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2005.01.10

〔岡津(おかつ)〕の与平

『鬼平犯科帳』文庫巻6に所載の〔狐火〕に顔をみせる、だらしのない盗人。
初代〔狐火〕の勇五郎の歿後、本妻の子・文吉側につき、畜生働きを京坂で2件、江戸・市ヶ谷・田町の薬種屋〔山田屋〕でも家族使用人17人を皆殺しにした犯行に従事。

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年齢・容姿:とりたてて書き込むほどの盗人ではないと池波さんが考えたか、いずれも記述なし。
生国:遠江国佐野郡岡津(現・静岡県掛川市岡津)

探索の発端:京坂での押し込み先の者たちを皆殺しにした畜生働きの現場に、〔狐火〕の札が貼られていたことに不審をおぼえた、妾の子ながらそのすぐれた知力・胆力に、〔狐火〕の2代目を名乗ることを先代から許された又太郎が、中川ぞいの葛飾郡・新宿(にいじゅく)の渡舟場の茶店の亭主・源七を訪ねてきた。
この源七こそ、先代〔狐火〕の勇五郎の右腕といわれた〔瀬戸川〕の源七の引退後の姿であった(参考:当サイトのカテゴリー[静岡県]2004年12月20日の〔瀬戸川〕の源七もあわせてご覧いただきますよう)。

〔瀬戸川〕の源七は、初代〔狐火〕の勇五郎が江戸に構えていた向島・木母寺の近くの隠れ家の始末を頼まれた初代の左腕〔竹森〕の彦造が、その代金を又太郎へ渡していないことから、そこがニセの〔狐火〕を名乗る文吉の「盗人宿」になっていると見きわめた又太郎、源七、密偵おまさは、その家を見張る。
そこへ、〔岡津〕の与平がその家から出てきて諏訪明神の前にさしかかったところを、舟で先まわりしていた又太郎に捕まり、右手の指を2本切り落とされるや、ふがいなく、すべてを白状してしまった。

結末:これも記されていないが、鬼平に召し捕られた文吉一味7名とともに処刑されたろう。

つぶやき:こういう軽い役の盗人にまで「通り名(呼び名ともいう)」を池波さんがつけているのは、物語のリアリティを尊重しているからである。

そういう気くぱりは、押し込まれる商家の町名や屋号にもおよんでいる。そのため『鬼平犯科帳』は、再読、三読に耐え、なお、重ね読みのたびに新しい発見が出てくる。

ニセの2代目〔狐火〕の勇五郎を名乗った文吉が「盗人宿」として使った家から出た〔岡津〕の与平が捕まった場所、諏訪明神は、池波さん愛用の近江屋板の切絵図にも尾張屋板にも載っているが、現在はそこにはなく、明治初年の太政官府の神社統合令により、近くの白鬚神社(墨田区東向島3丁目)の拝殿右へ移された。

「髯」は頬ひげ、「髭」は口ひげ、白鬚神社の「鬚」は顎ひげ。したがってここの祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)だが、隅田川七福神としては寿老神。ちなみに、白鬚とは百済(くだら)のことで、帰化人を意味するとも。

木母寺には謡曲「隅田川」の梅若塚が祀られている。寺号は「梅」の字を分解したものとか。

「岡津」について、「横浜市在住 未熟なファン」と称される方から「横浜市泉区に岡津町があります。かつての戸塚区から新しく分けられたところだと思います」とのメールをいただいた。

横浜市の岡津町は、池波さんがよく食事なんかへ行っていた横浜の一区画である。
掛川市の岡津は、『鬼平犯科帳』連載前に武田信玄、織田信長、徳川家康などの合戦記録を調べるために旅行していた地区……。
どちらの岡津が池波さんの頭にあったか、かんがえた。

〔狐火〕の文吉は江戸に不案内だから、横浜生れの〔岡津〕の与平を引き入れたのかも……ともかんがえたが、江戸にくわしい配下としては〔竹森〕の彦造が配下にすでにいることだし、京都に縁の深い先代〔狐火〕に近い土地として掛川市の岡津のほうを採った。

探訪記:(2005年02月06日 東京駅・朝07時10分発の〔こだま〕で静岡へ。さらに東海道線で掛川。天竜浜名湖鉄道の1輌きりの電車で西へ3つ目の「桜木駅で下車したのはぼくともう1人きり。運転室の窓から顔と手を出している運転手へ切符を渡す。9時28分。日曜のこの時間帯は無人駅なのだ)。駅前にも人影がないから道もきくことができない。

(ままよ)と、信州街道(秋葉街道)を北西へ向ってウォーク。追い越してゆくのは疾走する車ばかり。
途中のコンビニの店員に「岡津」を尋ねると、来た方角を指さすばかり。
引き返し、天浜鉄道の踏み切りをわたって丘への道を上る。と、見渡すかぎりいちめんの茶畑だ。岡津の地名のゆえんが理解できた気がした。

風力発電機のような風車が無数、畑のいたるところへ立って、寒風をうけてくるくる回っている(あとで岡津の老人に聞いたら、防霜機で、畑の気温が4度Cに下がったら作動して大気を撹乱する装置なのだと)。

茶畑で仕事をしていた80年配の男性に聞く。岡津はいま70戸ほど。若い人が出て行って、茶畑を継ぐ者が減っているのだと。

その老爺のいうには、茶畑の中につくられた歩いていた道をはさんで、南が大須賀、北が浅井が支配地だったと聞いていると。どうも、家康と信玄の時代のことらしい。
手元の『旧高旧領取調帳』だと、岡津の3分の1は西尾隠岐守の領地、あとは幕臣の久保田にがしと細井なにがしの知行地だった。
とにかく、台地なので米ができない。それで、村を出て行く若者が昔も多かったろう。〔岡津〕の与平もそのひとりだったのではなかろうか。

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郷の周囲の丘陵は見渡すかぎり茶畑。無数に立っているのは防霜機

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コメント

横浜市泉区の岡津町か、掛川市の岡津か、ってことですが、2つの町の歴史が明らかにされていまん。

ですから、どちらにも肩入れできないのが実態ではありませんか。

心情的には、私の住いから遠くない横浜市の岡津を支持したいところです。

だって、木母寺の近くの隠れ家を出て、すたすたと諏訪明神のほうへ歩いていたということは、相当に土地勘があったわけでしょ?
江戸にくわしかったといえそうです。

投稿: 目黒の朋子 | 2005.01.11 05:36

>目黒の朋子さん

ご指摘のとおり、横浜市の岡津の歴史、掛川市の岡津の経緯---ともに、調査不足でした。

あらためて、リサーチにとりかかりますが、横浜市泉区の区役所の学芸員の方、掛川市の観光課か教育委員会の方から、ご教示がいただけれは、もっとありがたいです。

投稿: ちゅうすけ | 2005.01.11 09:31

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