長野佐左衛門孝祖(たかのり)の悲嘆
この月---すなわち安永4年(1775)3月、平蔵(へいぞう 30歳)は、もう一つ、心痛を経験した。
盟友・長野佐左衛門孝祖(たかのり 30歳 600俵)が脇につくった男子が、死産だったのである。
この子の出産について、平蔵は大いにかかわった。
その経過は、つい最近、【参照】に記したとおりである。
【参照】2010年4月1日~[長野佐左衛門孝祖(たかのり)] (1) (2) (3) (4) (5)
胎児が死んだだけでなく、母体も助からなかった。
いろんな心労が臓腑を蝕んでいたのであろう。
お秀(ひで 19歳)は、佐左(さざ)だけに看取られて逝った、短すぎる一生にしては、寂しすぎた。
しかし、
「お殿さまに付きそっていただけただけで、秀は、幸せものでございます」
つづいて、言葉をつないだという。
「長谷川さまへ、お伝えくださいませ。こうして、わが家で生涯を終えられたことを感謝しておりますと」
葬儀のおくり人は、平蔵と本丸の小姓組番士・浅野大学長貞(ながさだ 29歳 500石)、お秀の両親、それに上野山下と広小路一帯の香具師の元締・〔般若(はんにゃ)〕の猪兵衛(ゐへえ 27歳)と妾のお品(しな 26歳)だけであった。
佐左(さざ)の室はもちろんのこと、実家の藤方家からは花も線香もとどかなかった。
当然であろう。
猪兵衛が恐縮し、耳打ちした。
「声をかければ、100人でも焼香にめえりやすが、うちの者たちが参列しては、長野のお殿さまのご身分にさしさわりがあってはと、控えさせやした」
初7日の仏事ということで、平蔵が、佐左と大学を〔五鉄〕に招いた。
佐左は、そういう仏事にも気がまわらなくなっていた。
「こういう形になって、すまぬ」
平蔵が謝っても、耳にはいらないふうであった。
【参照】2010年4月19日~[同期の桜] (1) (2) (3) (4)
「先月(2月)の29日から、待ちくたびれ気味だった大(だい)が、本丸の書院番士としての出仕祝いのつもりもある。店から、祝い酒がでている」
気にした平蔵が、ことさらに口実をつくったときには、
「なにからなにまで、銕(てつ)には世話になりっぱなしだ。すまぬ」
「なにを、水くさい。誓いあった仲ではないか」
お秀と赤子の遺骨がまだ置いある妻恋町の家と、深川猿江町の実家(さと)---明樽問屋の通い番頭をしている徳太郎(とくたろう 40歳)のところへ、線香と花を手くばりしておいたことを、平蔵は言わなかった。
お秀が住んでいた家は、先払いの期限がつきるまで借りっぱなしにしておくという大家との交渉は、〔般若〕の元締のところの小頭・〔黒門町(くろもんちょう)〕の儀助(ぎすけ 26歳)がとりはからってくれた。
[化粧(けわい)読みうり]板行のおかげて、各元締の配下の衆が手足のように動いてくれるようになった。
これがこのまま、平蔵が火盗改メに就任するまでつづけば、職務の上で威力を発揮するであろう。
〔五鉄〕の三次郎(さんじろう 26歳)があいさつに顔をだした。
「おれの盟友だ。今後とも、頼むぞ」
あとで三次郎が眉根を寄せて、
「長野さまは、大丈夫ですかね。なんだか、生きる力が抜けているようでしたが---」
三次郎の目はたしかであった。
まだ30歳前だというのに、お秀を逝かせて生きる張りをなくしたようで、内室とも没交渉となり、勤務も形だけとなっていった。
当時の武家とすればめずらしく、短かったが思いのままにおんなを愛した思い出を、胸の中で反芻する生き方に徹していた。
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