先手弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿(6)
「有徳院殿(吉宗 よしむね 享年68歳=宝暦元年)さまは、早くから竹千代(たけちよ のちの家治 いえはる)ぎみを鷹狩りにお連れになっていた。われが伽衆としてお傍(そば)にあがったとき(竹千代 15歳=宝暦元年)には、りっばに鷹をお使いであった」
前置きした贄(にえ)越前守正寿(まさとし 39歳 300石)は、平蔵(へいぞう 34歳)に問うた。
「長谷川うじは、家基(いえもと 享年18歳=安永8年)公の鷹狩りに供奉なされたことがおありであろうな? 射鳥は---?」
「残念ながら---」
「ふむ」
【参考】2010年5月7日[ちゅうすけのひとり言] (54)
正寿は、自分が射的の褒美を授かったことはいわず、竹千代と鷹匠頭・能勢河内守頼忠(よりただ 享年72歳=安永3年)との秘話を語った。
「有徳院殿さまがご崩じになった翌年の初春であったな。16歳におなりの竹千代さまが、吹上の池にきて求餌していた鴨へ、鷹をお放ちになったが逃げられておしまいになった」
後ろに控えていた小納戸・内山七兵衛永清(ながきよ 31歳 100石100俵)が、お腕は正しいが鷹の羽ぶりがよくないから獲りそこなった、と追従をいった。
鷹匠の頭の能勢頼忠(50歳)は、主君を愚昧にするなとばかりに、内山永清をじろりと睨み、
「七兵衛の申しようは実ではありませぬ。その鷹はこれまで、手前が丹精こめて餌付けしたもので、羽ぶりは申し分ないほどに立派です。若君の腕が、いますこし練熟にいたっていなかったために逸ししたのです」
叱声をおそれずに直言した。
不快げな表情をおさえた竹千代が、
「それではその方、三角矢来にきておる白鷺(さぎ)を、この鷹で捕らえてみよ」
承った河内守は、ほどなくして白鷺をたずさえて御前へあらわれた。
「河内(守)どのの直言、技(わざ)に、これこそ、『貞観(じょうがん)政要』(政体第2・第1章)にある、木(もく)、縄(じょう)に従えば則(すなわ)ち正しく、君、諫(かん)に従えば則ち聖(せい)なり、と公はいたく反省なさった」
「仕候している良臣の諫言(かんげん)を受けいれる帝たる者は聖人のごとくになれるというのは、分かります。木、縄に従えばすなわち正しい---とは?」
平蔵が興味深げに訊いた。
越前守正寿が解説した。
竹千代ぎみが弓技にすぐれていることは周知のことである。
武力でもって「貞観の治」をなしえた太宗も、弓術が自慢で、弓のことは奥義に達してしいると自惚れていた。
それで、10数張の良弓を手にいれたと吹聴し、弓工に示した。
ところがその弓工は、
「いずれも、良材ではありません」
理由を訊かれ、木目が曲がっていると応えた。
このことを引いた諫臣(かんしん)の一人である王珪(おうけい)が、先の言葉---
どんなに曲がった木でも、墨縄(すみなわ)にしたがってきればまっすぐになるし、どんな君主であっても、諫言を呈する家臣に従えば聖なる君主になれるものです。(「『貞観政要』に学ぶ。上に立つ者の心得」 渡部昇一・谷沢永一 致知出版社 2008)
(越前(守)どのは、盗みの世界にはいった者でも、法のあて方で正しい道に帰すことができるとおもっているのであろうか)
自分が、麦畑の畝を日光道中に竪(たて)にと進言したために、沿道の村々の者が苦労したことを、平蔵は苦くおもいだしていた。
現に、〔戸祭(とまつり)〕の九助(きゅうすけ 23歳)を〔強矢(すねや)〕の伊佐蔵(いさぞう 28歳)の許へ走らせてしまった。
【参照】2010年10月20日~[戸祭(とまつり)の九助] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)
【参照】2010年12月4日~[先手弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] (1) (2) (3) (4) (5) (7) (8)
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コメント
これまで、将軍なんて遠い人と思いこんでいましたが、このように贄安芸守正寿の口から語られると、ずっと身近に感じられます。
投稿: tsuuko | 2010.12.09 08:50
いま、家治という将軍、彼ととも学んだ贄安芸守正の政治思想、人生哲学を汲みとる一助にと、『徳川実紀』の吉宗の素描を読んでいます。膨大な量なので、おいおい、ご紹介するつもりです。
投稿: ちゅうすけ | 2010.12.09 10:11