西丸の重役
「早ばやと、掛川侯(太田備後守資愛 すけよし 43歳)が本城の少老(若年寄)へ転じられるらしい」
こういう風聞には早耳の盟友・長野佐左衛門孝祖(たかのり 36歳 600俵)が、廊下で耳うちしてくれた。
さあらぬ態(てい)で、
「で、後任は---?」
「与板(よいた)侯(井伊兵部少輔 しょうゆう 直朗 なおあきら 35歳 2万石)らしい」
「若返えるな」
応じたものの、平蔵(へいぞう 36歳)は別のことをかんがえていた。
ときは天明元年(1781)9月中旬(旧暦)---。
佐左(さざ)は、西丸・書院番3の組の番士で、平蔵も、同じ西丸・書院番士ではあるが、組が異なっており、4の組であった。
太田備後守は、4ヶ月前の閏5月11日、若君・豊千代(とよちよ 9歳)の西丸入に先んじて着任し、いそがしくあいさつ廻りをしたばかりであった。
移転先は本城の若年寄だから、昇格といえないこともない。
しかし、平蔵の目は別であった。
井伊兵部少輔の内室は、老中・田沼意次(おきつぐ 64歳 相良藩主 4万7000石)の四女だから、それなりの思惑があるとみた。
意次の甥・田沼能登守意致(おきむね 41歳 800石)は、西丸・小姓組番頭格で西丸入りして諸事を執啓しはじめているが、兵部少輔にその後ろ楯としての任務が課されているのであろう。
太田備後とのあいだに、なにか対立があったのかもしれない。
「佐左。一献、やるか」
「いいな」
「おぬしのところの小者を、茶寮〔季四〕と隣りの〔黒舟〕へ使いにだせるか?」
「舟足のためなら、否やがあるわけはない---」
佐左は、このところ、太りぎみといっていい。
いつものように、鍛冶橋東詰の五郎兵衛町の舟着きまでくると、堀端の柳(樹にもたれるようにして絵筆を動かしている宗匠頭巾の小柄な男が目にとまった。
20年以上も前の記憶が鮮やかによみがえった。
(芦ノ湖畔での、あの男だ)
【参照】2007年7月14日~[〔荒神(こうじん)〕の助太郎] (1) (2) (3) (4)
松造(よしぞう 30歳)に目くばせし、
「煙管問屋の前の柳にもたれている宗匠頭巾の男をそっとうかがえ。おぬしが宇都宮で尾行(つけ)た男ではないか?」
こころえて、さりげなく鼻緒の具合をたしかめる態(てい)でのぞき、
「間違いなく、助太郎です」
「よし。残って尾行てくれ。落ち着き先の報せは、明日でよい」
そのまま、黒舟で佐左を待った。
〔季四〕では、新しい番頭・渋谷(しぶや)隠岐守良紀(よしのり 57歳)の人品につき、もっぱら、佐左が述べた。
父・良信は、紀伊では、膳番で60石であった。
それが、隠岐守、和泉守、山城守と叙任し、3000石にまで出頭した。
譜代の幕臣では三代・(家光 いえみつ)このかた、例が少ないと鬱憤を吐いた。
「佐左。水をさして悪いが、女将の里貴(りき 37歳)どのも紀州の出で、亡夫どのは田安家にお仕えであった」
「これは失言。そういえば、ここは相良侯(田沼意次)がお肩入れであったな」
「お与(くみ 組)頭の内藤(左七信庸 のぶつね 71歳 460石)さまにもご贔屓をいただいております」
「桑原、くわばら---」
里貴は笑い、
「口はいたって堅うございますゆえ---」
「で、渋谷番頭どのはどうなのだ?」
「なにかというと、八田(やつた)侯(加納遠江守久堅 ひさかた 71歳 若年寄 伊勢・八田藩主 1万石)と額を寄せての合議だ。あれでは、井伊兵部少輔さまもお骨折りになろうよ」
「相良侯がお見込みになられた与板侯ゆえ、案ずるにはおよぶまい」
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