平蔵の土竜(もぐら)叩き(7)
ことがおもったように進まないので、平蔵(へいぞう 36歳)は、さきほどから、ある職についた者を名寄せした奉書紙をにらんでいた。
松島町に屋敷を下賜されている書物奉行の野尻助四郎高保(たかやす 64歳 35俵3人扶持)からとどいた名簿であった。
幕臣の家系調べは、以前に頼んでいた石原町の長谷川主馬安卿(やすあきら 享年61歳)が病気がちになったので野尻高保にふりかえていた。
【参照】2010年12月13日[医学館・多紀(たき)家] (2)
平蔵がにらんでいるのは、ここ10年ばかりのあいだに、火盗改メ・本役を勤めた組頭(くみがしら)の名寄せであった。
先手・弓の2番組頭
贄 越前守元寿(もととし 41歳 300俵)
拝命 安永8年(1779)1月15日(39歳)
転 天明4年(1784)7月26日 堺奉行(44歳)
先手・弓の7番組頭
土屋帯刀守直(ものなお 48歳 1000石)
拝命 安永5年(1776)12月14日(43歳)
転 安永8年(1789)1月15日 大坂町奉行(46歳)
先手・弓の2番組頭
菅沼藤十郎定亨(さだゆき) 享年49歳 2025石)
拝命 安永3年(1774)3月20日(44歳)
転 安永5年(1776)12月12日 奈良奉行(46歳)
先手・弓の2番手組頭
赤井越前守忠晶(ただあきら 1400石)
拝命 安永2(1773)1月2O日(37歳)
転 安永3年()3月20日 京都町奉行(38歳)
役宅となった拝領屋敷は、贄家の九段下飯田町から、小石川江戸川端、大塚安藤対馬守跡、表六番町と異ってはいるが、組は、弓の2番手が3人もい、その通算の勤務年月はほとんど6年におよんでいた。
(なんということだ。もっとも肝心なことを見落としていた)
平蔵は、すぐさま、弓の2番手の筆頭与力・脇屋清吉(きよよし 53歳)あての文を認(した)ため、牢番頭格・悦三(えつぞう 35歳)と、もう一人のずっと弓の2番組で小者としていつづけていた者の身上を問いあわせた。
翌日、下城してみると、贄組の同心・吉田藤七(とうしち 40歳)が待っていた。
【ちゅうすけ注】わざわざ断るまでもなく、この吉田藤七は、『鬼平犯科帳』巻15長編[雲竜剣]で、木村忠吾に協力し、のち、舅となる人物である。
【参照】2006年4月13日[同心・木村忠吾と〔うさぎ饅頭〕]
用件を終えてから、俎板(まないた)橋の役宅へ戻るか、それとも目白台の組屋敷へ直帰するかを問い、直帰との応えであったので、黒舟で江戸川橋の船着きまで送れるように、〔季四〕を選んだ。
恐縮する吉田同心と小'者ともに、菊川橋のたもとのかかりつけの船宿〔あけぼの〕から冬木町寺裏の〔季四〕まで舟行した。
供をするという松造(よしぞう 30歳)は、
「お通(つう 13歳)を迎えに行ってやれ」
早めに解放した。
舟の中で話そうとする吉田同心を目で制止し、家族のことに話題をふった。
藤田同心は、女子5人、男子1人の子福者であった。
そのせいかどうか、〔季四〕のような料亭にはほとんど縁がなかった。
もっとも、30俵3人扶持の同心では子だくさんでなくても、したくてもぜいたくはできなかったが。
病身だった父親・藤ニ(とうじ 42歳=宝暦6年 1756)の身代りとして、15歳の春に同心見習いになった。
そのときの組頭は、朝倉仁左衛門景増(かげます 54歳 300石)であった。
朝倉景増と聞き、平蔵は、その7年後に、養女・与詩(よし 6歳=当時)を迎えに駿府へのぼった旅を、瞬時、おもいだしていた。
与詩は朝倉景増の次女で、朝倉は先手組頭から駿府町奉行に栄転していたのであった。、
【参照】2008年1月7日~[与詩(よし)を迎えに] (18) (20)
その旅で、人妻だった阿記(あき 21歳)と秘めごとをつづけた。
まだ銕三郎(てつさぶろう)を名乗っていた平蔵は、18歳であった。
【参照】200y7年12月30日~[与詩(よし)を迎えに] (10) (11) (12) (13) (14)
甘い追憶を行き来しているうちに、〔季四〕の舟着きが目の前にあった。
〔季四〕の部屋でも、藤七同心は居どころが似つかわしくないふうで、落ちつかなかったので、平蔵は里貴(りき 37歳)に座をはずすように目顔でうながした。
ようやく、吉田同心が、語りはじめた。
(朝倉仁左衛門景増の個人譜)
(菅沼藤十郎定亨の個人譜)
(赤井安芸守忠晶の個人譜)
(贄越前守正寿の個人譜)
(土屋帯刀守直個人譜)
【参照】2011年1月25日~[平蔵の土竜(もぐら)叩き] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13)
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