ちゅうすけのひとり言(55)
[ちゅうすけのひとり言](54)につづいて、放鷹での鳥射の報償調べである。
今回は、平蔵宣以(のぶため)が天明6年7月26日(41歳)から卒して辞職した寛政7年5月16日(50歳)までの、足かけ10年間在任した先手・弓の2番手の組頭たち 11人である。
朝倉甚左衛門景増(かげます 52~54歳 300石)個人譜
・記載なし。
宝暦4年4月28日
~同6年11月3日
小笠原兵庫信用(のぶもち 51~53歳 2600石)
・記載なし。
宝暦6年(1756)11月15日
~同8年(1758)12月7日
平塚伊賀守為政(ためまさ 52~57歳)
・記載なし
宝暦8年(1758)12月7日
~同13年'(1763)3月11日
奥田山城守忠祇(ただまさ 60~70歳 300俵)個人譜
・記載なし。
宝暦13年(1763)3月15日
~安永2年(1773)1月11日
赤井安芸守忠晶(ただあきら 47~48歳)個人譜・記載なし
安永2年(1773)1月11日
~同3年(1774)3月20日
菅沼和泉守定亨(さだゆき 45~47歳 2025石)個人譜・記載なし。
安永3年(1774)3月20日
~同5年(1776)年12月12日
土屋帯刀守直(もりなお 43~46歳 1000石)個人譜・記載なし。
安永5年(1776)年12月12日
~同年12月14日組替え
長谷川太郎兵衛正直(まさなお 54~69歳 1450石)個人譜
○騎流鏑馬の射手として黄金3枚。
安永5年(1776)12月14日組替え
~安永7年(1778)2月24日
贄 越前守正善(まさよし 38~44歳 400石) 個人譜
○流鏑馬の射手。
安永7年(1778)2月28日
~天明4年(1784)7月26日
火盗改メを、長谷川平蔵宣以に次いで長く勤めた仁なので、個人譜を掲示しておく。
横田源太郎松房(としふさ 43~44歳 1000石)個人譜・記載なし。
天明 4年(1784)7月26日
~5年(1785)11月15日
前田半右衛門玄昌(はるまさ 51へ~58歳 1900石)
・記載なし
天明4年10月19日組替え
~同6年(1786)7月8日
見たとおり、番方(武官:系)で練達を期待されている先手34組のうちの弓の2番手の歴代の組頭11名の中にも、鷹狩で将軍の目の前で鳥射の僥倖をえた者はいない。
わずかに、紀州系の贄(にえ) 越前守正善が、流鏑馬(やぶさめ)の射手として黄金3枚をえているにすぎない。
つまり、そういう武術の錬度は指揮官には問われなくなってきていたのであろうか。
【ちゅうすけ注】前田玄昌が病没したために、長谷川平蔵宣以が西丸の小十人頭(1000石格)から、急遽、先手・組頭(1500石格)へ栄転した。
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