おみねに似たおんな(6)
「ご主人。〔染翰堂(せんかんどう)〕で、もっとも高価な品はなんであろう?」
〔染翰堂(せんかんどう)・吉沢〕の店主・惣兵衛(そうべえ 48歳)を〔三文(さんもん)茶亭〕へ呼びだした平蔵(へいぞう 35歳)が訊いた。
「石でございましょう」
「---石?」
「失礼申しました。硯(すずり)のことを、仲間言葉で石と呼びます」
「どれほどに高価かの?」
「この国のものですと、甲州の雨畑((あんばた)とか長州の赤間(あかま)の石を彫ったものだと、上品(じょうほん)で5両(80万円)ですが、紫石といわれている唐物(からもの)の端渓(たんけい)硯には、150両(2400万円)でも手に入らないものがございます」
「硯ひとつに150両---のう」
「もっとも、骨董としての値打ちでございますが---」
【ちゅうすけ注】2005年1月1日[雨畑(あまばた)の紋三郎](文庫巻8[あきれた奴]参照)
文房四宝といわれる、墨・筆・硯の商いの世界で35年近くももまれてきた惣兵衛としては、書院番士ごときの若造に、端渓硯や歙州(きゅうじゅう)の緑石の魔力がわかってたまるかといった口調であった。
「いや、詩文や書に親しんでいる貴顕にとっての硯や毛筆は、武士の刀剣に匹敵しよう。万金を投じてでも名器を求めてやむまい」
感嘆しきりの言葉に、惣兵衛が得意げにうなずく。
茶を喫してから、おもむろに、
「ところで、染翰堂どの。親しくしている火盗改メの知己からささやかれた内密の話だが---秘密を守ると約束できるかな?」
「ことと次第によりましては---」
「貴店の浮沈にかかわることなのだが---」
「なんと---」
「盗賊が、〔染翰堂}の有り金に目をつけておるそうな」
「げっ---」
「これ。異様な声を出してはならぬ。火盗改メのお頭(かしら)・贄(にえ)越前(守正寿 まさとし 40歳)どのの役宅へ投げ文があり、そのことがわかった。
もっとも、投げ文には署名がなかったから、たしかとはいえない。しかし、要心するにこしたことはない」
しばらく、放心したように黙りこくっていた惣兵衛が、したたかな商人に戻り、
「どうしてそれが、長谷川さまのお耳に---?」
問い返してきた。
「そのことよ」
茶寮〔貴志〕と田沼主殿頭意次(おきつぐ 62歳 老中)のかかわりを手短かに説明し、そこの女中頭をしていたお粂(くめ 39歳)がこの〔三文茶亭〕の女将で、亭主というのが拙の供人である。
したがって、お粂の息子・善太(ぜんた 10歳)は、拙にとっては甥っ子のようなもの。
その善太が勤めることになった〔染翰堂〕にかかわることは、他人ごととはおもえない。
「いま、いかほどの現金をお蓄(たくわ)えかな?」
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コメント
端渓(たんけい)硯が盗賊・雨畑の紋三郎と同一ディスプレイ上で語られるなんて、このブログなればこそです。
いまさらですが、教養的ブログの観、しきり。
いや、いいテキストでした。ありがとうございます。
投稿: 文くばりの丈太 | 2011.01.08 05:31
ブログを読んで、亡父が歙州の緑石硯を家宝のように大切にしていたのを覚えています。
静岡の戦災で失われましたが。
しかし、父はいちどもその無念を口にはしませんでした。
愛玩喪志という言葉をおぼえたのは、父が逝ってしばらくしてからでした。
投稿: 左兵衛佐 | 2011.01.08 05:47
>文くばりの丈太 さん
〔雨畑〕の紋三郎のために、雨畑町の観光課と文通をしたのは、5年も前のことです。たぶん、池波さんもここの硯をお持ちだったのでしょう。
『盗人かかわり全国観光地図』でもつくるみたいに、盗人の出身地調べに取り組んでいた時期で、市町村の観光課へ手紙をだしまくっていました。
投稿: ちゅうすけ | 2011.01.08 07:14
>左兵衛佐 さん
そういうお父上のもとでお育ちになったのですね。
そうか、静岡ですね。維新で、幕臣が押し込まれるように移住させられたのでした。
きっと、お父上のころまで、士魂が受け継がれていたのですね。
それにしても歙州硯をお伝えになっていたとは!
あの空襲、憎みてもあまりある残虐行為です。
早期終戦に持ちこまなかった軍部をうらむべきかも。
投稿: ちゅうすけ | 2011.01.08 07:23