平蔵の土竜(もぐら)叩き(4)
「それはならぬぞ。そのようなことをいたしてみよ、配下の者たちのあいだに疑心暗鬼がひろがり、組としての統率にひびがはいる」
贄(にえ) 越前守正寿(まさとし 41歳)の語調はきびしかった。
案の許しを乞うつもりであった平蔵(へいぞう 36歳)はもとよりのこと、筆頭与力・脇屋清吉(きよよし 53歳)、組内係方同心・吉田藤七(とうしち 44歳)も平伏し、恐れいった。
温和な面持ちへ戻った越前守正寿は、
「有徳院殿(吉宗)が、火盗改メの与力へ10人扶持、同心には3人扶持をくだされるように初めてお定めになったのは、この職が昼夜をわかたずのきびしいものであることをお察しくだされたからであった。報恩のためにこころをつくすべきであろう」
言葉をむすぶときには、笑顔になっていた。
【ちゅうすけ注】俸禄とは別の手当の1人扶持は、1日に玄米5合である。したがって、与力の10人扶持は玄米5升---1ヶ月では1斗5升。
搗(つ)きべりを20パーセントとみても手取り1斗2升。
1升を100文とすると、月に1200文=ほぼ1分1朱。
1両を16万円に換算すると5万万円前後。
同心は30パーセントであるから、1万5000円前後の特別職務手当であった。
平蔵の時代には、この手当は増額されていたような記録もある。
「益なきことを申しのべ、失礼いたしました」
謝った平蔵に、
「これより、深川あたりの巡察に参る。吉田、馬の用意をいいつけよ。長谷川うじの分もだぞ。脇屋は供をいたせ。そうだ、舘(たち)朔蔵(さくぞう 37歳)が詰所におったら、供をいいつけよ。同心は無用」
奇妙な構成であったが、4騎と口取り、そして小者3人が永代橋をわたった。
大川からの微風には、春の匂いがふくまれているようであった。
仙台堀に架かる海辺橋で馬を降り、口とりと小者たちを帰し、あとは徒歩で着いたのは深川・冬木町寺裏の茶寮〔季四〕であった。
突然の来訪にもかかわらず、女将・里貴(りき 37歳)の応接は予定していたかのように沈着なものであった。
贄 組頭がこっそり遣いを送っていたのかと平蔵は推察したが、あとで里貴にたしかめたら、そうではなかった。
そうであろう、贄 組頭は、組の小者たちにも〔季四〕での会合が洩れないように、海辺f橋であの者たちを帰していた。
とりあえず、茶を運んできた里貴に、平蔵が、
「打ちあわせを終えるまで、余人を近づけるでない」
承知した里貴が去ると、
「長谷川うじ、読心なさったか?」
贄 組頭が微笑した。
「機(はかりごと)密なりるをもってよしとする---迂闊(うかつ)でありました」
「いや、土竜(もくら)叩きをすすめていくと、先任の土屋駿河(守 守直 ものなお 48歳 1000石 大坂町奉行)どの、故・菅沼和泉(守 定亨 さだゆき 享年49歳 堺奉行 2025石)どのはおろか、赤井越前(守 忠晶 ただあきら 45歳 京都町奉行 1,400石)どのにまで類がおよびかねないことも恐れた」
それから贄 元寿は、鉄砲隊三段連射でしられている長篠(ながしの)での織田・徳川連合軍と武田勝頼の大軍との戦いにおける、信長の叱声の故事を話した。
「あの戦いでは、織田・徳川軍が三重の木柵の内側に鉄砲隊が待っているところへ、武田の騎馬隊が寄せてき、連射を浴びて大敗を喫したと語りつたえられておる。それはそれで正しいが、騎馬隊が寄せざるえなかった遠因をつくったのは、酒井左兵衛督忠次(ただつぐ 49歳)が武田軍の後方の鳶巣山頂の砦を奪取してしまえば、彼らは馬防ぎの柵へ寄せてきましょうと建策なされた。
「これに対して、信長公は烈火のごとくにお怒りになり、徳川どのの智謀といわれておる忠次ともあろう武将がそのような愚案しかだせないとは--とお叱りになった。兵衛督忠次どのは赤面しておさがりになったところ、すぐに右府(信長)どのからの使者がき、配下をしたがえてこっそり伺候せよとのこと。入幕した酒井どのに、先刻の言は計略が洩れるのをはばかってのこと、許せ。あれは上策である。しかし、だれがなせるや? もちろん、忠次どのが自らお引きうけになり、大権現さまは、本多忠勝など3000余の将兵を副えられ、ことは成った」
「では、土竜叩きの案は---?」
「『孫子』にいう。人の及ばざるに乗(じょう)ぜよ、と」
「かたじけのうございます」
「あとは、蝋たけた美女の酌を楽しむのみ。はっ、ははは」
【参照】2010年12月4日~[先手弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)
2011年1月25日~[平蔵の土竜(もぐら)叩き] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13)
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コメント
信長と酒井忠次の史話、すばらしい。長篠のあの戦いで、武田は衰退していったんですよね。
投稿: 左兵衛佐 | 2011.01.29 14:47
>左兵衛佐 さん
お気にめしていただき、光栄です。あのエピソード、酒井忠次の『寛政譜』から拾ったような記憶があります。それとも『信長記』だったかな。
『寛政譜』は譜代の家康の時代の記述ば波乱万丈でおもしろいですね。
投稿: ちゅうすけ | 2011.01.30 16:53