稲荷(現・中央区人形町2丁目)の前をすぎて屋敷へ寄り、しばらく話しこむことが多い。

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(赤○菅沼邸 緑○松島稲荷 青○有馬邸 尾張屋板)

茶菓子の給仕をする熊五郎の妹・智津(ちづ 13歳)を見染(そめ)たらしい。

兄・熊五郎にいわせると、
「あんなお多福のどこがいい?」
藤次郎にとってみると、下ぶくれのところに、なんとも色気をおぼえ、股間があつくなりかかるという。

「乳でも見たのか?」
「とんでもございませぬ」
「見てはおらぬ? おかしいではないか。姉上のふくらんでいない乳ではあつくならないのに、見てもいない智津とかいうむすめにはあつくなる---」
「拙も不思議におもっております。股間のものは、竹刀と異なり、自分のおもうようには扱えませぬ」
「そのことがわかっただけでも、は大人のおとこの領域へ一歩゛近づいたということであろうよ」

平蔵は、自分が14歳の夏、若後家・お芙佐(ふさ 25歳)のみちびきによって男の関門を負い目なく通過できたことをおもいだしていた。

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙佐(ふさ)]

負い目なくとは、失敗めいた結果にならず、内心、恥ずかしいおもいをしないで---つまり、心に傷をつくらないで、ということである。
初手の交合は、おんなにとっても、男にとっても、それほど、心の怖れをともなった。

この先、藤次郎をみちびき、とどこおりなくすましてやるのは、智津ではあるまいが、いまは黙って、幼い恋の行く手を見守っていてやるしかない。


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2010.05.19

浅野大学長貞(ながさだ)の憂鬱(3)

ことが果て、ならんで横たわっていた。

今宵は事前に、里貴(りき 31歳)が秘蔵していた艶絵をいくつも眺めたせいで、里貴の愉悦が高まりも大きかった。
庭をへだてた隣家に洩れたのではないかと怖れもしたのだが。

「躰のはしばしから、霜が朝日にとけていくみたいに、悦びがゆっくりと消えていくしばらくの刻(とき)が、おんなでよかったとおもうのです。まだ、間(ま)はあるのでしょう? お湯で拭くのは、しばらくお待ちになって---」
内風呂がないため、情事の臭いを湯にひたした布でぬぐいとるのが、この家での里貴のこころづかいであった。

手は、平蔵(へいぞう 30歳)のものをいとおしんでいる。
横目で瞶(み)ると、乳房のあたりは、淡い桜色が退(ひ)いて、透きとおるほどの白い素肌に戻りかけていた。
平蔵の指も、下腹の茂みを軽くなぶってやる。
つまんで引いたり、溝にそわしたり---。

頭では、盟友・浅野大学長貞(ながさだ 29歳 500石)の家の中の憂患におもいをめぐらせていた。

すぐ下の異母弟・周五郎(しゅうごろう 25歳)と、婚家先の夫が逝ったために出戻っていた異母妹の於喜和(きわ 24歳)が、3年前から男女の仲になってしまっていたという。

喜和の言い分は、なかなか養子先に恵まれない周五郎のことが(かわいそう)におもえたと---。
そうだろうか。
夜、いつものように男との睦みをおもっていて、暗い手洗いでたまたま躰がぶつかった瞬間、欲情の堰が切れたのではなかろうか。

いや、厠の前というのは、話ができすぎている。
男の躰をしっている於喜和から、部屋へ誘ったのではなかろうか?
躰が求めたとなると、おんなは世間体が見えなくなるという。

里貴とおれの場合は---)

提灯を借りるために、つい、つき従ってこの家までき、上がりこんだ。
里貴は、躰の線が見える衣に着替えた。

参照】2010年1月18日~[御宿(みしゃく)稲荷脇] () (

あのとき、里貴は言った。
「男とおんなのあいだこと、いつ、どのようなひょんなことになっても、不思議はありません。まして---」
妻子のいる平蔵は、男とおんなのしがらみにとりこまれた。

喜和周太郎も、ひょんなことなった。
2人の場合は、若い後家と独り者の男とのあいだのことだから浮気という言葉は適当ではない。

(おれの場合は、いざとなれば、里貴を側妾にできる)

ちゅうきゅう注】今日と違い、江戸時代の武家社会では、戦力や姻戚関係を強める子どもをたくさんつくるために、側妾は公然とみとめられていた。

しかし、母親は違うとはいえ、周太郎と於喜和は、兄妹だから世間は許すまい。
世間が認めないなら、別れるか、道行心中しかない。

大学長貞の心懊も、道行にあるのであろう。
大々伯父・内匠頭長矩(ながのり)の事件以上に不謹慎な珍事として、騒ぎ立てられるであろう。

それを防ぐには、お喜和に、なるべく早く、まっとうな男をつなげるしかないであろう。
夫が逝って7年後に剃髪というのも、世間の耳目を引き、古傷があばかれる。

(いや、尼になったとしても、貞妙尼じょみょうに)の例もある。

参照】2009年10月11日~[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] 
 () () () () () () (
2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

尼になったからといって、情欲を沈静しきれるとはかぎらないのだ。

世間の目と口の牙は、決してやさしくはない。

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2010.05.18

浅野大学長貞(ながさだ)の憂鬱(2)

「妹の於喜和(きわ 24歳)の相手の男は、弟・周五郎(しゅうごろう 25歳)だったのだよ」
「たしかか?」
「母親は異なる兄妹だが---」

喜和の部屋を掃除した小間使いが、読物本にはさんであった艶絵をみつけ、おもわず自分の部屋へ持ちかえり、同輩の小むすめに見せたことから発覚(バレ)た。

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(湖竜斉『色道十二番』 イメージ)

浅野大学長貞(ながさだ 29歳 500石 小姓組番士)の妻・於四賀(しが 24歳)が、話のついでに、
「召使いなどの目もあるから、お気をおつけになりますように---」
勘違いした於喜和が、
周五郎さまがおかわいそうで---」

問いつめると、秘画は、2人で睦みあうときに気持ちを高ぶらせるために見ていると告白した。

周五郎がかわいそうとおもったのは、24、5歳の男ざかりなのに、それを放散する小遣いもない、それに於喜和もひとり寝をさみしくおもっていたとき、手洗いに起きたら、暗い中ではばかりから出てきた周五郎にぶつかり、おもわず抱きついたのがことの始まりで、そのまま厠で口を吸いあい、乳房をもまれ、寝床へみちびいたと。

艶絵は、16歳で嫁(か)するときに側室だった母がもたせたくれたものと、曲渕の亡夫が集めていたものだとも。

亡夫が秘していたのは、荒々しい絵がらのものがとりわけ多く、鬱積している2人には、その種の絵のほうが気分の高ぶりと愉悦が深まるとも、うっとりとした表情でいったらしい。
「室が顔を赤らめていたよ」

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(国芳『星月夜糸之調』 イメージ)

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(国芳『原源氏』 イメージ)

Photo
(歌麿『歌まくら』 イメージ)

「なんだか、おもしろそうなお話らしゅう---お済みになったら、お食事はいかがいたしましょう?」
はいってきた里貴(りき 31歳)の白い顔の双眸(りょうめ)の縁(ふち)あたりにも薄い桜色がさしていたから、しばらく外で聞いていたにちがいない。

「あら、お酒がすっかり冷めております、取り替えてまいりますね」
平蔵(へいぞう 30歳)をながし瞶(み)た双眸が、こころなしかうるんでいた。
銚子をもって出ていく腰は重そうであった。
ほてっているのであろう。
この日、里貴が初めての大学は、その素振りには気づいていない。
抱いている平蔵だけに、察することができ、内心、ほくそ笑(え)んだ。

「用の向きはわかった。だが、すぐには知恵がうかばない」
「下働きの者たちのうわさになると---」
「そうだ。妻恋町の佐左(さざ)のお(ひで 享年18歳)の家がそのままになっている。どちらか、あそこへ移したら?」
佐左とは、2人の盟友・長野佐左衛門孝祖(たかのり 29歳 600俵 西丸書院番士)である。
せんだって、側女(そばめ)のおと産児を失ったばかりだった。

参照】2010年5月12日[長野佐左衛門孝祖の悲嘆

御宿(みしゃく)稲荷側の里貴の家で俟(ま)っていると、駕篭が着いた。
立ったままで、平蔵の手の盃から一口のむと、隣室で手早く浴衣に着替えた。
なんと、腰丈(こしたけ)につくっていた。
(いまでいう、超ミニである)

「ずいぶん、変わった浴衣だな」
「尾張町の恵比寿屋であつらえるとき、はずかしいから、案山子に着せるのだといいましたの」

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(尾張町の恵美須屋呉服店=左端 
『江戸名所図会』塗り絵師:ちゅうすけ)

手にかかえていたのは、秘画であった。
「舅どのからいただきました。むかしのお武家は、出陣のとき、何枚もお守りのかわりに秘めていたんだそうです」
「それは知らなかったな」

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'(北斎『ついの雛形』 イメージ)

「高まりますか?」
「あの部屋の外で聞いていたな?」
「お分かりになりました?」
里貴の腰がだるそうであった」
「いまも---ほら」
腰丈の浴衣をめくるまでもなかった。


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2010.05.17

浅野大学長貞(ながさだ)の憂鬱

(今夕、話を聞いてもらいたい。 (だい))
本丸・小姓組に仕えている同朋(どうぼう 茶坊主)が封書をとどけてきた。
の署名は、盟友の浅野大学長貞(ながさだ 29歳 500石)である。

(大手門前で七ッ(午後4時)過ぎに待っている。それでよければ返書は無用。(てつ))
小粒をそえて、返書を託した。

他聞をはばかる話と察し、里貴(りき 31歳)との仲が発覚(バレ)ても、大学のことだから、軽はずみには吹聴すまいと読み、供の松造(まつぞう )を〔貴志〕へ部屋どりに行かせた。

それよりも、大学の話である。
内室の於四賀(しが 24歳)は、内藤主計信安(のぶやす 享年66歳=宝暦7年)のニ女と聞いており、たしか、嫁(か)して5年目にして、さきごろみごもったと、大学が嬉しそうにささやいたから、夫婦のあいだのことではあるまい。

が、他家のことを案じてもはじまらない。
会ってから思慮しても遅くはあるまい。

そう割り切ったつもりであったが、午後いっぱい、落ちつかなかった。

浅野の家柄がそうおもわせるのかもしれなかった。
浅野家は、城中・松の廊下で刃傷事件をおこし、赤穂藩を取り潰された内匠頭長矩(ながのり 35歳)の弟・大学(31歳)に発していた。

長矩に切腹の断がくだされるとともに、播州赤穂郡内で新しく開拓した新田の中から3000石を分与されていた弟・大学長広(ながひろ 寄合)も領地を召し上げられて閉門、祖家の芸州37万6000石・松平安芸守綱長(つななが 43歳=元禄15年)へお預けとなった。
のち、許されて江戸へ呼ばれ、500石を給されて幕臣とした立った。

長貞は4代目だが、世代でいうと、兄から家督しているので3世代目である。
3世代目は、6男3女の9人兄弟(うち、長子は早世)。

参照】兄・長延(ながのぶ 40歳)と長貞個人譜

茶寮〔貴志〕で、
大学と内密の話があるが---」
それだけで里貴が、いつもと違う、茶室づくりの小部屋へみちびいた。

茶か、酒か---とだけたしかめ、酒と焼き雀をおくと、さっと引き下がった。
(てつ)。たいそうな顔なんだな」
以心伝心ぶりに、大学もおどろいたようであったが、田沼(主殿頭意次 おきつぐ 57歳 老中)の名を告げると、納得した。

盃にちょっと口をつけただけでいかにも大学らしく、すぐに本題にはいった。

大学には、2人の舎弟と3人の妹がいる。

すぐ下の弟・周五郎(しゅうごろう 25歳)は、まだ養子先がきまらず、厄介をつづけている。
というのも、幼いときに患った疱瘡(ほうそう)で、顔にあとがのこっているせいかもしれない。
もちろん、大学とは母親が異なる。

次弟・政八郎長照(ながてる 25歳)が兄と同歳なのは、もちろん、母親が別だからであった。
こちらは、5年前に長谷川藤太郎長孝(ながたか 53歳=明和7年 50石 納戸番与頭)の養子となり、そのむすめを妻としている。

3人のむすめの一番上の於喜和(きわ 24歳)は、16歳で曲渕与左衛門信喜(のぶよし 31歳 500石 小姓組番士)に嫁いだ、その年の11月に夫が急死した。
曲渕家では、ただちに、信喜の父の弟---つまり、於喜和にとっては叔父にあたる源四郎信門(のぶかど 19歳)を末期養子として届け、於喜和をその妻になるように説得した。
源四郎もそれをのぞみ、初七日が終わらないうちに寝間へ押しかけてきた。

「仮とはいえ、母子の間がらですぞ」
喜和は肯(かえん)じなかった。

家督していた大学の兄・長延(ながのぶ 31歳=当時)は、進物の役を返上し、曲渕家に於喜和を引き取るとかけあった。
喜和は、16歳で嫁(か)し、その齢に後家として実家へ戻ったことになる。

(てつ)。いつだったか、おぬしが初めて男になったのは、19歳とか言っていたな?」
「14歳だ」

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙佐(ふさ)]

「それは、それは---。19歳のときというのは?」
「つまらないことを、しゃぺ゛らすな」
「そうだな。源四郎が19歳で、於喜和の寝床へ入ろうとしてというので、つい---許せ」

平蔵が、箱根の芦ノ湯で阿記(あき 21歳)と睦んだのは、たしかに19歳のときであった。

参照】2008年1月1日~[与詩(よし)を迎に] (12) (13) (14) (15) (41

「おれがことはどうでも、いい。相談事とはなになのだ」
「どうすればいいか、考えあぐたすえだ。なら名案があろうとおもってな」
「だから、それを早く言え」
「於喜和に、男ができた」
「いちど男をおぼえたおんなは、躰が保つものではないという。できて当然だ」
「それが---」
「うん?」
「男というのは、弟なのだよ」
「なにっ! いま、なんと言った?」

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2010.05.16

鎗奉行・八木丹波守補道(みつみち)(2)

(気の遣い方、話題のさばき方からいって、八木丹波どのは、なかなかどうして、みごとな苦労人だ)

茶寮〔貴志〕までは、八木邸から南への一本道である。
陽脚(ひあし)がのびてきているとはいえ、小雨が熄(や)んでいないので、通りは薄暗い。

17年も甲府への山流しにあっていながら、3人の側女(そばめ)をものにしていたのも隅におけない。
息・十三郎(とさぶろう 38歳 無役)が洩らしたところによると、それぞれのおんなの家柄は、武田家にゆかりが深かった者たちで、家康の誘いを断わり土着していた。

そのうち、甲府宰相・綱豊(つなとよ のちの 家宣 いえのぶ)の桜田の館に召された能才の士も少なくなかった。

丹波守は、おんなたちをその縁家からえらんだという。
つまり、勤番支配の職務の一助でもあり、柳営の要所々々に配されている武田派の声望も期待できた。

丹波どの深謀に比すると、おれは、かかわったおんなたちに、代償など求めたことはない。いや、まて、だから、おれのほうが純粋だったといえるのではないか)
(30男のおんな狂い、か)

右手に鬱蒼とつづいている3番火除け地の中ほどでおもわず自嘲の笑い声を発し、気がついた。
茶寮〔貴志〕へ行くのではなかった、御宿(みしゃく)稲荷脇の里貴(りき 31歳)の住まいで待つ約束であった。
左へ折れ、錦小路へ。

錦小路から御宿稲荷はすぐだが、それだと〔駕篭徳〕の前を通ることになる。
権七(ごんしち)の〔箱根屋〕から詰めている加平(かへえ 26歳)や時次(ときじ 23歳)の目にとまってはまずい---それで、いちど堀端まで出、そこから稲荷へと歩いた。

表戸の鍵をあわせようとして、5分(1.5cm)巾ほど、灯がもれていているのに気づいた。
「なんだ、帰っていたのか」

里貴は、もう浴衣に着替え、前を大きくあけて、独酌している。
仕事着で躰を締めつけているので、自分の家ではすべてを解き放ち、裸でいることもあると言っていた。

この雨で、客が早めに引きあげたのだと説明しながら、
「ですから、一刻もおしくて---待つのって、時刻がいじわるしているようにゆっくりになるんですね」

胸元も下腹も丸見えであった。
さすがに紅花染めの腰巻はつけているが、右足を立て膝にしているので、奥の茂みが平蔵(へいぞう 30歳)の側からのぞけた。

透けるほどに白い肌だけに、芝生の黒が目立つ。
(高杉先生がおっしゃっていた中墨(なかずみ)がこれとは---)

剣術でいう中墨は、躰の中心線のことであり、内股の黒い芝生ではない。
平蔵は、視線をそらせた。

白い肌も、うっすらと桜色に染まっていた。
よほど前から呑んでいたらしい。

平蔵に茶碗をわたし、注ぐ手がふらついていた。
あわてて徳利を取り上げた。
「それほどまでに呑んでいるのは、珍しいな」
「だって、銕(てつ)さまのお越しが遅いんですもの」

ここで、約束は六ッ半(午後7時)だったぞ、などと言いたてては痴話喧嘩になりかねない。
(三歩退け)
いまは亡き先生の声が聞こえた。

「向こうの部屋まで、抱いていってやろう」
「寝衣と腰巻を脱がせて---」
甘えた。

酔うと、おんなは淫らな本性をあけすけにあらわす。


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2010.05.15

鎗奉行・八木丹波守補道(みつみち)

納戸町の長谷川正誠(まさざね 享年69歳 4070石)の後家・於紀乃(きの 76歳)から、15日か16日、どちらか非番の日に、小川町一橋通りの甥の八木丹波 補道 みつみち 4000石)が甲府から帰任した祝い話を聞くので、これないかとの誘いがきた。

16日なら都合がつくと返辞をした。

補道は、『徳川実紀』には、盈通(みつみち)と記されているが、ここは『寛政譜』にしたがっておく。
八木丹波は、この4月1日に甲府勤番支配を解かれ、平時のいまは閑職ともいえる鎗奉行に転じて帰ってきていた。

七ッ(午後4時)という指定だったので、一橋北詰の火除け地角の茶寮〔貴志〕の女将・里貴(りき 31歳)には、前日の下城どきに、三河町の御宿(みしゃく)稲荷側の留守番の老婆・お(やす 60過ぎ)に文をとどけておいた。

「16日、六ッ半(午後7時)には先にきて待っている。夕食は、八木方ですます。なるべく早く帰ってこい)
文にはそう記した。

当日は、梅雨の前触れのような小雨が、咲き始めた紫陽花(あざさい)の花弁に露をもたらしていた。

すっかり曲がってしまった腰の紀乃は、ひ孫むすめのような与詩(よし 18歳)に手をとられながら、とぼとぽと歩み、上座を占めた。

参照】2010年1月5日[妹・与詩(よし)の離婚]

八木家の当主の補道は、亡父・補頼(みつより 享年47歳)の実妹の紀乃をむかしから苦手としていたので、あきらめつつも、半分は珍しい動物でも見るような目つきで、すべてを許していた。
じっさい、嫁(か)してもう60年近くなろうというのに、実家(さと)に来ると紀乃は、きかん気むすめであったときと同じようにふるまった。

嫡男・十三郎補之(みつゆき 38歳 無役)が、父が、内室を江戸においての17年におよぶ甲府在勤中に3人の側室に産ませ3男2女を披露した。
そのあいだに内室が病死したので、補道がつれ帰ってきたのは、山国育ちらしく、25歳にもなっているというのに、頬の赤みが消えないおであった。
は、2男の母でもあった。

すっかり歯の抜けで皺が深まった唇をふるわせた紀乃が、突然、
「そうじゃ。銕三郎(てつさぶろう)が伝太郎(でんたろう 補通の幼名)をわずらわせた、甲斐の軒猿(のきざる)のおなご、のう、その後、どうなったかのう?」
「納戸町の大叔母どのには、亡じたとお話し申したはずですが---」

参照】2008年9月7日~゜{中畑(なかばたけ)〕のお竜]  (1) (2) (3) (4) (5)  (6) (7) (
2009年8月1日~[お竜の葬儀] () () (

_100(りょう 享年33歳)の名は、かかわりのない者たちの前では口にしたくもなかった。(歌麿 お竜のイメージ)
平蔵はいまでも、盗人(つとめにん)対するときには、おならどう仕掛けるかと、おの頭脳を借りている。
それほど、おの才能を買っていた。
だれにも触れてほしくなかった。
紀乃の口をぶんなぐってでも、この話題を打ち切らせたかった。

その様子を察した補道が、割ってはいった。
「納戸町の。あの探索は、ご公儀としても、厳秘の案件となっております。お口になさっては、お手がうしろにまわりましょう」
甲府勤番支配までは、抜群の能吏であった。
そのために、周囲からうとんじられ、甲府へ飛ばされたともいえた。

話題を打ち切られた紀乃は、そのことは忘れたように、
「眠とうなった。ちと、横になるぞえ」
与詩に支えられながら、ごろりところがり、いびきをかきはじめた。

丹波どの。お気づかい、ありがとうございました。与詩、大叔母をたのんだぞ」

平蔵は、小雨の道を御宿稲荷脇へいそいだ。
八木邸からは南東へ6丁(540m)ほどの距離であった。
(妙な日だ。頭はおをしのんでおり、躰は里貴を欲しておる)


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(八木家家譜 赤丸=紀乃)


 

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2010.05.14

日光山参詣のこと発表

(安永4年(1775)4月1日)月次の拝賀に同じ」 これよりさき三家に。(将軍・家治 39歳)明年四月日光山に詣でさせ給ふべしとの御旨を。(老中首座)松平右近将監武元(たけちか 55歳 上野・館林藩主 6万1000石)演説し、群臣にも同じく伝ふ。紀伊宰相治貞卿(47歳)。尾張中納言治興卿(20歳)。をば別に御座所にめして。予参に候せらるべしと仰下さる)

徳川実紀』の記述である(括弧内はちゅうすけの補記)。

将軍の日光参詣は、前々将軍・吉宗がおこなって以来、費用のこともあり、絶えていた。

それに着目したのが、佐藤雅美さん『田沼意次 主殿の税』(人物文庫)である。

参照】2006年12月28日[佐藤雅美さん『田沼意次 主殿の税』]

上記【参照】の時には、田沼主殿頭意次(おきつぐ)の失脚前後の場面を引用したが、ここでは、asou さんのコメントにもあった、家治の日光参詣を実現するための費用20万両(約32億円)の捻出に苦心するあたりを---。

田沼はニ年前、五千石を加増されて側用人にすすめられ、ニ代にわたる将軍親子の恩顧に こたえようと決意した。思案をめぐらして家治の日光東照宮参詣を思いつき、二十万両の費用を捻出させるため、後輩の水野豊後守忠友(ただとも 38歳=明和5年 8000石)を勝手掛若年寄に転出させた。

紆余曲折はあったが、冒頭の松平老中首座の発表となった。

当ブログでは、長谷川家から隠棲する下僕の太作(たさく)に竹節(ちくせつ)人参を栽培させるために、日光へおもむかせた。

参照】2010年2月11日~[日光への旅] () () () () 

参考】日光東照宮ホームページ

同行した井関録之助(ろくのすけ 25歳=当時)が帰府し、平蔵(へいぞう 29歳)に、

さんも、ぜひ、おのれの目で見るといい。当時の徳川どのの財力のほどがしのばれますよ」
「ご老職・田沼主殿頭(意次 おきつぐ 55歳)侯が、お上の参詣の費用づくりをなさっておられるようだ。3年先との風説がもっぱらだが、それまでに書院番士として出仕し、供に加えていただければ、拝観できよう」
「ぜひ、選ばれるように動きなされ」

録之助のすすめのとおり、平蔵は奉供(とも)に選ばれたか、気になった。

寛政重修l諸家譜』には、選ばれた幕臣たちは、さも名誉を得たように記している。
たとえば、これまで顔をみせた仁でいうと、安永2年(1773)9月8日にいっしょに遺跡相続をした夏目藤四郎信政(のぶまさ 22歳=当時 300俵)は、翌年、本城の小姓組番士として出仕したが、『寛政譜』はこう書かれている。

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しかるに、平蔵の項Iは、そのことに触れていない。
平蔵が組入れられた西丸・書院番第4の番頭・水谷(みずのや)出羽守勝久(かつひさ 51歳=安永4年 3500石)の家譜にも、与(くみ)頭の牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 55歳=同 800俵)にもその記録がない。

参照】水谷出羽守勝久の個人譜
牟礼郷右衛門勝孟の個人譜

ということは、この組ははずされたかとおもったが、西丸の書院番頭のすべてに、記述かげなかった。

気がついて、安永5年4月13日、将軍門出をあらためたら、家基(いえもと15歳=安永5年)も、一橋の民部卿治済(はるさだ 25歳=同)も江戸警備のために残されていたのである。

ということで、西丸勤務組は全員、残留とわかった。
たったそれだけのことを得心するのに、数日も要したのだから、ものを書くということは、たいへんに骨がおれる。

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2010.05.13

長野佐左衛門孝祖(たかのり)の悲嘆

この月---すなわち安永4年(1775)3月、平蔵(へいぞう 30歳)は、もう一つ、心痛を経験した。

盟友・長野佐左衛門孝祖(たかのり 30歳 600俵)が脇につくった男子が、死産だったのである。
この子の出産について、平蔵は大いにかかわった。
その経過は、つい最近、【参照】に記したとおりである。

参照】2010年4月1日~[長野佐左衛門孝祖(たかのり)] () () () () (

胎児が死んだだけでなく、母体も助からなかった。
いろんな心労が臓腑を蝕んでいたのであろう。

(ひで 19歳)は、佐左(さざ)だけに看取られて逝った、短すぎる一生にしては、寂しすぎた。
しかし、
「お殿さまに付きそっていただけただけで、秀は、幸せものでございます」

つづいて、言葉をつないだという。
長谷川さまへ、お伝えくださいませ。こうして、わが家で生涯を終えられたことを感謝しておりますと」

葬儀のおくり人は、平蔵と本丸の小姓組番士・浅野大学長貞(ながさだ 29歳 500石)、おの両親、それに上野山下と広小路一帯の香具師の元締・〔般若(はんにゃ)〕の猪兵衛(ゐへえ 27歳)と妾のお(しな 26歳)だけであった。
佐左(さざ)の室はもちろんのこと、実家の藤方家からは花も線香もとどかなかった。
当然であろう。

猪兵衛が恐縮し、耳打ちした。
「声をかければ、100人でも焼香にめえりやすが、うちの者たちが参列しては、長野のお殿さまのご身分にさしさわりがあってはと、控えさせやした」

初7日の仏事ということで、平蔵が、佐左大学を〔五鉄〕に招いた。
佐左は、そういう仏事にも気がまわらなくなっていた。

「こういう形になって、すまぬ」
平蔵が謝っても、耳にはいらないふうであった。

参照】2010年4月19日~[同期の桜] () () () (

「先月(2月)の29日から、待ちくたびれ気味だった(だい)が、本丸の書院番士としての出仕祝いのつもりもある。店から、祝い酒がでている」
気にした平蔵が、ことさらに口実をつくったときには、
「なにからなにまで、(てつ)には世話になりっぱなしだ。すまぬ」
「なにを、水くさい。誓いあった仲ではないか」

と赤子の遺骨がまだ置いある妻恋町の家と、深川猿江町の実家(さと)---明樽問屋の通い番頭をしている徳太郎(とくたろう 40歳)のところへ、線香と花を手くばりしておいたことを、平蔵は言わなかった。

が住んでいた家は、先払いの期限がつきるまで借りっぱなしにしておくという大家との交渉は、〔般若〕の元締のところの小頭・〔黒門町(くろもんちょう)〕の儀助(ぎすけ 26歳)がとりはからってくれた。

[化粧(けわい)読みうり]板行のおかげて、各元締の配下の衆が手足のように動いてくれるようになった。
これがこのまま、平蔵が火盗改メに就任するまでつづけば、職務の上で威力を発揮するであろう。

〔五鉄〕の三次郎(さんじろう 26歳)があいさつに顔をだした。
「おれの盟友だ。今後とも、頼むぞ」

あとで三次郎が眉根を寄せて、
長野さまは、大丈夫ですかね。なんだか、生きる力が抜けているようでしたが---」

三次郎の目はたしかであった。
まだ30歳前だというのに、おを逝かせて生きる張りをなくしたようで、内室とも没交渉となり、勤務も形だけとなっていった。

当時の武家とすればめずらしく、短かったが思いのままにおんなを愛した思い出を、胸の中で反芻する生き方に徹していた。

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2010.05.12

隣家・松田河内守貞居(さだすえ)の不幸(2)

南本所・三ッ目通りの屋敷へ入る前に、門扉を閉ざしている隣家・松田河内守貞居 ただすえ 68歳 1150石)邸をうがうと、内側では人の動きが感じられた。

見舞いを述べに訪(おとな)ったほうが礼にかなっているようにもおもえ、しばらく立ちどまっていると、脇のくぐり戸があき、息・新三郎貞大(さだひろ 16歳)が出てきた。

新三郎どの。いかがなされた? お手伝いすることがあれば申されよ」
平蔵(へいぞう 30歳)の立ち姿に、新三郎はぎょっとしたが、
「いえ。いまのところは---」
下僕をうながし、そそくさと南へ消えた。

部屋で待ちかまえていた、久栄(ひさえ 24歳)が、
「たいへんでございます」
「それはわかっておるが、そなたはどこから聞いたのだ?」
「どこからって、昼すぎから、お姿が見あたらないのでございますよ」
「姿がみえない?」
「於千華さまです。実家(おさと)のお弟ごが主、雉子橋通り小川町の堀田兵部 一常 かずつね 53歳 5000石 小普請支配)さまへもお帰りでないようで---」

「それで、新三郎が捜しに走っていたのだな」
(堺町の茶屋にでもしけこんでいるのだろう)
思ったが口にはださなかった。
堺町には、役者と楽しむための出会茶屋がいくつもあった。

河内)どのの容体のこと、どうしてわかったのだ?」
「小者が、運よく、鳥羽湊に立ち寄った樽廻船をつかまえ、やってきたのですよ」

長谷川家の小者が、松田家のその小者から聞きだしたらしい。

河内守貞居が、先手・鉄砲(つつ)の2番手組の組頭から伊勢山田奉行へ転じたのは、4年前の明和8年であった。
内室・於千華(36歳=当時)とその子の新三郎(12歳=当時)、継妻の子で正常ではないために離れの座敷牢にいる3男・岩之丞(18歳=当時)を江戸の屋敷にのこして赴任した。
もちろん、奉行所の役宅には、身のまわりの世話と寝屋の伽も兼ねたおなごがついた。

老耄(ろうろく)の気配に用人は、去年の夏ごろに気づいたという。
が、症状は夜にでるだけで、昼間の執務時はふつうにできていたので、大目付へは報らせなかった。

ところが、1ヶ月ほど前、江戸の於千華が芝居者とねんごろになったという噂を耳にしたときから、朦耄(もうろう)が急激にすすみはじめ、いまでは、内与力の用人はおろか、夜伽をしているおんなの顔さえ記憶から消えてしまった。

実紀』の安永4年(1775)3月12日の項---。

山田奉行松田河内守貞居奉職無状の聞えをもて。糾問あるべけれ共。恩免せられ共事なく。職奪ひ小普請とせられ、門とざさしむ。

柳営補任』の山田奉行の項---。

明和八卯十月廿日御先手ヨリ
安永四未二月九日御役不似合之儀有之
御役被召放、小普請入閉門

寛政譜』---。

(明和八年十月ニ十日ー山田の奉行に転じ、十二月十八日従五位下に叙任す。安永四年三月九日奉行職に似合わざることきこえしとて、小普請に貶され、閉門せしめられ、十月ニ十八日ゆるさる。

半年後の解禁には、堀田兵部一常をはじめとする於千華の閨縁が大きくものをいったろう。

しかし、さすがの閨閥も、貞居が離れの牢同然の隔離部屋で歿する天明元年(1781)jまで、新三郎貞大(20歳)の相続は実現しなかった。

ちゅうすけ注】堀田家の『寛政譜』によると、於千華は3女で一常の姉と記録されている。
一常は、事件のあった安永4年には53歳だったらしいから、その姉とすると、40歳ではなく53歳かそれ以上でないと勘定があわない。
だが、その安永4年での新三郎の16歳も動かせないから、於千華を53歳より上とすると、37歳以後に産んだ恥掻っ子ということにしないといけない。


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(松田貞居、貞大の『個人譜』)

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2010.05.11

隣家・松田河内守貞居(さだすえ)の不幸

中庭に咲きほこっている躑躅(つつじ)の白い花を桟ごしに見やりながら、
(そういえば、このところ、里貴(りき 30歳)の透きとおるような白い肌を、淡い桃色に染めてやっていないな)
小用をたしていると、隣に並んだ仁が、
「齢(とし)を経るということは、小用が近くなるのに、放出は勢いが失せる一方ということでな」
声の主は、奥祐筆組頭の植村政次郎利安(としやす 55歳 150俵)であった。

奥祐筆組頭は400俵格、役料200俵だが、ほうぼうからの付けとどけで、実収入はこれの何倍かといわれていた。

長谷川家も、亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)の代から、まだ組頭に昇進してはいなかった植村利安のところへ、屋敷が近いこともあり、季節のあいさつを忘れてはいなかった。
植村家は、本所・南割下水の二ッ目と三ッ目のあいだにあった。

参照】2008年6月19日~[宣雄の後ろ楯] () () () () () (10) (11) (12
2008年7月5日[宣雄に片目が入った

植村利安が四人いる奥祐筆組頭の一人に登りつめたのは、2年の前---すなわち、彼を見こんだ宣雄が、京都西町奉行として赴任中に病死した年---安永2年7月1日であった。

憶測を記すと、利安の息・求馬利言(としこと 30歳)の後妻に、田沼主殿頭意次(おきつぐ 54歳 老中・相良藩主)の家老・倉見金大夫(きんだゆう)のむすめを縁づかせたのは宣雄だったかもしれない。

用をすませた平蔵(へいぞう 30歳)が、細々ながながとつづけている植村利安が終えるのを待っていると、
「山田ご奉行の松田河内守 貞居 さだすえ 68歳 1150石)どのは、長谷川どのの隣家でござったな」
問いかけた。
「さようでございますが---松田さまに、なにか?」
「いや---」
言葉を濁した。

(凶事に違いない)
思ったが、幕政の秘密に関与している奥祐筆組頭が、人事のことを洩らすはずがない。

その日、平蔵は、松田家とのかかわりを想起しながら、

参考】2009年2月17日~[隣家・松田彦兵衛貞居] () () () () () () () () (9)

思いついて、目付部屋の佐野与八郎政親(まさちか 44歳 1100石)あて、茶坊主に密封をとどけさせた。

(今夕、隣家・松田家の変事のこと、お屋敷でお伺いいたしたし)

返書は、(諾)。

供の者を先に帰し、松造(まつぞう 24歳)のみを従え、永田馬場東横町の佐野邸を訪れた。

大目付・小野日向守 一吉 かずよし 78歳 510石)から聞きだしたことだが、と前置きし、松田奉行の老耄(ろうもう)がはげしく、職がつとまらないとの上申に手落ちがあったために閉門を命じられたことが明かされた。

「老耄、と申しますと---?」
(てつ)どのは、そのような仁を見たことはあるまいが、要するに、物忘れがすすんでしまうのだ」

男の兄弟なしで育った平蔵の兄格であった政親は、いまだに平蔵を、くつろいだ場では幼名で呼ぶ。

78歳でも記憶がしっかりしている小野大目付が憫笑しながら、
「これまでは、奉行所の与力の顔がわからない程度であったが、自分がつれて赴任した用人---内与力(ないよりき)に『どちらさまで?』と問うほどにすすんでしまったらしいので、ついに公けにせざるをえなくなった」
(かんがえられぬ)といった口調であったという。

(留守宅の内室・於千華(ちか 40歳)どのの芝居狂いが閉門の理由でなくてよかった)
三ッ目通りの松田家の南隣の自家への帰路、他人ごとながら、於千華の稚気の残った肉づきのいいおかめ顔をおもいうかべていた。

参照】2009年6月18日[宣雄、火盗改メを拝命] () (

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2010.05.10

盗人(つとめにん)の生地をめぐる駿・遠の旅

6年このかたつづいているSBS学苑パルシェ(JR静岡駅ビル)の[鬼平クラス]の5月8日(土)のウォーキンクは、マイクロ・バスによると遠出で、駿河国と遠州国を縦横に走るツァーであった。

いま、池波正太郎さん歿後20周年というので、各出版社やマスコミがいろんな企画を実らせている。
しかし、企画は似たりよったり---とりわけ20年だからという企画は少ないようにみえた。

それなら、こちらは、これまで誰も試みたことのない、盗人(つとめにん)の生誕地をめぐり---ということは、池波さんの取材ぶりを追体験する---旅の第1弾といこう!

第1弾は、33人の盗人を産んだ県下33ヶ所のうち、とりあえず、8ヶ所8人を。


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朝9時、静岡駅南口スルガ銀行前出発ということで、ちゅうすけは東京駅発06:56の〔こだま〕に。
GW直後の早朝なので、さすがに乗客はまばら。

新富士駅近くで仰ぎ見る霊峰も日本晴れ。

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幸先き、よし!

最初の下車スポットは、徳川軍と武田軍が激闘をくりかえした高天神城跡。

Photo

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(高天神城復元図)

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(健脚組は本丸まで登山。頂上に天神社があるから高天神)


文庫巻11に収録の、とぼけた秀作[]のサブ・キャラは〔馬伏まぶせ)〕の茂兵衛

遠江国山名郡浅羽村馬伏塚(現・袋井市浅羽)
地元では〔まむし〕と読んでいる。

一望、堀を埋め立てた田の中の小高い丘の上からは、「遠州灘まで見渡せるから見はらし台として貴重な砦だったのだ」と、グルーブの中の軍師格のつぶせやき。
丘地の高みの諏訪神社は、武田軍が勧請としたものか?

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礼拝。

横須賀市へ向かう途中、左手はるか向こう、〔彦島ひこじま)〕の彦兵衛の生地をのぞむ。
文庫巻12[二人女房] 遠江国山名郡彦島村(現・袋井市祖彦島)

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(厚手の袋入り。手前=抹茶羊羹)

横須賀で、予約しておいた銘菓〔愛宕下羊羹〕ひきとる。小豆羊羹と抹茶羊羹。
強すぎない甘みがほんのりと口中にのこり、余韻がたおやか。さすが銘品。
〒437-1301 掛川市横須賀1515-1
   ㈲愛宕下羊羹
    ℡&Fax 0537-48-2296

見付市での昼食は、旧東海道筋の蕎麦処〔三友屋〕。
女将が『剣客商売』のファンらしいが、こちらは、文庫巻2[盗法指南]で、鬼平に盗みてつだわせた〔伊砂いすが)〕の善八が忍びこんだ、その奥に多門寺がある多門小路(たもんこうじ)の酒造所〔枡屋〕がお目当てである。

蕎麦処〔三友屋〕から1丁もいかない南側の歩道Iに銘板が埋め込まれていた。

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(八木忠由さん撮影)

大満足。


一路、天竜の船明(ふなぎら)ダムをめざす。
そこは、文庫11[男色一本饂飩]の〔船明ふなぎら)〕の鳥平と、巻11[二人女房]の〔天竜てんりゅう)〕の岩五郎の生地である。

このあいだまでの天竜市は、大・浜松市のうち。
遠江国豊田郡天竜村は浜松市天竜・鹿島
船明はダムの名として有名だが、豊田郡船明村は、現・浜松市船明。

この船明ダムの中ほどにに架けられているが伊砂橋。
伊砂部落は200戸あるかどうか。

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(〔鬼平クラス〕のほとんどは駿河国地方に在住だから、船明ダムを目にするのは初めてと、大喜び)

二股城跡へ登る。勝頼軍も攻めあぐねたとおり、かなり堅城で、本丸の位置まて登るのはかなりきつい。
が、みんな、がんばった。

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文庫巻3[駿州・宇津谷峠]の〔二股(ふたまた)〕の音五郎を書くとき、池波さんは、この城で切腹させられた家康の嫡男・信康のことをおもっただろうか。
いたましい事件であった。

三方ヶ原へ戻った。
本乗寺(浜松市三方原町687)では、住職の山本恵達師が出迎えてくださった。

当寺へ安置された、三方ヶ原合戦での戦死者の霊を鎮魂する石碑に線香と花を捧げた。
鬼平こと、長谷川平蔵の祖---紀伊守正長(37歳)と弟・藤九郎(19歳)がここで戦死しているからでもある。

精鎮塚は、維新後、禄を失った幕臣300家が、人が住んでいなかった三方ヶ原を開墾に入ったとき、見つかった石碑を大乗寺が引きとって祀った。
というのも、初代の住職・青島師の夫人が、長谷川家の娘であったからと。

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(全員、用意の線香を1本ずつ回向)

そのあと、本堂で焼香し、師の講和を拝聴。
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帰りの東名で、駿州豊田のあたりで左手を遠望---文庫巻6の〔狐火〕に登場している〔岡津(おかつ)〕の与平の生誕地、岡津をすぎた。

長い1日は終わり、いつものように懇親会食は静岡へ帰って。

このような、盗人'(つとめにん)を生誕地をめく゜るツァーは、長く鬼平クラスをつづけたが、この日が初めてであった。

早くから準備をととのえてくださった、クラスの安池欣一さん、村越一彦さん、事務局の片野さんに感謝。

 


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2010.05.09

ちゅうすけのひとり言(56)

時の将軍あるいは世嗣(せいし)の放鷹の供をし、飛び立った獲物を鳥射し仕めた近臣を賞するのは、徳川幕府の慣例であった。

また、賞された側は、そのことをあたかも叙勲にも似た名誉として『寛政重修諸家譜』に記している。
あるいは編纂側が補記して称揚事の一としても励ます。

ところが、長谷川家の2代の平蔵の項には、その記述が見当たらない。

参照】2010年5月6日[ちゅうすけのひとり言] (54

それで、そのことがそれほど稀有の手柄なのかを検証している。
きょうは、安永2年(1773)9月8日に遺跡相続をゆるされた者で、『寛政譜』に名が載っている9名をあたってみた。
(『徳川実紀』には13名とあるが、2名は『寛政譜』で目にとまらなかった。
なお、残りの1名が長谷川平蔵宣以であることいいうまでもない)


禄高順にならべる(年齢=安永2年時)

嶋田吉十郎氏馬(うじうま 19歳 1800石)
・記載なし ○的を射て時服をたまう
  天明2年(1782)5月14日小姓組出仕

安部助九郎信尹(のぶただ 35歳 1000石)
・記載なし
 安永3年(1774)2月25日書院番出仕

永井主水尚喜(なおよし 46歳 500石)
・記載なし。    
  天明6年(1786)3月16日西丸御膳奉行出仕  

松倉彦五郎高住(たかすみ 22歳 300石)
・記載なし ○的を射て時服をたまう 
  安永8年(1779)10月22日書院番出仕

夏目虎之助信栄(のぶひさ 22歳 300俵)
・将軍の放鷹で鳥を射て時服をたまう
  安永3年(1774)2月25日小姓組出仕
  のち小納戸。

参照】2009年12月21日~[夏目虎之助信栄(のぶひさ)] () () () (

山田甚之丞尚陽(なおはる 17歳 200俵)
・記載なし
  安永5年(1776)4月10日大番出仕


山本直吉長孝(ながたか 25歳 200俵)
・記載なし


中村藤三郎徳基(のりもと 24歳 200俵)
・記載なし
  無役

笠原岩之丞武嘉(たけよし 27歳 100俵10口)
・記載なし
  寛政6年(1794)小石河川養生所見習

鳥射したのは、遺跡相続の日に、平蔵(へいぞう 28=安永2年)を茶寮〔貴志〕に誘い、女将・里貴(りき 29=安永2年)に引きあわせた夏目虎之助である。
もちろん、虎之助は、平蔵里貴がそういう関係になったことはしらないし、疑ってもいない。

その後、的を射て褒償されたのは、小姓組の嶋田氏馬、書院番士の松倉高住。
われらが平蔵にも、止まっている標的ぐらい射ぬいてもらいたいものである。

平蔵の勤務先は西丸で、主・家基の放鷹の回数は将軍の3分の1ぼとであるから、褒償の機会は少ない。

平蔵が西丸へ出仕してからの 家基の放鷹の記録を『実紀』から写してみる。


安永3年(家基12歳)
 4月18日  浅草のほとりで放鷹。
 5月2日  羅漢寺(東深川)のほとりで放鷹。

安永4年(家基13歳)
 5月15日 羅漢寺のほとりで放鷹。
 11月23日 浅草のほとりで放鷹。

安永5年(家基14歳)
 3月7日  王子のほとりで放鷹。
 11月23日 木下川のほとりで放鷹。
 11月19日 小松川のほとりで放鷹。

安永6年(家基15歳)
 1月21日  千住のほとりで放鷹。
 2月2日  目黒のほとりで放鷹。
 3月9日   雑司ヶ谷のほとりで放鷹。
   27日  志村のほとりで放鷹。
 4月9日  目黒のほとりで放鷹。
 5月2日  小菅のほとりで放鷹。
 10月11日 高田のほとりで放鷹。

安永7年(家基16歳)
 1月21日  千住のほとりで放鷹。
 3月5日  浅草のほとりで放鷹。
 4月23日  落合のほとりで放鷹。
 5月2日  浅草のほとりで放鷹。
 10月2日  中野のほとりで放鷹。
 11月13日 亀有のほとりで放鷹。
 12月9日  西葛西のほとりで放鷹。
 12月21日 千住のほとりで
安永7年(家基17歳)
 1月21日  千住のほとりで放鷹。
 5月1日  浅草のほとりで放鷹。
   13日  亀有村のほとりで放鷹。
  28日   深川のほしりで放鷹。
 10月2日 中野のほとりで放鷹。
  27日  浅草のほとりで放鷹。
 11月13日 亀有のほとりで放鷹。
 12月21日 千住のほとりで放鷹。

安永8年(家基18歳)
  不予を覚えた放鷹まで
 1月9日  小松川のほとりで放鷹。
  21日    ニ之江(葛飾)のほとりで放鷹。
 2月4日  目黒のほとりで放鷹。
  21日   新井宿のほとりで放鷹。
 
平蔵宣以は、いくど扈従したろうか?
鳥射したろうか?
記録はない。


       ★     ★     ★

重金敦行さんから、またまた、献呈をいただいた。

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池波さんと重金さんのコラボともいえる出来である。
『池波正太郎と歩く京都』(とんぼの本編集部編)

2010年4月25日 新潮社 1400円

「”江戸の達人"で"旅する小説家"は京都になにをさがそしていのだろうか」が帯の惹句。
編集者(『週刊朝日』)として池波さんの{食]についてのこころねを発掘した人だけに、ご当人の味へのこだわり、作法、つくり人へのいたわりが沁みでている。京都がますます味が深く、ふくよかになった。


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2010.05.08

ちゅうすけのひとり言(55)

ちゅうすけのひとり言](54)につづいて、放鷹での鳥射の報償調べである。

今回は、平蔵宣以(のぶため)が天明6年7月26日(41歳)から卒して辞職した寛政7年5月16日(50歳)までの、足かけ10年間在任した先手・弓の2番手の組頭たち 11人である。

朝倉甚左衛門景増(かげます 52~54歳 300石)個人譜
・記載なし。
 宝暦4年4月28日
  ~同6年11月3日

小笠原兵庫信用(のぶもち 51~53歳 2600石)
・記載なし。
 宝暦6年(1756)11月15日
  ~同8年(1758)12月7日

平塚伊賀守為政(ためまさ 52~57歳)
・記載なし
 宝暦8年(1758)12月7日
  ~同13年'(1763)3月11日

奥田山城守忠祇(ただまさ 60~70歳 300俵)個人譜
・記載なし。
 宝暦13年(1763)3月15日
  ~安永2年(1773)1月11日

赤井安芸守忠晶(ただあきら 47~48歳)個人譜・記載なし 
 安永2年(1773)1月11日
  ~同3年(1774)3月20日

菅沼和泉守定亨(さだゆき 45~47歳 2025石)個人譜・記載なし。
 安永3年(1774)3月20日
  ~同5年(1776)年12月12日

土屋帯刀守直(もりなお 43~46歳 1000石)個人譜・記載なし。
 安永5年(1776)年12月12日
  ~同年12月14日組替え

長谷川太郎兵衛正直(まさなお 54~69歳 1450石)個人譜
○騎流鏑馬の射手として黄金3枚。
 安永5年(1776)12月14日組替え
  ~安永7年(1778)2月24日

贄 越前守正善(まさよし 38~44歳 400石) 個人譜
○流鏑馬の射手。
 安永7年(1778)2月28日
  ~天明4年(1784)7月26日

火盗改メを、長谷川平蔵宣以に次いで長く勤めた仁なので、個人譜を掲示しておく。

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横田源太郎松房(としふさ 43~44歳 1000石)個人譜・記載なし。
 天明 4年(1784)7月26日
  ~5年(1785)11月15日

前田半右衛門玄昌(はるまさ 51へ~58歳 1900石)
・記載なし
 天明4年10月19日組替え 
  ~同6年(1786)7月8日

見たとおり、番方(武官:系)で練達を期待されている先手34組のうちの弓の2番手の歴代の組頭11名の中にも、鷹狩で将軍の目の前で鳥射の僥倖をえた者はいない。

わずかに、紀州系の贄(にえ) 越前守正善が、流鏑馬(やぶさめ)の射手として黄金3枚をえているにすぎない。
つまり、そういう武術の錬度は指揮官には問われなくなってきていたのであろうか。

ちゅうすけ注】前田玄昌が病没したために、長谷川平蔵宣以が西丸の小十人頭(1000石格)から、急遽、先手・組頭(1500石格)へ栄転した。

 

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2010.05.07

ちゅうすけのひとり言(54)

安永4年(1775)の春。
当ブログの進行では、長谷川平蔵宣以(のぷため 30歳)は西丸の書院番士となって満1年がすぎ、ようやく城内での諸事に馴れたころである。

西丸の主(ぬし)は、将軍家治(いえはる)の世嗣(せいし)・大納言家基(いえもと 14歳)であった。
頭脳体格ともに尋常で、動きもかっぱつであったと伝わっている。

そこで、平蔵が出仕してからの鷹狩りと遊びの他行を『徳川実紀』からひろってみた。

安永3年
 4月18日 浅草のほとりで放鷹。
 5月2日  羅漢寺(東深川)のほとりで放鷹。
 8月6日  浜の御殿に遊覧。
 9月19日 心観院(将軍御台所)、乗台院(異母姉)へ墓参。

家治の放鷹。家基が従ったかどうかは不明。
 4月25日 亀戸のほとり。
 7月23日 浅草川のほとり。
 11月3日 中野のほとり。
  同13日 小菅のほとり。
 12月2日 千住のほとり。
  同19日 木下川のほとり。

安永4年
家基の放鷹
 5月15日 羅漢寺のほとりで放鷹。
 11月23日 浅草のほとりで放鷹。安永4年(1775)

家治の放鷹
1月13日  亀有のほとり。
 同 27日  船堀のほとり。
 3月13日  中野 のほとり。
 同 25日  王子のほとり。 

放鷹の2日後あたりに、鳥射した従士に下賜がくだされる。
寛政重修諸家譜』には、そのことを名誉としている誇示している者が少なくない。
弓術は、武家の嗜みの一つであったからであろう。

長谷川家の2代の平蔵---宣雄宣以に、その記述が見あたらない。

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(長谷川家の3代の平蔵の寛政個人譜)

3人目の平蔵宣教(のぶのり)の項には、鳥射し、ものをたまわったと『寛政譜』は記している。
まさか、自分だけいい子ぶりをとどけたか---と、彼が提出した[先祖書]を穴があくほど目を光らせて検閲したが、彼自身は申告してはいなかった。

『寛政譜』の編纂者が幕府側の記録によって栄誉を書き加えたと推察するしかない。

逆に言うと、宣雄、宣以の栄誉の記録は、幕府側にもなかったか、あるいは追記されなかったか。

[先祖書]に記載がなかった理由としては、2つことが考えられる。

2人とも、弓術は得意でなかった。
あるいは、そのようなことによる恩賞は、さしたる名誉とおもわなかった。

つづいて、火盗改メを平蔵宣以が下命される前の17人の『寛政譜』をとりだしてみた。

島田弾正政弥(まさはる 36~37歳 2000石)
・記載なし
 安永元年(1772)10月19日
  ~同2年(1773)7月9日
 安永3年(1774)12月12日
  ~同4年(1775)5月13日

赤井越前守忠晶(ただあきら 37~38歳 1400石)
・記載なし
 安永2年(1773)1月20日
  ~同3年(1774)3月20日

庄田小左衛門安久(やすひさ 41~42歳 2600石)
・記載なし
 安永2年(1773)10月19日
  ~同3年(1774)5月10日
【個人譜】2010年2月10日

菅沼藤十郎定亨(さだゆき 45~46歳 2025石)
・記載なし
 安永3年(1774)3月20日
  ~同5年(1776)12月12日

松田善右衛門勝易(かつやす 54~55歳 400石)
・記載なし
 安永3年(1774)10月11日
  ~同4年(1775)5月13日

荒木十左衛門政為(まさため 52~53歳 2000石)
・記載なし
 安永4年(1775)10月18日
  ~同5年(1776)3月20日

杉浦長門守勝興(かつおき 56歳 1000石)
・記載なし
 安永5年(1776)3月21日
  ~同年6月4日 

長田甚左衛門繁尭(しげたけ 51~52歳 500石)
・記載なし
 安永5年(1716)12月14日
  ~同6(1777)4月16日

土屋帯刀守直(もりなお 43~46歳 1000石)
・記載なし
 安永5年(1776)12月14日
  ~同8年(1779)1月15日

(にえ)壱岐守正寿(まさとし 39~44歳 300石)
・記載なし
 安永8年(1779)1月15日
  ~天明4年(1784)7月26日

建部甚右衛門広般(ひろかず 52~53歳 800石) 
・記載なし ○父・広長にあり
 安永8年(1779)9月22日
  ~安永9年(1780)3月29日
 天明元年(1781)1月24日
  ~同年閏5月8日
 天明元(1781)11月15日
  ~天明2年(1772)4月24日

水野清六忠郷(たださと 47~48歳 2000石)
・記載なし
 安永9年(1780)10月7日
  ~天明元年(1781)閏5月1日

堀帯刀秀隆(ひでたか 45~52歳 1500石)
・記載あり ○ただし的射がある。 
 天明元年(1781)10月13日
  ~天明2年(1782)4月24日
 天明5年(1775)11月15日
  同8年(1778)9月28日

安部平吉信富(のぶとみ 54~55歳 10000石)
・記載なし
 天明2年(1772)10月9日
  ~天明3年(1773)5月7日

前田半右衛門玄昌(はるまさ 53~54歳 1900石)
・記載あり ○父・直主は騎射の上手。
 天明3年(1783)3月12日
  ~同年5月7日
 天明3年(1773)10月27日
  ~同4年(1774)4月16日
 天明6年(1786)1月23日
  ~同年5月3日卒

柴田三右衛門勝彰(かつよし 61~62歳 500石)
・記載なし
 天明3年(1773)9月25日
  ~天明4年(1774)4月16日

横田大和守松房(としふさ 41~42歳 1000石)
・記載なし
 天明4(1774)7月26日
  ~同5年(1775)11月15日
 

建部の父・広長に放鷹の幸運があった。
前田の父・直主の騎射の上手、堀秀隆に的射の報償の記載はある。

そう、放鷹での鳥射は僥倖もはたらこう。

長谷川家の2代の平蔵は、武術はあまり得意ではなさそうにもおもえてきた。

もっとも、17人で即断するには早計すぎる。
今後の課題としてあげておくにとどめよう。

追記】アップしたものを読み返していて、(なんだか、変だな)と胸騒ぎをおぼえた。
考えて、平蔵宣以の本家の伯父・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 67歳=安永4年 1450石)の名がないことだと気がついた。
正直は、宝暦13年(1763)から明和3年(1766)まで、断続的に火盗改メを拝命している。

たぶん、安永元年(1773)以降の火盗改メにかぎったのではずしたのであろう。
参考例として、『寛政譜』を掲出しておく。

_360

弓馬の道の鍛錬は、両番(書院番組、小姓組番士)の心得であるらしい。


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2010.05.06

筆頭与力・脇屋清吉(きよよし)(2)

「女将どのからご老中のお耳に入ることもありますまい---」
火盗改メ・菅沼組の筆頭与力の脇屋清吉(きよよし 47歳)が里貴(りき 31歳)の顔に視線をはしらせながら、
「手ばやく申せば、長谷川さまのお知恵をお借りいたしたいのですよ」

里貴は、微笑みは絶やさないが双眸(りょうめ)をかがやかせ、平蔵(へいぞう 30歳)を瞶(みつめ)る。
(馬鹿だな。脇屋どのに発覚(パレ)るではないか)

白石どのはご健在でしょうか?」
白石? 書役(しょやく)同心・時次郎(ときじろう)がことでしょうか?」
時次郎どのとはおっしゃらなかったような---」
「隠居した友次郎ですと、昨年、亡くなりましたが、何か?」

参照】2009年2月9日[〔高畑(たかばたけ)〕の勘助] (

6年前に、友次郎の控え帳に記されていた盗人(つとめにん)のことを、脇屋与力に告げた。
「いや、別人の公算のほうが大きいとは思います」

その理由として、〔傘山(かさやま)〕の弥兵衛(やへえ)が生存しているという噂がないことをあげると、里貴のほうがおどろきの嘆声を発した。
(てつ)さ---長谷川さまは、盗人の世界にも密偵を入れていらっしゃいますのですか?」
「密偵? そんなものは使ってはおりませぬ」
「でも---」
「〔耳より〕の紋次(もんじ 32歳)という読みうりの集め屋と見知りの仲なのですよ」

本石町(ほんこくちょう)の刻(とき)の鐘が、暮れ六ッ(午後6時)を打った。
それを待っていたように、脇屋与力が、まだ、役宅に所要が残っているからと、立った。

見送りから戻ってきた里貴が、
「お品代をいただきました」
1分(4万円)つつまれていた。

「無理させたな」
「無理なものですか。お召しものだって、高価なものでしたよ。それに、今夕のは、さまのお知恵l料でしょ」
言ってから、里貴は舌をちろりとだした。
そういういたずらっ子らしい蓮っぱな仕草が、武家育ちでないことを洩らしているし、31歳という年齢を隠していた。

火盗改メの与力には、役料20人扶持が給される。
1人扶持は1日玄米5合である。
20人扶持だと1斗。
搗きべりを2割とみても、8升。
1升100文として、800文。
5日で1両(16万円)。
悪くはない。

帯のあいだから鍵を抜きとり、
「先にお帰りになって、いてください。なにか、酒の肴をつくらせます」
鍵を平蔵の懐に押しこんだついでに、乳首をつまんでから、板場へいいつけるために出ていった。
後ろ姿の腰のゆれが、喜びをいっぱいに語っていた。


       ★     ★     ★


いつものように『週刊 池波正太郎の世界 21 鬼平犯科帳六』(朝日新聞出版)が送られてきた。

21_360


A__120この号で面白かったのは巻末の聞き書き[わたしと池波作品]で、同心筆頭・酒井祐助を演じている勝野 洋さんの裏話。[「死ぬ覚悟」を持った酒井を本気で演じています]というタイトルどうり、撮影にはいると、殺陣のシーンを撮ってほしいと頼んでいると。
さらに愉快なのは、まだ、原作は一次も読んでいないと。察するに、台本どおり、画面にあらわれたとおりの酒井祐介を演じているということであろう。
それも一つの役者魂とおもった。
もっとも、原作から自分の役のイメージをつくるのも、また、役者魂ともおもうが。

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2010.05.05

筆頭与力・脇屋清吉(きよよし)

長谷川さま」
西丸の大手門を出たところで、声がかかった。
声の主は、先手・弓の2番手組の筆頭与力の脇屋清吉(きよよし 47歳)であった。

「お差支えなければ、軽く---}
脇屋与力は、人のよさそうな笑顔でさそった。
平蔵(へいぞう)は、供の桑島友之助(とものすけ 43歳)や松造(まつぞう 24歳)たちに先に帰るように指示し、内濠沿いに北へ歩いた。

弓の2番手は、いま、火盗改メのお頭が菅沼藤十郎定亨(さだゆき 46歳 2025石)で、屋敷は小石川大塚吹上---護国寺前からの富士見坂上である。
組屋敷は目白台だから、どっちにしても大手門からは北へ行くしかない。

「一橋の北詰に、ちょっとした茶寮があります。そこでよろしいでしょうか?」
「なにしろ、祖父の代から目白台に住みついておりますので、こちらあたりはとんと---」
謙遜の辞に、平蔵は、内心で舌打ちした。

火盗改メの守備範囲は府内一円はおろか、関八州にまでおよんでいる。
市中身廻りも仕事のうちである。
適当な屯所の三つや四つは、城まわりにあるはず。

「お城へご用でも?」
「評定所に呼びだされましてな、お頭の代理で弁じてきました」

幕府の最高裁判所ともいえる評定所は和田倉門の東、道三河岸に面していた。
そこから大手門までは、8丁(約1km)近くはある。
(わざわざ大手門まできたということは、おれに用があったのだ)
しかし、茶寮〔貴志〕に落ちつくまでは、用向きの話題は避けておくにかぎる。

〔貴志〕では、平蔵を認めた女中が、ころがるように、
「女将さーん」

帳場から出てきた女将・里貴(りき 31歳)に、
「予約をいれていないが、いいかな?」
形だけ訊いてやった。

「ようこそ、お運びくださいました。すっかりお見かぎりと噂をしていたところでございます」
里貴も調子をあわせながら、脇屋の値ぶみをしている。
脇屋清助は、恰幅はいいし、温顔で目もふだんは細めているが、ときにまぶたがあがったときの眼光は鋭い。

「力になってくださるお人でな、火盗改メ方の筆頭与力さまだ」
「なにをおっしゃいます。手前どもの組のほうが、お力添えをいただいております」
「ま、ごあいさつは、お部屋へお通りになりましてから---」
平蔵の側に並んで案内しながら、それとなく触れていた。

並べてつくにられた席の前に、里貴が向きあって饗応するが、ともすると、笑顔が平蔵にそそがれた。
酒と料理がでても、脇屋与力は話をきりださなかった。
つききっりの里貴のせいと察した平蔵が目顔でしらすと、
「また、お伺いいたします」
たくみに座をはずした。

「きれいな女将ですな」
田沼意次 おきつく゜ 57歳 老中)侯のお声がかりです」
「われわれは相手になりませぬな」

脇屋語ったところによると、8日ほど前、四谷の南寺町の麟勝寺が山門の落成祝いをした晩に、奇妙な賊が押し入った。
庫裡にしのび入り、深酒で寝入っていた寺の者みんなを目隠しをしたうえで、住職を本堂へつれだし、須弥壇の裏に隠してあった山門の建て替え金の残金250両を持ち去ったという。

押しこんできたのは8人ほどらしいが、起きたとたんに目隠しされたので、はっきりしなかった。

平蔵の脳裏には、6年前にかかずらわった谷中の大東寺の事件が浮かんだが、黙って脇屋与力の語りに耳を傾けていた。
語り終わらなければ、どういう依頼かわからないからもあった。

参照】2009年2月2日~[{高畑(たかばたけ)〕の勘助] () () () () () () () () () (10) 

脇屋の話が終わったときには、銚子が空になっていた。
手をうつと、待っていたように、里貴が新しいのを捧げてあらわれ、
「お熱いところをお酌させてくださいませ」

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2010.05.04

お勝と於津弥(2)

平蔵(へいぞう 30歳)が剣術指南ををつけてきた菅沼藤次郎(とうじろう 12歳)は、鍛錬熱心の甲斐があり、筋力も脚力のついてき、面がまえもたくましくなっていた。

「もう、道場に通っても、同じ年齢の者たちにひけをとることはない。いや、むしろ、藤次郎どののほうかが勝さっていよう」
はげまたした上で、指南は月に1日にするといいわたし、母者を呼ぶよう命じた。

藤次郎の母・於津弥(つや 36歳)は、お勝との湯殿での全裸の化粧指南で、平蔵への興味がきれいに消えており、顔をださなくなっていた。

年齢には見えない艶のました顔であらわれた於津弥に、藤次郎に告げたことをくりかえすと、用人を呼び、召使いに茶を用意するようにいいつけてくるようにと遠ざけ、
「ほんに藤(とう)は、男らしゅうなりました。姉が湯殿をつかうのを、覗き見するのでございますよ」

心得た召使いが、2ヶの湯呑みに冷酒を満たして持すると先に含んでから、
「おささは、おどのお仕込みです。すこし酔いかげんのほうが頂上が長びくと---」
大身の奥方なら口にしないようなことまで洩らした。
(そろそろ、おの引きあげどきだな)

用人から束脩(そくしゅう)を受けとった足で、日本橋通箔屋町の〔野田屋〕へまわり、お(34歳)を浮世小路の蒲焼〔大坂屋〕へ呼びだした。

「於津弥どのを、奥で使っている召使いの立役に仕込むんだな」
微妙な笑みをうかべたおが、
「4人で遊ぶには、あのお屋敷の湯殿は狭すぎましょう」
「本所四ッ目に別宅があるということであった。湯殿でなくてもよかろう」
(てつ)さまは、いつ、いらっしゃったのですか?」
「行くわけはない。むこうが誘っただけだ」
「やってみますから、うまくいったら、ご褒美をくださいますね?」
「お乃舞(のぶ 16歳)に殺されるぞ」


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2010.05.03

〔蓑火(みのひ)〕のお頭(16)

一方、こちらは、小網町2丁目の料理屋〔肴屋〕の2階座敷での昼どき。

もてなし側は、南伝馬町2丁目に為替両替の店をかまえている〔門(かど)屋〕の店主・嘉兵衛(かへえ 55歳)と一番番頭・富造(とみぞう 66歳)であった。
客側は、長谷川平蔵(へいぞう 30歳)と万吉(まんきち 23歳)と啓太(けいた 22歳)。 

信濃の岩村田城下の同業〔有田屋〕から顛末の大要を報せる速飛脚便と、火盗改メからの達しによって危険が去ったことを確認した嘉兵衛は、平蔵にお礼の伺いをたてた。

「立役者は、万吉啓太であるから、2人ともどもであれば、お招きに応じる。ただし、非番の日の午後は剣術のおさらいをみなければならないから、昼餉にしていただきたい」

〔門屋〕とすれば、昼飯なら酒もつけなくてすむから安くあがると喜んだ。

_360
(小網町の料理の〔肴屋〕)

鯉の洗いと精進揚げなどの食事が一段落したところで、嘉兵衛が用意していた金包みを、
「失礼でございますが、手前どもの寸志でございます」
差し出すと、平蔵は、
「お志だけ受けます。これは、この場で2つに割り、万吉どんと啓太どんへの餞別ということにしてくだされ。2人は、明日、京へ戻るのです」

「気がつきませず、失礼いたしました」
富造が後ろむきになり、5両(80万円)ずつに包みなおした。

「〔門屋〕どの。拙への礼をくださるお気持ちがおありなら、銭相場と為替の仕組みの才覚と、秘伝をお教え願いたい」
「造作もないことです。富造どんが何10年にもわたって会得した知恵を、つつみかくさす、お話しいたしましょう、が、お武家さまが、なにゆえに、金銀相場などのことを---お勘定方へでも---?」
「いや。わが長谷川家は、大権現(家康)さまのときから両番(書院番と小姓組)と申す番方(武官系)の家柄でしてな。まかりまちがっても勘定方にまわされることはない」
「それなのに---?」
「ご疑問はもっともなれど、番方だからといって、勝手方(財政)にうとくていい、というものでもあるまい」

礼金を断り、金銀相場の裏の裏を知りたいという平蔵に、嘉兵衛は興味をもった。
(この若者、ただの武家でおさまる仁ではない。きっと計略家におなりになるであろう。これをご縁に、つきあいを深めておこう)

ちゅうすけ注】この日から16年後、人足寄場を建議し、その創設と運営をまかされた平蔵が、2年目に予算不足から銭相場に手をだして400両をひねりだしたのも、隠居していた〔門屋〕嘉兵衛の入れ知恵によったとおもわれる。

参照】2007年9月19日[『よしの冊子』] (18) (31
2009年5月5日{相良城・曲輪堀の石垣} (
2005年1月16日[〔初鹿野(はじかの)〕の音松] 

万吉啓太が江戸を発つとき、刷りあがったばかりの〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 55,6歳)とお賀茂(かも 36,7歳)の人相書を15枚、〔左阿弥(さあみ)〕の若元締・角兵衛(かくぺえ 43,4歳)と東町奉行所の同心・加賀美千蔵(せんぞう 32歳)、それに箱根関所の足軽小頭(こがしら)・打田内記(ないき)にわたすようにもたせた。


参照】2010年4月26日~[〔蓑火(みのひ)のお頭] () (10) (11) (12) (13) (14) (15

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2010.05.02

〔蓑火(みのひ)〕のお頭(15)

中山道を、ずんくり小肥の岩次郎(いわじろう 52歳)と青白い肌を赤く焼いた由三(よしぞう 19歳)が碓氷峠を上っているころ、江戸では、町名主の代理人たちが町年寄役所へ呼ばれ、火盗改メ本役・菅沼藤十郎定亨(さだゆき 45歳 2022石)の達しを写しいた。

間口4間以上の商舗で、信濃国に人別がある者を、ここ5年以内に雇いいれた店は、名、年齢、職、請け人を記し、7日のうちに提出すること。

一風変わった達しであった。

さらに奇妙だったのは、この達しの5日のあいだに、男7人、おんな5人が雇い主に断りなしに姿を消したことであった。

結果を聞いた先手・弓の2番手の菅沼組の筆頭与力の脇屋清助(きよよし 47歳)と長谷川平蔵(へいぞう 30歳)は、腹をかかえて笑いあった。
策は、平蔵が樹(た)てたものであった。

それから旬日後、京都では、〔蓑火(みのひ)〕の喜之助(きのすけ 54歳)が、持ち家である五条大橋東詰jの宿屋〔藤や〕の地下に設けられた秘密の部屋で、2人の配下とともに〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 55歳)と〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち 59歳)と談じこんでいた。

蓑火〕側の配下2人は、身の丈6尺(180cm)はあろうかという大男で小頭筆頭の〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵(ごろうぞう 38歳)と軍者(ぐんしゃ 軍師)の一人〔神畑(かばたけ)〕の田兵衛(でんべえ 47歳)である。

参照】2008年8月30日[{蓑火(みのひ)〕のお頭] (

「それがね、〔蓑火〕の。どうにも、解(げ)せないのよ。火盗改メ・本役の菅沼藤十郎定亨というご仁について、うさぎ人の小浪(こなみ 36歳)に風評をあたらせたのだが、配下にまかせきりで、自分から策を練る頭(かしら)ではないと。西丸の目付時代にもさしたる働きはなかったそうで--」

参照】2008年10月23日~〔うさぎ人(にん)・小浪] () (2) (3) (4) (5) (6) (7)

「で、がしょう? うちの草の根(諜者)にも、菅沼が組頭に任じられている先手・弓の第2組にもさぐりを入れさせたが、動いた気配いないのですよ」
喜之助お頭の言を引き継いだ田兵衛が、
「まったく不思議です。調べが、信濃からので出稼ぎ人にしぼられたということは、まるで、うちの組に狙いを定めたとしかおもえやせん」

大滝〕の五郎蔵は、なにかを思案しているように、腕組みをほどかず、じっと天井をにらんでいた。

「〔蓑火〕のお頭。軍者(ぐんしゃ 軍師)の〔殿さま栄五郎(えいごろう )どんは---?」
瀬戸川〕の源七が、座の空気をやわらげるようにしようとでもかんがえたのであろう、
「どう、見ていると---?」
「それが、岩村田城下から戻ってきた由三岩次郎を寝掘り葉掘り問いつめたが、かいもく見当がつかないと書いてきているのですよ」

五郎蔵が何かをおもいついたかのように腕組みをほどいたが、口にしなかった。

ちゅうすけが察するに、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 享年33歳)を〔狐火〕へ譲ったことが手落ちではないか、と気づいたのではないかとおもう。
は、うさぎ人の小浪とちがい、考えぬくほうだから、この場合の手違いを指摘できたろうと。

さすがの五郎蔵も、つなぎ(連絡)役の〔尻毛(しりげ)〕の長助(ちょうすけ 31歳)の毛むくじゃらが手がかりになっていたというところまでは考えがおよばない。
自分たちは長年見なれているから気にしたことがないからでもあり、仲間を疑うことはしたくないとのおもいが働いていたこともあろう。

「とにかく、江戸での盗(おつとめ)は、しばらく、休むより仕方がない」
うなずいた勇五郎が、
「まあ、手前のところは、江戸はずっと手びかえてきたから仕事には差しつかえはないが、〔蓑火〕どんのところは手びろくやってござるから、お困りでしょう」

勇五郎源七も、お平蔵(当時は銕三郎)とが、躰でむすばれた仲になっていたことは秘しとおした。
蓑火〕が平蔵に仕掛けをしては、大器に育ち始めたあの若者の将来に傷がつくことを恐れたからである。

参照】2008年11月17日~[宣雄の同僚・先手組頭] () (
2008年11月25日[屋根船
2008年11月27日[諏訪左源太頼珍(よりよし)] (
2009年5月21日~[真浦(もうら)の伝兵衛] () (

参照】2010年4月26日~[〔蓑火(みのひ)のお頭] () (10) (11) (12) (13) (14) (16

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2010.05.01

〔蓑火(みのひ)〕のお頭(14)

「あの2人だ」
南伝馬2丁目の東側の路地に身をかくし、向いの両替商〔門(かど)屋〕喜兵衛方の表をひそかにうかがっていた長谷川平蔵(へいぞう 30歳)が、旅姿の若者2人に告げた。

〔門屋〕の店先でも、2人の旅姿の男が、店の衆たちに見送れていた。
見送られているのは、手代・由三(よしぞう 19歳)と下男・岩次郎(いわじろう 52歳)であった。

昨夕、突然、べつべつに番頭・富造(とみぞう 66歳)に呼ばれ、取引先の信濃・佐久郡の岩村田城下の同業〔春日屋〕へも分厚い書き付けの包みをとどけるようにいわれた。
岩次郎は、その供の者ということで、道中手形も用意されていた。

日本橋橋を北へわたっていく2人を尾行(つ)けるのは、万吉(まんきち 24歳)と啓太(けいた 20歳)であった。

日本橋をわたると、由三岩次郎の下僕のように入れ替わった。
そして、中山道へつながる道を、なぜか西へ折れ、一石橋を堀沿いに竜閑橋へ向かった。

はん。こら、荒物屋へ行くつもりや」
「そうらし、おすな」
尾行(つ)けている2人のささやきである。

荒物屋が見張れる足袋・草履屋で休んでいると、2人が出てきた。
毛むくじゃらな〔尻毛しりげ)〕の長助(ちょうすけ 31歳)はあらわれなかった。

6月(旧暦)の日差しが強まる中を、板橋宿まで尾行(つ)けた万吉啓太は、街道ぞいの茶店でひと休みしてから、江戸へ引き返した。
尾行は板橋宿まででいいと、平蔵からきつく言われていたからである。

だから、このあとは、ちゅうすけが尾行するしかない。

板橋宿で休まなかった2人は、浦和宿はずれで、昼餉(ひるげ)にはまだまがあるというのに、小じんまりとした商人(あきんど)旅籠〔蓑(みの)屋〕へ入っていった。

ここは、〔蓑火(みのひ)〕の喜之助(きのすけ 54歳)が中山道ぞいの10数ヶ所にかまえている商人旅籠兼盗人宿のひとつで、小頭の一人---〔五井(ごい)の亀吉(かめきち 35歳)が、熊谷宿の旅籠〔蓑(みの)屋〕ともに預かっていた。

事情を聞いた亀吉は、離れの〔殿さま栄五郎(えいごろう)を呼び、知恵をかり、指示をあおいだ。
「なんで、発覚(バレ)たとおもうかいのう?」
「火盗改メ・本役組の与力が、〔門屋〕の主人・喜兵衛(きへえ 55歳)に会いにきたということでやす」
岩次郎が応え、岩田村城下の〔春日屋〕へという、厳重に包装されてどっしりとした紙包みを差し出した。
じろりと一瞥した栄五郎は、
「このまま、手つかずで〔春日屋〕へとどけんと、いけん」

2人が出立すると、亀吉はことの次第をしたため、京・五条大橋東詰にある宿屋〔藤や〕へ速飛脚に託した。
〔藤や〕は、このところ、〔蓑火〕の本拠となっていた。

日照りのつづき4日後の夕方、岩次郎由三は岩村田城下へ着いた。
中山道沿いの岩村田(現・佐久市)は、江戸から41里、500戸ほどの家が小さくまとまった、内藤志摩守正興(ただおき 32歳 1万5000石)が統治する城下町であった。

両替為替商〔春日屋〕は、ニ宮明神社の前に、間口3間の店を構えていた。
江戸の〔門屋〕から届けられた紙包みをひらいた主人は、ぎょっとした面もちで2人を瞶(みつめ)た。

中にあったのは、たった一枚の紙片と仕舞い金(しまいがね 退職金)2両(32万円)にすぎなかった。

「わけあって、由三岩次郎をお戻しいたします。
商いはこれまでどおりにつづけさせていただきます」


参照】2010年4月26日~[〔蓑火(みのひ)のお頭] () (10) (11) (12) (13) (15) (16

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