藤次郎の初体験
「先生。覚えました」
先刻からなにか話したげな菅沼藤次郎(とうじろう 13歳)であった。
太刀ゆきが甘いとおもっていたが、木刀をおさめ、汗流しに湯殿へ入るなり、告げた。
真夏なので全身汗まみれ、だが、井戸端で全裸になるわけにはいかない。
「覚えたとは、なに、をだ?」
稽古着を脱ぎ、下帯一つで手おけで湯桶にはられていた水をかぶっていた平蔵(へいぞう 31歳)が、これも裸の藤次郎を見た。
「女躰(にょたい)です」
「なに?」
おもわず、藤次郎の股に視線をとばした。
1分(3mm)ほどのうっすらとした若芝生が水滴にぬれていた。
まだ、男のそれとはいえなかった。
「女の股に、はいったのです」
「藤(とう)。まさか、道場仲間の有馬うじの妹ごの---」
「いいえ。智津(ちづ 14歳)どのではありませぬ」
藤次郎は、おたふく顔の智津を見ると、体が熱くなると打ちあけていた。
【参照】2010年5月20日[藤次郎の初恋]
7000石の大身の屋敷で、一人きりの嫡男として、なんの苦労もなく育っている藤次郎は、性を話題にするのは恥ずかしいことと教えられていなかった。
旬日前の夜中、顔にあたっている異質な感触に目覚めた。
おたふくの面(めん)をかぶった者が添い寝していた。
手でまさぐると、肉置(ししおき)の豊かな腰があった。
全裸だった。
「誰?」
おたふくが藤次郎の口をふさぎ、面の下からくぐもって
「お声をお立てになってはなりませぬ」
乳母同様の佐和(さわ 32歳)としれた。
面をとり、唇を耳元へよせ、ささやく。
「若は、有馬さまの智津さまがお好きなのでございましょう?」
「わかったか?」
「お母ご代わりとして5年もお仕えしておりますもの」
佐和は、小間使い頭という重い地位にいるが、16歳で菅沼家の奥向きに奉公にあがり、嫁入りということで22歳のときに暇をとったが、26歳で戻ってき、当主・織部定庸(さだつね 享年35歳)の病室に2年近く仕えていた。
定庸が歿すると、年功で腰元頭となり、奥向きのおんなたちを支配した。
藤次郎の身のまわりも、乳母のように世話をしてきた。
「若。智津さまはいけませぬ」
「なぜだ?」
「7000石の若のご内室として、ふさわしくございませぬ。家格がちがいすぎます」
横をむこうとした藤次郎の躰を引きよせ、指をとり、芝生をわけた秘部へみちびき、横笛の穴をおさえて音(ね)を変えるように、指でやさしく、すばやく、たたかせた。
「女子(じょし)の股をお訪れになる前の作法でございます」
指を交互にとんとんと触れ、ときにはじいていると、、佐和は気分が昂(たかま)ってきたか、尻があがったので、藤次郎の小指が、つい、割れ目にはまり、濡れを感じた。
佐和は、指の動きをそのままつづけるようにいって少年の上にかぶさり、膝と肘で躰をうかせ、躰位をずらし乳首をふくませた。
が、すぐに少年の硬直してきたものをつかむと、股のあいだにくわえこんだ。
藤次郎が恥じる気配もなく、打ち明けたのは、その瞬間の感じであった。
「女躰の股ぐらが、あのように滑らかで、奥深いとはおもいませぬでした」
(北斎『縁結出雲杉』 イメージ)
(はは。その佐和とやらいう出戻りおんな、主家の世継ぎの初穂をいただいてしまったな)
平蔵は、17年前の東海道の三島宿で男にしてくれたときのお芙佐の感きわまったような深いつぶやきをおもいだしていた。
「---お初めてとうかがいました」
「----」
「わたくし、後妻だったものですから、初めての殿方、わたくしも初めて。こうして安らかに睦みあっていますと、母子の添い寝のようです」
【参照】2010年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙佐(ふさ)]
「その晩、母ごどのは、どうしておられたのだ?」
藤次郎の母親・於津弥(つや 37歳)は、7万石の大名・牧野備後守貞通(さだみち)の17男13女の10番目の女子として生まれ、19歳で菅沼織部定庸(さだつね)に帰嫁したが、1女1男(藤次郎)を産んだだけで床(とこ)すべらかし同様のあつかいをうけた。
【参照】2010年4月7日[菅沼家の於津弥] (2)
「母者(ははじゃ)は、2日前から、召使のお菊(きく 18歳)を伴い、四ッ目の別邸へ参っておりました」
於津弥にその道を手ほどきしたのは、お勝(かつ 35歳)で、ここの風呂場においてであった
【参照】2010年4月18日[お勝と於津弥]
佐和が上から腰をゆさぶるたびに、少年の快感が昂まりはじめた。
「あっ、というまに、生まれて初めての感覚が、稲妻のように股から頭まで躰をつらぬき、ふくらはぎが硬直しました」
「少年から、若い男に脱皮したのだ」
「脱皮?」
「さなぎが殻をやぶって抜けだし、一丁前の蜻蛉(とんぼ)になったのだ。いささか早すぎはしたが、まあ、いいであろう。その後、その腰元頭とは?」
「昼間は、顔をあわせてもそ知らぬふりをしております。しかし、母者が四ッ目の別荘へ出かけますと---」
「指で笛を吹いてくれとせがみにくるのか?」
「はい」
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コメント
初体験というのは、男も女も、一度は体験します。
どこで、だれと、どのように、初体験するかによって、そのあとの性意識というか、性行為の気分や感度が左右されることにもなりましょう。
ちゅうすけさんが、藤次郎に32歳の佐和をあてがったのは、最初だから、戸惑わないで、するりと初体験が終えられるようにとの配慮でしょう。
少女小説じゃなく、大人の読み物となっているゆえんですな。
投稿: 文くばり丈太 | 2010.07.21 04:14
男は初体験を、年増の後家に教わるものというのが、ちゅうすけさんのモットーのようですな。
銕三郎は14歳で25歳の若後家のお芙佐で、13歳の藤次郎は32歳の乳母の於佐和によって脱皮しました。
まずは、どちらも。めでたい。
藤次郎は、次は誰と結ばれるかで、彼の性々癖が決まるような気がします。
ちゅうすけさん、いい相手をあててあげてください。
投稿: 左兵衛佐 | 2010.07.21 04:28
藤次郎13才といえば、いまなら中学一年か二年でしょう、いくらなんでも早すぎ、於佐和さんはなに血迷ってと思ったけど、子どもたちに訊いたら、「いるよ、やってるの」ですって。
驚きました。私たちのころは、いくら早い人でも、15か16才、高校での体験でした。あら、私はずっと遅かったですが。
投稿: tomo | 2010.07.21 08:56
>文くばり丈太 さん
大人の読み物---かあ。そうありたいと願ってはいますが、池波さんの境地へまでは、とうてい、達しません。
せめて、足元へでもと、祈願はしていんのですが。
でも、ふりかえってみると、銕三郎の14歳のときのお相手は、25歳のお芙佐でした。
岸井左馬之助は晩生(おくて)で、22歳だかのときに、色好みに仕込まれていた30女の後家・お紺。井関録之助は後家のお元が初体験だったのかなあ。
どちらも、まだ、汁っけ十分の後家でしたね。
いつか、左馬之助と録之助のイタ・セクスアリスをまとめてみましょうか。
投稿: ちゅうすけ | 2010.07.21 09:48
>左兵衛佐 さん
自分のことではありません。
ぼくたちの友人の年代では、池波さんとおなじで、どうも、その筋のところで初体験をしましたね。相娼(あいかた)は、その道のベテランでしたから、まあ、年増の後家といっても、あながち、大きくは間違ってはいなかったとおもいます。
とんだイタ・セクスアリスでした。
投稿: ちゅうすけ | 2010.07.21 09:55
>tomo さん
個人のことはともかく、40年前、ニューヨークあたりでは、中学高学年になると、経験している子もかなりいたみたいです。その風潮が、3,40年遅れでやってきていると思えばいいのかもしれません。
もちろん、都会の子たちの話です。
江戸時代も、閉鎖された雰囲気の中では、男の子を誘惑した、後家に近い女性もいたでしょう。引用した前立のとれていない男の子を誘惑している春画も、想像画ばかりともいえないようです。
投稿: ちゅうすけ | 2010.07.21 12:35