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2010.04.07

菅沼家の於津弥(つや)(2)

「一度、本所・四ッ目の別荘でゆっくりとお酒のご相伴をいたしとうございます」
嫡男・藤次郎(とうじろう 11歳)が席をはずしたてすきに、母親で後家の於津弥(つや 35歳)がつぶやくようにもちかけた。
平蔵(へいぞう 29歳)は、聞かなかったふりでさりげなく、
「奥方さま。藤次郎どのの躰の加減に気をお配りになるもよろしいが、ご自身のことをお考えになったらいかがでしょう?」

「申されてみると、3年前に、殿がお逝きになってから、桜花(はな)も紅葉(もみじ)も看(み)にでていませぬ」
「それでは足腰が弱りましょう。階段の上り下りでもなさって、お鍛えになりませぬか?」
「手始めだけでも、先生が手をとってお教えくださいますか?」
途端に、のりだした。

着物では無理だから、亡夫の袴でも穿(はく)ようにすすめると、
「藤次郎の稽古着の替えでよろしいでしょうか?」
すぐに着替えに立っていった。

津弥の亡夫・菅沼織部定庸(さだつね 7000石)は、無役の寄合のまま、3年前、35歳で歿していた。
病床がちのくせに、子だけは一人前につくった。
一男七女。うち、於津弥が産んだのは、嫡男・藤次郎と次女だけであった。

いいつけられたらしく、小間使いが灯(ひ)を入れた提灯を平蔵にわたす。
庭に面した縁側で、藤次郎が、
「夕焼けがあまりにも見事であったので見とれておりました」
「詩など、つくれたかな」
首をふって自室へさがった。

木製の階段は、庭の南端の母屋からは見えないところに設けられていた。
津弥は、もう着替えて待っていた。
11歳の藤次郎の稽古着なので、よろずが小さく、腕は袖から8分ほども露出している。
襟も、乳房を覆いきれないで張りきっていた。

「肌襦袢もお腰もとってじかに袴を穿きました。内股のあたりが、からっと開いた感じです」
「お腰?」
「あ、江戸でいう、けだし、湯文字です。母の実家が〔因幡屋〕という屋号の昆布問屋だったのです。京の女房さん言葉ときいています」

「奥方さま。足がもつれては危ないでしょう、股立(ももだ)ちをおとりください」
「どうすれば---?」
平蔵が手をのばして袴を両脇をつまみあげて締め帯にはさむとき、腰のたっぷりとした肉置(ししお)きに触れた。
それだけで、於津弥は気持ちをたかぶらせてきた。

「先生。こわいから手をつないで上りましょう」
いわれるままに左手でにぎり、右手で足元を照らす。
「よろしいですか、右足から踏みだして---一、二、三、四、五段。残りは五段です。六、七、八、九、踊り場」

最上段の踊り場で、もう、息があがっていた。
「下ります」
「待って。下が見えるとこわいから、灯を消して---」
自分が吹き消した。
暗闇になった。
月はまだ上っていない。
「九、八、七」

津弥がとまった。
「こわい」
「ちゃんと、お護りしております」
「上へ戻りましょ」

おそるおそる後退して、踊り場に立つ。
平蔵に躰をくっつけ、
「聞いてください」
ささやきはじめた。

自分は、8万石の牧野家備後守貞通(さだみち)の17男13女の10番目の女子である。

母は江戸の藩邸にあがっていた市井の女で、殿のお手がついたが、自分が幼いときに亡じたし、父・貞通も25年前の寛延2年(1749)に京都で卒したため、大名家の姫として生まれながら、肩身の狭いおもいをしながら育った。

「名づけにしてからがいい加減で、お通夜(つや)ですもの。ひどい話です」

大身・菅沼家に19歳で嫁入りしたが、ここでも、病がちの身にもかかわらず夫は、何人もの側女をもっていた。
自分は、次女と嫡男を産んだだけで、3歳違いの亡夫から、16年間、いとおしまれた記憶はない。

藤次郎を産んでからは、まるで、お床すべらかしでした。24歳ででございますよ」

藤次郎は2年前に遺跡相続がみとめられたから、家名と家禄は安泰である。
それからは、自分の生きたいように生きていくつもりでいた。

「先生にお会いして、いまがその時、とおもい立ちました」

足腰を鍛えるのは、おんなの内所の弾(はずみ)も強まると聞いたことがあるからと。

「奥方さま。藤次郎どのの出世のさまたげになるようなことだけは、お控えください。家臣たち口の端(は)にのぼらないうちに、戻りましょう」
「今夜は、黙って戻ります。その前に、一度だけ、力強く抱きしめてください。宣(のぶ)さまのその、たくましい腕で---」
躰のすべての重みを平蔵にあずけた。


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(於津弥の実家・牧野家での30人兄弟姉妹

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