« 筆頭与力・脇屋清吉(きよよし)(2) | トップページ | ちゅうすけのひとり言(55) »

2010.05.07

ちゅうすけのひとり言(54)

安永4年(1775)の春。
当ブログの進行では、長谷川平蔵宣以(のぷため 30歳)は西丸の書院番士となって満1年がすぎ、ようやく城内での諸事に馴れたころである。

西丸の主(ぬし)は、将軍家治(いえはる)の世嗣(せいし)・大納言家基(いえもと 14歳)であった。
頭脳体格ともに尋常で、動きもかっぱつであったと伝わっている。

そこで、平蔵が出仕してからの鷹狩りと遊びの他行を『徳川実紀』からひろってみた。

安永3年
 4月18日 浅草のほとりで放鷹。
 5月2日  羅漢寺(東深川)のほとりで放鷹。
 8月6日  浜の御殿に遊覧。
 9月19日 心観院(将軍御台所)、乗台院(異母姉)へ墓参。

家治の放鷹。家基が従ったかどうかは不明。
 4月25日 亀戸のほとり。
 7月23日 浅草川のほとり。
 11月3日 中野のほとり。
  同13日 小菅のほとり。
 12月2日 千住のほとり。
  同19日 木下川のほとり。

安永4年
家基の放鷹
 5月15日 羅漢寺のほとりで放鷹。
 11月23日 浅草のほとりで放鷹。安永4年(1775)

家治の放鷹
1月13日  亀有のほとり。
 同 27日  船堀のほとり。
 3月13日  中野 のほとり。
 同 25日  王子のほとり。 

放鷹の2日後あたりに、鳥射した従士に下賜がくだされる。
寛政重修諸家譜』には、そのことを名誉としている誇示している者が少なくない。
弓術は、武家の嗜みの一つであったからであろう。

長谷川家の2代の平蔵---宣雄宣以に、その記述が見あたらない。

_360
_360_2
(長谷川家の3代の平蔵の寛政個人譜)

3人目の平蔵宣教(のぶのり)の項には、鳥射し、ものをたまわったと『寛政譜』は記している。
まさか、自分だけいい子ぶりをとどけたか---と、彼が提出した[先祖書]を穴があくほど目を光らせて検閲したが、彼自身は申告してはいなかった。

『寛政譜』の編纂者が幕府側の記録によって栄誉を書き加えたと推察するしかない。

逆に言うと、宣雄、宣以の栄誉の記録は、幕府側にもなかったか、あるいは追記されなかったか。

[先祖書]に記載がなかった理由としては、2つことが考えられる。

2人とも、弓術は得意でなかった。
あるいは、そのようなことによる恩賞は、さしたる名誉とおもわなかった。

つづいて、火盗改メを平蔵宣以が下命される前の17人の『寛政譜』をとりだしてみた。

島田弾正政弥(まさはる 36~37歳 2000石)
・記載なし
 安永元年(1772)10月19日
  ~同2年(1773)7月9日
 安永3年(1774)12月12日
  ~同4年(1775)5月13日

赤井越前守忠晶(ただあきら 37~38歳 1400石)
・記載なし
 安永2年(1773)1月20日
  ~同3年(1774)3月20日

庄田小左衛門安久(やすひさ 41~42歳 2600石)
・記載なし
 安永2年(1773)10月19日
  ~同3年(1774)5月10日
【個人譜】2010年2月10日

菅沼藤十郎定亨(さだゆき 45~46歳 2025石)
・記載なし
 安永3年(1774)3月20日
  ~同5年(1776)12月12日

松田善右衛門勝易(かつやす 54~55歳 400石)
・記載なし
 安永3年(1774)10月11日
  ~同4年(1775)5月13日

荒木十左衛門政為(まさため 52~53歳 2000石)
・記載なし
 安永4年(1775)10月18日
  ~同5年(1776)3月20日

杉浦長門守勝興(かつおき 56歳 1000石)
・記載なし
 安永5年(1776)3月21日
  ~同年6月4日 

長田甚左衛門繁尭(しげたけ 51~52歳 500石)
・記載なし
 安永5年(1716)12月14日
  ~同6(1777)4月16日

土屋帯刀守直(もりなお 43~46歳 1000石)
・記載なし
 安永5年(1776)12月14日
  ~同8年(1779)1月15日

(にえ)壱岐守正寿(まさとし 39~44歳 300石)
・記載なし
 安永8年(1779)1月15日
  ~天明4年(1784)7月26日

建部甚右衛門広般(ひろかず 52~53歳 800石) 
・記載なし ○父・広長にあり
 安永8年(1779)9月22日
  ~安永9年(1780)3月29日
 天明元年(1781)1月24日
  ~同年閏5月8日
 天明元(1781)11月15日
  ~天明2年(1772)4月24日

水野清六忠郷(たださと 47~48歳 2000石)
・記載なし
 安永9年(1780)10月7日
  ~天明元年(1781)閏5月1日

堀帯刀秀隆(ひでたか 45~52歳 1500石)
・記載あり ○ただし的射がある。 
 天明元年(1781)10月13日
  ~天明2年(1782)4月24日
 天明5年(1775)11月15日
  同8年(1778)9月28日

安部平吉信富(のぶとみ 54~55歳 10000石)
・記載なし
 天明2年(1772)10月9日
  ~天明3年(1773)5月7日

前田半右衛門玄昌(はるまさ 53~54歳 1900石)
・記載あり ○父・直主は騎射の上手。
 天明3年(1783)3月12日
  ~同年5月7日
 天明3年(1773)10月27日
  ~同4年(1774)4月16日
 天明6年(1786)1月23日
  ~同年5月3日卒

柴田三右衛門勝彰(かつよし 61~62歳 500石)
・記載なし
 天明3年(1773)9月25日
  ~天明4年(1774)4月16日

横田大和守松房(としふさ 41~42歳 1000石)
・記載なし
 天明4(1774)7月26日
  ~同5年(1775)11月15日
 

建部の父・広長に放鷹の幸運があった。
前田の父・直主の騎射の上手、堀秀隆に的射の報償の記載はある。

そう、放鷹での鳥射は僥倖もはたらこう。

長谷川家の2代の平蔵は、武術はあまり得意ではなさそうにもおもえてきた。

もっとも、17人で即断するには早計すぎる。
今後の課題としてあげておくにとどめよう。

追記】アップしたものを読み返していて、(なんだか、変だな)と胸騒ぎをおぼえた。
考えて、平蔵宣以の本家の伯父・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 67歳=安永4年 1450石)の名がないことだと気がついた。
正直は、宝暦13年(1763)から明和3年(1766)まで、断続的に火盗改メを拝命している。

たぶん、安永元年(1773)以降の火盗改メにかぎったのではずしたのであろう。
参考例として、『寛政譜』を掲出しておく。

_360

弓馬の道の鍛錬は、両番(書院番組、小姓組番士)の心得であるらしい。


|

« 筆頭与力・脇屋清吉(きよよし)(2) | トップページ | ちゅうすけのひとり言(55) »

200ちゅうすけのひとり言」カテゴリの記事

コメント

 掲げていただいた寛政譜によると、辰蔵(宣義)は、放鷹のとき鳥を射て時服を賜ったということでしょうか? そうすると、辰蔵は口先ばかりでなく、弓も結構よかったということでしょうか?

投稿: パルシェの枯木 | 2010.05.07 08:25

将軍父子の狩猟のリストアップありがとうございます。
ところで、平蔵の息子辰蔵(宣義)の寛政譜の最後の方に
「九年四月二十一日より西城に勤仕し、後将軍家放鷹のときしたがひたてまつり、鳥を射て時服をたまふ。」
とあるのですが、息子はそれなりに弓ができたのかもしれないですね。
この文脈だと、西の丸付のときに「将軍家の放鷹」に参加していることになるのでしょうか?
その場合は世子も参加していると考えるべきなのでしょうか?
うーん、それだと危機管理のために世子は将軍家と城外では別行動という仮説はなりたたなくなってしまいそうです・・・

投稿: asou | 2010.05.07 08:58

すいません、勘違いしていました。
寛政譜の元資料である先祖書きの提出期限が寛政十一年であることを忘れていました。寛政十一年なら家慶公はまだ八歳でした。
この年齢だと狩猟にはまだ参加していない、でしょうか。

投稿: asou | 2010.05.07 09:12

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 筆頭与力・脇屋清吉(きよよし)(2) | トップページ | ちゅうすけのひとり言(55) »