先手・弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿(5)
「われは選ばれ、火盗改メの重責をになうことになり申した---」
贄(にえ) 越前守正寿(まさとし 39歳 300石)は言葉をつないだ。
お上(家治 いえはる)として西丸から本城へお移りになったので、われも小姓組番士として従い移った。
その後、しばしば、火災がつづいたことがあった。
「いや、明和9年(1772)の目黒・行人坂の大火事のときのことではない。行人坂の大火といえば、長谷川うじのお父上(宣雄 享年55歳=安永2年)が火付け犯をおあげになりましたな」
正寿の敬意の視線を感じた平蔵(へいぞう 34歳)は、軽く頭をさげて受けとめた。
【参照】2009年7月2日~[目黒行人坂の大火と長谷川組] (1) (2) (3) (4) (5) (6)
「お上は、自らお庭の山へお登りになり、火の勢い、風の向きをたしかめたのち、齢の若い近習の者たちに火事場の実情を見てくるようにと仰せになった」
「なにか役立ちたくてうずうずしていた若い近習たちが、このときとばかりに喜びいさんでわれ先に駆けだそうとすると、お上は、しばし待て、とお止めになり、
「火災は、民の憂いの大なるものの一つである。民の憂いはすなわち余が憂いである。面白がることなく、地の遠近、火の緩急により、ほどこすべき術もあろう。汝ら、そのこころを体して見てまいれ。
「そのあと、残っていたわれらに、しみじみとお洩らしになった。
「近年、火事が多いのは、余の政事を天がおいましめになっているのであろう。、一層、心して政事に励まねばならない」
『貞観政要』にも、こうある。
「水旱(すいかん 天候)、調(ととの)はざるは、皆、人君の徳を失うがためなり。朕(ちん)が徳の修まらざる。
天 当(まさ)に朕を責むべし。百姓、何の罪ありて、多く困窮するぞ」(山本七平さん『帝王学 「貞観政要」の読み方』 日経ビジネス人文庫 2001)
こんなことも最近、小納戸の根来内膳長郷(ながさと 35歳 500石)から聞いたことがあると、越前守正寿が話した。
湯殿で背中をお流ししていた根来内膳長郷(ながさと 33歳=安永6年)に、家治(41歳=安永8年)が、屋敷の場所と隣家を訊いた。
「駿河台小袋町(現・千代田区神田駿河台2丁目)に拝領しており、隣家はおなじく小納戸役を勤めておる平岡藤次郎道章(みちあきら 36歳=同 150俵)にございます」
もう片側の隣家がさらに訊かれた。
三渕(みつぶち)縫殿助(ぬいのすけ)正広(まさひろ 34歳 1200余石=同)も小納戸組なので、朝夕、公私ともに話しあっていると応えると、
「うらやましいかぎりである。予の近隣は、仲良くもなく、行き来もない」
はて、三家や三卿とは交誼が厚いはずだが---とおもつつ、ご近隣とは? と問うた。
「唐土、朝鮮、天竺、阿蘭、その他いかなる隣国があるか、もっといろいろあるであろうが、わからない」
「気宇壮大でございますな」
筆頭与力・脇屋清助(きよよし 51歳)が感にたえずといった声をあげた。
正寿は、そうではない、と柔らかくさえぎり、
「『貞観(じょうがん)政要』に[戦を忘るれば、即(すなわ)ち、人殆(あやう)し]---無防備のままでは、攻め込まれて国民を侵略の危険にさらす、とある。
しかし、[戦を好めば、人、凋(ちょう)す]---国民の生活が疲弊する、ともある。
武力の武は、もともと、弋(ほこ)を止めるという字である。武力をつかわないで先方から和と礼を求めてくるようにするのが最善である。
唐の太宗は、北荻(ほくてき)のある部族の凶暴な長(おさ)にむすめを縁づかせ、懐柔に成功した。
「お上がお考えになっている隣の国々との和も、これではなかったか」
平蔵(へいぞう 34歳)は、考えこんでいた。
(田沼(主殿頭意次 おきつぐ 61歳 相良藩主 3万7000石)侯が、愛妾でもなくむすめでもない里貴(りき 35歳)を、可愛がってやってくれ、といわれたのは、どういう意図からであったろう? いまさら、わかったとて詮ないことではあるが---)
(根来内膳長郷の個人譜)
【参照】2010年12月4日~[先手弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] (1) (2) (3) (4) (6) (7) (8)
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コメント
図書館で山本七平先生『貞観政要の読み方』を借り出してきました。
このブログで教えられるまで、こんな本が1000年も前に書かれ、北条政子や徳川家康が愛読したなんて知りませんでした。
いまの民主党の首脳部にも読ませてやりたいと思いながら読みすすんでいます。
いい本をおすすめいただき、ありがとうございました。
投稿: 左兵衛佐 | 2010.12.08 05:08
>左兵衛佐 さん
贄(にえ)安芸守正寿と将軍・吉宗と家治を調べていく過程で、『貞観政要』と山本七平さんの著書をみつけました。
七平さんの著書のほかに、渡部昇一先生と谷沢永一先生の対談による解説もあります。
元の本は、明治書院から大冊で出ていますが、著作でもしないかぎり、手元へ置くほどのことはないでしょう。
投稿: ちゅうすけ | 2010.12.08 07:42