平蔵の土竜(もぐら)叩き(13)
「しかし、悦三(えつぞう)。おぬしがこのことを告げに行くと、寝返ったとおもわれ、命を失うであろう}
平蔵(へいぞう 36歳)の言葉に、
「ひえっー」
悲鳴を発したのは、悦三(35歳)ではなく、お甲(こう 28歳)であった。
「贄(にえ) 越前(守 元寿 もととし) 41歳)どのが火盗改メの職におられるあいだは、お主に死んでもらうわけにはいかぬ。おぬしを雇ったのは越前どのではなく、いまは西丸の留守居役の奥田土佐守忠祗(ただまさ 81歳=天明元年)さま、当時の弓の2番手組頭はおろか、庄内藩の江戸屋敷の用人・瀬川どのばかりか、ご藩主・戸沢侯までお咎めがおよぼう」
悦三が、またうなだれた。
「そこで、悦三。〔舟形(ふながた)〕の爺(と)っつぁんだけを、こっそり、〔音羽(おとわ)〕の元締・重右衛門(じゅうえもん 55歳)どんのところへ呼ぶことはできるか? もとより、火盗改メには通じないし、わしも顔をださない」
顔をあげた悦三が重右衛門を仰ぎ、笑顔のうなずきをたしかめ、
「やってみますです」
「そのとき、盗みの世界の間諜から足を洗い、まともな牢番になりたいことも告げるのだぞ。その前に、お甲との祝言もあげておけ」
「ひえっー」
また、お甲が悲鳴をあげたが、これはうれしさのあまりのこころからのものであった。
「〔鳥越屋〕吉兵衛との談合は、〔音羽〕の元締がつけてくださる。〔鳥越屋〕とすれば、元締にさからったら、音羽では生きていけない」
「お前さん。そうしておくれかえ?」
「牢番はつづけてよろしいのでございますか?」
「この坂の上の目白台の組屋敷に、夫婦で住める家が用意されるはずだ」
「夢をみているようです」
お甲がつぶやいた。
悦三の目からは、涙がとまらなかった。
結果は、平蔵がおもい描いたとおりになった。
〔舟形〕の宗平(そうへえ 60前)が〔初鹿野(はじかの)〕の音松(おとまつ)を口説き、宗平のくしゃみ癖が治るならと、神田佐久間町の躋寿館(せいじゅかん のちに医学館)付属の多紀邸で奪った受講料40人分240両(3,840万円)の現金のうち、半分の120両(1,920万円)を、昼間にこっそり忍びこみ、手文庫へ返した。
たぶん、頭目・音松のとり分であったろう---というのが平蔵の読みであったが、事実は、宗平ほか配下たちの退(ひ)き金として貯められていたものから引きだされたというのが、ちゅうすけの読みである。
ただし、このことの記録は一切のこされていないので、真相はわからないままである。
贄 越前守元寿が火盗改メのお頭として在任中は、〔初鹿野〕一味は江戸での盗(つとめ)を手びかえるという約束もまもられた。
宗平のくしゃみ癖は治ったか?
多紀元簡(もとやす 27歳)によると、単なるアレルギーだからその種の薬草の服用と、治療は簡単だと、平蔵はあらかじめ知恵をさずけられていた。
事件が解決し、多紀家から盗難金の半分が返されてきた謝金として、20両(320万円)が平蔵に包まれたが、そっくり、里貴(りき 37歳)に、
「家を立てる資金の足しに---」
手渡された。
【参照】2010年12月28日[同心・佐々木伊右衛門] (3)
「この前のとあわせると、もう、半分は建ってます」
「2人がいっしょに入れる行水盥もつくっておいてくれ」
ほんとうは、先夜の閨房での失言の詫び料だというつもりであったが、口にしておもいださせると、おんなはいつまでも忘れないと気づき、咄嗟(とっさ)に盥代とした。
贄 越前守が〔季四〕で慰労の席で、
「ようも悦三の命を救ってくれた」
「越前さまの、土竜(もぐら)叩きは許さぬとのひと言で、しぼった浅知恵でございます」
「お上(家治 いえはる)から、すこし長めiに勤めよ---とのお言葉をいただいた。以後もよろしゅうにな」
【参照】2011年1月25日~[平蔵の土竜(もぐら)叩き] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13)
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コメント
いやあ、四方円満の胸がすくような解決でした。
海千山千の悪党どもを相手にした平蔵の生涯でも、滅多に出会えないあざやかな結末とおもいます。
読んでいて、こちらの気分まですっきりしました。
お見事。
投稿: 左兵衛佐 | 2011.02.06 06:10
贄お頭にも喜んでいただけてよかったです。
それにしても、多紀からりお礼が少なすぎるようにおもいます。あきらめていたお金ですし、寄付も集っているのでしょうから
半金でもいいように思いますが・
投稿: tomo | 2011.02.06 06:23
>左兵衛佐 さん
実は、自分でも、どうしてこんなふうな解決策を思いつけたのか、びっくりしています。神が降りてきてくださるって現象、ほんとうにあるんですね。
投稿: ちゅうすけ | 2011.02.06 17:49
>tomo さん
ぼくも少ないとおもいます。『鬼平犯科帳』では、文庫の14冊目あたりから盗賊は未遂が多くなります。その場合、狙われていた商店は、いくらぐらい火盗改メに礼をしたろうと考え、2割かな、いや助かると1割でも惜しくなるのが人情であろうと---かと。
投稿: ちゅうすけ | 2011.02.06 17:56