平蔵の土竜(もぐら)叩き(11)
「〔鳥越屋}吉兵衛は、前々代が熊谷宿からでてきて娼家を開きました。
熊谷でも2代ほど娼家をやって貯めこんだとのことです。
もともとの出は、屋号にしている羽前の庄内藩・最上郡(もがみこおり)鳥越村だそうで、その筋からでしょう、羽前生まれの娼妓(こ)をそろえており、客も羽前や羽後出身の男が多いといわれております。
お申しこしの悦三(えつぞう 35歳)の相娼(あいかた)は、お甲(こう 28歳)で、12年来のなじみといっておりました。
最上郡の最上小国川ぞいの志茂村(現・山県県最上郡最上町志茂)の小作人のむすめで、14のときの飢饉で売られてきたそうです。
根が頑丈なのか、10数年この生業(なのわい)をつづけていて、ほとんど寝こんだことがないそうです。
悦三は、月に3,4度くるそうですが、泊まっていくことはなく、線香1本、長くても2本で帰っていくとか。
いちど、お甲のほうから、いっしょになりたいといってみたが、返事をしなかったそうです。
(緑○=志茂村と最上小国川、青○=鳥越村と鳥越川、赤○=舟形村と堀内村、最上川)
お甲の前は、18で病死した、やはり最上郡の津谷村(現・山県県最上郡戸沢村津谷)生まれの娼妓だったといいますが、はっきりしません。
もっと詳しくということであれば、〔鳥越屋〕を辞めていったおんなたちをあたってみますが---」
元締・〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 55歳)の調べは意をつくしていた。
(羽前生まれの悦三はしっかり者ではあっても、本音のところで引け目を隠しているから、おんなと遊ぶときには、同郷出身の娼妓を相手だと気がねがないのであろう。かわいそうなところもないではない)
目白坂の由縁(ゆえん)となっている目白不動堂は、音羽9丁目から上っていくと左手に広大な境内をそなえており、その境内には、数軒の料理茶屋がならび、繁盛していた。
上の絵の左手に軒をつらねている2軒目〔関口屋〕を重右衛門が指定した。
重右衛門と平蔵、それ大年増が一人、待っていると、ほどなく、同心・吉田藤七(とうしち 40歳)が悦三をともなって案内されてきた。
悦三は、大年増を見てぎょった立ちすくんだ。
「お甲---お前---」
「元締さんにいわれた〔鳥越屋〕のご主人から、行ってこいっていわれたのよ」
「元締さん---?」
「おお、悦三さんか。元締はあっしだ。贄(にえ)(越前守元寿 もととし 41歳)のお殿さまから、音羽一帯の夜廻りの手札も頂戴しておる」
悦三を座らせると、吉田同心はあいさつをして部屋をでた。
「悦三。おぬしを呼んだのはわしだ。じつはな、〔舟形(ふながた)〕の宗平(そうへえ 60前)の爺(と)っつぁんに伝えてほしいことがあってな」
悦三は、自分と同年配とみえる平蔵に、気合いでのまれてしまっていた。
【参照】2011年1月25日~[平蔵の土竜(もぐら)叩き] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13)
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