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2011年1月の記事

2011.01.31

平蔵の土竜(もぐら)叩き(7)

ことがおもったように進まないので、平蔵(へいぞう 36歳)は、さきほどから、ある職についた者を名寄せした奉書紙をにらんでいた。

松島町に屋敷を下賜されている書物奉行の野尻助四郎高保(たかやす 64歳 35俵3人扶持)からとどいた名簿であった。

幕臣の家系調べは、以前に頼んでいた石原町の長谷川主馬安卿(やすあきら 享年61歳)が病気がちになったので野尻高保にふりかえていた。

参照】2010年12月13日[医学館・多紀(たき)家] (

平蔵がにらんでいるのは、ここ10年ばかりのあいだに、火盗改メ・本役を勤めた組頭(くみがしら)の名寄せであった。


先手・弓の2番組頭
贄 越前守元寿(もととし 41歳 300俵)
 拝命 安永8年(1779)1月15日(39歳)
 転   天明4年(1784)7月26日 堺奉行(44歳)

先手・弓の7番組頭
土屋帯刀守直(ものなお 48歳 1000石)
 拝命 安永5年(1776)12月14日(43歳)
 転   安永8年(1789)1月15日 大坂町奉行(46歳)

先手・弓の2番組頭
菅沼藤十郎定亨(さだゆき) 享年49歳 2025石)
 拝命 安永3年(1774)3月20日(44歳)
 転   安永5年(1776)12月12日 奈良奉行(46歳)

先手・弓の2番手組頭
赤井越前守忠晶(ただあきら 1400石)
 拝命 安永2(1773)1月2O日(37歳)
 転   安永3年()3月20日 京都町奉行(38歳)

役宅となった拝領屋敷は、贄家の九段下飯田町から、小石川江戸川端、大塚安藤対馬守跡、表六番町と異ってはいるが、組は、弓の2番手が3人もい、その通算の勤務年月はほとんど6年におよんでいた。

(なんということだ。もっとも肝心なことを見落としていた)

平蔵は、すぐさま、弓の2番手の筆頭与力・脇屋清吉(きよよし 53歳)あての文を認(した)ため、牢番頭格・悦三(えつぞう 35歳)と、もう一人のずっと弓の2番組で小者としていつづけていた者の身上を問いあわせた。


翌日、下城してみると、贄組の同心・吉田藤七(とうしち 40歳)が待っていた。

ちゅうすけ注】わざわざ断るまでもなく、この吉田藤七は、『鬼平犯科帳』巻15長編[雲竜剣]で、木村忠吾に協力し、のち、舅となる人物である。

参照】2006年4月13日[同心・木村忠吾と〔うさぎ饅頭〕]


用件を終えてから、俎板(まないた)橋の役宅へ戻るか、それとも目白台の組屋敷へ直帰するかを問い、直帰との応えであったので、黒舟で江戸川橋の船着きまで送れるように、〔季四〕を選んだ。

恐縮する吉田同心と小'者ともに、菊川橋のたもとのかかりつけの船宿〔あけぼの〕から冬木町寺裏の〔季四〕まで舟行した。

供をするという松造(よしぞう 30歳)は、
「お(つう 13歳)を迎えに行ってやれ」
早めに解放した。

舟の中で話そうとする吉田同心を目で制止し、家族のことに話題をふった。
藤田同心は、女子5人、男子1人の子福者であった。
そのせいかどうか、〔季四〕のような料亭にはほとんど縁がなかった。
もっとも、30俵3人扶持の同心では子だくさんでなくても、したくてもぜいたくはできなかったが。

病身だった父親・藤ニ(とうじ 42歳=宝暦6年 1756)の身代りとして、15歳の春に同心見習いになった。
そのときの組頭は、朝倉仁左衛門景増(かげます 54歳 300石)であった。

朝倉景増と聞き、平蔵は、その7年後に、養女・与詩(よし 6歳=当時)を迎えに駿府へのぼった旅を、瞬時、おもいだしていた。
与詩は朝倉景増の次女で、朝倉は先手組頭から駿府町奉行に栄転していたのであった。、

参照】2008年1月7日~[与詩(よし)を迎えに] (18) (20

その旅で、人妻だった阿記(あき 21歳)と秘めごとをつづけた。
まだ銕三郎(てつさぶろう)を名乗っていた平蔵は、18歳であった。

参照】200y7年12月30日~[与詩(よし)を迎えに] (10) (11) (12) (13) (14

甘い追憶を行き来しているうちに、〔季四〕の舟着きが目の前にあった。

〔季四〕の部屋でも、藤七同心は居どころが似つかわしくないふうで、落ちつかなかったので、平蔵里貴(りき 37歳)に座をはずすように目顔でうながした。

ようやく、吉田同心が、語りはじめた。


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(朝倉仁左衛門景増の個人譜)


1_360
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(菅沼藤十郎定亨の個人譜)


1_360_2
2_360
(赤井安芸守忠晶の個人譜)


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2_360
(贄越前守正寿の個人譜)


N_360
2_360_2
(土屋帯刀守直個人譜)

参照】2011年1月25日~[平蔵の土竜(もぐら)叩き] () () () () () () () () ()  (10) (11) (12) (13


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2011.01.30

平蔵の土竜(もぐら)叩き(6)

罠はしかけられた。

もう15年も先手・弓の2番手で下働きをしてい、いまは牢番の頭(かしら)格の悦三(えつぞう 35歳)が、適当な口実をもうけて茂助(もすけ 45歳)を俎板(まないた)橋東詰の屋台へ誘い、安酒とむだ話のあと、
「与力の(たち) 朔蔵(さくぞうう 37歳)さまと同心の佐々木伊右衛門(いえもん 43歳)さまの立ち話を小耳にはさんだのだが、近く〔蓑火(みのひ) 〕のなんとやらという盗人一味の下っ端が入牢(じゅろう)してくるらしいぜ」
耳元でささやいた。

「え---?」
と見返した茂助に、おっかぶせるように、
「神田佐久間町の躋寿館(せいじゅかん のちに医学館)の事件の犯人の一人らしい。なんでも、盗んだ朝鮮人参の故売したのが発覚(バレ)たとかいうことらしい」


10日すぎても、茂助の勤めぶりに変化はなかった。、
表門脇の下男部屋から消える様子はなく、非番の夜、俎板(まないた)橋東詰の屋台で安酒をちびちびと時間をかけて呑む様子も変わりはなかった。

〔銀波楼〕の女将で〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 61歳)の直(じか)うさぎ人(にん)でもある千浪(ちなみ 42歳)に、平蔵(へいぞう 36歳)が、
「しっているかぎりのうさぎ人の風評に気をくばっておいてほしい」
頼んでおいたのに、〔蓑火〕側の動きはそよとも感じられなかった。

つまり、茂助悦三のささやきを聞きながしたということだ。

つぎの罠は、喜八(きはち 24歳)にかけられた。

屋敷から遠くない飯田町中坂の途中にある田安稲荷社の脇の煮飯屋で一杯やっていると、声をかけてきた男がいた。
喜八っつぁんでやすね?」
「そうだが---?」
ささやくように、
「〔殿さま栄五郎(えいごろう 享年45歳前後)さんがいけなくなったってねえ」
それだけいうと、すっと、喜八の席からは見えにくい隅の樽椅子へ移り、しばらくするとでていった。

以前からの当ブログにアクセスしていた人なにら、町駕篭〔箱根屋〕の舁(か))き手の加平(かへえ 32歳)と見破ったであろう。

逆に、喜八が、
「〔殿さま〕栄五郎(えいごろう)って、だれでぇ?」
問いかえしていたら、加平は返答に困ったろう。
そこまでは口上を伝授されなかったし、期待もされていなかった。

ぼろもでなかったが、効果もあらわれなかった。

半月ほどのちに、〔銀波楼〕の千浪から、三ッ目通りの平蔵のところへ、そよとも風の音が聞こえてこないとの、遣いがあった。

世間は花看の季節に入っていた。

参照】2011年1月25日~[平蔵の土竜(もぐら)叩き] () () () () () () () () ()  (10) (11) (12) (13

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2011.01.29

平蔵の土竜(もぐら)叩き(5)

「で、長谷川うじが考えている土竜(もぐら)叩きは---?」
火盗改メ・本役の組頭の(にえ) 越前守正寿(まさとし 41歳)が訊いた。

陪席していた筆頭与力・脇屋清吉(きよよし 52歳)と平与力・(たち) 朔蔵(さくぞう 37歳)も興味津々の表情で平蔵(へいぞう 36歳)を見まもった。

そのとき、里貴(りき 37歳)が顔をだし、
「そろそろ、お酒とおつまみをお並べしてもよろしゅうございましょうか?」
「酒と肴だけにしてほしい。話しあいはあと、小半刻たらずでおわろう」
平蔵(36歳)が応え、里貴がこころえた。

4人の盃を満たしおえた里貴が消えた。

「おとりの偽(いつわ)りの風評を流します」
「偽(いつわ)りの風評とは---どのような?」
平蔵とはもっとも親しいと自認している脇屋与力が口をはさんだ。

「さよう、躋寿館(せいじゅかん のちに医学館)に押し入った賊は、大盗〔蓑火(みのひ)〕の喜之助(きのすけ 60歳)一味と、火盗改メは見当をつけた---といった噂です」

長谷川うじは、あの躋寿館の一件tが、どうして〔蓑火〕一味の仕業(しわざ)ではないと断定したのかの?」
本役の問いに、
「その一は、退去のおりに鉄菱(てつびし)を撒いております。〔蓑火〕は鉄菱を用いません。鉄菱を持ち運ぶにはそれ相応の容(い)れ袋を用意していなければなりません。そのニは、朝鮮人参を持ち去っております。あれは高価な薬草ではありますが、売りさばき先がかぎられており、売り人が容易に割りだされます。〔蓑火〕は、そういう危ないものには手をつけませぬ」

「ふむ」
本役がうなずいた。

長谷川さま。躋寿館の廊下に撒かれていた鉄菱は、52ヶでございました。としますと、賊は60ヶから80ヶは持参していると見られます。1ヶが7分(2.7cm)近い鉄菱80ヶといいますと、かなりの重さになります。容(い)れている袋もそれなりに大きく丈夫でないと---」
与力の疑問であった。
舘の亡父・伊蔵(いぞう 享年60歳)は、脇屋の前の筆頭与力としてすでに登場している。

どの。いいところへお目をつけられた。じつは10年以上も前に、当時、甲府勤番頭だった縁者に古府中の印伝屋を総あたりしてもらい、くさり帷子で裏打ちした袋の注文をうけた店をつきとめました」
朔蔵は、火盗改メの与力としてよい勘をもっている)

参照】2008年8月20日[〔橘屋〕のお仲] (

経緯(ゆくたて)をかいつまんで話すと、 本役が、
「注文者の正体はわからなかったということだな」
「御意(ぎょい)。したが、そのころの〔蓑火〕には、武田方の軒猿(のきざる)の血筋の者もいたようでした」
(りょう 享年33歳)の名を、さすがに伏せた。
本役も、あえて訊かなかった。

料理の膳が運ばれてき、 本役が話題を打ちきった。
「さ、料理を堪能しようぞ」

参照】2011年1月25日~[平蔵の土竜(もぐら)叩き] () () () () () () () () ()  (10) (11) (12) (13

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2011.01.28

平蔵の土竜(もぐら)叩き(4)

「それはならぬぞ。そのようなことをいたしてみよ、配下の者たちのあいだに疑心暗鬼がひろがり、組としての統率にひびがはいる」
(にえ) 越前守正寿(まさとし 41歳)の語調はきびしかった。

案の許しを乞うつもりであった平蔵(へいぞう 36歳)はもとよりのこと、筆頭与力・脇屋清吉(きよよし 53歳)、組内係方同心・吉田藤七(とうしち 44歳)も平伏し、恐れいった。

温和な面持ちへ戻った越前守正寿は、
有徳院殿(吉宗)が、火盗改メの与力へ10人扶持、同心には3人扶持をくだされるように初めてお定めになったのは、この職が昼夜をわかたずのきびしいものであることをお察しくだされたからであった。報恩のためにこころをつくすべきであろう」
言葉をむすぶときには、笑顔になっていた。

ちゅうすけ注】俸禄とは別の手当の1人扶持は、1日に玄米5合である。したがって、与力の10人扶持は玄米5升---1ヶ月では1斗5升。
搗(つ)きべりを20パーセントとみても手取り1斗2升。
1升を100文とすると、月に1200文=ほぼ1分1朱。
1両を16万円に換算すると5万万円前後。
同心は30パーセントであるから、1万5000円前後の特別職務手当であった。
平蔵の時代には、この手当は増額されていたような記録もある。

「益なきことを申しのべ、失礼いたしました」
謝った平蔵に、
「これより、深川あたりの巡察に参る。吉田、馬の用意をいいつけよ。長谷川うじの分もだぞ。脇屋は供をいたせ。そうだ、(たち)朔蔵(さくぞう 37歳)が詰所におったら、供をいいつけよ。同心は無用」

奇妙な構成であったが、4騎と口取り、そして小者3人が永代橋をわたった。
大川からの微風には、春の匂いがふくまれているようであった。

仙台堀に架かる海辺橋で馬を降り、口とりと小者たちを帰し、あとは徒歩で着いたのは深川・冬木町寺裏の茶寮〔季四〕であった。

突然の来訪にもかかわらず、女将・里貴(りき 37歳)の応接は予定していたかのように沈着なものであった。
組頭がこっそり遣いを送っていたのかと平蔵は推察したが、あとで里貴にたしかめたら、そうではなかった。

そうであろう、 組頭は、組の小者たちにも〔季四〕での会合が洩れないように、海辺f橋であの者たちを帰していた。

とりあえず、茶を運んできた里貴に、平蔵が、
「打ちあわせを終えるまで、余人を近づけるでない」

承知した里貴が去ると、
長谷川うじ、読心なさったか?」
組頭が微笑した。

「機(はかりごと)密なりるをもってよしとする---迂闊(うかつ)でありました」

「いや、土竜(もくら)叩きをすすめていくと、先任の土屋駿河守 守直 ものなお 48歳 1000石 大坂町奉行)どの、故・菅沼和泉 定亨 さだゆき 享年49歳 堺奉行 2025石)どのはおろか、赤井越前守 忠晶 ただあきら 45歳 京都町奉行 1,400石)どのにまで類がおよびかねないことも恐れた」

それから贄 元寿は、鉄砲隊三段連射でしられている長篠(ながしの)での織田・徳川連合軍と武田勝頼の大軍との戦いにおける、信長の叱声の故事を話した。

「あの戦いでは、織田・徳川軍が三重の木柵の内側に鉄砲隊が待っているところへ、武田の騎馬隊が寄せてき、連射を浴びて大敗を喫したと語りつたえられておる。それはそれで正しいが、騎馬隊が寄せざるえなかった遠因をつくったのは、酒井左兵衛督忠次(ただつぐ 49歳)が武田軍の後方の鳶巣山頂の砦を奪取してしまえば、彼らは馬防ぎの柵へ寄せてきましょうと建策なされた。
「これに対して、信長公は烈火のごとくにお怒りになり、徳川どのの智謀といわれておる忠次ともあろう武将がそのような愚案しかだせないとは--とお叱りになった。兵衛督忠次どのは赤面しておさがりになったところ、すぐに右府(信長)どのからの使者がき、配下をしたがえてこっそり伺候せよとのこと。入幕した酒井どのに、先刻の言は計略が洩れるのをはばかってのこと、許せ。あれは上策である。しかし、だれがなせるや? もちろん、忠次どのが自らお引きうけになり、大権現さまは、本多忠勝など3000余の将兵を副えられ、ことは成った」

「では、土竜叩きの案は---?」
「『孫子』にいう。人の及ばざるに乗(じょう)ぜよ、と」
「かたじけのうございます」
「あとは、蝋たけた美女の酌を楽しむのみ。はっ、ははは」

参照】2010年12月4日~[先手弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] (1) () () () () () () () 
2011年1月25日~[平蔵の土竜(もぐら)叩き] () () () () () () () () ()  (10) (11) (12) (13

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2011.01.27

平蔵の土竜(もぐら)叩き(3)

土屋帯刀守直 もりなお 48歳=現在 1000石)組からきた6人の身状があれば、書き写しておいてください」
平蔵(へいぞう 36歳)の注文に、吉田藤七(とうしち 40歳)が、筆頭与力の脇屋清助(きよよし 53歳)の表情をうかがったうえで承知した。

「6人の中で、酒が好きなのは---?」
「みんな好きなようですが、とくによく呑んでいるのは茂助(もすけ 45歳)と喜(きはち 24歳)でしょうか」

喜八は24歳というと、土屋組での牢番がふりだしのようだが---?」
「お察しのとおりです。ほて振りの魚売りをしていたのですが、19のときに酒の上で喧嘩をし、足の骨を折られ、行商ができなくなったので、土屋さまのところで牢番に雇われたのだそうです」

「すると、45歳の茂助は、土屋さまの前任の菅沼藤十郎定亨 さだゆき 享年=49歳 2025石)さまのときから---?」

先手・弓の2番手---すなわち、脇屋筆頭与力や吉田同心が組下であった菅沼定亨が火盗改メのときには、一族の藤次郎(13歳=当時)と召使い頭・お佐和=32歳)の色事で迷惑をかけたことがあった。
吉田同心はともかく、脇屋与力は相談にあずかったろう。

参照】2010年7月21日~[藤次郎の初体験] () () () () () (

対岸の火事は大きいほど、人の色事はもめるほどおもしろい---というが、いまはそんなことにかかずらわっている場合ではない。

「さようではありませぬ。菅沼さまのところへは、前任の赤井越前守忠晶 ただあきら 48歳=現在 1400石 京都町奉行)さまから引き継ぎました」
「牢番の主(ぬし)みたいな男だな。しかし、赤井さまのところからきたときには38歳だから、その前の嶋田弾正政弥(まさはる 45歳=現在 新番頭)さまのところで雇われたとしても、35歳。その前がありそうな---」
「調べてみます」

そこへ、組頭の(にえ) 越前守正寿(まさとし 41歳)が顔をだし、
「なにか、おもしろそうな相談か?」
「いえ。土竜(もぐら)叩きの下相談でございます」
平蔵が応えた。

「土竜叩き---? 土竜とは、地中を這っているもくらのことか?」

参照】2010年1月25日~[平蔵の土竜(もぐら)叩き] () () () () () () () () ()  (10) (11) (12) (13

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2011.01.26

平蔵の土竜(もぐら)叩き(2)

「牢番ですか?」
筆頭与力の脇屋清助(きよよし 53歳)が訊き返した。
平蔵(へいぞう 36歳)の来訪の狙いの真意をはかりかねていたが、まさか、牢番の人数が話題とは予想もしていなかった。

「仮牢が男女一つずつあるので、8人が交替で詰めています」
「8人のうち、前任の土屋帯刀守直 もりなお 48歳)さまのところから引き継がれたのは?」
「さて---と、担当の同心・吉田藤七(とうしち 40歳)を呼びましょう」

吉田同心は、小柄で、はやくも頭髪が薄くなりはじめた貧相な風体であったが、仕事まわりのことには精通していた。
土屋さまのところからゆずり受けましたのは6人でございます」

ちゅうすけ注】吉田藤七同心につしては聖典巻15 p210 新装版p218を。そう、木村忠吾の舅になった仁である

土屋帯刀守直が、使番から安永5年(1776)12月12日に先手・弓の2番の組頭に発令され、2日後には火盗改メの辞令とともに組替えも命じられた理由(わけ)はすでに推察している。

参照】2010年8月2日~[先手・弓の2番手組頭の謎] () (

火盗改メに本役、助役(すけやく)、増役(ましやく)があることは、このブログの読み手であれば、もう、すっかりご承知であろう。
助役は、火災の多い晩秋から冬場、そして晩春までが任期であった。
対する本役は、季節をとわず、年中任務についていた。

したがって、本役の交替は、切り目なしであった。

いま、平蔵が訪れている役宅の主・(にえ) 越前守正寿(まさとし 41歳 300俵)も、土屋から本役を引き継いでいた。

火盗改メ・本役の任期は、1年から2年としたもので、長くても3年で、贄(にえ) 正寿のあしかけ5年、長谷川平蔵の8年は異例中の異例である。
この2人の任期が長すぎた理由(わけ)ここでは述べず、別の機会に書く.。

本役から本役へ引き継がれるのは任務だけではない。
任務を遂行していくための諸施設---仮牢、捕物道具、拷問用具などのほかに、牢番といった、ふつうの先手組頭であれば必要としないものもあった。

任務が終われば邪魔になるだけであるから、後任者へいくばくかの金銭でゆずられた。
したがって、仮牢とか道具部屋は組み立て・分解式になっていた。

平蔵が、牢番の人数を訊いたのも、これで納得いただけたとおもう。

そう、火盗改メの内情をうさぎ人(にん きき耳屋)へ売る者としてもいちばん先に疑っていいのは、組み立て式の仮牢とともに本役から本役へと引き継がれる牢番なのである。

盗賊側としても、一度口をかけてかかわりをつけておけば、次の火盗改メの屋敷へ移っても、そのまま用が達せられる。

平蔵がゆずられ牢番に目をつけたのは、18年前に、火盗改メ本役をしていた本多采女紀品(のりただ 49歳\=当時)の表六番町の屋敷で、そういったしくみを見学していたからであった。

参照】2008年2月18日[本多采女紀品(のりただ)(] (


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(贄越前守正寿の個人譜)


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2_360_2
(土屋帯刀守直個人譜)


参照】2010年1月25日~[平蔵の土竜(もぐら)叩き] () () () () () () () () ()  (10) (11) (12) (13


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2011.01.25

平蔵の土竜(もぐら)叩き

「与頭(くみがしら)さまがお召しです」
同朋(どうぼう 茶坊主)に告げられた。

控え部屋へいくと、牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 61歳 800俵)が、前歯が3本ほどかけた不明瞭な声で、用意した通行証を手わたしながら、俎板(まないた)橋西詰の(にえ) 越前守正寿 まさとし 41歳)の役宅へ出向くように命じ、
長谷川は、書院番士よりも、火盗改メの組下のほうが向いておるようだな」
苦笑した。
平蔵(へいぞう 36歳)から贄組に、そう働きかけたことを読みきっていたからであろう。

すぐに笑顔に戻し、つけくわえた。
「3の組の与頭・内藤左七尚庸 なおつね 71歳  465石)どのが、〔季四〕がたいそうお気に入りでの、また参ろうとせっつかれておる」

昨冬、西丸の書院番の4与頭が里貴(りき 37歳)のもてなしをうけた。
牟礼与頭は6年前から里貴の才覚と愛嬌を買っていたが、先任の内藤尚庸のめがねにもかない、ご満悦らしかった。

参照】2010年12月18日[医師・多紀(たき)元簡(もとやす)] (

里貴が紀州・貴志村から戻ってきてくれ、おれはずいぶんと得点している)
役人として、こころきいたもてなし場をもっていることは、上下左右への評価があがる。

そのことでは、里貴を引きあわせてくれた本城・小姓組の夏目藤四郎信栄(のぶひさ 30歳 300俵)に感謝しないといけない。

参照】2009年12月20日~[夏目藤四郎信栄(のぶひさ)] () () (
2009年12月25日~[茶寮〔貴志〕のお里貴(りき)] () ( () () (
2010118[三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇] () (

西丸から贄邸へまわるときのいつもの順路にしたがい、桜田濠、半蔵濠、千鳥ヶ渕とたどった。

いつもと異なったのは、千鳥ヶ渕で土手の小さな土盛りから、鼠のような小動物がこちらをうかがったことであった。
「土竜(もぐら)だな」

それでひらめいた。
(土竜叩き---と名づけよう)

このあいだから平蔵が思念していたのは、盗人たちがはりめぐらせている連絡(つなぎ)の網の緻密さであった。
相手方は、この構築と活用のために、合算すると膨大な金を投じているにちがいない。

江戸で犯行(つとめ)をほとんどしない〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 62歳)ですら、江戸に直(じか)うさぎ3人、独りうさぎ7人も置いているといったではないか。
蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ 60歳)だって同じであろう。

(それに対抗する資金は、俸禄わずか400石のおれに出せるはずがない。
〔化粧(けわい)読みうり〕の板元料の分け前は、ほとんど社交費に費消してしまっている。人手にいたっては、まわせる手などないにひとしい)

あてにできるのは、火盗改メ・贄 越前守正寿が使える公金と人手しかない。
その交渉に向かっている。

(あのご仁なら、きっと話にのってくださろう)

参照】2010年12月4日~[先手弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] () () () () () () () () 
2010年1月25日~[平蔵の土竜(もぐら)叩き] () () () () () () () () ()  (10) (11) (12) (13

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2011.01.24

〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵(3)

書院で、長谷川平蔵(へいぞう 36歳)は沈思していた。
机上には『孫子』のある丁(見開きページ)が小半刻(30分)もそのままになっていた。
開かれたままの丁は、冒頭の[計篇]の、

_100兵とは詭道(きどう)なり。故(ゆえ)に能(のう)なるも之(こ)れに不能を視(しめ)し、用(よう)なるも之れを不用視し、近きも之れに遠きに視し、遠きも之れに近きを視(しめ)す。

戦争とは、敵をきれいにだましきる行いである。体制が整っていても整っていないようにおもわせ、訓練ができていても未熟な状態のように見せかけ、目的地の近くまできていてもはるかに離れているように装い、遠くにあってもすぐ近くまできているようにあざむくのである。

(お(りょう 享年33歳)の口ぐせの一つをお(かつ 40歳)は、(手がかりをのこさない)であったとおぼえていた。

(手がかりをのこさない)ことの第一は、その仕事(つとめ)が〔蓑火(みのひ)〕一味、あるいは〔狐火(きつねび)〕一統のものと疑われないことであろう。

ところが、全部にはほど遠かろうが、4件ほど、平蔵は〔蓑火〕の仕事と見破って邪魔をした。

第1の邪魔は、成り行きでそうなってしまった、向島の料亭〔平岩〕であった。

参照】2008年10月15日[お勝(かつ)というおんな] (
2008年10月19日[〔橘屋〕のお雪] (3

第2と第3は、〔尻毛しりげ〕の長助〕が発端であった。
もっとも、〔伊庭(いば)〕の紋蔵もんぞう)事件は、盗賊〔蓑火〕と香具師(やし)の〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう 享年62歳)との鞘当てを回避させただけてだあったが。

参照】2008年10月31日[〔伊庭(いば)〕の紋蔵]
2010年4月26日~[〔蓑火(みのひ)のお頭] () (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16

4番目の邪魔は、第3件目のおまけのようなかたちで解決したばかりか、〔蓑火〕一族は、〔殿とのさま栄五郎(えいごろう )という至宝を失うことにまでなった。

参照】2010年6月27日~[〔草加屋〕の女中頭助役(すけやく)・お粂] () () () (

もちろん、第3と第4の事件は、〔中畑〕のおが〔蓑火〕一統の軍者(ぐんしゃ 軍師)の任を解かれ、放出するように〔狐火〕の勇五郎(ゆうごろう 48歳=当時)へ渡された。

それにしても、〔蓑火〕の喜之助ほどの大盗人が、毛むくじゃらのせいでひと目で〔尻毛〕の長助とわかる男を連絡(つなぎ)役に使ったのはおかしい。

もちろん平蔵は、日本橋通りの両替為替商〔門(かど)屋を狙う案を立てたのが〔蓑火〕の小頭の一人であった〔五井ごい)〕の亀吉(かめきち 40代)と〔殿さま栄五郎であったとはしるよしもない。

記憶を反芻していた平蔵は、〔狐火〕の勇五郎と14年も前に交わした〔うさぎ人(にん)〕にまつわる会話をおもいだした。
〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち 52歳=当時)はこういわなかったか。
江戸だけで、
「〔直(じき)うさぎ〕が3人、ほかに7人の〔独りうさぎ〕と内々の約定をむすんでおります」
さらに、古府中(甲府)は〔初鹿野はじかの)〕の音松(おとまつ 40代)の領分だと。

参照】2008年10月23火[] () (

盗人世界の大物小者の頭(あたま)が江戸へ配っている〔直うさぎ〕の数だけでも20人はくだるまい。
〔独りうさぎ〕は50人はいるとみてよかろう。
しかも彼らは耳にした風評を相互交換しあっていよう。
火盗改メの小者の中にも、〔うさぎ〕に買収されているのがいないともかぎらない。

まずは、身内のそ奴たちをどうやって見つけ、掃除するか。

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2011.01.23

〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵(2)

「お(りょう)姉さんの口ぐせ---? (手がかりをのこさない)かなあ。それとも、(1000両あったら600両盗ればよしとする)だったかなあ」
(かつ 40歳)が口ごもりながら、おもいだしていた。

は33歳の秋、大津の近くの琵琶湖で溺死した。

平蔵(へいぞう 36歳)が盃を満たしてやった。
浮世小路の蒲焼〔大坂屋〕の2階であった。

白焼きをつまみながら、干した。
こんどはおが、平蔵に注いでから、平蔵の手をさえぎり、手酌した。

「なるほど、(手がかりをのこさない)か---盗人(つとめにん)側に当日も後日も損傷を一人もださない策を講じるということだな。『孫子』でいう、(国を全うするを上とする)の盗賊(つとめ)版というわけだ」
「(国を全うする)って?」
「接している国に対しては常に優位に立ち、こちらに側にどのような損害もださない、とでもいえばいいのかな。ところでおは、〔大滝おおたき)〕の五郎蔵(ごろぞう 43歳)という小頭をしっておるか?」
「わたしはもっぱら引きこみ役で、お盗(つとめ)のときには内側から錠をあけて手引きをすだけでしたからお姿は見たことはありますが、口をきいたことはありません」

平蔵がうなずいたとき、仕事を終えたお乃j舞(のぶ 22歳)があがってきた。
平蔵が酒をすすめると、首をふった。
「そうだった、お乃j舞はやらなかったな」

父親が酒場で知りあったおんなを後妻にし、14歳のお乃舞と11歳の妹・お(さき)が島原あたりへ売られるところを、京都西町奉行所の与力・浦部源六郎(げんろくろう 51歳)の配下同心・長山彦太郎(ひこたろう 30歳)の口添えがあり、家を出られた。

参照】2009年9月26日~[お勝の恋人] () () (
2009年10月26日[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく)] (8

父親の酒ぐせの悪さを見ていたので、お乃舞は一滴も口にしなかった。

「それでは、ここで、夕餉をすますか?」
「今日のここの勘定は、わたしが持ちます」
「まかした。お乃舞、下で注文し、ついでに新しい銚子をもらってきてくれ」

乃舞が下へ降りたのを見すまし、
「〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ 59歳)の口ぐせは? お乃舞には聞かせたくないであろうから、親類の爺ぃさんの言葉のようにして話せ」

乃舞が新しい酒を平蔵とおに注ぎ、そのまま、おの横の座った。

「親戚の喜之爺ぃさんには、3年に一度ほどしか顔をあわせませんでしたが、図面が好きで、訪ねると、いつも、特別あつらえの眼鏡をかけても何かしらの図面を眺めていました」
「ほう、図面爺ぃさんであったか。おもしろい爺ぃさんだったのだな」
うなずき、あとは世間話にきりかえた。

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2011.01.22

〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵(1)

「お申し越しの儀、興趣が湧きましたが、熟慮の末、あ会いしないですますほうが、双方にとって護身になろうかと---」
くせの強い筆跡の返書の大意はそういうことであった。
大滝おおたき)〕の五郎蔵(ごろぞう 43歳)から平蔵(へいぞう 36歳)あてのものである。

平蔵からの、(一度、話しあいたい)と書きおくった、中山道・浦和宿の商人旅籠〔藤や〕気付けの飛脚便が熊谷宿・〔富士見屋〕へ転送され、江戸のどこかの盗人宿にひそんでいる五郎蔵の手にわたったらしい。

転送の手順をみても、〔蓑火みのひ)〕一味の機能が並みのものではないことを、平蔵は読みとった。

参照】2010年7月19日~[〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵からの書状] () (

最初に浦和宿の商人旅籠〔藤や〕気付けにしたのは、お(のぶ 28歳=当時)が情人(いろ)の〔戸田とだ)〕の房五郎(ふさごろう 34歳=当時)と遊びにいったことを、旅荘〔甲斐山〕での出事(でごと 交合)を終えたあとに告げたからであった。

銕三郎(てつさぶろう)時代に、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 享年33歳)から、〔蓑火〕の喜之助(きのすけ 享年67歳)が、中山道の商人旅籠を買いつないでいたことを聞かされていたから、日信尼の話をやすやすと信じた。

参照】2006,年2月16日[〔駒屋(こまや)〕の万吉]

このほかにも、生前の日俊老尼(にっしんろうに 享年74歳) と、毎夜のように添い寝をしていたことも告白した。
老尼は、
「比丘(びく 男僧)と睦んではならぬ。抜きさしならなくなる。比丘尼同士がこうして肌と肌をあわせながら邪欲を霧消させ、気を鎮めておるだけなら、破戒にはならない」
老尼はいいわけどおりに満足であったろうが、大年増の日信尼の躰のほてりは鎮まるはずがなく、おき火の始末に苦しんだと。

「老尼の滅寂(めつじゃく)後はどうしておる?」
日信尼は、嫣然と微笑んで応えなかった。

ちゅうすけ注】その日から10数年後、密貞おまさが〔荒神(こうじん)〕のおなつ 26歳)とおぼしい者に誘拐されたとき、平蔵(50歳)は、お日俊老尼との夜の営みをもっと身をいれて訊いておくのだったと、ひそかに悔やんだ。

五郎蔵が会見を拒んだとなると、あっちがどれほどにこちらの風聞を手持ちしているか、しりえない。
元日から3日目の五ッ半(午前9時)に、牛込築土下の牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 61歳)邸へ年詞へうかがうのはここ数年来のしきたりだが、牟礼家の門番あたりを居酒屋へ連れだして呑ませれば訊けようが、それを歳末から2,3日のうちにやってのけているところに、底しれない組織力を感じた。

いまの幕府のだれきっている役人では、そう、手早くはやれなかったろうし、気くばりもできまい。

五井ごい)〕の亀吉(かめきち 33歳)の女房(いち 38歳)に年越し金をとどけてやったことを2日もしないで耳にいれているということは、深川・島田町の衣知の家にも看察の糸が張られているということだ。

(こういうときにお(りょう 享年33歳)が生きていたら、ある程度は糸の張り方を訊けるのだが---)
ひらめいた。
(〔蓑火〕一味にいたことのあるお(かつ 40歳)がいたではないか)

参照】2008年11月15日~[宣雄の同僚・先手組頭] () () (

には、おほどの計略や策謀の才はないが、観察力はあった。

を浮世小路の蒲焼〔大坂屋〕へ呼び出した。

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2011.01.21

日信尼の煩悩

深川の霊巌寺門前町は、海辺橋(うみべばし)と高橋(たかばし)を南北にむすぶ通りの中間あたりにある「く」の字形のささやかな区画であった。
浄土宗の大壇林・霊巌寺と身延山の弘通所(ぐつうしょ)・浄心寺にのしかかられたように身をちぢめている町屋ともいえる。

一月の某日の夕暮れに、その門前町の茶店で、長谷川平蔵(へいぞう 36歳)が中年の尼僧と、ささやくように話しこんでいた。

顔の半分を尼頭巾で覆っている尼僧はいうまでもなく、浄心寺の塔頭の一つ・浄泉尼庵で仏に仕えている日信尼(にっしんに 40歳)である。

2人の席からずっと離れたところに、松造(よしぞう 30歳)が、平蔵の影のようにひかえてはいたが、2人とはかかわりがないみたいに、あらぬ方を眺めて茶をすすっていた。

「お(のぶ)---これは失礼、日信尼どの。落飾前の古い話をもちだしてすまないが、〔戸田とだ)〕の房五郎(ふさごろう 刑死42歳)のことを教えてほしい」

参照】2010年9月8日[〔小浪〕のお信(のぶ)] (

が入信したのも、かつて房五郎とともにその一味にいた〔神崎かんざき)〕の伊之松(いのまつ 刑死52歳)らが上総(かずさ)の大多喜藩の刑場で処刑されたとき、捕縛を逃れた一味の報復を危惧し、平蔵が浄泉尼庵へ隠した。

「尼であるいまのわたしには、遠い昔のことです。記憶も薄れています。その房五郎さんのことをお訊きになるなど、ひどいお人」
「ひどいことは承知している。しかし、盗人の非道を許しておいては、世のためにならぬ」
房五郎さんは、この世の人ではないのですよ。仏さまの膝下にいっていらっしゃいます」

「じつは、先日、〔五井(ごい)〕の亀吉(かめきち 41歳)という上総(かずさ)の市原郡(いちはらこおり)生まれと称する男が〔三文(さんもん)茶亭〕へき、尼の居どころをお(くめ 40歳)に訊いた」
で、身延の尼寺へ入ったと応えたら、法名をしりたがったが、知らないと返事しておいた。

「もしかして、房五郎とのつながりで、亀吉と知り合ったのではないか」
質(ただ)すと、日信尼がうなずき、清澄な両目に涙をうかべた。

その亀吉が行方しれずになったので、残された女房が生計(たつき)に難儀していたので、知行地生まれのおんなでもあり、小金を用立てたら、〔大滝おおたき)〕の五郎蔵(ごろぞう 43歳)というならび頭(がしら)が返してきた。

日信尼が涙をぬぐった。

「わしのことを見張っているとしかおもえないのだ。それで、五郎蔵と腹を割って話しあいたい。あの者たちに連絡(つなぎ)をつけるにはどうすればいいのだ?」

「捕縛なさるのではないのですね?」
「父上はそうであったが、いつかも蔵前のあの家で申したとおり、わしは火盗改メではない」

参照】2010年9月9日〔小浪(こなみ)〕のお信(のぶ) (

(てつ)さま---」
日信尼が、俗世間で抱き合っていたときの呼び名を思いつめた声で口にした。
目もとにうっすら紅がさしていた。

平蔵(へいぞう 36歳)が瞶(みつめ)ると、目を伏せ、
松造(まつぞう)さんをお帰しくださいますか?」
「あれの名の呼び方は、いまでは、よしぞう(30歳)、お(くめ 40歳)の亭主で、2人の子持ちだ」
「おしあわせな、おさん。たしか、わたしと同(おな)い齢でしたね」
「尼僧は幾つになられたかの?」
「むかしもいまも、さまより4つ齢上でございますよ」
科(しな)をつくり、下から斜(はす)に見上げるように睨み、つぶやきを洩らした。

松造を帰すのは簡単だが---」
「場所を変え、〔大滝おおたき)〕の五郎蔵(ごろぞう 43歳)さんとの連絡(つなぎ)のつけ方をお教えしてさしあげます」

松造がむっつりしたまま、でていった。

「10歳も齢下のご亭主って、かわいいでしょうね」
「4歳しか違わなくて、悪かったな」
「齢より、相手です。さまには、会っただけで秘所の奥がしびれて熱くなってくるんですから---」

参照】2010年6月27日[〔草加屋〕の女中頭助役(すけやく)・お粂] () (


臆面もなく平蔵に寄り添うようにして霊巌寺の境内抜け、脇門から山本町の旅籠〔甲斐山〕にあがった。
「無造作に並んで歩いているから、誰も疑いません。びくびくするから発覚(ば)れて、噂になるのです」

〔甲斐山〕は、4年前の俗名・お(のぶ 36=当時)が身を隠すためにさげ(有髪)尼として浄心寺の塔頭の尼寺・浄泉庵で得度しながら、ここで平蔵との密会をしばらくつづけていた。
僧がおんな連れ、尼が男とともに部屋をとっても珍奇の目で迎えられない、江都でも数少ない旅荘の一つがここであった。

参照】2010年9月15日[〔下ノ池(しものいけ)〕の伊三] (

部屋へおちつくと日信尼は、すぐに平蔵の手をとり、甲をなつかしげになぜつづけながら、口を小さくあけ、ため息をもらしはじめた。

「4年前、仙台堀の河岸で、煩悩を鎮めるといいきったぞ」

参照】20101011[剃髪した日信尼

「鎮まらないから、こうして、ここへきたのです」

尼頭巾をむしりとり、唇をあわせようとしたとき、女中が酒と肴をもってき、さすがに控えた。
「どうぞ、ごゆっくり。風呂はいつでもお使いになれます」
「すぐに使わせておくれ」

「お。前もっていっておくが、わしは、4年前のではない。いま、ねんごろにしているおなごもいる」
「分かっております。でも、この1刻(とき)だけは、煩悩を断ち切れずに苦しんでいる哀れな尼を帰俗(きぞく)させてください」

せきたてて、浴衣と丹前に着替えた。

風呂場でも、躊躇しないで裸になった。

2人連れの客が多い旅荘なので、向いあって脚を半分交又させ、いっしょに浸かることができる長四角の板湯舟であった。

「3年も禁欲していたのです。長かった---」
足のつま先で平蔵のものに触れ、尼僧にしてはしたない、40歳の大年増に戻っていた。
(おんなというのは、変わり身が速い)
いや、おんなといいきってはいけない---経験をつんでいるおんなというべきかも。

腹をくくり、日信尼の足指のいたずらにまかせていた。

日俊(にっしゅん)老は、お達者か?」
「昨秋、入寂(にゅうじゃく)なされました」
「さぱけた老尼であったが---」
「とんでもございません。情欲の塊のような先師でした。その話は寝間でゆっくり---」  

平蔵のものが硬くなったのをたしかめ、顔を沈めて口にふくんだ。
髪がないからできた、思いきった愛技であった。

「すこし、肥(こ)えたな」
でん部をもんでやりながら、つぶやいた。

現実の浄心寺とは無縁の架空の話です。

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2011.01.20

贄(にえ) 家捜し(3)

静岡県菊川市牛窪の極楽寺は、維新以後---すなわち、徳川幕臣の駿・遠州への移住により、 (にえ)分家が菩提寺としたしたのであろう。

先日も記したが、贄 家の本家、分家について再度、まとめてみよう。

享保元年(1716)、将軍・家継(いえつぐ 享年8歳)の危篤の報に、急遽、赤坂の紀州藩邸からニノ丸入りした吉宗(よしむね 33歳)にしたがった小姓組・贄 主計頭(かずえのかみ)正直(まさなお 25歳)が、そのまま将軍付きの小姓組番士として幕臣となり、300石を給された本家。

同年、吉宗の嫡子として西丸入りした長福丸(ちょうふくまる 6歳)付きの善之丞正長(まさなが 42歳 200俵)は、分家の祖である。
そして、善之丞正長は、本家・主計頭正直のもっとも近い叔父にあたった。
また、この贄 分家の屋敷は、鉄砲洲築地であったから、同じ区画で5歳から19歳までをすごした銕三郎(てつさぶろう)は、贄 分家の三代目・掬五郎正栄(まさよし 銕三郎より10歳年長)と顔をあわせていたかもしれない。

安池欣一さんが、資料をあたり、まず、見つけたのが、この分家・善之丞正長の末・善次郎(ぜんじろう 39歳=明治4年 1871)であった。
資料は、小川恭一さんの労作『寛政譜以降旗本家百科事典』(東洋書林 1997)であった。

主なところを書き写す。

贄善次郎 
養祖父:贄 弥市郎    書院番
  養父:贄 善右衛門   小十人頭
実祖父::三田:助右衛門 大番
  実父::三田助右衛門 小普請組頭 
200俵
文久3(1863) 小姓組入
慶応2(1866) 勤仕並小普請
明治元(1868)精鋭隊取締
明治2(1869) 金谷原開墾御用取締
    6人扶持手当150両


_160『金谷郷土史資料 牧之原開拓士族名簿』(金谷郷土史研究会)も、上掲とほとんど同じ記載だが、どちらの記述が先かは、後日、安池さんに確認してみよう。

善次郎(のち正善 まさよし)が金谷原開墾御用取締を勤めたことからであろうか、分家の菩提寺は菊川市牛窪の極楽寺になった。

同寺の住職夫人への、安池さんの問いかけ、
贄 家は名家であり、牧之原(金谷之原の改称)開拓に従事した方で、そのことを本に書いた人もいるようですが、そのようなこと、ご存じではないですか?」

住職夫人の応え---。
さんは、今はこちらにお住いではなく、島田へ移転されています」

安池さんからの資料に、島田市のハロー・ページのコピーが同封されており、贄 姓が5件登録されていた。
贄 善次郎家の子孫の色が濃い。

善次郎の項の「精鋭隊」について、前田匡一郎さん『駿遠へ移住した 徳川家臣団 第ニ編』(発行は著者 1993)に、

幕末の動乱のころから慶喜の護衛を任務としていた精鋭隊の中条金之助(景昭)以下ニ百五十名は、引き続いて慶喜の身辺の警護と久能山東照宮の警衛の任務を与えられて、大部分は久能山の周辺に住んでいた。
精鋭隊は移住後に「新番組」し改称したが、血気盛んな攘夷派でいずれも刀槍の達人揃いの十七人のさむらいが結成したもので、移住してからはね目的が変わったが同志を増やして、徳川家再興の先兵たらんとの意気iに燃えていた。

中には、近所の住民といざこざをおこす者もあり、そういう物騒な連中は遠くへ隔てろとの重臣の意見もあり、牧之原の荒涼地の開墾がわりあてられたらしい。

隊長の中条景昭は明治二十九年(1896)に島田で歿して墓は種月院にあり(中略)、幹部級の贄 善次郎は明治三十年(1897)に歿して墓は菊川町の極楽寺---(後略)

探索は贄 本家からやや離れたが、大安寺とのつながりがあるかぎり、いつか、連絡(つなぎ)がつくのではないかと希望を捨ててはいない。


1_360
2_360
(贄 分家 善之丞正長の家譜 寛政10年まで)


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2011.01.19

贄(にえ) 家捜し (2)

_160コンクリート造りの本堂に付属している玄関脇のインタ-ホンで、
「アポをいただいている者です」
来意を告げた。

すぐに前住職夫人が招じてくださった。
背丈はそんなにないが、 ふくよかな面立ちの80歳前後の方。

用意してきた、贄 家の本家・分家と長谷川家の『寛政重修諸家譜』と旧著『江戸の中間管理職・長谷川平蔵』を進呈し、遊びの調査でないことを示した。

夫人のほうからは『泰嶽山大安寺誌』(1984制作)が差しだされた。
「10年もお参りがないと、無縁のほうへお移しするのですが、さまのはお残ししています。最後にお見えになったのは、30年以上も前でしたか、お父さまとお嬢さまのお2人で---お嬢さまはたしか、よし子とかとおっしゃったような---」

贄 夫人は療養中か他界されていたのかもしれない。

前住職夫人は、
「私が20代のころでした」
お嬢さまという言葉にまどわされたが、30年前ではなく、50年ほども前のことで、
「ご結婚なさったかどうか---」
疑問の言葉がつづいたから、贄 直系の本家は消えたのかもしれない。
しかし、子孫の住まいは東京か近郊であったふしもある。
また、支流がおられるかもしれない。

_360_3
(大安寺本堂 1961建立)

コンクリート造りの本堂ができたとき、墓も本堂左の建物群に収容したと。
風雨で墓標が退化したり、塔婆が風で騒ぐこともない。

供花を用意してお参りしたが、夫人が朝のうちに手くばりくださっていた。

_360_4

じつをいうと、供花は、安池欣一さんが送ってくださった、贄 分家の菊川市牛窪の墓標の写真を見、安池さんの気くばりに学んだのである。

_360_5
(菊川市牛窪 極楽寺の贄.分家の墓標3基 安池さん写す)


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2011.01.18

贄(にえ) 家捜し

火盗改メのお頭(かしら)としては長谷川平蔵の8人前、先手・弓の2番手の組頭としては3代前の、贄 安芸守正寿(まさとし 享年55歳 400石)のことを調べていることは、『個人譜』も掲げてすでに報じている。

参照】2010年12月4日~[先手・弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] () () () () () () () () 

安芸守正寿は、堺奉行として在職のまま任地で没し、同地の南宗寺(堺市堺区南旅籠町東3-1-2)に葬られたが、墓は空襲で焼失したと同寺の住職から聞きだしたところで、探索が停止してしまっていた。

贄 家は、維新のときに駿河へ移住したにちがいないと見当をつけ、SBS学苑(静岡JR駅ビル)の[鬼平]の1月9日のクラスでも、贄 姓の知人捜しを、再び依頼しておいた。

数日前に、クラスの安池欣一さんから大きな封筒がとどいた。
あけて、驚嘆・狂喜---贄 家の分家の探索史料が、きちんと整理されていたのである。

まず敬服したのは、ぼくがうっかり見のがしていた、贄 家本家・分家の菩提寺をおあたりになっていたこと。
菩提寺は、大安寺(港区西麻布2丁目)。

安芸守正寿の葬地と『寛政譜』に記されている南宗寺にばかり注意が向いてい、菩提寺を手ぬかっていたが、安池さんは、そこから手をつけていた。

じつは、大安寺は、わが家の壇那寺の隣地にある。
資料によると、この寺は永平寺系の曹洞宗とのこと。
永平寺の別院---長谷寺(ちょうこくじ 港区西麻布2)の北にあることの納得がいった。

_360
(近江屋板切絵図 緑○=大安寺 赤○=長谷寺)

257_360
(渋谷長谷寺 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

わが家の壇那寺である隣の寺は、切絵図の時代には廃寺であったらしく切絵図には収録されていないが、現在は中興し、長谷寺のれっきとした支院である。

支院の住職に教えられた。
大安寺は、その長谷寺の兄弟寺で、赤坂一ッ木に開基(元和元年 1622)、類焼により、文政8年(1825)に長谷寺の寺域の一部が割かれ、現在地へ移ったと。

いや、待て---大安寺という山号には針先でついたほどのかすかな記憶があった。
聖典『鬼平犯科帳』の、リスト化している寺社データベースを検索してみた。
ヒットした。

文庫巻5[兇賊]。p186 新装版p195、
青山通りで表向きには飯屋をやっている独りばたらきの〔板尻いたじり)〕の吉右衛門の店で、〔鷺原さぎはら)〕の九平(くへえ)が倶利伽羅峠で目にした曲者を見かけて尾行(つけ)た。

_360_2
(青山通りに面している梅窓院 池波さん愛用の近江屋板)

男は、通りの向うの梅窓院(ばいそういん)という大きな寺院の脇道(わきみち)を南へぬけた。
突き当たりは青山侯の下屋敷で、その塀沿いにながれている小川に添って、男は、まっすぐに南へ行く。
さびしい畑道となった。
このあたりは土地の起伏が多い。雑木林の向うに、日中なら大安寺の大屋根がのぞまれようという丘の上の百姓家に、男は入っていった。

252_360
(梅窓院は泰平観音堂が有名。池波さんは左手の屋根を大安寺のものとみたのかもしれないが、梅窓院の虚空蔵堂ではなかろうか。鬼平のころの大安寺はかなり離れた赤坂一ッ木にあった)

いまは、些事にこだわっているときではない。

時は天明の大飢饉がはじまろうかという時期でもあったが、ちょっとさかのぼる。

贄 本家は、吉宗にしたがって江戸城入りしていたが、贄 分家は、吉宗の赤坂の紀州藩屋敷で生まれた長子・長福丸(6歳=享保元年)付として西丸入りした善之丞正長(まさなが 42歳=同 200俵)が祖であった。

延享4年(1747)に73歳で歿した正長も、本家の菩提寺・大安寺に葬られた。

贄 一族で最初に大安寺に葬られたのは、小姓として吉宗にしたがって二ノ丸入りした本家の弥次右衛門正直(まさなお 300石)で、享保3年'(1718)に28歳という若さで逝った。
家を継いだのは、次弟・正周(まさちか)で、安芸守正寿(まさとし)の実父である。

維新のときに本家・分家とも静岡へ強制移住させられてからの子孫の記録を、安池さんが追跡したのである。

安池さんが大安寺へ電話で問い合わせたところ、墓は残っているが遺族の参詣はないとのことであったと。

墓が残っているのであれば、香華を手向けないわけにはいかない。、
参詣者が絶えているために花立てもなくなっているのでは---と案じながら、花屋へ走った。

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2011.01.17

今助(いますけ)・小浪(こなみ)夫婦(3)

「ねえ。千浪(ちなみ 42歳)さん、すこし肥(こえ)気味でしょ?」
「裸も拝んだことはないし、抱いたこともないから---しらない」
里貴(りき 37歳)は、さらに両脚をしめ、腰をうかせぎみによせた。
そうしないではいられなくなってきたのだ。

「脚を、あげ、足首を交差、できる、の、かしら?」
言葉が、とぎれはじめた。

7.腰が自然に動くのは、もっと深く入れて、もっと膣のあちこちを突いたり、こすってほしいからです。

「うっ---すっごく、いい---いい」
「こうは---??」

全身、淡かった桜色が濃くなってきていた。

躰を反らせる。

8.躰を反らせ、あげてくるのは、最高潮に達しはじめたしるしです。

「あっ---死ぬ---」
「---桜色がきれいだ---」
「---死ぬ---死ぬ、しぬ---真っ白---頭の中---」

「---ふう---」

9.躰中から力が失せ、手足をどろんと放り投げだしたままなのは、余韻をかみしめているしるし。

10.ようやく正気に戻り、仰向けのまま腕をのばして枕元のはさみ紙をさぐり、接合部にあて、愛液まみれの男のものをぬぐうと、それを自分の股にはさんで、しばらく、頂上までのすべてをおもい返している。

(てつ)さま。すばらしい姫始め、うれしゅうございます」
「『房内篇』どおりであったな」

しばらく、指で遊んでいた平蔵が、
「しまった」
里貴の秘所から引いた。

「どうか、なさいましたか?」
千浪に、〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵(ごろぞう 43歳)への連絡(つなぎ)先を訊いておくのを忘れた」
「もう、お仕事ですか?」
「む---」

里貴の下腹を掌でゆっくりとなぜることで、返事に代えた。
里貴が横向きになり、左腕で平蔵を抱いた。


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2011.01.16

今助(いますけ)・小浪(こなみ)夫婦(2)

「手放しにしといたら、どこで種をおとしてきょるか、わからしまへん。せやから、毎晩、しぼりとってますねん」
千浪(ちなみ 42歳)が盃を干し、上唇を舌でなめた。
すかさず里貴(りき 37歳)が満たしてやる。

今助(いますけ)元締さんとは、お幾つちがいでした?」
「8つ」
「それでは、毎晩でもつづきますでしょ?」
「おほ、ほほほ、そないでもおへん。ときどき、かんにんして---ゆわれてますえ」

冬木町寺裏の茶寮〔季四〕の座敷であった。

正月なので、午後と夕べの客はとっていない。
近くの長屋に住む、亭主は包丁人見習い、女房は座敷女中の若夫婦が居残って配膳したり、酒を運んでいた。
千浪はぬかりなく、2人に過分のこころづけを渡した。

「おこころづかいなんて---」
里貴が謝絶したが、
「お年玉がわりどすえ」
千浪のほうが世なれていた。

「毎晩のおねだりの口実は---?」
「子ぅがほし---いうことにしてますんえ。ほんまは、いまさら子ぅなんか、しんどおす。うちの躰がほしいいうとるだけどす」

味醂にひたした干し柿なますを口に入れ、
「ええお味や。うちの板場にもいうてやろ」
盃でうるおした。
先刻から半刻(1時間)のうちに、徳利を2本、ほとんど空けていてた。

里貴が女中を、隣の船宿〔黒舟〕の舟の予約に行かせた。

里貴はんとこは、月に何度どす?」
「そんなふうに数えたことはないし、あちらのご都合次第ですから---」
「よう、辛抱してはりますなあ」
「そのときに、しっかり堪能していますから---」

そや---と横の包みから小冊子をとりだし、
「うちのシマでこないなもん、、売ってましてん」

房内篇 第九章 おんなの十の悶(もだ)えのしぐさ

手にとり開くと、

1.相手の裸の男を、裸のおんなが両手で抱きしめようとするのは、硬直している陽棒を、おのれの玉門にあてがってほいと望んでいる。

2.おんなが太腿(ふともも)をひらいてのばすのは、その根元の陰核や下の大陰唇をいじってほしいと望んでいる。

3.下腹をふくらましたら、陽棒を、いま、浅く挿入してほしいと望んでいる。

千浪と眸(め)と瞳(め)を見あい、微笑みをかわしたとき、玄関に今助(34歳)と平蔵(へいぞう 36歳)の気配がした。

あわてて小冊子を胸元へ押しこみ、案内に立つ里貴に、指を唇にあてた千浪が首をふった。
うなづくと、安心したようにも盃に手にした。

「新年そうそうに、ご厄介をおかけいたしやした」
謝る今助に、
「おんな同士、あけすけにおしゃべりでき、楽しゅうございました。黒舟をご用意しております」


藤ノ棚へ戻ると、ばあやのお(くら 59歳)が、数の子と紅白のかまぽこを配膳して消えるところであった。
平蔵がすばやく祝儀を懐紙に包み、
「今年もよろしく、な---」

2人だけになると、里貴が正座し、両手をつき、
「おめでとうございます。本年もあいかわりませず---」
平蔵も膝を正して受け、
「いたらぬ者なれど、よろしゅうに---」
笑いあって、酒になった。

隣りで部屋着に着替え、
「明るいけれど、寝衣にしましょうか?」
「真昼の姫始めも悪くなかろう」


千浪さんたち、毎晩ですって?」
千浪はあの齢で、子づくりを望んでいるらしいな」

狙いはそうではなさそうだと、千浪の真実(まこと)を暴露(ばら)そうとしたが、自分の本心も、できれば平蔵の子を待っていることにおもいいたり、そのまま、黙した。

4.おんながお尻を動かすのは、気分が高まり、躰のすみずみまでいい気持ちになっている証拠です。

「なんだって---?」
上の平蔵が訊いた。
下の里貴が、
「ほら、よくてよくて、止まらないのです。『房内篇 第九章 おんなの十の悶(もだ)えしぐさ』です」

「おいおい---」
千浪さんからいただきました」

5.おんなが下からあげた両脚で男の躰を抱くのは、もっと深く入れてほしいという合図です。

「ふむ」

6..あげて男の胴を抱いた両脚の足首を男の背中で交差させるのは、玉門の中がむず痒(かゆ)いほど快感に痺れていることを伝えるしぐさです。

「10まであるといったな」
「う、ふん---」
その7.は---?」
「こう---あ---あっ」
「む---」


ちゅうすけ注】『医心方』ついては槇 佐知子さん訳の筑摩書房版を参考にさせていただきました。


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2011.01.15

今助(いますけ)・小浪(こなみ)夫婦

平蔵(へいぞう 36歳)の年詞まわりが一段落した非番の5日は在宅---出入りの親方や下職たちの祝辞をうけ、酒をふるまった。

そんな来客の中に、浅草・今戸一帯の香具師(やし)の元締・〔木賊(とくさ)〕一家を受け継いでいる今助(いますけ 34歳)と内儀で料亭〔銀波楼(ぎんぱろう)〕の女将・小浪(こなみ 42歳)がいた。

さすがの貫禄で、若い者(の)に持たせた角樽と焼き鯛を献じ、
「本年もよろしゅうに願いいたしやす」
「あがりの加減は、どうかな?」
「まあまあ、といったとこで---」
「それは、めでたい」

毎年くり返されるあいさつのあと、平蔵小浪へ、
「よいところへきてくれた。じつは、明日にでも遣いをつかわすこころづもりをしていたところだ」
「なんぞ、おきよりましたえ?」

2日前に与頭・牟礼(むれい)郷右衛門元孟(もとたけ 61歳 800俵)の屋敷の門前で、待ちかまえていた〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ 60歳)のところの者とおもえる中年で、身の丈6尺(1m80cm)はある大男から、〔五井ごい)の亀吉(かめきち 42歳)の内儀への1両(16万円)を返された、と話した。

「そら、〔大滝おおたき)〕の五郎蔵(ごろぞう 43歳)はんにきまってぇおす」
ちらっと亭主・今助へ視線をなげたうえでぬけぬけと、
「ええ、男はんでおましたやろ?」

「やはり、〔蓑火〕の一味の者であったか---」

千浪が掌を振り、2年前までは〔蓑火〕の小頭であったが、喜之助から許され、いまは〔五井〕のとならび頭(がしら)で独り立ち---、
「そや、ならび頭で独り立ち、いうたらおかしおす---一家を立てていやはります」

これから、冬木町寺裏の茶寮〔季四〕へ年賀にまわり、里貴(りき 37歳)女将と、熟れおんな同士、こころいくまでおしゃべりしてくるという小浪を送りだし、居残った今助に、
「そろそろ、後継ぎのことも手当てしておかないと、な」
千浪からは、毎晩のようにねだられておりやすが---これだけはなんとも---」
「毎晩か---今助どんもつらかろう---う、ふふふ」

長谷川さま、笑いことじゃござんせん。なんせ向うは42歳、躰のすみずみまで熟しきったといいやすか、悦楽の味をしゃぶりつくした老桜(うばざくら)なもんで、もういい、ということがなくて---」
「躰のすみずみまで熟させたのは、今助どんであろうが---」
「若いころは、それがうれしゅうて---」

「ま、千浪どのが唐(から)の国でいう好女(こうじょ)---好きおんなと書く、床(とこ)上手にはちがいなかろう?」

参照】2010年12月22日[医師・多紀(たき)元簡(もとやす)] (

「あのことが好きで好きで、とことんまでいかなきゃおさまらねえおんなであることは、まちがいありやせん」

「そのことはともかく、後継ぎのことも手当てだ」
平蔵が本筋へ戻した。
浅田剛ニ郎どののご子息は幾つになったかな?」
朔ニ郎(さくじろう)はあけて---12歳になりやす」
「仕込み甲斐がありそうだな」

参照】200余年4月17日~[一刀流杉浦派・仏頂(ぶつちょう)] () (
) () (

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2011.01.14

〔五井(ごい)〕の亀吉(6)

1ヶ月半ほど経った歳末に近いころ、松造(まつぞう改め よしぞう 29歳)が、〔五井(ごい)〕の亀吉(かめきち 41歳)の名を口にのせた。

「殿。例の〔五井〕のが、行方(いくかた)しれずになったそうで---」
「行方しれず、とはどういうことだ?」

「〔銀波楼〕の千浪(ちなみ 41歳)女将が、買い物ついでに〔三文(さんもん)茶亭〕へ立ちより、京都のお頭(かしら)から、亀吉の風聞を気にかけるようにと、連絡(つなぎ)がきたと、お(くめ 39歳)に洩らしたのです」

狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 60歳)からの便りによると、〔五井〕の亀吉はならび頭の〔大滝(おおたき)の五郎蔵(ごろぞう 42歳)と7名の配下を引きつれ---、

駿府城下の笠問屋〔川端屋彦兵衛〕方へ押し込み、三百ニ十余両(5120余万円)を盗んで逃走した。
蓑火(みのひ)の喜之助仕込みゆえか、これれまでに大滝の五郎蔵は、人ひとりも殺傷していない。
で------。
一味は、尾張・名古屋城下の〔どんでん屋〕という小さな旅籠(はたご)へあつまり、それぞれに金を分配し、一年後を約して散った。
ところが、そのとき以来、五井の亀吉は、
「行方知れず」
になってしまったのである。(巻4 [敵(かたき)])

深川に住んでいる女房・衣知(いち 37歳)が連絡(つなぎ)人を通じて〔蓑火みのひ)の喜之助(きのすけ 59歳)大お頭へ、亀吉がいいおいた日が10日も過ぎても戻らないと、訴えた。

〔蓑火〕は、すぐさま、盟友の〔狐火〕ほか、親しくしているあちこちの首領たちへ、報らせを頼んだ。
狐火〕は、江戸のうさぎ人(にん)・千浪へも耳をたてるようにといってよこした。

「ひと仕事(つとめ)のあとの息抜きをどこかでしているにしても、留守宅にしてみれば正月の支度もあろうから、のう」
おもいやった科白(せりふ)は吐いたものの、平蔵(へいぞう 35歳)はさほど気にはとめなかった。

亀吉の名を再び耳にしたのは、あと3日で元旦というときであった。

知行地のひとつ---上総(かずさ)の山辺郡(やまべこおり)片貝(かたがい)村(現・千葉県山武郡九十九里町片貝)の肝いり・幸兵衛(こうべえ 53歳)が例年のように魚の干物を献じにやってき、久栄(ひさえ 28歳)に、村から嫁いだ遠縁にあたるお衣知が東深川の島田町に住んでいるのでのぞいてみたが、亭主・亀吉が旅にでたまま戻ってこないので歳の瀬が越せないと嘆いているとこぼしたという。

平蔵は、用人・桑島友之助(とものすけ 48歳)に1両(16万円)包んでもたせた。
「殿。このような施しをなさっては---」
あきれ顔の用人へ、
「他言無用だぞ。とりわけ母上にはな。その者の叔母御(ご)と父上がわけありであったらしい。亡き父上からだといって渡してやれ」

参照】20101011[五井(ごい)〕の亀吉] () 

年が明け、安永10年(1781)となったが、4月13日には天明と改元された---。

年始まわり先のひとつ、西丸・書院番4の組の与(くみ 組)頭の牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 61歳 800俵)の門前で、6尺(1m80cm)はあろうかとおもわれる大男が、
長谷川さまでございますか?」
「いかにも、長谷川だが---?」
「お衣知へのお志、かたじけのうございました」
「知行地の出の者であっての」
「はい。しかし、向後はご放念くださいますよう」
紙包みを供の松蔵の掌へ載せた。

「頭領は〔蓑火〕とか、いったな---」
「あっ!」
「よろしく、な」

ちゅうすけ注】火盗改メ時代の平蔵は、死罪になった盗賊たちのために盆には、戒行寺で供養の法事を怠らなかったと史書に記録されているほど、慈悲深かった。

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2011.01.13

〔五井(ごい)〕の亀吉(5)

(〔五井(ごい)〕の亀吉(かめきち 41歳)は、おれの素性をしっていたのだった)
そのことにおもいいたったとき、平蔵(へいぞう 35歳)はハッとなった。

13年前、〔尻毛しりげ)〕の長助(ちょうすけ 24歳=当時 のち長右衛門)を尾行(つけ)させた久栄(ひさえ 16歳=当時)が、逆に茶店〔千浪(ちなみ)〕に連れこまれ、そこで亀吉に会った。

参照】2008年10月8日[〔尻毛(しりげ)〕の長右衛門] () (

亀吉は、亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)の青春時代のことをしっていた。
ということは、火盗改メ時代のことも承知していたはずである。
首領の〔蓑火(みのひ)〕の喜之助(きのすけ 59歳)がそのあたりの風評集めに手ぬかりをするはずがない。

(しかし、{蓑火〕一味の軍者(ぐんしゃ 軍師)格の一人---〔殿さま栄五郎(えいごろう 40すぎ=当時)を痛めつけたのがおれだったとは、気づいているはずはない。
武士なら、自分のぶざまな負け方を恥じ、死んでも他言はしないものだ)

あのときの峰打ちで、〔殿さま栄五郎が歩行もできない躰となり、そのまま逝ったことを平蔵は、しらない。

もちろん、〔草加屋〕への押し入りが亀吉栄五郎が練ったものであることも、平蔵はしらなかった。

蓑火〕側も、〔草加屋〕への押しこみを挫折させたのが、平蔵の手くばりであったと気づいているとはおもえなかった。

参照】201071[〔殿(との)さま〕栄五郎] () () () () () (

すると、亀吉が〔三文(さんもん)茶亭〕でお(のぶ 39歳 いまは日信尼)の行方を訊いたのは、亀吉のまわりで手がたりなくなり、お(のぶ)に助(すけ)っ人に頼みたかったのか?

{盗人酒屋〕の主(あるじ)であった故・〔.たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 享年53歳)から生前に聞いたところでは、〔蓑火〕の頭が育てた盗賊は20人や30人ではきかない。
手が足りなくなれば、独りだちした元配下の者のところとか、盟友の〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 60歳)のところから借りられよう。

すると、単に同郷のいよしみで消息を訊いてみただけなのかもしれないではないか。

(にえ) 越前守正寿(まさとし 40歳)に同心の見廻りを念入りにしてもらおうかともおったが、火盗改メとつながりがあることが亀吉側に洩れたら、かえってお(くめ 39歳)やお(つう 12歳)に危害の手が向けられるかもしれないと危惧した。

松造(よしぞう 29歳)に、おとおを迎えに寄り連れだって帰るのをひかえるように申しわたすだけにした。

もっとも、〔於玉ヶ池(おたまがいけ〕の伝六(でんろく 39歳)に、それとなく見廻ってくれと頼むことは頼んでおいた。

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2011.01.12

〔五井(ごい)〕の亀吉(4)

「13年ほど前に、いまの〔三文(さんもん)茶亭〕---往時の〔千浪(ちなみ)〕で会ったことがある」
平蔵(へいぞう 35歳)がおもいだした。

家臣に昇格していた松造(29歳)---漢字はそのままだが、読みかたを供侍らしく「よしぞう」と変えた---が、昨夜のお(くめ 39歳)との寝物がたりで交わした〔五井ごい)〕の亀吉(41歳)の名と人相を告げたときの平蔵の反応であった。

(たしか、〔蓑火みのひ))の喜之助(きのすけ 58歳)のところの小頭であったような)

平蔵は、13年も前に、亀吉が洩らしたことをおもいだし、頬をゆるめた。

それは、亡父・宣雄(のぶお 享年=55歳)の青春時代にかかわるもので、上総(かずさ)の市原郡(いちはらこおり)五井(現・千葉県市原市五井)の漁師の三男だった亀吉の女房・お衣知(いち 37歳)は、同じ上総でも山辺郡(やまべこおり)片貝(かたがい 現・千葉県山武郡九十九里町片貝)の小百姓のむすめで、長谷川家の400石の知行'地のうち180石が片貝(かたがい)にあった。
つまり、お衣知の生地の知行主はずっと長谷川家であったということになる。

で、海女(あま)をしていた叔母が、米の出来具合を視察にきた宣雄(23歳ごろ)をi誘い、抱かれた話をしてくれた。

そして、もう一つの知行地---上総の武射郡(むしゃこおり)寺崎(てらさき)村の長(おさ)のむすめを孕(はら)ませたことも、当時の噂であったと。

ちゅうすけ注】寺崎(てらさき)の村長(おさおさ)・五左衛門のむすめから生まれたのが銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵)であることは、寺崎村では語りぐさとなって伝承されている。
もちろん出産は、江戸・赤坂築地の長谷川家においてであった。
このブログでは、そのむすめの名は、夫・宣雄の爵位にあわせた立派な戒名---興徳院殿妙雲日省大姉から一字を拝借し、妙(たえ)として記している。

参照】2006年5月27日[聖典『鬼平犯科帳』のほころび] (

幕府への届けは、宣雄の内妻ということで終始したが、長谷川家内の地位は正妻そのものであった。

そんな経緯から、亀吉に対しては好意はもたなかったが、敵にまわすまでもないと観じていた。
そのことは、松造の話を聞いても変わりはなかった。

もちろん、〔五井〕の亀吉が、おやお、あるいはかつてのお(のぶ 39歳)---いまの日信尼に危害やいたずらをおよぼすようなら、断固戦う。

参照】2010年10月11日[剃髪した日信尼

(しかし、〔五井〕の亀吉と〔不入斗(いりやまず)〕のおが市原郡つながりとは知らなかった。
いや、〔蓑火〕一味と〔神崎かんざき)〕の伊之松(いのまつ 享年42歳)のかかわりで知りあったとも考えられる

参照】200965~[〔神崎(かんざき)〕の伊之松] () () () (

平蔵は、亀吉が〔蓑火〕の喜之助の許から、〔大滝おおたき)〕の五郎蔵(ごろぞう 42歳)とのならび頭(がしら)で独立していることはしらなかった。

【参照】2010年7月19日~[〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵からの書状] () (

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2011.01.11

〔五井(ごい)〕の亀吉(3)

小男のその客は、先刻から盗み見をするように、お(くめ 39歳)とお(つう 12歳)の動きにちらちらと視線を走らせていた。
その視線をおは痛いほどに感じ、薄気味悪くおもっていたが、客なので態度にはだすのをおさえた。

「もう一杯、もらおうか」
客が声をかけた。

お代わりの茶を運ぶと、
「姐さん。ここを前にやっていた、女将さんが、どこへ行ったかしらないかい?」
ぞんざいな口調であった。

が母親の助けをもとめ、沸かし場から移ってきたおが、
「お客さまがおっしゃっているのは、お(のぶ 39歳)さんのことでございましょうか?」
「そうだ」
「お客さまのお名前とおさんとのつながりをお聞きしないでは、明かすわけには参りません」

小男はちょっと照れ、
「こいつはおれが悪かった。おれは上総(かずさ)の市原郡(いちはらこおり)の五井(現・千葉県市原市五井)の生まれで亀吉って者(もん)だ。おさんが隣りの村ともいえる不入斗(いりやまず)郷の出だとわかり、ときどき足休めをさせてもらっていた」

参考】2010年9月1日~[[〔小浪(こなみ)〕のお信] () () () () () () () () (

は客商売が長いので、油断はしない。
「そんなお親しいあいだがのお方とは存じませず、失礼申しあげました。おさんは、なんですか、2年ほど前に、突然、この店をわたくしにお譲りくださって、甲斐の身延の尼寺へ入山なさいました」

千浪(ちなみ)女将ならば尼寺の山号をしっておろうな」

「それはそれは、お古いころからのご贔屓をいただきまして、ありがとうございます。と申しましても、わたしは、小浪女将さんを存じあげないのでございます」
「なるほど」
それでも亀吉は、見透すようにでお粂を見すえた。
「申しわけございませんが、日蓮宗のお寺さんとしか---」

「いや、ぶしつけに訊いてすまなかった」
多いめの茶代をおいて腰をあげ、渡舟場へ向かった。


その晩、、寝屋で松造(まつぞう 29歳)に昼間の〔五井ごい)〕の亀吉の話をすると、おの内股をまさぐっていた手を引き、
「もうすこし、人相とか年配を話してみろ」
亭主然とした口調になった。

松造の下腹のものを放さず、
「急に人相といわれても、ねえ。そう、;肌があさ黒く、目つきに険(けん)があり、反っ歯ぎみ。おに1寸5分(5cm)ほど足した背丈で、身のこなしは軽そうだった。齢は小柄だからいくらか若く見えるけど、40歳をでたってとこるかな」

参照】20081010[〔五井(ごい)〕の亀吉] () (

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2011.01.10

おみねに似たおんな(8)

長谷川さまのお言いつけどおりにいたしました」
朝晩がしのぎやすくなった1ヶ月半後、〔染翰堂(せんかんどう)・吉沢〕の店主・惣兵衛(そうべえ 48歳)が〔三文(さんもん)茶亭〕で平蔵(へいぞう 35歳)へ告げた。

「けっこうだ」
そう返事をしておいたが、染翰堂が400両(6400万円)近い現金を預けたことは、預かった南伝馬町2丁目の両替為替商〔門屋(かどや)〕の主(あるじ)・喜兵衛(59歳)が報らせてくれている。

一番番頭だった富造(71歳)は、老齢を理由に引退していた。
平蔵は5年前、〔蓑火(みのひ)〕一統がらみの仕事(つとめ)を未然にふせぎ、その謝礼代わりに、番頭の富造から為替や両替の知識の薫陶をうけた。

(惣兵衛という男には食えない一面があるが、商人がつねに真っ正直とはかぎるまい。ただ、善太(ぜんた 10歳)がそこのところを身につけないように松蔵(まつぞう 29歳)にしっかりいいつけておかないと---)

「手前の店が端渓(たんけい)硯や歙州(きゅうじゅう)硯を買いあさりましたので、巷の値段が5割方ほど上がりました」
「すると、〔染翰堂〕どのは600両(9600万円)ほども買いこんだわけだから、まるまる300両(4800万円)、濡れ手に粟としいうことになる---」
「とんでもございません」

打ち消してから、惣兵衛ははっと気づき、
「売り値は、気配でございまして、そのとおりには売れません」

「なるほど、商売というのは、そういうものであろうのう」

いちおう、賛成しておき、雇人のなかに、無謀な主(あるじ)に愛想をつかし、辞めたいと申しでた者はいなかったかと訊いた。
「愛想づかしではございませんが、女中のお千世(ちよ 19歳)に嫁ばなしがあるので、暇をとらしてほしいといっておりますが、手代で跡継ぎの与兵衛が、奥の女中でなく、表へだせば看板むすめになると、引きとめにかかっております」
「看板むすめになるほどのいいおんななら、いちど、拝顔してみたいものだ」
「では、このまま、ご案内いたしましょう」


「お初にお目もじいします。お千世と申します」
(やっぱり、おみねの面影がうかがえる)
しかし、平蔵はそ知らぬ顔で、
長谷川です」
惣兵衛に、
「なるほど、看板むすめにふさわしい女性(にょしょう)なれど、暇をとりになりたいのであれば、〔染翰堂〕どのも、あきらめるしかあるまいな。あきらめることだ」
終わりのせりふは、どちらにいうともなくつぶやいた。

おどろいたことに、惣兵衛より先に千世がうなずいた。

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2011.01.09

おみねに似たおんな(7)

「月末の支払い分もいれて---」
墨・筆・硯問屋〔染翰堂(せんかんどう)〕の主(あるじ)・惣兵衛(そうべえ 48歳)は、口ごもり、周囲を見まわした。

さいわい、渡り舟は、石原側へ向かったばかりで、客は反対側に人気いたきりであった。
それでも、平蔵の耳に口を寄せ、ささやきほどの小声で、
「730両(11,680万円)。うち、53両(848万円)は節季の支払い分で---」

支払い分は1ヶ月の商(あきな)いか? との問いかけには、
「どんでもございません、3ヶ月分でございます」

荒利を3割5分とみると、1ヶ月ざっと24両(380万円ちょっと)の商売---8両2分(136万円)の荒利。
問屋十組費やら人手代、退き金(退職金)を引き、ほかのなんやかやを落としても、5両(80万円)近くは入っていよう。

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(十露盤部門も置いている墨・筆・硯問屋〔染翰堂()〕)

「使用人の数は---?」
「番頭1人、手代1人、 子ども(小僧)が2人に女中1人、下女が1人----嫁にだしたむすめが1人」
「家の者は---?」
「母親と女房、男の子は手代と小僧をさせております。小僧をさせているのを、こんど、手代にさせます」
「番頭は通いか?」
「はい」
「手代の嫡男の齢は?」
「23歳に育ちました」
「嫁ばなしは?」
「当人が、まだまだ---と申しておりますので---」
「ふむ。どこに寝ている?」
「2階の裏手の部屋に---」
「一人で---?」
「女中は?」
「2階の表の、商品置き場兼用の部屋です」

平蔵が提案した。
これから2ヶ月のあいだに、端渓(たんけい)硯や歙州(きゅうじゅう)硯などを600万円ほど買いこむことばできないか。
いや、買いこむということを店の者へ告げる。
じっさいに買った値段は倍近くにいいふらす。
浮いた現金は、信用のおける両替屋とか、駿河町の三井呉服店あたりに預けておいたらどうだろう。

「信用できる両替商といいますと---?」
「南伝馬町2丁目の両替為替商〔門屋(かどや)〕喜兵衛方なら引きあわせられる」

参照】2010年4月26日[〔蓑火(みのひ)〕のお頭] () (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16

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2011.01.08

おみねに似たおんな(6)

「ご主人。〔染翰堂(せんかんどう)〕で、もっとも高価な品はなんであろう?」
〔染翰堂(せんかんどう)・吉沢〕の店主・惣兵衛(そうべえ 48歳)を〔三文(さんもん)茶亭〕へ呼びだした平蔵(へいぞう 35歳)が訊いた。

「石でございましょう」
「---石?」
「失礼申しました。硯(すずり)のことを、仲間言葉で石と呼びます」

「どれほどに高価かの?」
「この国のものですと、甲州の雨畑((あんばた)とか長州の赤間(あかま)の石を彫ったものだと、上品(じょうほん)で5両(80万円)ですが、紫石といわれている唐物(からもの)の端渓(たんけい)硯には、150両(2400万円)でも手に入らないものがございます」
「硯ひとつに150両---のう」
「もっとも、骨董としての値打ちでございますが---」

ちゅうすけ注】2005年1月1日[雨畑(あまばた)の紋三郎](文庫巻8[あきれた奴]参照)

文房四宝といわれる、墨・筆・硯の商いの世界で35年近くももまれてきた惣兵衛としては、書院番士ごときの若造に、端渓硯や歙州(きゅうじゅう)の緑石の魔力がわかってたまるかといった口調であった。

「いや、詩文や書に親しんでいる貴顕にとっての硯や毛筆は、武士の刀剣に匹敵しよう。万金を投じてでも名器を求めてやむまい」
感嘆しきりの言葉に、惣兵衛が得意げにうなずく。

茶を喫してから、おもむろに、
「ところで、染翰堂どの。親しくしている火盗改メの知己からささやかれた内密の話だが---秘密を守ると約束できるかな?」
「ことと次第によりましては---」
「貴店の浮沈にかかわることなのだが---」
「なんと---」
「盗賊が、〔染翰堂}の有り金に目をつけておるそうな」
「げっ---」

「これ。異様な声を出してはならぬ。火盗改メのお頭(かしら)・(にえ)越前守正寿 まさとし 40歳)どのの役宅へ投げ文があり、そのことがわかった。
もっとも、投げ文には署名がなかったから、たしかとはいえない。しかし、要心するにこしたことはない」

しばらく、放心したように黙りこくっていた惣兵衛が、したたかな商人に戻り、
「どうしてそれが、長谷川さまのお耳に---?」
問い返してきた。
「そのことよ」

茶寮〔貴志〕と田沼主殿頭意次(おきつぐ 62歳 老中)のかかわりを手短かに説明し、そこの女中頭をしていたお(くめ 39歳)がこの〔三文茶亭〕の女将で、亭主というのが拙の供人である。
したがって、おの息子・善太(ぜんた 10歳)は、拙にとっては甥っ子のようなもの。
その善太が勤めることになった〔染翰堂〕にかかわることは、他人ごととはおもえない。

「いま、いかほどの現金をお蓄(たくわ)えかな?」


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2011.01.07

おみねに似たおんな(5)

法楽寺ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん 50前後=安永9年 1780)一統で、面識のある者たちの顔ぶれを思いだしてみた。

首領・〔法楽寺〕の直右衛門は、10年前にほんの寸刻だが言葉を交わした。

幹部級の〔名草なぐさ)〕の嘉平(かへい 60歳前後) 野方領・千駄ヶ谷村の仙寿院の門前あたりで茶店〔蓑安〕を仕切っている。盗人宿も兼ねていた。

樺崎(かばざき)〕の繁三(しげぞう 45,6歳) もう一人の若い男と猿江橋の西に住まっていた。

物井(ものい)〕のお(こん 39歳) 宇都宮城下の虚無僧寺・松岩寺(しょうがんじ)を襲った数人の手引きをしたらしい

参照】2010年9月29日[〔七ッ石(ななついし)〕の豊次] (
2010年10月16日~[寺社奉行・戸田因幡守忠寛(ただとを)] (1) (2) (3) (4) 

のむすめのおみね いま、浅草・諏訪町の墨・筆・硯問屋〔平沢〕の女中にはいりこんでいる。
〔平沢〕は江戸ではそれを専業にしている店がほとんどないのに、十露盤(そろばん)の店も隣りに構えて繁盛していた。

平蔵は、〔法楽寺〕一味のわずかに5人を知っているにすぎないが、おとおみねを故〔助戸(すけど)〕の万蔵(まんそけう 享年35歳)かかわりと考えると、〔名草〕のも〔樺崎〕のも、足利まわりの生まれと見なすと、直右衛門は信頼を、同郷者においている---つまり、よそ者を信用したがらない性分(しょうぶん)とみていいのではないか、と判断した。

その性分をかんがえると、おみねはもとより、居場所のわかっている〔名草〕の嘉平、〔樺崎〕の繁三とその連れを人質にし、こんどの仕込み先である〔平沢〕をあきらめさせることはできまいか、と思案した。

その策をすぐ捨てた。
こちらが人質をとったとわかれば、〔法楽寺〕も久栄(ひさえ 28歳)や辰蔵(たつぞう 11歳)を人質交換用に襲うかもしれない。
いや、里貴(りき 36歳)ひとりでも、交換に応じざるをえない。
(くめ 39歳)、お(つう 12歳)、善太(ぜんた 10歳)であっても同じことだ。

宇都宮の元締・〔釜川(かまがわ)〕の藤兵衛(とうべえ 43歳)から足利の元締に働きかけてもらう案も、捨てた。

他人(ひと)を頼ってはいけない。
だれを傷つけてもならぬ。

盗賊が狙うのは、現金(げんなま)だ。
現金がなければ、押しいってはこない。

現金を数えるものの一つが十露盤だが、それがどんなに名器でも、十露盤を狙う賊はいない。


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2011.01.06

おみねに似たおんな(4)

「お(くめ 39歳)が、〔染翰堂(せんかんどう)・吉沢〕の内儀から、そっと訊きだした、女中・お千世(ちよ 19歳)の身上(しんじょう)でございます。筆運びが善太(ぜんた 10歳)より劣りますから、ご判読のほどを---」
亭主づらの松造(まつぞう 29歳)は謙遜したが、かなりの筆跡であった。

生国       江戸・本所の横十間川べり
育った土地   下野(しもつけ)国芳賀郡(はがこおり)鹿(しか)村
なまり       ほとんどなし。
身請け許(もと) 田原町3丁目の口入れ〔足利屋〕
雇い入れた歳月 去年の出替わり期
勤めぶり     手ぬきはない
男出入      手代に秋波めいたものをおくったことがある
外出の口実    深川の伯母の病気見舞い
           主人の許しをうけた上で

平蔵(へいぞう 35歳)は、生地の横十間川べり、身請け許の〔足利屋〕の項に目を光らせた。

登城してから、小川町の勘定奉行所の見習い・山田銀四郎善行(よしゆき 37歳)のところへ、松造をやった。
銀四郎とは、〔強矢すねや)〕の伊佐蔵(いさぞう)の生地のことで、〔五鉄〕のしゃも鍋を振舞ったことがあった。

参照】2010年10月31日~[山田銀四郎善行] () () () (

松造が持ち帰った返事に、平蔵はおどろいた。

下野国芳賀郡鹿村の北隣りが物井村と教えられたのだ。

亀戸天神の西を南北の流れる横十間川の、竪川へのそそぎ口にあたる清水町の長屋に住んでいたおみねの母親・お(こん 28歳=明和4年 1767)の生地も物井村(現・栃木県)
真岡市物井)の生まれであった。

_360
(下野国芳賀郡物井村=緑○ 赤○=真岡町 明治20年ごろの地図)

だから、亭主・万蔵(まんぞう 35歳=同)が急死したあと、〔法楽寺ほうらくじ)の直右衛門(なおえもん 40すぎ=同)によって女賊に仕立てられてからは、〔物井(ものい)〕のお紺を通り名にしていた。

参照】た2008年5月6日~[おまさ・少女時代] () () (
2009年4月29日[嫡子・辰蔵の誕生] (

10年も前に、おまさ(14歳=当時)と交わした会話もおもいだした。

は、おみねを親類にあずけたといっていたが、おんな好きの直右衛門が好餌を見逃がすはずがない。

みねも躰から---というより、性器から女賊に仕立てられたにちがいない。

(お千世(ちよ)は、おみねの変名---引きこみとおもって、ほとんど間ちがいあるまい)
〔染翰堂(せんかんどう)・吉沢〕につけている、〔法楽寺〕一味の狙いを、どうやってそらすかが厄介だ。

〔盗人酒屋〕の主(あるじ)の〔たずがね)〕の忠助でも生きておれば、〔法楽寺〕の手口や直右衛門の気質を聞きだせるのだが---。

参照】2008年5月5日[〔盗人酒屋〕の忠助] (

11年前にり忠助から、足利からきた直兵衛(なおべえ)と紹介されたのが、首領・〔法楽寺〕の直右衛門で、嘉平がその幹部級の〔名草(なぐさ)〕の嘉平であることは、平蔵もこころえていた。

あの初見にして最後のとき、直右衛門は、本家の大伯父・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 56歳=明和2年  1450石)を火盗改メと名指した。
足利にいても、江戸の偵察はおこたっていなかった。

あのころ、直右衛門は40すぎであったから、いまは50代の前半、盗賊としていちばん脂がのっているころだろう。
いや、躰にもだが、気分的に---。

少々のことでは、狙いをつけた餌食をあきらめないであろう。

やおみねにつづく女賊に性技を仕込んでいるとすると、朝鮮人参をしこたま買いこんでいるか、盗んでいるだろう、と想像し、平蔵はくすりと笑った。
房内篇』の条々をおもいだしたからであった。

(「玉唇(ぎょくしん)」だったけ。そうそう、丹穴(たんけつ)には、里貴(りき 36歳)と笑いあったな)

赤ん坊を産むごとに、黒味をました丹に変わるとも。
里貴は、産んでいない。

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2011.01.05

おみねに似たおんな(3)

その夜---御厩(おうまや)河岸から1丁半ほど西へ入った、正覚寺(俗称・框(かや)寺門前のしもた家の、松造(まつぞう 29歳)とお(くめ 39歳)の寝間。

_160寝巻きに着替えたおが、隣室のお(つう 12歳)と善太(ぜんた 10歳)の寝相をたしかめ、暑いために上布団をはね飛ばしていたのを、腹から足元へかけなおし、そっと松蔵の隣に伏せた。

待っていたように、寝巻きのすそを割り、肉置(ししお)き豊かな尻部(でんぶ)をかかえ、太腿を割りこませた。
「2人とも、よく眠ってた」
耳元でささやき、腰紐を抜き、前をはだけた。

乳頭が吸われた。
松造の頭を抱き、
「お千世(ちよ)さんと長谷川の殿さまと、どういうあいだがらだろう?」
唇をはなし、
「おれが若(銕三郎 てつさぶろう 26歳=当時)の下僕見習いになったのは9年前、20歳(はたち)のときだ。以来、お千世 19歳)らしいおんなに出会ったこといない」

また、乳首を舌先でなぶりはじめた。
「9年よりもっと前だと、ご内室をおもらいになる前---? ああ、お前さん---こんなに堅くなってる」
「お前だって、あふれてきてるぜ。ほら---」

「お千世さん、19歳とかいってたね? 9年よりもっと前というと、8つか9つか、もっと幼なかったってことに---ちょっと待って---はさみ紙、忘れてなかった? あった、あった---大丈夫」

「だから、これは艶ごと抜き---ってことは、カギの手かかわり---」
「なにさ、カギの手って?」
「これ、さ」

「あっ、指。その指じゃなく、いつもの中指で---お前さんの中指は別あつらえなんだから---」
「それをいうなって---むかしの仕事がバレる」
「でも、わたしには、願ってない指如来さま---」

「先だって、殿のいいつけで、芝の新銭座にお屋敷がある、表ご番医の井上立泉(りゅうせん)先生へ、写本をお借りしにいったとおもいな」
「なんの本---?」---
「おれが盗み読みするぐらいの本といえば、おもいあたるだろう---」
「うん---」
「唐の国の将軍さまが、寝間でしていることの---今夜はその1だ」
「え---?」
「背中をおれの顔のほうにむけ、尻をおれのものにのっけろ」
「こうかい---あっ、いつもとちがうとこへ---うっ」


「-------」
゛-------うっ」
「お前さん。ちょっと、汗を拭かせて---お前さんも、びっしょりだよ---ほら、わたしの掌がこんなに---」


「-------うぅー」
゛-------ふぅー」

横にならんで目を閉じ、いたわるように柔らかく相互に まさぐりねねあいながら、
「お。殿は、くれぐれも念をおされた。〔染翰堂(せんかんどう)・吉沢〕の内儀には、お千世(ちよ 19歳)のことを訊いていると悟られないように、店で使われている者全部の性格を、善太に教えるために訊いているのだとおもわせろ」


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2011.01.04

おみねに似たおんな(2)

「そんなわけで、〔染翰堂(せんかんどう)・吉沢〕さんのご内儀とは話が通じていますから、なんでしたら、わたしから訊いてみましょうか?」
幕府米蔵の北端・御厩(おうまや)河岸の三好町で〔三文(さんもん)茶亭〕をやっているお(くめ 39歳)が申しでた。

平蔵(へいぞう 35歳)が返答をする前に、当の善太(ぜんた 10歳)が十露盤(そろばん)塾から駆けこんできた。

塾のある日は、ここから近い正覚寺(通称・框(かや)寺)門前の自宅へ直帰しないで、母と姉のいる〔三文茶亭〕が売りものの一つにしている団子をお八ッがわりにぱくつくことにしていた。

駆けこむなり、
「団子ッ」
長谷川の殿さまへのごあいさつもしないで---」
母親にたしなめられると、ぴょこんと頭をさげ、
平蔵おじさま。いらっしゃいいませ」
こころは水屋のほうへ飛ばしていた。

団子をほおばりながら、
平蔵おじさま。お盆がすんだら、〔染翰堂〕のお店者(たなもの)になるんだよ」
「そうだって、いま、お母上から聞いたところだ。里貴(りき 36歳)おばさまにも伝えて、2人でお祝いをかんがえておこう」
善太、新しい矢立てがほしいな」
あわてて、29歳の継父の松造(まつぞう)がたしなめた。

「いいではないか。それくらいのお祝いはさせてくれ」
平蔵が抑えると、
平蔵おじさま、善太がお勤めする染翰堂(せんかんどう)の、[染翰]って、なんのことだかしってる?」
叱ろうとする松造を制し、
「教えてくれ」
「[翰]って、むかし、筆の穂を鳥の羽でつくったから[羽]がはいっている。だけど、いまは書簡のことさ」
善太はえらい! 参った!」

「殿さま。申しわけございません」
が小声で謝り、〔吉沢〕のご内儀になにを聞けばいいかと尋ねた。
手で制し、ささやいた。
「今夜の寝物語に、ご亭主から聞いてくれ」

松造に、善太に聞かれてはことがもれかねないと耳打ちし、舟着きの桟橋までいざない、
「承知していようが、お千世(ちよ 19歳)の生国、育った土地、言葉にでるなまりの有りなし、身請け許(もと)、雇われた歳月、口入れ屋、勤めぶり、読み書き十露盤の習得加減、きょうの外出の用件、薮入りの泊まり先、男出入---いまは、そんなところかな」


参照】2006年4月12日[佐嶋忠介の真の功績
2006年8月16日[文庫第4巻]の中の[4-6 おみね徳次郎]の項。

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2011.01.03

おみねに似たおんな

日なたを歩くと、じっとしていても汗がふきでるような毎日がつづいていた。

朝の登城どきはまだしも、陽が高いうち(午後4時)の城さがりで、南本所・三ッ目通りの屋敷までの徒歩(かち)は楽しいとはいえなかった。

町駕篭の〔箱根屋〕とともに船宿〔黒舟〕を2軒やっている権七(ごんしち 48歳)へ、
「武士(さむらい)が弱根を吐くようになってはおしまいだが、この暑さはやっぱりこたえる」
平蔵(へいぞう 35歳)がこぼすと、
〔鍛冶橋下に屋根舟をもやっておきますから、お使いになってください」

それに、つい、甘えたことから、この事件は始まった。

_150_2「久しぶりだから、〔三文(さんもん)茶亭〕でお(つう 12歳)の看板むすめぶりでも拝んでやろう。っつぁん、御厩河岸の舟着きへやってくれないか」
顔なじみの船頭・辰五郎(たつごろう 50歳)へいいつけた。

ちごわげ(右絵→)に結ってもらっているおと〔三文(さんもん)茶亭〕で冗談をやりとりしながら喫茶をしていると、本所・石原橋側から着いたばかりの渡しから降りた客の中の、20歳(はたち)前後とおもえるむすめの横顔が目にとまった。

(はて。見覚えがあるような---?)
とっさに口からでた。
。あの矢絣の単衣(ひとえ)のおんなの行き先をたしかめよ」

こころえた松造(まつぞう 29歳)が出ていったが、受け唇のむすめがだれであったかは、しばらくおもいだせなかった。

記憶をたどり、ようやくついたのは、なんと、13年も昔のことであった。
(おみね坊だ) 

参照】2008年4月29日~[〔盗人酒屋〕の忠助] () () () () () () (

平蔵銕三郎(てつさぶろう)と呼ばれていた21,2歳のころ、7歳だったおみねとは、おみねの父親が死んだ日に知りあった。

28歳で後家となった母親のお(こん)は、亡夫の納骨にいった足利で、お頭・〔法楽寺ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん 40がらみ)に性技をいいように仕込まれ、〔物井(ものい)〕のおと呼ばれる女盗(にょとう)となり、銕三郎の剣友・岸井左馬之助(さまのすけ 22歳)をつまんだ。

参照】2008年8月27日~[〔物井(ものい)〕のお紺] (1) (2) 

銕三郎はその後、おみねには会っていない。
だから、15歳になるかならないおみね直右衛門の餌食になったばかりか、数年もしないで年増おんな顔まけの男好きの躰にされていたこともしらない。

少女のころの面影は、受け唇にしかのこっていなかったが、小柄な躰からこぼれでている性的な魔力に、平蔵はあのときのおの匂いを感受したのかもしれない。

それは、里貴(りき 36歳)や久栄(ひさえ 28歳)から受ける清らかな性的刺激ではなく、発情期の雌猫のように饐(す)えていた。

ほどなく松造が戻ってき、店の片隅に平蔵を招いた。
「すぐそこ---諏訪町の〔吉沢〕って十露盤(そろばん)屋のお千世(ちよ 19歳)って女中だそうです。主(あるじ)の惣兵衛は隣りの墨筆硯問屋も手広く商ってなっています。1軒おいた足袋股引問屋の〔泉屋〕宗右衛門方で聞きこみました」
「お千世か---」

「殿。せがれの善太(ぜんた 1O歳)が通っている十露盤塾が、〔吉沢〕の2階です」
善太の名を耳にいれた女将のお(くめ 39歳)が寄ってき、
「〔染翰堂(せんかんどう)・吉沢〕さんからは、十露盤の筋がいい善太を丁稚にって、声をかけていただいております」


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2011.01.02

〔三ッ目屋〕甚兵衛(3)

「ところで、お(てい 40がらみ)の隠れ家を聞いても、いうまいな?」
〔三ッ目屋〕甚兵衛(じんべえ 39歳)は、もう、平蔵(へいぞう 35歳)の目をみることができず、うなだれていた。

「おを、最後に抱いたのは、いつだ? 〔初鹿野(はじかの)〕一味の押し込みの前かい?」
目を伏せたまま、うなずいた。

「朝鮮人参のことをそそのかしたのは---?」
「知りあって、すぐでした」

「どこで知りあった?」
を、婀娜(あだ)な奥女中だとは、『房内篇』の写本を売りにくる躋寿館(せいじゅかん のちに医学館)の塾生たちからの噂で耳にしていていた。

塾生のひとりにわたりをつけ、半年前に上野・池の端の茶店で待ち合わせた。
誘うと、簡単に出会茶屋へあがりこんだ。

その後すぐに、〔舟形ふながた)〕の宗平(そうへい 60すぎ)が店へやってき、おは〔初鹿野のお頭(かしら)のおんなだ、知れると命がなくなる。
生きていたかったらと、朝鮮人参を高値で引き取ることを約束させられた。

「いくらで故買した?」
「30両(380万円)で---といわれました」
「で、甚兵衛どんは、いくら転売するつもりだった?」
「〆て40両なら、本町あたりの薬種(くすりだね)問屋は、どこだって買ってくれます」

「買った問屋は、盗品ということで火盗改メに取りあげられている、甚兵衛どんの信用は霧消した」
「へえ---」

「甚兵衛どんの刑罰(おつとめ)だが、お町(奉行所)は、偽の人参を高麗ものと偽った罪で所払いと決めた」
「-------」
「火盗改メのここは、盗品を売買したということで島送りとのこと---」
「お武家さまは、火盗改メの与力のお方ではございませんので?」
「おれは、長谷川平蔵というものだ。親父の名前なら、甚兵衛どんもこころえていよう。備中守宣雄(のぶお)というんだが---」
「明和9(めいわく)年に放火犯をお挙げになりました---、あの、長谷川さま---」
「覚えていてくれたかい」
「もちろんでございます」

平蔵は、あと半月で、島送りの舟が出る。そのあとで手くばりするから、お前さんが差したとは〔初鹿野〕一味も気づかないとおもうから、おの隠れ家を告げないか。
「お礼は、甚兵衛どんの恩赦を、ここの組頭・(にえ) 越前守正寿(まさとし 40歳)さまへ頼んでやる。さらに、島での生きがいに、竹節(ちくせつ)人参が育てられるように、平賀源内(げんない)先生から種をわけてもらってやる」

は目黒村の盗人宿に隠れていたが、火盗改メが踏みこんだときには、もぬけの空で、脇屋清吉(きよよし 52歳)は大いにくやしがった。
もっとも、贅 越前守正寿(まさとし 40歳)は平然と、
「相手が一枚上手(うわて)だったってことさ。次はこっちが上手をとりにいけばいい」

ちゅうすけ注】平賀源内は、この前年---安永8年(1779)12月18日に牢死したが定説であるが、相良で源内の墓をみたちゅうすけは、田沼意次がひそかに手をまわし、その藩内に隠棲させたという異説にくみする。

参照】2007年3月12日[相良の平賀源内墓碑
2007年3月12日[源内焼


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2011.01.01

〔三ッ目屋〕甚兵衛(2)

明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い申しあげます。


〔うさぎ団子〕(十勝大福本舗 埼玉県入間郡三芳町北永井)。
年末のセフン・イレブンで見つけました。100円。


うさ忠まんじゅうのコーナーへ入れておきます。


A_360


〔三ッ目屋〕甚兵衛は、小伝馬町の牢獄を引きだされ、九段下・俎板(まないた)橋西詰の(にえ)安芸守正寿(まさとし 40歳 300石)の屋敷の奥庭に設けられた仮牢に移されていた。

39歳と聞いていたが、でっぷりとした躰躯でずる賢そうな上目づかいの目つきのため、40を越しているようにも見えた。
(どこかで会ったような---?)
思い出をくり、広い海と島がうかんだ。
(江ノ島だ)
焦点があった。

参照】2008年2月2日~[与詩(よし)を迎えに] (39) (40) (41
2008年2月19日~[銕三郎(てつさぶろう) 初手柄] () () () (

(〔窮奇(かまいたち)〕の弥兵衛といったな)

牢番の小者に錠前をあけさせ、狭い仮牢の中へ入った。
警戒した甚兵衛は脊を壁板にくっつけるほどに身をずらせた。

その前にあぐらをかいて向きあい、まず、訊いた。
甚兵衛。〔舟形ふながた)〕の爺(と)っつぁんは達者かい?」

相手は、驚いたように身ぶるいしたが、すぐに持ちなおした。
舟形の---とは?」
「おや。甚兵衛どんは、宗平(そうへい)爺(と)っつぁんにお目通りもかなわないほどの下っ端かえ? それでは、〔初鹿野はじかの)〕の音松(おとまつ)お頭なんぞには、声もかけてもらえないほどの小者あつかいだったのかい?」

「お武家さんとは、お初にお目にかかりましたが、どなたさまで---?」
「人にものを訊くには、自分から名乗るのが礼儀ってものであろう? 甚兵衛どんの生まれは羽前の最上郡(もがみこおり)かえ、それとも甲州の山梨郡(やまなしこおり)?」

逡巡がはじまった。
平蔵が追い討ちをかけた。
「応えがないところをみると、武州多摩郡(たまごおり)の熊谷宿あたりかい?」
うっかり、頭をうごかしてしまった。
「そうかい、お(てい 40がらみ)かかわりか」

平蔵が、投げすてるようにいいはなった。
「おの黄粉(きなこ)まぶしのおはぎ好きは、いまも変わらずかい?」

参照】2008810~[〔菊川〕の仲居・お松] () (10

甚兵衛がくずれた。

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