先手・弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿
進みすぎた暦を安永8年(1779)4月まで戻す。
将軍・家治(いえはる 43歳)の継嗣・家基(いえもと 享年18歳)の葬儀が終わった翌月である。
長谷川平蔵(へいぞう 34歳)は、主(ぬし)がいなくなり、哀悼とともに虚脱感が濃い西丸の書院番4の組に、いままでどおりに出仕していた。
月に3宵か4夜は、深川・藤ノ棚を訪れ、里貴(りき 35歳)の肌を桜色に喜ばせてもいた。
【参照】里貴の仮寓のある亀久橋にそった藤ノ棚の地名は、尾張屋板の切絵図には明示されていない。
しかし、『鬼平犯科帳』文庫巻1の[むかしの女]p279 新装版p295 には、ちゃんと書かれている。
これは、池波さんが、かつて名古屋で求めた近江屋板に拠っていたからである。
(近江屋板切絵図 青○=「俗に藤ノ棚と云ふ})
(近江屋板切絵図 藤ノ棚の周辺)
(尾張屋板切絵図 赤○=藤ノ棚あたり)
こまごましい瑣事や生ぐさい房事の報告はあとまわしにし、すでに記した人事の再確認をしておきたい。
安永7年(1778)2月28日、小姓組番士頭取より、先手・弓の2番手の組頭として着任した贄(にえ) 安芸守正寿(まさとし 38歳 300石)の素描をこころみたい。
先手・弓の2番手の組頭の先任者は、長谷川本家の太郎兵衛正直(まさなお 69歳=安永7年 1450石)が他組から転じてき、1年2ヶ月ほど在勤した。
後任の贄 越前守正寿は、5年5ヶ月その職にあり、うち4年8ヶ月、火盗改メを命じられていた。
とのあえず、贄 正寿に触れた記録にリンクしてみよう。
【参照】2010年4月8日[ちゅうすけのひとり言] (55)
じつは、『寛政重修諸家譜』の贄 正寿の項を読んで、この記述に興味を大いにひかれた。
天明四年(1784)七月二十六日堺奉行にうつり、(8年後の)寛政四年(1792)五月二十三日江戸にめさるゝのところ、土地の者ども挙て相おしみ、なをしばらく職にあらむことを訴ふるのむね上聞に達せしかば、すなわち糺さるゝのところ、民みな正寿が風化に帰服しあるのよし聞こえしにより、賞せられ、武蔵国比企郡のうちにおいて百石の地を加へられ、もとのごとく職にあり、なをさらに相励てつとむべしとの恩命をかうぶる。
(寛政)七年(1795)十一月十九日堺にをいて死す。年五十五。
『徳川実紀』も、同年5月23日の項に、
堺の奉行 贄 安芸守正寿こたびめされて下りしに、その所の者共皆請い申て、今しばし転役命ぜられぬやう申せし事聞えあげれば、御検察もありくにや、一統に帰伏たがふ所なし。一段の事に覚召され禄百俵を増賜ふ。こたげの所は別に仰出さるべし。早々任所へ立帰り猶精研励むべしとなり。
幕府としては、異例の処置であったろう。
善政の宣伝にはなる。
能吏というより、町方にとっての数少ない良吏であったのであろう。
生きながらえておれば、もしかすると、大坂町奉行であったかもしれない。
もっとも、町方にとっての良吏を、幕府の上層部が好んだかどうかはわからない。
堺町の町人から、余人をもって代えがたいほどのいかような事績があったのか、都中央図書館蔵の1930年刊『堺市史』でひろった。
ほんの10数行、記録されていた。
歴代奉行中錚々(そうそう)の人物であった。
寛政五年(1793)四月事以て参府を命ぜられた際、転職の風評あり、出発に際して市之丞を惜しみ、大坂城代に対し再勤の願書を提出した。(文化10年手鑑)
五月幕府は正寿の治績を嘉し、かつ市民の哀情を察し武蔵(国)比企郡内に於いて食禄百石を加増し、帰任せしめた。
在職中天明の飢饉にはよく処置を過たず、又吉川俵右衛門の築港事業を助け、工事中に土砂の運搬所、いわゆる砂持始まり、市中殷賑を極めた。
正寿工事の場所に出馬して、手伝いの町民等へ一々神妙との詞(ことば)をかけ、これがために人々更に力を得、一層工事が進捗したと云われてゐる。(堺御奉行代々記)
(寛政)七(1795)年九月病に罹り、十一月十九日卒去、享年五十五歳であった。
湊村で荼毘(だび)し、南宗寺に葬った。(茅溟刺吏鑑)
墓表に寛量院殿従五位下前芸州刺吏海印紹信居士とみえる。
墓碑の「紹信」は『寛政譜』に記されている法名「超信」の誤記かもしれないが、あるいは『寛政譜』のほうが誤っているのかもしれない。
南宗寺は、堺市堺区南旅籠町東3-1-2に現存しているが、墓標は先の空襲で破壊され消滅した。
墓碑に「芸州刺吏」とあるのは、歿時の爵名の「安芸守」であろう。
正寿は、壱岐守、越前守をも称しているが、この2つへの改称年月は未詳である。
また、堺奉行時に妻子を帯同していたか否かも記録を見ていない。
【ちゅうすけのつぶやき】明治へ移行時、贄 家も駿河へ転居したとおもわれるので、SBS学苑[鬼平クラス]で、クラス・メイトなり職場に、贄姓の方はおられなかったかと訊いたが、手はあがらなかった。
むしろ、和歌山の鬼平ファンに問いかけたほうが反響があるのかもしれない。
【参照】2010年12月4日~[先手・弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)
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コメント
そうか、藤ノ棚、いくら尾張屋板で探してもみつからなかった謎がやっと解けました。近江屋板だったのですね。
しかし、近江屋板の復刻ものって、入手が困難です。
ところで、藤ノ棚という地名、かつては少し高めで、富士がよく望めたのでしょうか? それとも、文字どおり藤の棚がつくられていた?
投稿: 左兵衛佐 | 2010.12.04 06:01
>左兵衛佐 さん
池波さんは、新国劇一座が名古屋の御園座に出演したとき、ちかくの古書店で近江屋板が一揃いあったのを見つけて求めたと、エッセイに記しています。
小説を書く前かもしれません。
それから復刻版が容易に手に入る尾張屋版を持ち歩いたのでしょう。
尾張屋板は見た目、きれいですからね。
しかし、『鬼平』の初期のころは、近江屋板を使っていたように、2,3の記述から類推できます。
藤ノ棚の富士拙説---卓論ですし、この地から富士が望めたこともいろんな絵からうかがえますが、水辺ですから、藤ノ棚をつくっていた家か場所があったとみるほうが自然ではないでしょうか。
投稿: ちゅうすけ | 2010.12.04 07:18