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2011年2月の記事

2011.02.28

西丸の重役

「早ばやと、掛川侯太田備後守資愛 すけよし 43歳)が本城の少老(若年寄)へ転じられるらしい」
こういう風聞には早耳の盟友・長野佐左衛門孝祖(たかのり 36歳 600俵)が、廊下で耳うちしてくれた。

さあらぬ態(てい)で、
「で、後任は---?」
与板(よいた)井伊兵部少輔 しょうゆう 直朗 なおあきら 35歳 2万石)らしい」
「若返えるな」
応じたものの、平蔵(へいぞう 36歳)は別のことをかんがえていた。

ときは天明元年(1781)9月中旬(旧暦)---。

佐左(さざ)は、西丸・書院番3の組の番士で、平蔵も、同じ西丸・書院番士ではあるが、組が異なっており、4の組であった。

太田備後守は、4ヶ月前の閏5月11日、若君・豊千代(とよちよ 9歳)の西丸入に先んじて着任し、いそがしくあいさつ廻りをしたばかりであった。
移転先は本城の若年寄だから、昇格といえないこともない。

しかし、平蔵の目は別であった。
井伊兵部少輔の内室は、老中・田沼意次(おきつぐ 64歳 相良藩主 4万7000石)の四女だから、それなりの思惑があるとみた。

意次の甥・田沼能登守意致(おきむね 41歳 800石)は、西丸・小姓組番頭格で西丸入りして諸事を執啓しはじめているが、兵部少輔にその後ろ楯としての任務が課されているのであろう。
太田備後とのあいだに、なにか対立があったのかもしれない。

佐左。一献、やるか」
「いいな」
「おぬしのところの小者を、茶寮〔季四〕と隣りの〔黒舟〕へ使いにだせるか?」
「舟足のためなら、否やがあるわけはない---」
佐左は、このところ、太りぎみといっていい。

いつものように、鍛冶橋東詰の五郎兵衛町の舟着きまでくると、堀端の柳(樹にもたれるようにして絵筆を動かしている宗匠頭巾の小柄な男が目にとまった。

20年以上も前の記憶が鮮やかによみがえった。
(芦ノ湖畔での、あの男だ)

参照】2007年7月14日~[〔荒神(こうじん)〕の助太郎] (1) () () (

松造(よしぞう 30歳)に目くばせし、
「煙管問屋の前の柳にもたれている宗匠頭巾の男をそっとうかがえ。おぬしが宇都宮で尾行(つけ)た男ではないか?」
こころえて、さりげなく鼻緒の具合をたしかめる態(てい)でのぞき、
「間違いなく、助太郎です」
「よし。残って尾行てくれ。落ち着き先の報せは、明日でよい」

そのまま、黒舟で佐左を待った。

〔季四〕では、新しい番頭・渋谷(しぶや)隠岐守良紀(よしのり 57歳)の人品につき、もっぱら、佐左が述べた。

父・良信は、紀伊では、膳番で60石であった。
それが、隠岐守、和泉守、山城守と叙任し、3000石にまで出頭した。
譜代の幕臣では三代・(家光 いえみつ)このかた、例が少ないと鬱憤を吐いた。

佐左。水をさして悪いが、女将の里貴(りき 37歳)どのも紀州の出で、亡夫どのは田安家にお仕えであった」
「これは失言。そういえば、ここは相良侯(田沼意次)がお肩入れであったな」
「お与(くみ 組)頭の内藤左七信庸 のぶつね 71歳 460石)さまにもご贔屓をいただいております」
「桑原、くわばら---」
里貴は笑い、
「口はいたって堅うございますゆえ---」

「で、渋谷番頭どのはどうなのだ?」
「なにかというと、八田(やつた)侯(加納遠江守久堅 ひさかた 71歳 若年寄 伊勢・八田藩主 1万石)と額を寄せての合議だ。あれでは、井伊兵部少輔さまもお骨折りになろうよ」
相良侯がお見込みになられた与板侯ゆえ、案ずるにはおよぶまい」

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2011.02.27

菅沼新八郎の初見

「殿のご帰館!」
先触れが門の外で声をはりあげた。

家治(いえはる 45歳)に初見(おめみえ)した当家の主(あるじ)・新八郎定前(さださき 18歳 7000石)が帰ってきたのであった。

菅沼一族のうち、奉書をまわされた諱(いみな)に「」がついた縁(えにし)の濃い家の当主たちがしきたりどおり、麻裃をつけて式台に着座し、出迎えた。

こういう時の序列のきまりにしたがい、年齢順に記すと、

菅沼主膳虎常(とらつね 67歳 小普請支配 700石)
菅沼左京定寛(さだひろ 39歳 舟手 3000石)
菅沼新三郎定喜(さだよし 20歳 2020石 中奥小姓)
菅沼藤十郎定富(さだとみ) 11歳 2020石)
(このうち、虎常定富の養父・和泉守定亨は、当ブログに登場ずみである)

平蔵(へいぞう 36歳)は、剣の師ということで、竹尾道場の主とともに、その末座につらなっていた。

それぞれに祝意を表して酒宴の席へ移り、定前が着替えてくるのを待った。

それまでの座つなぎに、『実紀』の天明元年8月6日の項に初見した者28人とし、その首頭に交代寄合・菅沼新八郎を記し、そのあとにつづいた、平蔵にもかかわりがありそうな4人をあげておく。

書院番頭
太田駿河守資倍(すけます 53歳 5000石)
 子・鉄五郎資承(すけつぐ 20歳)

西丸書院番頭
小堀下総守政明(まさあき 45歳 5000石)
 子・式部政共(まさとも 20歳)


渋谷隠岐守良紀(よしのり 51歳 3000石)
 子・采女良寛(よしひろ 32歳)

西丸小姓組番頭
酒井紀伊守忠聴(ただし 50歳 3000石)
 子・政太郎忠笴(ただもと 17歳)

新八郎が肩衣をとった袴姿で着座すると、客たちもそれにならい、くつろいだ。

酒が注がれた。
給仕しているおんなの一人に見覚えがあった、
(きく 22歳)であった。
2年前に新八郎の子を産んだはずであった。
新八郎の幼名の藤次郎をつけたと聞いたが---。

参照】2010年11月19日~[藤次郎の難事] () () () () () () (

がまわってき、なつかしげに笑顔で酌をした。
「和子(わこ)は---?」
とたんに笑顔が消えた。

声も消えいるほどに細かった
「育ちませんでした」
「それは、訊かでもがなであった」
平蔵も、まわりに聞こえないようにつぶやいた。

「お手水(ちょうず)でございますか?」
とつぜん、おがいい、銚子をおいて立った。
涙顔はこの座にふさわしくないとおもったのであろう。

「うむ。案内をたのむ」
平蔵も受けた。

廊下へでると、おは涙目を手巾で押さえ、
「その節は、おこころづかい、かたじけのうございました」
「いまも、この屋敷に---?」
「いいえ。東本所四ッ目の別宅で、殿のお渡りをお待ちしております」

菅沼家の四ッ目の別宅へは、新八郎のいまは故人となった実母・於津弥(つや 35歳=当時)に誘われたことがあった。

参照】2010年4月5日~[菅沼家の於津弥] () (

津弥も、きょうの新八郎の凛々しい当主ぶりを見たかったであろう。

新八郎どのは当家にとっても、お上にとっても大切なお人だ。大事にな」
「はい。こころいたしまして---」

「次の和子も、やすがて、さずかろうほどに---」
うなずいたおの頬に紅がさした。

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2011.02.26

豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ(12)

豊千代(とよちよ 9歳)に家斉(いえなり)の諱(いみな)を贈ったのは、伴読の師・林百助(ももすけ)信有(のぶあり 51歳 300俵)であった。
徳川諸家系譜』によると、天明元年(1781)12月2日のことであったらしい。

したがって、以後は家斉と記したい。

天明元年には、もう一つの寿事がおこなわれた。

島津薩摩守重豪(しげひで 37歳 鹿児島藩主 77万石)の養女・篤姫(あつひめ 9歳 のち茂姫)と婚約がととのい、一旦、一橋館へ入ったうえで、江戸城本丸へ移った。

この姫は近衛前右大臣家の養女となって箔をつけたあと、将軍となった家斉と寛政元年(1789)2月4日に婚姻した。
双方ともに17歳であった。

前掲書によると、家斉の第一子・淑姫は、その年の3月25日に本丸大奥の於が産んでいる。
は、紀州勢で小納戸頭取・平塚伊賀守為善(ためよし 300俵)の六女である。
孕んだのは前年で夏であろうから、家斉は16歳、おは推定だが20歳前後。

その後もおは、2男(竹千代 12代将軍を含む)1女を産んでいるから、寵愛は長つづきしたようだ。

側室40人、16腹で28男子、27女子といわれている家斉のはげしいヰタ・セクスアリスを描こうというわけではない。

家斉のあまりにも年少での子づくりに驚いているだけてある。
まあ、育児の手間も養育の費用も気にはならない環境ではあるが。

いや、そういうことだと、平蔵(へいぞう 36歳)も口はばったいことはいえない。
14歳の初体験で精は放ったものの、さいわい(?)実を結ばなかった。

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)] (

18歳のときには、そうはいかなかった。
出あったのは、縁切り寺へ入る決心をしていた21歳の人妻であった。

【参照】2007年12月29日~[与詩(よし)を迎えに] () (10) (11) (12) (13) (14) (15

銕三郎(てつさぶろう)時代から平蔵を襲名(28歳)してのヰタ・セクスアリスもこのブログの縦糸ではあるが。

家斉のそれは、吉宗(よしむね)の血筋かともおもい、3,4人の第一子をえたときの年齢を計算してみた。
(こんなばばかしい探索は、学問の外のことなので、データは自分でつくるしかない。)

吉宗 27歳
 家重の生誕 正徳元年(1711)12月21日

家重 27歳
 家治の生誕 元分2年(1737)5月22日

家治 20歳
 千代姫の生誕 宝暦6年(1756)7月21日

一橋宗尹 23歳
 重昌の生誕 寛保3年(1743)

一橋治済 23歳
 家斉の生誕 安永2年(1773)10月5日

こうしてみても、家斉の17歳は、いささか---早すぎる---余計なお世話だが。
もっとも、於万が誘い上手だったのかも。


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(平塚於万の系譜)


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2011.02.25

豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ(11)

養君・豊千代(とよちよ 9歳)の伽が4人そろったところで、天明元年(1781)6月23日に伴読の師がきまった。

徳川実紀』は、林 百助(ももすけ)信有(51歳 300俵)の名をあげている。
姓からわかるように、儒学をもって仕えていた林家の支流であった。

席を供にした伽衆は、すでに記したが、

加藤寅之助則茂(のりしげ 9歳 家禄1500石)
(久松)松平小八郎定経(さだつね 11歳 同1500俵 愛宕下)
横田鶴松松茂(とししげ 5歳 1000石 築地門跡裏門)
柘植三之丞英清(ひできよ 9歳 532石  本郷金助町)

幼い体での登城をおもい、屋敷をつけ加えた。
幕府は、馬を一頭ずつあたえたのではなかろうか。

登用されてから受講までに1ヶ月はすぎているから、呼称というか愛称ができていたろう。

加藤寅之助は、「さん」。
松平小八郎定経は、「小八(こば)さん」。
横田鶴松松茂は、「鶴んぼ」。
柘植三之丞英清は、「(さん」。
あたりか。

豊千代は、もちろん、「」。

林百助信有の『寛政譜』には、天明5年(1785)までに{「四書をあげ
た」ととある。

最初の講義は、『(らい)』であったろう。
なにしろ、いたずらざかり年齢である。

人生まれて十年になるを幼といい、学ぶ。
二十を弱(じゃく)といい、冠(かん 元服)す。
三十を壮といい、室有り(妻帯)。
四十を強といい、仕う(家を継ぐ)。
五十を艾(かい 白髪)といい、官政に服す(重職に就く)。
六十を耆(き 長年)といい、指使す(さしずする)
七十を老といい、伝う(子に地位をゆずる)
八十・九十を耄(もう 老耄)という。
七年なるを悼(とう)といい、悼と耄とは罪ありといえども刑を加えず。
百年を期(き)といいも頣(やしな)わる。

人生設計の目標を示したが、もちろん、少年たちにのみこめたはずはない。

講述した百助信有自身が4年後に55歳で逝っていた。
「(さん」こと三之丞英清は、師に2年先立ち12歳で夭逝。、
小八郎定経は「小八(こはっ)つぁん」と呼ぶ者がいなくなった16歳、これからという齢で病死した。
鶴んぼ」と親しまれた鶴松松茂は、家治の死により将軍職に就いた豊千代(家斉 いえなり)の小姓として本城へ従ったが、翌年、どうしたことか辞任している。

家斉は、幼ないときからの遊び仲間で共学の、忠臣ともなり諌臣ともなってくれるはずの者をはやばやと失っていたのである。

将軍・家治(いえはる)が50歳で薨じたのは、天明6年(1786)の秋であった。
その前に、田沼山城守意知(おきとも 36歳)の刃傷死もあった。
失脚した田沼意次の死は、その4年後で70歳。


礼記』は、女性の年代区分は記していないが、平蔵(へいぞう 36歳)は、これまでに3人の女人(にょにん)の死を体験している。
18歳で会い、女子をなした阿記(あき 享年25歳)。
琵琶湖で水死した知恵の塊であったお(りょう 享年33歳)
還俗寸前に仏となった貞妙尼(じょみょうに 享年26歳)

それぞれが、愛欲の深さと人間智をあたえてくれた。


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2011.02.24

豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ(10)

「その---太田備後資愛 すけよし 47歳)さまが西城へ、少老(若年寄)としておはいりになると、だけ---」
「お寝間で---?」
佳慈(かじ 31歳)の目は、まだ、笑っていた。

「は---いや---」
口ごもる平蔵(へいぞう 36歳)に、その夜の里貴(りき 37歳)の白い裸身がうかんだ。

「ことの前に、灯芯をおあげになるんですってね」
「そんなことまで---?」
「おほ、ほほほ---。おなごは、淫(みだ)らなことを打ちあけあってこそ、こころが通じあうのです」

笑いをおさめ、
「殿が仰せになりました。銕三郎(てつさぶろう)に抱かれて、里貴はしあわせを拾った、って---。は、理もわきまえながら、情を充分にはたらかすことができる。武士としては珍しく利(原価)も忘れないし、仁(いつくしみ)のこころも篤い。まれにみる現実の読める若者と---」
「かたじけないことながら、買いかぶっておられます」
「いいえ。深く視ておいでです。里貴さまがいなければ、わたしが拾われたかった」

一礼し、平蔵は立った。
「あら、お酒(ささ)がまだ残っております」
佐野の兄者のお供をしなければなりませぬゆえ---」
「お酒もですが、こころ残りだこと---」

元の部屋へ戻ると、佐野備後守政親(まさちか 50歳)が待ちかねていた。
意次へあいさつし、門をくぐり、
「兄者---」
「武士は、歩きながら話してはならぬ。ついてこい」
低い声で、きつくたしなめられた。

三十間堀2丁目で小さな軒行灯に〔打田〕と記している料亭風の座敷へ上がった。
「こんなところに、こんな小粋な店があるとは---」
「目付時代に、ときどき、独りで呑みにきておった」

佐野備前(守)は、西丸の目付を11年間勤め、4年前に堺奉行へ転じ、このたび大坂町奉行に栄転した。
〔内田〕の女将は、50がらみの品のいいおんなで、古いなじみの突然の来訪にもあわてなかった。

「酒はいい」
茶を運ぶと、音もたてずに消えた。

は、このたびの豊千代(とよちよ 9歳)さまの西丸入りをどう見ているのだ?」
民部卿一橋治済 はるさだ 31歳)さまとの成り行きかと---」
太田備後守資愛)侯の西丸・少老(若年寄)主座は---?」
「読めませぬ」
「譜代衆による紀州勢の封じこみ---引いては、田沼侯への足枷(あしかせ)嵌め---」
「譜代衆---? 一橋は紀州直系ではございませぬか?」
「権力をにぎりたい者は、見境がなくなる」

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2011.02.23

豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ(9)

佳慈(かじ 31歳)の部屋は、短い渡り廊下の先にあった。
艶(なまめ)かしい彩(いろど)りの調度を予想していたが、はずれた。

素朴な箪笥類に山水の墨絵の屏風があるだけであった。
香木を焚いたなごりがかすかに匂っていた。

「色めいたものが嫌いなのです」
黒っぽい着物の佳慈がにこやかにいった。

「幼な君さま附(つ)きの小納戸頭取(とうどり)どのにお会いなされましたか?」
手はすばやく酒をすすめていた。

「辞去なさる前の森川甲斐(守 俊顕としあき 57歳 600石)どのに---」
新見(しんみ)豊前守 正則 まさのり 54歳 700石)さまには---?」


「お部屋ではお見かけしませなんだ」
「ひと足先にお発(た)ちになったのかしら。でも、なぜ---?」
「は---?」
新見頭取さまのご内室が、こちらの殿のお妹ごということはご存じでございましょう?」
「いかにも---」
「あらためてお引きあわせになるとばかり、おもっておりました」

盃を持ったまま小首をかしげ、思案顔の佳慈は、いかにもこころえた年増ぶりで艶っぽかった。
まわりを素(す)に近くしている分、色気がきわだった。

「話題は、新見どのではなく、太田備後守 資愛 すけよし 46歳 掛川藩主 5万石余)さまではなかったのですか?」
平蔵(へいぞう 36歳)は本題をいそいだ。

その前に、このたび、西丸の若年寄へ帰任なされた鳥居丹波守忠意(ただおき 65歳 壬生藩主 3万石)とはいかなるかかわりか、訊かれた。

城下の壬生寺(にんしょうじ)の身代わり地蔵の盗難の一件を話すと、佳慈は膝をうち、
掛川侯は、壬生侯から何かのときにその話をお耳になさり、長谷川さまに興味をおもちになったのですね」

参照】2010年9月2日~[〔七ッ石(ななついし)〕の豊次] () () () () () () () () () (10) (11) (12
2010年10月7日~ [鳥居丹波守忠意(ただおき)] () (2) (

太田備後守が、身代わり地蔵盗難を解いた平蔵に興味をしめしたのは、掛川藩・の前の藩主・小笠原能登守長恭(ながゆき 8歳=当時)が、陸奥棚倉へ転封になったのは、日本左衛門の跳梁を見逃していたからとの風評があった。

2008年7月5日[宣雄に片目が入った] (

そんなことで転封されてはたまらないと、館林から移った太田家は、盗賊の取り締まりに力を入れていたのであった。
(番頭・水谷(みずのや)出羽守に儒学好きとおどされたが、盗賊のことなら軽い、かるい)
胸のうちで安堵のため息をもらした。

それとともに、1件落着後、肴(さかな)町の料亭〔花鳥(かちょう)〕でも慰労してくれた掛川藩の町奉行所の与力・町井彦左衛門(ひこざえもん 45歳)の油ぎった顔がぼんやりとうかんだ。
あれは、12年も前のことであった。

参照】2009年1月23日[銕三郎、掛川で] (
 
平蔵
が、
相良侯は、太田備後)さまから、なにを学べと---?」
瞶(み)つめられた佳慈が笑った。

里貴(りき 37歳)さまは、なんとおささやきになりました?」
目元に笑いがのこっていた。

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2011.02.22

豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ(8)

木挽町(こびきちょう)の中屋敷には先客がいた。
平蔵(へいぞう 36歳)も佐野備後守政親(まさちか 50歳 1100石)も顔見知りの森川甲斐守俊顕(としあき 57歳 600石)であった。

2年前、家基(いえもと 享年18歳)が急死したために、西丸の小納戸頭取をつとめていた森川甲斐は、本丸へ転じていた。

「ご両所とも顔なじみであろうが、このたびの幼君の西丸入りにそなえ、甲斐うじ、高井下野守 実員 さねかず 48歳 500石)うじ、新見(しんみ)豊前守 正則 まさのり 54歳 700石)うじらに、組下の人選を頼んでおいての、名簿がそろったところだ」

大納言家基)さまのご逝去とともに、小納戸の組の者の多くは役から離れましたから、このたびのこと、こころ待ちにしていた士が多く、選抜は、ことのほか難儀でした」
「まず、再任を優先と頼んだものの、やはり、勤めぶりもな---」
主殿頭意次が端麗な顔をこころもちゆがめて苦笑した。
「御意」

きまったのは、4人の頭取を含めて34人、うち9人が紀州勢であった。

紀州勢とは、先々代・吉宗および長福丸(のちの家重)、浄円院吉宗の母堂・於由利之方)にしたがって江戸城入りした紀州藩士の家系をさした。

あからさまにはいわないが、譜代の士たちにしてみれば、紀州勢は優遇されているとおもっていた。
このたびの小納戸組への復帰にしても、家基時代の士はほとんど選抜されていた。
それが、意次の意向でもあった。
豊千代が将軍となったとき、彼らが要所々々に配されることは明らかであり、それが紀州勢の力を温存し、拡張につながる。

森川甲斐守が辞去すると、意次は早速に佐野備後守に訊いた。
「堺湊の拡張のほうは---?」
「万端、順調に---」
うなずき、念を押すように、
「長崎のほかにも、外(と)つ国々との商いの湊が入り用になるのは目にみえておる」

つづいて、
「紀州あたりの木綿の栽培は---?」
「順調にございます」
「うむ。して、堺の豪商で、大坂へ進出している者たちへの手くばりもな?」
「はい。抜かりなく---」
平蔵は、意次の手で、お上の勝手(経済)が大きくうるおうように感じた。
ということは、佐野備後の大坂西町奉行就任は、かの地の豪商たちの金でなにごとかが仕掛けられることでもあった。

銕三郎(てつさぶろう)」
わざわざ幼名で親しげに呼びかけ、
佳慈(かじ 31歳)がなにか話があるそうな。部屋へ案内させよう」


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2011.02.21

豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ(7)

一橋の嫡男・豊千代(とよちよ 9歳)が将軍・家治(いえはる 45歳)の養君として西丸入りするにつき、幕府側は士分の従者は一人もまかりならぬと命じていた。

一橋治済(はるさだ 31歳)は、まだ幼ない豊千代がそれでは心細かろうと、同邸の家老の一人・田沼能登守意致(おきむね 41歳 800石)を西丸・小姓組番頭格で派したいと、家老どもの評定による懇願の形で、老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 64歳 相良藩主 3万7000石)に訴えた。

参照】2011年2月20日[豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ] (

一橋家にくわしい辻 達也さんは、

通説この人事は田沼意次の勢力拡大の野望に基づくといわれるが、私はむしろ一橋が意次の意を迎えようと意図したものではないかと推察している。
豊千代に付けて公儀の役職に推薦したのも、意次から種々の便宜を得ようという治済の同様の意図からと考えている。

ちゅうすけは、策略家として長けた一橋治済の性格から、辻 説に右足を置きながら、左足では意次の近親者を身辺から遠ざけようとの狙いもあったのではあるまいかと推測している。

もちろん、辻 説を補強するものとして、一橋家---というより、三卿各家に与えられている10万石分からのあがりでは、家計は慢性的赤字で、幕府からの拝借金あるいは援助金の待望感もあったろう。

しかし、豊千代の西丸入りから5年後、天明6年(1786)8月下旬から9月上旬へかけて、家治の危篤と病歿を機におきた意次失脚の、その序幕がすでにこのころから練られていなかったろうか。、

豊千代を西丸に迎える陣容が着々とすすめられていた正5月26日の『徳川実紀』に、見落としそうな記述があるので、ちょっと横道にそれたい。

堺奉行佐野備後守政親(まさちか 50歳 1100石)大坂町奉行となり、駿府町奉行山崎四郎左衛門正導(まさみち 61歳 1000石)堺奉行となり、小普請組支配小田切喜兵衛直年(なおとし 39歳 2930石)駿府町奉行となる。(括弧内はちゅすけの補筆)

この記載のあとに、すぐ、つづいているのが、今月の6日前の15日に整理して引用した、

小姓組番頭---大嶋肥前守義里。酒井紀伊守忠聴。島津山城守久般。花房因幡守地正域。
持弓頭---根来喜内。殿
持筒頭---加藤登之助泰朝
先手頭---筧新太郎正知。篠山吉之助光官。山中平吉鍾俊。宇都野金右衛門正良。柘植五郎右衛門守清。大井大和守持長。
小姓組与頭--能勢半左衛門頼喬。清水権之助義永。青木小左衛門政満。小椋忠右衛門正員。
徒頭---筒井内蔵忠昌。山口勘兵衛直良。萩原求五郎秀興。万年市右衛門頼意。桑山内匠政要。
小十人頭---奥村忠太郎正明。大岡山城守忠主。土岐半之丞朝恒。
をはじめ、、それより下の者司多く、西城に勤仕すべきよし命ぜらる。
表右筆組頭・長坂忠七郎高美、西の奥右筆組頭となる。

参照】2011年2月15日[豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ] (

横道にそれると断ったのは、このためではない。

この年---天明元年(1781)6月1日に事項に、

大坂町奉行佐野備後守政親赴任の暇たまふ。

つまり、平蔵(へいぞう)の仮兄にあたる佐野与八郎は、拝命のために上方から帰府していたことになる。
辞令が出た日に速飛脚で呼び戻しの便が送られたとして正味34日間---堺からの江戸まで17日間としても滞在は10日あるかどうかのあわただしさであったろう。

とはいえ、平蔵としては、ぜひとも一夕を共にしたかったであろう。
できることなら、そろって木挽町(こびきちょう)の中屋敷に田沼意次を訪ねたかった。
奥女中・佳慈(かじ 31歳)のささやきの真意もたしかめてみたかった。

参照】2007年6月4日~[佐野与八郎政信] () (
2007年6月5日~[佐野与八郎政親] () (
2007年6月7日~[佐野大学為] 
2007年7月20日[田沼主殿頭意次(おきつぐ)]
2010年9月19日~[佐野与八郎の内室] ( ) () () (

それと、もし、佐野兄者に日取りの余裕があれば、芝のニ葉町の藩の中屋敷での隠棲が長い本多伯耆守正珍(まさよし 70歳 前田中藩主)侯のご機嫌もうかがいたかった。

驚いたことに、田沼意次から、待っていると返書がきた。

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2011.02.20

豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ(6)

天明元年(1781)閏5月11日の『徳川実紀』に---

奏者番にて寺社奉行兼し太田備中守資愛(すけよし 43歳 掛川藩主5万石)、少老酒井飛騨守忠香(ただか 67歳 鞠山藩主1万石)西城少老となり---
(括弧内は、ちゅうすけが補記)

この発令を耳にした平蔵(へいぞう 36歳)はおもいさだめ、与(くみ 組)頭の牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 60歳 800俵)を通じ、番頭・水谷(みずのや)出羽守勝久(かつひさ 59歳 3500石)に、夕刻、屋敷へ祝賀に伺いたいと申し出た。

勝久の継養子・兵庫勝政(かつまさ 38歳)が、西丸の若年寄になった酒井飛騨守忠香の三男であったのと、12年前の初見同士との理由をつけた。

【参照】2008年12月1日~[銕三郎、初お目見(みえ)] () () (3) (4) (5) (6) (7) (8) 

水谷出羽)の実父・行快(ぎょうかい)は、京師祇園の別当宝寿院の執行であるが、じつは越前鞠山藩祖・酒井忠稠(ただしげ)の三男で、あいだがらをたどると、勝久は年齢は逆だが、忠香の叔父にあたる。

平蔵は、松造(よしぞう 30歳)を茶寮〔季四〕の包丁人見習いの春吉(しゅんきち 20歳)とともに日本橋の魚市場へやり、鯛を購わせ、芝三田寺町の水谷家へやり、出羽守の帰館とともにおろすように手配した。

水谷家では、いまだ出仕の機をえていない勝政も顔をみせた。
祝辞のあとは、酒となった。
数献交わしたところで、
酒井侯が西丸の少老に再任なされた真意は奈辺に---?」
出羽守は、しばらく沈黙していたが、よそごとのような声で、
「儒学好きの(太田飛騨)どのの重石であろうよ」
「といたしますと、飛騨侯は、やはり、民部卿(一橋治済 はるさだ)さまの線から---?」
「危なげなことはこれまで。この鯛、みごとな包丁さばきじゃな」
「恐れいります」


うっかり写し忘れるところであった。
天明元年(1781)閏5月11日の『徳川実紀』には、つづきがあった。


御側・小笠原若狭守信喜(のぶよし 56歳 3000石)、松平因幡守康真(やすまさ 64歳 6000石)、菊間縁側詰・大久保志摩守忠翰(ただなり 46歳 5000石)、大番頭稲葉紀伊守正邑(まさくに 69歳 3000石)西城の御側となり---

小笠原若狭守信喜大久保志摩守忠翰は、紀州系で、国元では30石(未家督。家柄は500石格か)と700石であった。


さらに同4月19日の項。


一橋の老田沼能登守意致(おきむね 41歳 800石)小姓組番頭に准じ、西城につけられ、取次のことを見習しめニ千俵を給する。


とある。
田沼意次の甥で、先4月に、次のような請い状(大意)が意次の手元へとどけられていた。

「豊千代さまをご養君としてお召しになるという、きわめて重大なご案件をご内示いただき、家老どもとしても合議を重ねた末、家老を一人、若さまへお付けすることをお許しいただきたく、お願いする次第であります。人選の結果は、本状をお届けする田沼能登守が適任と決まりました。いえ、ご宿老とのご縁をもとに申しているのではございませぬ。能登は年齢は若くはありますが、なかなかの出来物であります。ご評議の上、なにとぞ、能登をご指名くださくますよう、お願いもうします」

原文は、辻 達也さん編・注『一橋徳川文書摘録考註百選』(群書類従刊行会)より。
同書の辻さんの解説を引用する。

田沼意致は田沼意次の弟意誠の子、父は始め一橋邸附切の身分であったが、恐らく一橋宗尹の希望によるのであろう、宝暦九年(1759)一橋邸附人に昇格し、一橋家老に任ぜられた。
そまため意致はまず公儀の小姓組番士に任ぜられ、その後昇進を重ね、安永七年(1778)七月ニ十七日、公儀目付から一橋邸家老となった。
通説この人事は田沼意次の勢力拡大の野望に基づくといわれるが、私はむしろ一橋が意次の意を迎えようと意図したものではないかと推察している。
豊千代に付けて公儀をの役職に推薦したのも、意次から種々の便宜を得ようという治済の同様の意図からと考えている。

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(小笠原若狭守信喜の個人譜)


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(大久保志摩守忠翰の個人譜)

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2011.02.19

豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ(5)

掛川城の天守閣でおもいだしたのは、12年前、盗賊〔荒神こうじん)の助太郎(すけたろう 50がらみ)一味の盗(つとめ)の探索にかかわったことによった。

そのころ、火盗改メ・本役を勤めていた長山百助直幡(なおはた 58歳 1350石)に頼まれての出張りであった。

ふつうなら忘れてしまうほどの手柄であったが、お(りょう 30歳=当時)との5日間の親密で豊艶な旅がつづいていたので、記憶が鮮烈であった。

参照】2009年1月21日~[銕三郎、掛川で] () () () (
2009年1月25日[ちゅうすけのひとり言] (30

もっとも、掛川城下の探索ごとは、駿府での〔荒神〕たちの奇妙な請負いごとのついでであった。

参照】2009年1月8日~[銕三郎、三たびの駿府]()  () () () () () () () () (10) (11) (12) (13

平蔵(へいぞう 24歳=当時)と助太郎一味とのかかわりはもっと古く、銕三郎(てつさぶろう)が14歳の旅で顔見知りとなった。
関係はその後、助三郎のむすめ---〔荒神〕のお(なつ 26歳)に、おまさ(37歳)が[誘拐]されたのを助けだすところまでつづいた。

参照】2007年1月14日~[〔荒神(こうじん)の助太郎] () () () () 

もっとも、〔荒神〕の助太郎が盗賊と気づいたのは、銕三郎が18歳のときであった。
それにしても、長くつづいた因縁であった。
このブログの縦糸をところどころで彩るのは、〔荒神〕一味の挙動ともいえよえか。

参照】2007年12月27日~[与詩(よし)を迎えに] () () () 

週末で、もし、お時間がとれるようであれば、以下の数項目へもリンクし、〔荒神〕と平蔵の因縁の深さをお楽しみいただければ幸いである。

ただ、いまは、西丸老中の上座に発令される太田備中守資愛(すけよし 44歳 掛川藩主 5万石)とのつながりを推察しているので、〔荒神〕のことは、とりあえず---ということであれば、以下は後日のリンクになさってもかまわない。

参照】2008年1月25日~[〔荒神(こうじん)の助太郎] () () () 
2008年3月26日~[〔荒神(こうじん)の助太郎] (10

参照】2009年1月3日~[明和6年(1769)の銕三郎] () () (

参照】2009年9月15日~[同心・加賀美千蔵] () () () (

参照】2010年2月14日~[日光への旅]  () 

参照】2010年7月12日~[〔世古(せこ)〕本陣〕のお賀茂] () () () () () () (

養君・豊千代(9歳)を支える要として西丸・若年寄上座として発令されることとなった太田備中守資愛(すけよし 44歳 掛川藩主)は、父・資俊(すけとし)が20歳のときに側室から生まれた。
正室は嫡男が早世していたため、嫡母となった。
正室は板倉本流の周防守勝澄(かつずみ 備中・松山藩主)の養妹。

明和5年(1768)に奏者番(30歳)、安永4年(1775)に寺社奉行(37歳)というのは中堅どころの大名としては順当の昇進であろう。

奏者番に任じられてから、帰国はなくなったかして『武鑑』には上府・帰国の記載がない。
帰国していないとすると、銕三郎が掛川の〔京(みやこ)屋〕事件をさばいたことまでを、しるわけはない。
佳慈(かじ 30歳)の耳打ちはなにゆえとて断ずればいいのか?


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2011.02.18

豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ(4)

ほとんど闇に近い部屋で、平蔵(へいぞう 36歳)は、目を凝らしていた。

老中・田沼侯主殿頭意次 おきつぐ 64歳 相良藩主)の側女中の於佳慈(かじ 31歳)が里貴(りき 37歳)を通じ、太田備後守資愛(すけよし 44歳 掛川藩主5万石)が、ちかぢか、西丸の若年寄主座に発令される旨を平蔵の耳にいれておくように伝えた、その真意を忖度(そんたく)していたのである。

太田備後が、有名な武将で歌人でもあった太田資長道灌(どうかん 享年55歳=1487)の子孫であることは、もちろん、承知していた。

道灌源六郎の若いころから大志をいだいており、人をかろんじるふうがあった。
父・資清(すけきよ)が杉障子に「驕者不久(驕慢な者は久しからず)」と書き、障子の桟はまっすぐだから立っいられるといさめると、源六郎は屏風を持ちだし、曲がるから立っていられると反論、「不驕者亦不久(驕慢でなくても久しくはない)と書き、きびしく鞭打たれたという。

資愛から8代前の資高(すけたか)は江戸で歿し、江戸城の西の平河の法恩寺に葬られた。
当寺はのちに隅田川の東の出村町へ移座し、花洛・本国寺の触頭(ふれがしら)、江戸三ヶ寺のーであった。

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法恩寺 『江戸名所図会』 )

ちゅうすけ注】銕三郎(てつさぶろう)が剣の修行にはげんだ高杉銀平道場は、法恩寺のすぐ西隣にあった。

道灌にちなむ『江戸名所図会』は、ほかに3景ある。

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含雪亭より士峯(ふじ)を望む
わが庵は松原つづき海ちかく富士の高根を軒端にぞみる


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山吹の里
七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞわびしき


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道灌山聴虫
まくり手にすずむしさがす浅茅かな (其角)

家康は、江戸城へはいると、名家の子孫を探し、とりたてた。
太田資高の孫むすめ・加知(かじ 梶とも記す)も召されたが、13歳と幼なかったので、大奥の老女・安西に預け、成熟を待った。
記録には、関ヶ原の陣に59歳の家康に、23歳の彼女が騎馬でしたがったとある。
陣中の地を勝山と変えたとき、加知も於(かち)と改めた。

徳川諸家系譜』の家康の項には、

御部屋於加知之方 太田新六郎康資之女、他ニ勝レ御愛妾、初女子御出生其侭御早世ニ付、愁嘆不少ニシテ一筋に菩提ノ志思付、剃髪ノ御願有之ケレトモ更ニ御免ナク---

家康の歿とともに落飾、家光にも慕われた。
入寂65歳。葬・鎌倉は英勝寺。江戸は瑞勝寺。


平蔵があずかりしらないことを記す。
大正8年(1919)に上梓された松平太郎さんの名著『江戸時代制度の研究』の」「火附盗賊改」の結語に、

この職に任じられて英才をもってその著名が伝わっているもの、長谷川平蔵宣以(のぶため)、中山勘解由直守(なおもり)、太田運八郎資統(すけのぶ)あり。

参照】2006年6月8日~[現代語訳『江戸時代制度の研究』火附盗賊改] () () (

太田家の分家である運八郎資統は、天保13年(1842)10月5日から弘化元(1844)10月15日までその職にいたことしかわからない。

資統の父・運八郎資同(すけあつ 3000石)は、平蔵が本役時代に助役(すけやく)を2回勤めた。

参照】2007年10月10日[太田運八郎資同

自分より8歳年長の太田備後守資愛と、どこでどうつながるかを思慮してい、掛川城の天守閣がうかび、ひらめいた。


Photo


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2011.02.17

豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ(3)

「伽衆といえば---」
浅野大学長貞(ながさだ 35歳 500石)が口ごもったのは、本丸ではまだ極秘の人事ごとなのであろう。

「明日には公けになることだが、豊千代さまの伽衆が決まった」
天明元年5月には、閏5月があった。
明日とは、その閏5月の2日。

「やはり紀州衆か?」
3人のうちでは佐左(さざ)でとおっている長野佐左衛門孝祖(たかもと 36歳 600俵)が身をのりだした。
もの見高いのが身上であった。
里貴(りき 37歳)も耳をすました気配であった。

「はずれ---」
「もったいぶらないで早く話せ。秘密は守る」

徳川実紀』の閏5月2日の記述------

小納戸・加藤玄蕃則陳(のりのぶ 46歳 1500石)が子・寅之助則茂(のりしげ 9歳)。同・松平小十郎定胤(さだたね 47歳 3000石)の子・小八郎定経(さだつね 11歳)。中奥番・横田源太郎松房(としふさ 38歳 1000石)が子・鶴松松茂(とししげ 5歳)こたび御養君仰出さるるにより、かねて御伽に定めらる。
(括弧内はちゅうすけが補充)

辰蔵(たつぞう 12歳)さまも、せっかくお作法をお修めになっているのに---」
里貴が口惜しがり、つい、指に力がはいった。
「力むな。父親の評判がよくないから、声がかかるはずがない」
「評判がよくないって---?」
「おんなに、だらしない」
「いやッ---」

藤ノ棚の寝間での睦ごとであった。

湿気が高く、素裸でも、はげむと汗ばみかねない季節になっていた。
まだぬくもりがのこっている湯で、行水した。

平蔵の背中をながしながら、
「そういえば、田沼侯の中屋敷の佳慈(かじ 31歳)さんが耳うちしてくださったのですが、ちかぢか、寺社(奉行)の大田備後守資愛 すけよし 46歳 掛川藩主 5万石)さまが、西城の若年寄上座にお着きなるようだから、(てつ)さまのお耳においれしておくようにって---」

「早耳しても、おれにはあまりかかわりはないが、番頭の水谷(みずのや 出羽守勝久 かつひさ)51歳 3500石)どのへでもささやいておくか」
「噂の出どころを訊かれたら---?」
「それもそうだ。黙っておこう」
「ささやき甲斐のないこと」


ちゅうすけ補】『実記』の、この年の6月12日に、

小姓・柘植左京亮英成(ひでつぐ 38歳 532石)が子・三之英清(ひできよ 9歳)若君の御伽に加へらる。
 

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(加藤寅之助則茂の個人譜)


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(久松松平小十郎定胤の個人譜)


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(横田鶴松松茂の個人譜)


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(柘植三之丞英清の個人譜)


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2011.02.16

豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ(2)

屋根舟が深川・冬木町寺裏の〔季四〕の舟着きへつけるまで、小声で会話をかわした。
船頭は、顔見知りの辰五郎(たつごろう 51歳)ではなかった。

佐左(さざ)。今宵、芸者が必要なのか?」
佐左長野佐左衛門孝祖 たかのり 36歳 600俵)の内室は、実家・藤方家へ帰ったままであった。
の不幸な死から、もう6年になっていた。

参照】2010年5月13日[長野佐左衛門孝祖(たかのり)の悲嘆]

ようやく立ち直った佐左は、また、小間使いとして奉公にあがっていたおんなに手をつけた。
小間使いといっても若い後家で名はお俊(とし 26歳)で、性技もこころえていた。
いや、むしろ、佐左のほうが誘導されていたといったほうがあたっていよう。

は、側室としての地位を求めた。
内室が里へ帰った原因であった。
離別は承知しない。
産道の門が裂けている女躰では、再婚がおぼつかないと覚悟しいたのであろう。

「いや。充分に足りておる」
佐左の口ぶりに、大学(だいがく 浅野長貞(ながさだ 35歳 500俵)が声をださないで笑った。

じつは、平蔵(へいぞう 36歳)には、大学に打ちあけたいことがあった。

参照】2010年12月29日~[浅野家の妹・喜和] () (

(わざわざ口にして、(だい)に気苦労を背負わすこともない。おんなと男のあいだのことは、時が自然に始末をつけてくれよう)


今宵は、気のおけない盟友のざっくぱらんな集まりだから、話題が城内のことになっても、座をはずすことはないと、里貴(りき 37歳)には前もって告げてあった。

里貴の酌を笑顔でうけている大学の横顔にちらっと視線を投げ、
(だい)。本城の小姓組へ組みいれられていた4組が、ほとんどそっくきり西丸へ出戻ってきたが、この際、も加えてこらえなかったのか?」
「お上は、おれがことを鷹狩りの射鳥要員とおもっておいでらしい---」
苦笑い口調で応じた。
大学は弓の名手であった。

佐左へ酒をすすめている里貴に、
「女将どの。佐左のところの組頭が代わっての。紀州藩系の渋谷采女正(うねめのかみ)良紀(よしのり 58歳 3000石)どのだ。存じおるかな」
うなずいた里貴が、銚子をむけてきた。

「ご先代のご母堂が藩のご家老・安藤飛騨)さまの姫ということで、有徳院吉宗 よしむね)さまから2400石の加増をおうけになっています」
意味ありげな微笑をもらしながら、佐左が、紀州藩では60石のお膳番であったとの風評が組の中でささやかれておる---とつけ加えた。

聞きとがめた大学が、
佐左、与(くみ)してはおるまいな?」
たしなめた。

あわびの酒蒸しをつまんでいた佐左がむせた。

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(渋谷采女正良紀の個人譜)

「番頭が紀州色になったのは、佐左の3番手だけであろう。小姓組の4人はそうではない」
平蔵のいうとおりであった。

西丸への復帰を発令された小姓組の番頭は、

1の組
大嶋兵庫(のち肥前守)義里(よしさと 63歳 4700石)

2の組
酒井多宮(のち紀伊守忠聴(ただとく 50歳 7000石)

4の組
花房因幡守地正域(まさくに 54歳 5000石)

3の組だけが新任であった。

島津山城守久般(ひさかつ 51歳 3000石)

佐左は、かんたんには引きさがらなかった。
役人にとり、人事は重大な関心事であった。

「番頭はそうでも、番士には紀州藩出が3人もあがっている」
たしかに、佐左の指摘どおりであった。

一色strong>一色靭負政方(まさかた 27歳 900石)、市川大隈守清素(きよかど 26歳 1000石)、大久保銕蔵忠道(ただみち 16歳 5000石)。

大久保どのは、たしか、故・家基(いえもと 享年18歳)さまの伽衆でもあったな」
平蔵は、(にえ) 越前守正寿(まさとし 41歳 300俵)が竹千代(のちの家治(いえはる)の伽衆時代の逸話を聞いたことをおもいだした。

参照】2010年12月4日~[先手弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] () () () () () () (

「伽衆といえば---」
大学が口ごもった。


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2011.02.15

豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ

徳川実紀』は、天明元年(1781)5月12日につづいて、

参照】201129[田沼意次の世子選び] (

同年5月24日に、盟友の一人である西丸・書院番3の組の長野佐左衛門高祖(たかのり 36歳 600俵)の番頭の移動が発令になった。
新任の番頭は、渋谷采女正良紀(よしのり 58歳 3000石)であった。

さらに『実紀』の5月26日の項は、

小姓組番頭---大嶋肥前守義里。酒井紀伊守忠聴。島津山城守久般。花房因幡守地正域
旗奉行---小野日向守一吉
鑓奉行---柳生播磨守久寿
持弓頭---根来喜内正武
持筒頭---加藤登之助泰朝
先手頭---筧新太郎正知。篠山吉之助光官。山中平吉鍾俊。宇都野金右衛門正良。柘植五郎右衛門守清。大井大和守持長
小姓組与頭--能勢半左衛門頼喬。清水権之助義永。青木小左衛門政満。小椋忠右衛門正員
徒頭---筒井内蔵忠昌。山口勘兵衛直良。萩原求五郎秀興。万年市左衛門頼意。桑山内匠政要
小十人頭---奥村忠太郎正明。大岡山城守忠主。土岐半之丞朝恒
をはじめ、、それより下の有司多く、西城に勤仕すべきよし命ぜらる。
表右筆組頭・長坂忠七郎高美、西の奥右筆組頭となる。

2日後の28日の『実紀』は、

本丸の小姓組番士の一色靭負政方(まさかた 27歳 900石)ほか4人、本丸の小納戸組から平岡美濃守頼長(よりなが 43歳 2000石)ほか11名が西丸小姓組へ移籍。
さらに本丸の小納戸から森川甲斐守俊顕(としあき 57歳 600石)ほか33名が西丸・小納戸組への復帰が記録されいる。

(この記述は、『実紀』にはめずらしく ひら番士の氏名を明記しているので、いずれ時期をみて、この移籍はその後の栄進に功があったかどうかを検証したい。次期将軍・家斉の目は、平蔵にもおよんだはずだからである)

9歳の豊千代のために、大げさなと平蔵がおもうのはまちがっている。
西丸のこれからの主としての儀礼がはじまるのだから、それなりの陣容が必要であった。

もっとも、西丸・書院番4の組の異動はなかった。
番頭は水谷(みずのや)出羽守勝久(かつひさ 59歳 3500石)、与(くみ 組)頭も引きつづいて牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 60歳 800俵)のままであった。

あいさつ廻りにいそがしい新任者を平蔵は横目に見ていたが、盟友・長野佐左(さざ)と黒書院の廊下で顔があい、
「久しぶりに、(浅野)大学長貞 ながさだ 35歳 500石)も呼んで一献やらないか?」
とっさに平蔵は、
佐左の組の与頭・内藤左七尚庸(なおつね 71歳 465石)どのもお気に入りの、深川・冬木寺裏の茶寮でどうだ? 大学とは、いちど使ったことがあるが---」
佐左に異議はなかった。

4日後、鍛冶橋でもやっている黒舟で待ちあわせた。
五月雨(さみだれ)の季節ということもあり、権七(ごんしち 49歳)が屋根舟を手配してくれていた。

ちょっと遅れてきた佐左がうなった。
「豪勢だな。吉原へでもくりこむ気分だ」
「悪いが、芸者を呼べる店ではないのだ」
「深川というから、いくらかは期待していたのだが---」
「〔蓮の葉〕にしたほうがよかったかな?」
「それをいうな---」

参照】2010年7月28日~[浅野大学長貞(長貞)の異見] () () () () () () 


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2011.02.14

ちゅうすけのひとり言(66)

長谷川平蔵宣以(のぶため 36歳=天明元年 1781)のころ---田沼主殿頭意次(おきつぐ 64歳 相良藩主 3万7000石 豊千代養君の功で同年7月15日に1万石加増)が権力をかなり振るっていた時代を理解する一端として、辻 達也さん『一橋徳川家文書摘録考註百選』からの引用をつづけている。

四一
天明元年(1781)閏五月中十八日、一橋治済(はるさだ 31歳)長男豊千代(とよちよ 9歳))将軍家家治(いえはる 45歳)継嗣として江戸城西丸へ移るにつき、関係者へ贈り物書付

   十八日の方

縮   五反」   鯛  一折   田沼主殿頭殿 
縮   三反」   鯛  一折   水野出羽守殿

縮   三反」   鯛  一折ツゝ 稲葉越中守殿
                     横田筑後守殿
 
縮   弐反              依田豊前守殿 
縮   一反」晒 一反ツゝ     奥之番 弐人
    
            高岡との」花園しとの」飛鳥井との」
縮   三反ツゝ  御ふしの方」滝川との」野むらとの」
             砂野との」大崎との」高橋との 

            御客応答   三人」同格 三人
            御中﨟     七人」御錠口 五人 
金五百疋ツゝ    表使      五人」栄受
          新御殿附  上﨟  弐人」御年寄 弐人
          一ノ御殿附 上﨟  壱」人」 玉沢」いわを」
                            青羽」小倉」

          御本家附 御右筆 七人」御切手 三人」
                 御次頭 壱人」御次 十弐人」
                 御錠口助壱人」御坊主 四人」
金三百疋ツゝ         呉服之間頭 三人」呉服之間 拾三人」
                 御広敷頭 壱人」御三之間頭 壱人」
          新御殿附 若年寄 弐人」御中﨟 六人」
                          御小姓 弐人」
          一ノ御殿附若年寄 弐人」御中﨟 六人」
                 御小姓 弐人」表使  六人」

金弐疋ツゝ   御本家附 御広敷 拾人」御三之間 拾人

銀三拾枚ツゝ        惣中

右(上)之通、大奥取扱ニ而被贈候積りニ御座候。


三反ツゝ     高岡との」滝川との
弐反        富野
右(上)は初より取扱ニ付、別ニ反物被贈候積りニ御座候。

弐反        民野
目録        御右筆」御使番 ニ人
右(上)は西丸え罷越、伝達等御座候ニ付、追而披キ候節、反物ニ而も被贈候筈ニ御座候。


【註(原書)】
田沼主殿頭-----田沼意次、老中
水野出羽守-----水野忠友、側用人
稲葉越中守-----稲葉正明、側衆、御用取次
横田筑後守-----横田準松、側衆、御用取次
依田豊前守-----依田政次、留守居
御本家---------将軍附きの女中(ゴホンカと読む)


それぞれの職掌が具体的にどのようなもので、継嗣・豊千代にどうかかわりあうのかの詳細はしらない。
とにかく、儀礼と音物(贈答)の時代であったことは察しがつく。

ちゅうすけ註】金銭の単位としての「疋」は、1疋=10文、百疋=1000文。1両=4000文。
当ブログでは、いまのところは、1両=16万円に換算している。

         
  
 

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2011.02.13

ちゅうすけのひとり言(65)

将軍・家治(いえはる 45歳)の世嗣となる養子選びの重任をまかされたのは、次の3人であったことはすでに記した。
天明元年(1781)4月15日の『徳川実紀』---。

・老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 64歳 相良藩主 3万7000石)
・若年寄・酒井石見守忠休(ただよし 78歳 出羽・松山藩主 2万5000石)
・留守居・依田豊前守政次(まさつぐ 80歳 1100石)

辻達也さんは『一橋徳川家文書』に、同家の家老職の一人であった田沼能登守意致(おきむね 41歳 800石)の手になる、4月1日付の以下の秘密手記が含まれていると明かしている。

(表紙)、
安永十年(1781)四月朔日より
(同年四月十三日 年号 天明ト改元)


できるだけ、現代文に直して書き写す。

一、 今日、月次のお礼があり、(一橋当主・治済 はるさだ 31歳)のご登城もあったので、自分も本丸へ出仕したところ、(側衆・稲葉)越中守(正明 まさあきら 59歳 7000石)が内々のことと前置きし、この夏(4~6月)の内に豊千代さまをご養君にとの仰せがあろうから、心得ておくようにと。
で、このことは、民部卿(治済)さまへ申しあげてよろしいか、また病気休養中の同役(一橋家家老)の(水谷 みずのや)但馬守(勝富 かつみち 55歳 1700石)へ打ち明けてもよろしいかと伺がったところ、民部卿どのはすでにご承知であるが、御三家ほかの内諾をお手配なさっていよう。
(先任の)但馬守へは通じておきますが、そのほか伺いなどのことは熟慮の上で手くぱりしますと、とりあえず申しあげておいた。

一、稲葉越中守がお訊きなったのは、連れ人の件で、本丸側の評議では、お召し連れになることはないとのことであったが、ご幼年のことでもあり、一人も側の者をお連れにならないというのでは心細くおおもいになろうかと、いうと、女中向きはお召し連れになってもかまわないが、表向きの士はご無用とお考えおかれたいといわれた。
さらに、この件の中心人物は、(そなたの伯父・老中の)主殿頭(意次 おきつぐ 64歳 相良藩主)であるから、今日にでも伺った上で、諸事のお指図をお受けになるようにとのことであった。
(中略)

一、今日、民部卿さまへお会いしたとき、お気になさっていたのは、もし、豊千代さまのご生母---岩本内膳正(正利 まさとし 58歳 300俵)の息女であるお秀(ひで)の方が、民部卿さまのご実母・善修院(細田氏)よりも格が上になってしまっては体面もよくないから、お秀の方も江戸城へ移ってしまうのがよいと仰せになられた。(後略)


この文書の4月1日というのがどうも信じがたい。
というのは、田沼意次たちに、世嗣選定の任が発令されたのは、『実紀』は4月18日と記していたからである。

4月1日説をとると、すでに内定していたものに、衆議の形をとるためのものであったことなる。

いや、それはいいとして、治済が、おの方の格が、実母・細田氏よりも上になるという、下世話に近いことのほうを憂慮しているところがおもしろい。

参照】2010年3月15日~[一橋家] () () () () 
2007年11月27日~[一橋治済] () () (


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2011.02.12

ちゅうすけのひとり言(64)

こころ覚えのために、辻達也さん『一橋徳川家文書適録考註百選』から天明元年(1781)5月某日の文書を書き写しておく。

文書番号四〇
天明元年(一七八一)五月、豊千代将軍養子として登城当日の儀につき、一橋家老より公儀への伺書及び側集指示の附札

(端裏書)  五月朔日上ケ、 同月八日下ル
        主殿頭殿えも御評議相済、御附札被成、
        御下ケ被成候様、越中守殿へ能登申候後、
        御前御相上ル。
 御当日登城之儀ニ付奉伺候書付   水谷但馬守
                         田沼能登守

 豊千代殿登城ニ付、左(下)之趣奉伺候。   

一、  登城御日限之儀、其以前御沙汰御座候御儀与相心得在候
(附札) 「各方迄、拙者共より御内意可申達候。」


一、  御当日御次第之儀御座候ハバ、品に寄り稽古可被致候ニ付、前広ニ相伺置候様ニ仕度奉有候
(附札) 「此ケ条相済」


一、  登城之儀、御風呂屋口より御表え登城之儀ニ御座候哉、御広敷え登城被致候儀ニ御座候哉・     (附札) 「御風呂屋口より御同道ニ而御登城可被成候」


一、  御当日、民部卿殿ニも登城之儀可有御座、左候得ハ、例・不時之登城之節之通、御書付等を以被仰渡御座候御儀与相心得罷在候。             
(附札) 「御父子様御登城之儀、前日書付老中より達可有之候」


一、豊千代殿御当日登城之上、被仰出御座候ハバ、右(上)被仰出之趣承之、供方之者不残引払可申哉、且又砒其節乗物・馬・鑓・長刀・鋏箱・茶弁当等之類、是又一橋え引払候積り相心得罷在候。
(附札) 「差図有之、引取候心得可被有之候。御鑓・御長刀ハ少々差図遅ク可申候。何レニも是亦差図次第可被心得候」


一、豊千代殿登城供連、万端只今迄之通相心得罷在候。
(附札) 「此通り可被心得候」


一、右(上)被仰出候ニ付、民部卿殿御礼向之儀奉伺候。
(附札) 「分而御礼と申儀有之間敷候、御祝儀御取かわし之所、御一同之御方とハ違候儀も可有之哉、未難相知候。」


右(上)之通奉伺候、以上。
   五月

【解説】一橋邸からの伺書第四条によると、御三卿といえども、登城するには、不時の場合は勿論、月例の登城であっても、前日老中からの指示を受けねばならなかった事が知られる。

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2011.02.11

田沼意次の世子選び(4)

このとき、一橋家には、田沼能登守意致(おきむね 41歳 800石 のち2000石)のほかに、先任の家老がいた。

水谷(みずのや)但馬守勝富(かつみち 67歳 2200石)であった。
西丸・書院番4の組の番士である平蔵(へいぞう 36歳)の番頭の水谷出羽守勝久(かつひさ 58歳 3500石)の一族である。
勝久が本家筋で、勝富は分流。

水谷家が備中高梁(たかはし)・松山藩(5万石)を領していた元禄6年(1693)に、世継ぎの不手際で廃藩になったことは、勝久にかかわる項ですでに記している。

参照】2007年4月22日[寛政重修諸家譜] (18
2008年1月23日~[水谷(みずのや)家] () (

勝富の祖が分家したのはその一代前であったために、分知の2000石が5万石没収の際に給されたと理解しておこう。


一橋家家老(『柳営補任』より)
水谷但馬守勝富 
 任  安永7年(1778)1月17日(作事奉行ヨリ 64歳) 
転  天明5年(1785)6月24日(留守居 71歳)


田沼能登守意致
 任  安永7年(1778)7月28日(目付ヨリ 38歳) 
 転  天明元年(1781)閏5月18日(41歳)
      民部卿嫡子豊千代養君につき供
      翌19日小姓組番頭格奥勤


小姓組番頭格奥勤という職は初めて目にしたので、具体的にどのような分掌なのか分からない。

田沼意次が手くばりしたにちがいないから、もしかすると、大奥対策要員かとも推測している。(存知よりの方に教えを乞うとともに、今後の研究課題としておく)

付記】辻達也さん『一橋徳川家文書適録考註百選』に、

高岳(たかおか)
 花園
 飛鳥井
 御ふじの方
滝川
 野むら
 砂野
大崎
高橋

大奥と宮廷の女性とおもわれる9人の名があがっている。
深井雅海さん『天明末年における将軍実父一橋治済の政治的役割』では「・」の4人を老女としている。
老女といっても、婆ぁさんではない。いまなら、おんなざかりであろうが、年齢をたしかめるすべをしらない。

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2011.02.10

田沼意次の世子選び(3)

民部卿(一橋治済 はるさだ 31歳)さまの思惑(おもわく)が通ったな」
一橋の嫡男・豊千代(とよちよ 9歳 のちの家斉 いえなり)が、家治(いえはる 45歳)の養子として西丸入りした翌日だから、天明元年(1781)閏5月19日、梅雨があけきらない、蒸す宵であった。

2人がいっしょに入っても底が抜けない盥桶で行水をすまし、浴衣で呑みなおしていた。
今夜の里貴(りき 37歳)は、腰丈の寝衣でなく、並丈のを羽織っていたが、あいかわらず、右膝を立てているため、裾は割れいた。

もっとも、寝間には入らない。
月の障りがおわったばかりだった。

「3年前に横丁さまが一橋のお伝(でん 家老の旧称)にお受けになったときは、まさか、こうなるとはおおもいではなかったでしょう」
里貴が口にした〔横丁さま〕とは田沼能登守意致(おきむね 41歳 800石)のことである。
屋敷が小川町広小路横丁にあったために、親しい者たちのあいだでの愛称であった。

もっとも、一橋家のお伝のまま逝った先代の能登守意誠 おきのぶ 享年53歳)と区別するために、〔市左(いちざ)さま〕と呼ぶ者もいないではなかったが、これとても意誠がつかった市左衛門をちぢめた愛称といえばいえた。

意致の個人譜を見ると、この家系は老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 64歳)の次弟・意誠から始まっており、長子は専助主水市左衛門を名乗るしきたりになっていた。

里貴が一橋の北の火除地角で茶房〔貴志〕をやっておったときに、意致どのも客としてみえたかな?」
里貴が〔貴志〕の女将をまかされていたのは、安永2年(1773)から3年ほどであった。
平蔵が家督をゆるされた日に出会った。
それから1ヶ月ほど後には、わりない仲となっていた。

参照】2010年1月18日~[三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇] () (

「〔横丁さま〕は、あのころはお目付をなさったいるとかで、相良意次)侯が、それはそれはお気をおつかいになっておられて---」
「そのころの、〔市左〕どのが里貴と出会っておれば、今宵の2人はなかったかもな」
「なにをおっしゃいますことやら。(てつ)さまだからこうなったのです」
「ありがたく、受けておく」
「いいえ。出会えて感謝しているのは、私のほうです」

里貴が両親を看取り、紀州の貴志村から江戸へ戻ってきてから、すでに3年近い歳月が経っていた。
2年前に、将軍・家治の嫡子・家基(いえもと 享年18歳)が突然に逝った。

西丸は、2年間、主(ぬし)がいないまま、小姓組だけは本丸へ移り、小納戸は解かれていたが、ほかの体制はほぼ維持されていた。
徳川一族の誰かが主になることはわかりきっていたからであった。

上層部は、家基の喪があけるのを両睨みですごしていた。
右目は、家治に次の男子をつくってもらうこと。
左目は、養子の選定。

先の先が読める田沼意次は安永7年7月28日には、早くも甥・市左衛門意致(38歳=当時)を一橋の家老に送りこんでいた。
将軍・家治への発言力、親密度がもっとも強いのは、従兄弟の民部卿治済と読みきっていたからであった。

今年---天明元年、宿老会議の長老格・松平右京太夫輝高(てるたか 57歳=享年)は病床にあった。

民部卿さまの目算は、いづこにあるとおもうかな?」
「おなごの私が申すのもおこがましゅうございますが、男子であれば誰でも、政治へのお口だしかと---」
「しかし、豊千代さまは、まだ、9歳---」
゛お上も、いま、45歳の男ざかり---」
「とすると、15年後を見据えて---?」
「お上は、60歳---」
{若君は、24歳---」
相良侯は、79歳---」
民部卿さまは、46歳---」

播磨守(田沼意知 おきとも 33歳)さまは、48歳---目の上の---」
「---邪魔者」

里貴なら、いかな手をうつ?」
「---除きます}

「,除くとして---」
相良侯の悪評をふりまき、お為派を増やします」
「お為派は、どこにもおる」
「はい」

「15年後、われらは---?」
「私は52歳の老婆---」
「わしは、51歳の爺ぃ---」
「おほ、ほほほ---」
「あは、ははは---いや、笑いごとではないかもな」


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(田沼能登守意致の個人譜)


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2011.02.09

田沼意次の世子選び(2)

将軍の世嗣を選ぶ初談合で、めずらしく田沼意次(おきつぐ 63歳 相良藩主)が、冒頭に発言した。

「大納言(家基 いえもと 享年18歳)公がご生存であれば、20歳におなりである。公は、次期将軍としてのご訓育を存分におうけになられておった。どうであろう、将軍訓育ということであれば、こう申しては誤解をまねきかねないが、薹(とう)がたっていないお齢ごろということで、15歳以下ということに、選考をしぼってはいかがでござろうか?」
若年寄・酒井石見守忠休(ただよし 78歳 出羽・松山藩主)が賛意を示し、留守居・依田豊前守政次(まさつぐ 80歳)も肯首した。

いや、だれがかんがえたって、意次の提案は筋がとおっている。

このとき、田安家から久松松平家(白河藩)に養子にはいった定信(24歳)は選考の圏外へ落ちていた。

それを、意次の陰謀で将軍の座にすわりそこねたと生涯うらんでいた定信には、将軍職というものについて『貞観政要』でも読み返すことをすすめたい。

意次の線引きで、尾張家からは、当主・宗睦(むねちか 50歳)はとうぜんとして、勝長(かつなが 47歳)、勝当(かつまさ 46歳)、勝綱(かつつな 44歳)、勝起(かつおき 44歳)、正国(まさくに 43歳)、頼多(よりかず 40歳)、政脩(まさのぶ 30歳)、治休(はるちか 29歳)、治興(はるおき 26歳)が消されていった。


紀伊家では、治貞(はるさだ 54歳)、重倫(しげみち 36歳)、学文(さとふみ 31歳)、頼興(よりおき 30歳)、頼謙(よりかた 27歳)、忠功(ただかつ 26歳)、為脩(ためのぶ 23歳)、頼徳(よりのり23歳)、頼融(23歳)、頼朴(20歳)などが年齢制限で消え、わずかに治宝(はるとみ 11歳)がのこった。


水戸家は、当主・治保(はるもり 31歳)、保受(21歳)、保福(20歳)、信敬(18歳)は対象からはずれ、治紀(9歳)、保右(6歳)が選考された。


田安家は、定国(さだくに 久松松平家養子 25歳)、定信(さだのぶ 久松松平家養子 24歳)、斉匡(3歳)


一橋家は、治済(はるさだ 31歳)、豊千代(のちの家斉 いえなり 9歳)、力之助(のちの治国 はるくに 6歳)

清水家は、当主・重好(しげよし 35歳)。


談合の経緯を目にしたことはないが、大祖・家康(いえやす)にすこしでも血が近い者という名分はあったとしても、紀州勢の意次はひそかに、八代将軍・吉宗(よしむね)にもっとも近い血を選ぼうとしたのではあるまいか。

結果は、意次の内意にそった、一橋家の嫡子・豊千代にきまった。
徳川諸家系譜』は、治済の項に、

長男家斉、安永ニ年十月三日生。母岩本氏。将軍家家治賜名豊千代、天明元年閏五月十八日家治養為儲嗣。

徳川実紀』は、その6日前の5月12日の項に、

西城裏門番の頭・辻源五郎盛陰。小十人頭・川村主計忠助。大番組頭・名取半左衛門信富共に西城広敷(頭)用人となり、寄合・田中一郎右衛門末吉小十頭となる」
西城の新番命ぜられるる者十九人。大番より十人、小十人より四人、小普請より五人。

と記しているから、すでに内定していたともおもえる。

5月18日の項には、

けふ令されしは、西城後閤の修理落成せしによて、小普請奉行岩本内膳正正利により、留守居依田豊前守正に引き渡すべし。又今まで西城留守居たりしが、此後はみな各局に復せしむべしとなり。

小普請奉行の岩本正利の内室は老女・梅田の養女で、そのあいだにできたむすめが豊千代を産んだことは、かつて当ブログであかした。

さらに、閏5月18日には、

(一橋)民部卿治済卿、嫡子豊千代君をともなひて出仕あり。
御座所に召して拝謁せらる。
ときにこたび、豊千代を養わせ給ひ、御代つぎに定めらるるよし仰くだされ、豊千代君に長光の御刀、来国光の御脇添さつづけ給ひ、御手づから熨斗鮑まいらせる。(略)
けふより、豊千代君のこと、若君と称し進らすべしとなり。

同年7月15日の項では、

田沼主殿頭意次一万石加増秩あり。
備前国清光の御刀を賜り、若君よりも時服五襲を賜る。
これ、若君養わせ給ひし事を、専らうけばりつかふまつりし労を褒せられての事とぞ。

褒賞のことは、酒井石見守の『寛政譜』にもとられている。
最古参の譜代である酒井家には、左衛門尉を受け継ぐ家と、雅楽助(うたのすけ)を継承する2家系があり、石見守は前者の家系であった。

武田方の宿将の流れであった依田和泉守政次が初めて当ブログに登場したのは、北町奉行として、5手掛りの評定所での談合のときのことであった。

依田和泉守の『寛政譜』には、なぜか、褒賞の記述がない。

【参照】2007年8月12日 [徳川将軍政治権力の研究] (

もっとも、『実記』の7月25日の条に、

留守居・依田豊前守政次金三枚、時服三。目付・村上三十郎正清(まさきよ 58歳 1200石)、末吉善左衛門利隆(としたか 55歳 300俵)、時服ニずつ、別に金ニ枚ずつ。元方納戸頭夏目長三郎成高(なりたか 53歳 300俵)時服ニ給ひ、其所属のもの等、みなこたび御養君の事にあづかりしもて、金銀・じふくたまふ事差あり。

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(酒井石見守忠休の個人譜)


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2011.02.08

田沼意次の世子選び

安永10年(1781)は、4月2日で終った。
4月3日からは天明と改元された。

長谷川平蔵(へいぞう)にとっては27歳から36歳の安永の10年間は、じつにさまざまな人生体験の時期であった。

安永元年は、世間が明和9(めいわく 迷惑)年と呼びあった、目黒・行人坂の大火ではじまり、その放火犯の逮捕の功績で、亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)が京都西町奉行へ、備中守を受爵し、栄転した。

京都で平蔵は、知恵袋のお(りょう 享年33歳)を失い、盗賊の妾・お(とよ 25歳=当時)と躰をあわせ、貞妙尼(じょみょうに 享年26歳)の還俗にたちあえず、お(かつ 31歳=同)に密偵のような仕事をおぼえさせた。

江戸へ戻ってからは、初出仕や進物の役を勤めたことはおくとして、里貴(りき 30歳=当時)という、公私にわたって支えとなってくれた女性(にょしょう)とつながった。

いや、平蔵のおんな体験は、いつか、ゆっくり反芻すればいい。

京都で〔左阿弥(さあみ)〕の元締父子に刺(し)が通じ、〔化粧(けわい)読みうり〕から余禄がえられ、経済的に独立できたことが大きかった。

江戸でも、権七(ごんしち 49歳)が板行元になってくれ、有力な元締衆と結びつきができ、裏の世界の風聞も入ってくるようになったのは、火盗改メになったときの陰の力となるはずであった。

平蔵の陰の後ろ楯の田沼主殿頭意次(おきつぐ 64歳)も、着々と地歩を固めつつあった。

老中首座・松平右近将監武元(たけちか 享年67歳)が、2年前の安永8年(1779)に歿したことも、意次がかねてから目をかけていた能吏たちを引き立てやすくなり、自らの力量も発揮する展望がひらけたといえようか。

その上、天明元年(1781)4月14日には、将軍・家治(いえはる 45歳)から世継ぎとなる養子をきめるようにいいつかった。
もちろん、意次一人ではなかった。

参照】2010年1月23日~[継嗣・家基の急死] (

任にあたった3人を記す。

・老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 63歳 相良藩主 3万7000石)
・若年寄・酒井石見守忠休(ただよし 78歳 出羽・松山藩主 2万5000石)
・留守居・依田豊前守政次(まさつぐ 80歳 1100石)

それぞれ、多彩な経歴をもち、老練なひとかどの人物ではあった。

とりわけ、武田家々臣時代から武門らしい人品が伝わっている依田の血をひく豊前守は、硬骨漢ぶりを語りつたえられていた。
反田沼派でもあった松浦静山の『甲子夜話』(東洋文庫)から座興に一つ紹介すると、田沼意次が若君・家基(いえもと 享年18歳)の母堂・於知保の方の許へ愛妾を通わせていたころというから、大目付の役についていた明和6年(1769)前後のことであろうか。
意次の愛妾を上通させなかったため、その頑固ぶりは老耄のあらわれと非難の的となった。
そのとき、政次の曰く。
「つねづね、親類の者たちに、老耄の兆しをみたらすぐに伝えよと頼んでおいたにもかかわらず、この不始末。親類甲斐のないことよ」

その依田政次を継嗣選びの一人に加えた仁は、よほどに皮肉が好きともおもえる。

余談はさておき---。

この世嗣選びに、平蔵をはじめ、西丸に勤仕している者たちは無関心ではいられない。
選ばれた人は、西丸の主(ぬし)として君臨するからであった。

人事のことは、古今東西、男たちの関心事の核,の一つでもある。

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(依田豊前守政次の個人譜)

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2011.02.07

ちゅうすけのひとり言(63)

先手・2の組へ潜入した盗賊側の間諜の悦三(えつぞう 35歳)がかかわった火盗改メの組頭の名簿を調べていて、新発見をした。

いや、先手・2の組のことではない。
火盗改メの増役と、目黒・行人坂の大火まわりのつながりである。

参照】2006年6月1日[目黒・行人坂の火事]

焼け出された当時の江戸市民が明和9(めいわく 迷惑)な年の大火とも呼んだ目黒・行人坂の火災につき、『徳川実紀』は、こう、記している。


明和9年2月29日  此日、未刻(午後2時)すぐるほど、城西目黒行人坂大円寺といへる寺より失火。
折ふし南風つよく吹きおこり、ほのほ所々に飛びちり、白金、麻布、西久保、桜田より郭内にうつり、和田倉、馬場先、日比谷、神田の御門、評定所、伝奏衆の旅館、宿老、少老の邸宅あまた焼けうせて、本町、石町、神田、下谷、浅草、千住の村里までやけひろごりしに、酉時(午後6時)本郷菊坂町より別に又火おこり、駒込、千駄木。谷中のあたりにうつり、東叡山にゆけのぼり、心観院殿の霊牌所をはじめ、仁王門、山王権現の社より、谷中、本村にいで、夜あけてやうやうにしずまり、もとの火は翌日申中刻(午後5時)いたりてやみぬ。
およそこの災にかりし所、幅一里(4km)にこえ、長は四五里(16~20km)に及び、焼死せしものは四百余人とぞ聞えし。


火元の大円寺は調べの結果、火の気のないところから出火したということで、放火の疑いが濃かった。
つまり、火盗改メに期待がかかったのである。

このときに在任していた火盗改メは、


本役中野監物清方(きよかた 300俵)
 役 明和8年(1771)7月29日(49歳)
 免 明和9年(1772)3月4日(50歳 卒)
 役宅   神田橋門外
 組頭   弓の4番手(与力5騎 同心30人)
 組屋敷  目白台


助役
長谷川平蔵宣雄(のぶお 400石)
 役 明和8年(1771)10月17日(54歳 )
 役宅   南本所三ッ目
 組頭   弓の8番手(与力5騎 同心30人)
 組屋敷  市ヶ谷本村町


見てわかるように本役の中野は、火事の5日後に病死しているということは、その前から病床にあったか、あるいは家屋敷が焼失したショックで突然死したか。

長谷川の南本所の役宅は火焔を浴びていない。

ふたたび『実紀』。


明和9年3月6日 先手頭長谷川平蔵宣雄盗考察を命せぜらる。中山主馬信将をもこれに加へらる。


本役・中野の病免・役辞退届はもうすこし前にすで呈出されていたようにもおもわれる。
火事のごたごたで、それどころではなかったのかもしれない。

本城、西丸、二ノ丸は必死の防火で無事だったとはいえ、老中、若年寄の官舎はほとんど焼けてしまっていたのである。

放火犯の探索は、町民たちの不満をそらすためにも、焦眉の急であった。
あわてて、長谷川宣雄を本役に据え、先手組頭から、


助役
中山主馬信将(のぶまさ 2100石)
 役 天明9年(1772)3月6日(40歳)
 役宅  小川町裏猿楽町
 組頭  鉄砲(つつ)の19組
 組屋敷 市ヶ谷五段坂(与力5騎 同心30人)

屋敷も組屋敷の被災していない者から選抜するだけでも難儀であったろう。
(不精をして、この時の先手組頭たち全員についての被災は、まだ調べていない。いつか報告したい)

懸命の探索にもかかわらず、放火犯人の目星はつかなかった。
幕府は、火盗改メにムチをあてるかのにように、

3月22日(『実記』)


先手頭蒔田八郎左衛門定賢昼夜市中を巡視して、盗賊を考察すべしと命ぜらる。


いや、実際にいろんな形での犯罪が多発もしていたろう。

増役
蒔田八郎左衛門定賢(さだかた 1800石)
 役 明和9年(177)3月22日(39歳)
 役宅  小川町広小路
 組頭  弓の4番手
 組屋敷  目白台(与力10騎 同心30人)

つまの、中野将監清方が率いていた組の後任の蒔田定賢に、大事である、責任をはたせと命じたともいえる。
もっとも、組屋敷の目白台が火勢の圏外であったせいもある。

余談だが、目白台には先手・弓の組屋敷が3ヶ所ある。

Photo
(目白台にあった先手・弓の3つの組の組屋敷)

もっとも東側(右端)は、ある史料から、弓の2番手の組屋敷と判明した。
のちに、長谷川平蔵宣以が率いた組である。

中と左端が弓の4番手と6番手の組屋敷であることはわかっているのだが、どちらがどちらかは、いまのところ、断定する史料がない。


蒔田定賢は、5ヶ月後の明和9年8月15日に増役を解かれている。
つまり、放火真犯人が、長谷川宣雄組によってあげられ、宣雄の慎重な取調べにより、確証がつかめたための、蒔田組の解任とみたい。

その月日は確定はできないが、4月から6月のあいだではなかろうか。

参照】2009年7月2日~[目黒・行人坂]の大火と長谷川組] () () () () () (

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2011.02.06

平蔵の土竜(もぐら)叩き(13)

「しかし、悦三(えつぞう)。おぬしがこのことを告げに行くと、寝返ったとおもわれ、命を失うであろう}
平蔵(へいぞう 36歳)の言葉に、
「ひえっー」
悲鳴を発したのは、悦三(35歳)ではなく、お(こう 28歳)であった。

(にえ) 越前守 元寿 もととし) 41歳)どのが火盗改メの職におられるあいだは、お主に死んでもらうわけにはいかぬ。おぬしを雇ったのは越前どのではなく、いまは西丸の留守居役の奥田土佐守忠祗(ただまさ 81歳=天明元年)さま、当時の弓の2番手組頭はおろか、庄内藩の江戸屋敷の用人・瀬川どのばかりか、ご藩主・戸沢侯までお咎めがおよぼう」

悦三が、またうなだれた。

「そこで、悦三。〔舟形ふながた)〕の爺(と)っつぁんだけを、こっそり、〔音羽(おとわ)〕の元締・重右衛門(じゅうえもん 55歳)どんのところへ呼ぶことはできるか? もとより、火盗改メには通じないし、わしも顔をださない」

顔をあげた悦三重右衛門を仰ぎ、笑顔のうなずきをたしかめ、
「やってみますです」

「そのとき、盗みの世界の間諜から足を洗い、まともな牢番になりたいことも告げるのだぞ。その前に、おとの祝言もあげておけ」
「ひえっー」
また、おが悲鳴をあげたが、これはうれしさのあまりのこころからのものであった。

「〔鳥越屋〕吉兵衛との談合は、〔音羽〕の元締がつけてくださる。〔鳥越屋〕とすれば、元締にさからったら、音羽では生きていけない」

「お前さん。そうしておくれかえ?」
「牢番はつづけてよろしいのでございますか?」
「この坂の上の目白台の組屋敷に、夫婦で住める家が用意されるはずだ」
「夢をみているようです」
がつぶやいた。
悦三の目からは、涙がとまらなかった。

結果は、平蔵がおもい描いたとおりになった。
舟形〕の宗平(そうへえ 60前)が〔初鹿野はじかの)〕の音松(おとまつ)を口説き、宗平のくしゃみ癖が治るならと、神田佐久間町の躋寿館(せいじゅかん のちに医学館)付属の多紀邸で奪った受講料40人分240両(3,840万円)の現金のうち、半分の120両(1,920万円)を、昼間にこっそり忍びこみ、手文庫へ返した。

たぶん、頭目・音松のとり分であったろう---というのが平蔵の読みであったが、事実は、宗平ほか配下たちの退(ひ)き金として貯められていたものから引きだされたというのが、ちゅうすけの読みである。

ただし、このことの記録は一切のこされていないので、真相はわからないままである。

贄 越前守元寿が火盗改メのお頭として在任中は、〔初鹿野〕一味は江戸での盗(つとめ)を手びかえるという約束もまもられた。

宗平のくしゃみ癖は治ったか?
多紀元簡(もとやす 27歳)によると、単なるアレルギーだからその種の薬草の服用と、治療は簡単だと、平蔵はあらかじめ知恵をさずけられていた。

事件が解決し、多紀家から盗難金の半分が返されてきた謝金として、20両(320万円)が平蔵に包まれたが、そっくり、里貴(りき 37歳)に、
「家を立てる資金の足しに---」
手渡された。

参照】2010年12月28日[同心・佐々木伊右衛門] (

「この前のとあわせると、もう、半分は建ってます」
「2人がいっしょに入れる行水盥もつくっておいてくれ」
ほんとうは、先夜の閨房での失言の詫び料だというつもりであったが、口にしておもいださせると、おんなはいつまでも忘れないと気づき、咄嗟(とっさ)に盥代とした。

越前守が〔季四〕で慰労の席で、
「ようも悦三の命を救ってくれた」
越前さまの、土竜(もぐら)叩きは許さぬとのひと言で、しぼった浅知恵でございます」
「お上(家治 いえはる)から、すこし長めiに勤めよ---とのお言葉をいただいた。以後もよろしゅうにな」

参照】2011年1月25日~[平蔵の土竜(もぐら)叩き] () () () () () () () () ()  (10) (11) (12) (13

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2011.02.05

平蔵の土竜(もぐら)叩き(12)

悦三。おぬしが〔.舟形ふながた)〕の宗平(そうへえ)に誘われたのは、宗平が〔蓑火(みのひ)〕のお頭(かしら)のところを離れたときではないのか?」
平蔵(へいぞう 36歳)の指摘は、的を射たようであった。

うつむいてしまった悦三(えつぞう 35歳)は、しばらく顔をあげられず、平蔵が〔舟形〕の爺(と)っつぁんから宗平と呼びすてに変えていることも意識にのぼらなかった。

悦三。〔蓑火〕が宗平を手放さざるをえなかった理由(わけ)を、宗平はおぬしになんと説明したかな?」

返事をしないのを見かねた〔音羽(おとわ)〕の元締・重右衛門(じゅうえもん 55歳)が、低いが威圧感のある声で、
悦三どん。長谷川さまにさからっちゃあ、助かるはずのお前さんの命が、消えちまうぜ」
おもわず顔をおけて瞶(み)つめてきた悦三に、重右衛門がゆっくり首をふり、脇のお(こう 28歳)にうなずいた。

「〔舟形〕のは、〔蓑火〕のお頭から、〔初鹿野はじかの)〕のが独り立ちしたから、軍者として助(す)けるように頼まれたので、いっしょにこないか---と」
「それは違うな。ま、人間は誰でも、自分に都合がよいように事態を納得するものだ。〔舟形〕が------」
悦三平蔵のつぎの言葉を待った。

ゆっくりと茶を手にし、一口含んだ湯飲みを茶托へ戻し、悦三へ微笑みかけ、
「〔蓑火〕が宗平を追放したのは---自分たちを守るためだったのだよ」

「------」
納得しなかった。

「あのな、悦三。〔舟形〕のには、奇妙な癖があろう?」
「------」
「わからぬか。くしゃみだよ。盗(つとめ)にはいっても、寒暖がちょっと変わると、くしゃみがでるであろう?」
悦三が、つい、うなずいたが、まだ、納得顔ではなかった。

「店の者たちに目隠しの布を巻いても、耳まではふさげない。宗平のくしゃみ癖は覚えられてしまう。つまり、どの一味の仕業か、火盗改メにつつぬけになる」
手妻にでもかかったように、悦三が深く合点してしまった。

それを見た重右衛門が笑みをうかべて平蔵を見た。

参照】2008年4月19日[十如是(じゅうにょぜ)] () 
2008年8月2日~[{梅川 〕の仲居・かお松] (

「つまり、〔舟形〕の宗平は、くしゃみ癖をなおさないかぎり、いずれ、〔初鹿野〕の音松(おとまつ)一味からも追放されよう」

悦三は、放心したような焦点のさだまらない目を平蔵にむけていた。

「そこでだ、悦三。おぬし、〔舟形〕のにこのことを告げ、くしゃみ癖を治せる医師は、いまのこの国では、躋寿館(せいじゅかん のちに医学館)の多紀元悳(もとのり)法眼先生しかおらぬと教えろ」
「あっ---」
悦三が小さく驚きの嘆声を発した。

「ただし、ただではすまぬぞ。奪った金の全部とはいわぬ、半分は返さないことには、な」

目白坂の中ほどの目白不動堂の境内の料理茶屋〔関口屋〕の奥座敷で、平蔵がいいきった。


A_360
(切絵図 音羽・目白坂の目白不動堂 池波さん愛用の近江屋板)

ちゅうすけ注】目白不動堂は戦災で焼失したが、目白不動明王像は宿坂通り金乗院(豊島区高田2丁目)に安置された。


A_360_2
(目白不動明王像 金乗院の小冊子より)

参照】2011年1月25日~[平蔵の土竜(もぐら)叩き] () () () () () () () () ()  (10) (11) (12) (13


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2011.02.04

平蔵の土竜(もぐら)叩き(11)

「〔鳥越屋}吉兵衛は、前々代が熊谷宿からでてきて娼家を開きました。
熊谷でも2代ほど娼家をやって貯めこんだとのことです。
もともとの出は、屋号にしている羽前の庄内藩・最上郡(もがみこおり)鳥越村だそうで、その筋からでしょう、羽前生まれの娼妓(こ)をそろえており、客も羽前や羽後出身の男が多いといわれております。

お申しこしの悦三(えつぞう 35歳)の相娼(あいかた)は、お(こう 28歳)で、12年来のなじみといっておりました。
最上郡の最上小国川ぞいの志茂村(現・山県県最上郡最上町志茂)の小作人のむすめで、14のときの飢饉で売られてきたそうです。
根が頑丈なのか、10数年この生業(なのわい)をつづけていて、ほとんど寝こんだことがないそうです。
悦三は、月に3,4度くるそうですが、泊まっていくことはなく、線香1本、長くても2本で帰っていくとか。
いちど、おのほうから、いっしょになりたいといってみたが、返事をしなかったそうです。

A_360
(緑○=志茂村と最上小国川、青○=鳥越村と鳥越川、赤○=舟形村と堀内村、最上川)

の前は、18で病死した、やはり最上郡の津谷村(現・山県県最上郡戸沢村津谷)生まれの娼妓だったといいますが、はっきりしません。

もっと詳しくということであれば、〔鳥越屋〕を辞めていったおんなたちをあたってみますが---」

元締・〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 55歳)の調べは意をつくしていた。
(羽前生まれの悦三はしっかり者ではあっても、本音のところで引け目を隠しているから、おんなと遊ぶときには、同郷出身の娼妓を相手だと気がねがないのであろう。かわいそうなところもないではない)


目白坂の由縁(ゆえん)となっている目白不動堂は、音羽9丁目から上っていくと左手に広大な境内をそなえており、その境内には、数軒の料理茶屋がならび、繁盛していた。

390_360_2
目白不動堂 『江戸名所図会』 塗り絵師::ちゅうすけ)

上の絵の左手に軒をつらねている2軒目〔関口屋〕を重右衛門が指定した。
重右衛門平蔵、それ大年増が一人、待っていると、ほどなく、同心・吉田藤七(とうしち 40歳)が悦三をともなって案内されてきた。

悦三は、大年増を見てぎょった立ちすくんだ。
「お---お前---」
「元締さんにいわれた〔鳥越屋〕のご主人から、行ってこいっていわれたのよ」

「元締さん---?」
「おお、悦三さんか。元締はあっしだ。(にえ)(越前守元寿 もととし 41歳)のお殿さまから、音羽一帯の夜廻りの手札も頂戴しておる」

悦三を座らせると、吉田同心はあいさつをして部屋をでた。

悦三。おぬしを呼んだのはわしだ。じつはな、〔舟形(ふながた)〕の宗平(そうへえ 60前)の爺(と)っつぁんに伝えてほしいことがあってな」
悦三は、自分と同年配とみえる平蔵に、気合いでのまれてしまっていた。

参照】2011年1月25日~[平蔵の土竜(もぐら)叩き] () () () () () () () () ()  (10) (11) (12) (13

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2011.02.03

平蔵の土竜(もぐら)叩き(10)

悦三を使うとして---)
胸のうちでつぶやき、灯芯をあげ、『孫子』[用閒編]をひらき、「反閒(はんかん)」の項に目をこらした。

5種ある間諜のうち、買収・翻意させた敵方の者を、「因閒(いんかん)」「内閒(ないかん)」「反閒」に分類している。

「反閒」は、潜入してきていた間諜をこちら側につかせ、相手方を混乱させるために使う。

必ず敵人の閒(かん)を索(さが)し、来たりて我(われ)を閒(うかが)う者は、因(よ)りて之(こ)れを利し、導きて之れを舎(やど閒)らしむ。
故(ゆえ)に反閒得て用う可(べ)きなり。

(敵方の間諜がいないか、たえず疑惑の念をもって探索し、潜入してこちらの情勢を探っている者を見つけたら、手だてを講じてその者に利得を給してこちら側へつかせる。
そのようにして、その者にこちら側の諜報活動に利用するのである)

これは、1国なl、1藩なり、1軍なりの命運がかかっている場合の教訓であろう。

先手・弓の第2の組に潜入した悦三は、どのていどの任務をさずかったいたろう?

組の見廻り道順とか、探索のすすみぐあい、出動の日時・場所の予知といったことであろうか?

組頭・与力の性格や生活ぐあいまで報じていたであろうか?

盗人側から火盗改メや町奉行所の密偵に転んだ者も探っていたであろうか?

処分する前に、悦三にいいつけられていた任務のあれこれをしっておく必要がある。

それには、悦三の日常をしらべなくては---。
同心・吉田藤七(とうしち 40歳)によると、牢番は8人おり、2人ずつ組となり、日勤2組、徹夜組、非番組を交替でやっていると。

平蔵(へいぞう 36歳)はまず、悦三が先手・弓の2の組に雇われたときのことを想像してみた。
18歳であったという。
17年前だ。
銕三郎(てつさぶろう)の時代であった。

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』では、銕三郎は17歳まで巣鴨本村の祖父の家に預けられ、自由奔放に育ったことになっている。(文庫巻1[本所・桜屋敷]p57 新装版p61)
これが、池波さんの類推であることは、何回もあかした、
辰蔵(たつぞう のち山城守)が呈上した「先祖書」はそうではない。
生まれたのは赤坂築地。
5歳から19歳まで築地鉄砲洲で育った。

それでこのブログでは、養女として銕三郎の次妹になる与詩(よし 6歳=当時)を駿府へ迎えに行くために、18歳だった銕三郎を東海道を上らせた。

箱根で人妻・阿記(あき 21歳=当時)と知り合い、鎌倉までの昼夜をともにした。
以下は、18歳の若者と21歳の離婚決意した人妻に、ふとした機会が訪れたら、どのようなイタ・セクスアリス
が訪れるか、お時間の許すかぎり、おのぞきいただきたい。

参照】20071228~[与詩(よし)を迎えに] () () (10) (11) (12) (13) (14) (15) (25) (26) (27) (28) (29) (30) (31) (32) (33) (34) (35) (36) (37) (38) (39) (40) (41) 
  
羽前国最上郡(もがみこおり)本堀内村(現・山形県最上郡舟形町堀内)を幾歳のときに出、どこで〔舟形(ふながた)〕の宗平(そうへい 60歳前)とどんなぐあいに知りあい、どんな手だてで庄内藩江戸屋敷の用人・瀬川某の推薦状を入手したかはしらない。

けれど、悪の道へはいっていた18歳の男のことである、おんなの味はしっていたろう。
その後も、やむということはあるまい。
そのことをしっている者をまず探そう。

平蔵は下城の途次、黒船橋北詰の町駕篭〔箱根屋〕の主(あるじ)・権七(ごんしち 49歳)に、2,3日、人手を借りたいと頼んだ。

悦三の夜の所業を見張るためと告げると、顔見しりの時次(ときじ 29歳)と、若い与三郎(よさぶろう 21歳)を使ってくれとの返事であった。

時次たちは、2日のうちに尾行(つ)けた結果をもたらした。

九段下飯田町・俎板(まないた)橋北詰の役宅の門脇のくぐり戸からでた悦三は、江戸川にぞいに音羽8丁目の娼家〔初音〕へあがったと。

音羽8丁目は、先手・弓の2番手の組屋敷のある目白台から坂をくだったすぐのところにあった。

平蔵は、松造(よしぞう 30歳)を(にえ) 越前守元寿(もととし)の役宅へやり、同心・吉田藤七(とうしち 40歳)に、火盗改メのこれまでの組頭の屋敷を確認してもらった。

ちゅうすけ注)すでに記したこともある屋敷も、おさらいの意味で再録しておく。

赤井安芸守忠晶ただあきら 1400石)
 任  安永2年(1773)1月11日(37歳 小十人ヨリ)
     同年 火盗改メ
 屋敷 裏六番町

菅沼藤十郎定亨(さだゆき 2025石)
 任  安永3年(1774)う3月20日(45歳 西丸目付ヨリ)
     同日 火盗改メ
 屋敷 大久保安藤対馬守跡地

赤井安芸守の裏六番町から音羽は、いまの贄 越前守の屋敷からと、どどっこいどっこいの距離であった。

すぐさま、音羽の元締・重右衛門(じゅうえもん 55歳)に、娼家〔鳥越屋〕での悦三がなじんでいる相娼(ふあいかた)を調べてくれるよう、町飛脚に託した。

参照】2011年1月25日~[平蔵の土竜(もぐら)叩き] () () () () () () () () ()  (10) (11) (12) (13


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2011.02.02

平蔵の土竜(もぐら)叩き(9)

「しまった」
おもわずっぶやいてしまった。

ことが果て、あおむけに余韻を反芻しながらお互いの芝生をもてあそんでいたときであったから、里貴(りき 37歳の指が止まった。

「どうか、しましたか?」
横向きになおって訊かれた。

「いや。そのことではなく、吉田藤七 とうしち 40歳)同心がかかえている土竜(もぐら)のことだ」
平蔵(へいぞう 36歳)のいいわけに、
「こんなときにまで、捕り物のことをかんがえていらっしゃったんですか? おかしな(てつ)さま」
「そのときには里貴のことしか、かんがえてはいない。だが゜、終ると、男には仕事がつきまとう」
「おんなは果ててからでも、また、高潮がくるんです。あっ、きた」
上にのり、だきしめ、顔を平蔵の横につけたまま、躰が痙攣しはじめた。

平蔵も腕を脊と尻にあて、おさまるのを待った。


躰を清め、裸のままの里貴に見送られ、小名木(おなぎ)川の南土手へ、寺々と大名家の下屋敷のあいだの暗い道をとりながら、
(われながら、不覚であった)
これは、土竜叩きへのつぶやきではなく、閏事のすぐあとに、あのようなつぶやきをつい洩らしてしまい、里貴の興をそいだことへの痛恨であった。

こんご、そのことを行なっているとき、里貴がおもいだして高まりを減じはしまいか、と案じた。
最高頂に達してくれてこそ、男としての甲斐があるというもの。

そのこととは別に、〔三ッ目屋〕甚兵衛を訊問したあと、すぐに小伝馬町の牢獄へ帰しておくように指示しておくべきではあった。

参照】2011年1月1日~[〔三ッ目屋〕甚兵衛] () (

あのままにしておいた甚兵衛に、牢番の悦三(えつぞう 35歳)が訊問の仔細をたしかめたかもしれないではないか。
初鹿野はじかの)〕の音松(おとまつ)や〔舟形ふながた)〕の宗平(そうへい)ばかりでなく、お(てい 40すぎ)の名までだしてしまった。

がひそんでいた目黒の盗人宿から消えたのは、悦三から警報の連絡(つなぎ)があったからにちがいない。
いまなら、そうだと断言できる。

明日、さっそくに松造(よしぞう 30歳)を勘定奉行所の山田銀四郎善行(よしゆき 39歳)のしところへやり、羽前国最上郡(もがみこおり)舟形村と堀内村の遠近を訊かせよう。
山田勘定見習とは、〔強矢(すねや)〕の伊佐蔵(いさぞう 26,7歳=当時)かかわりでつながった。

参照】2010年11月30日~[勘定見習・山田銀四郎善行] () () () () 

松造が聞いてきたところによると、舟形村と本堀内村は、最上川をはさんで1里(4km)ちょっとしか離れていなかった。

A
(最上川をはさんで赤○舟形村と本堀内村 明治20年ごろの地図)

これで悦三は、〔初鹿野〕側が送りこんだ土竜の疑いが濃くなった。
(さて、これをどう処置したものか?)

参照】2011年1月25日~[平蔵の土竜(もぐら)叩き] () () () () () () () () ()  (10) (11) (12) (13

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2011.02.01

平蔵の土竜(もぐら)叩き(8)

「まずは、これをご覧ください」
同心・吉田藤七(とうしち 40歳)は、懐から紙片をだし、ひらいた。
「15歳から、お仕えしたお組頭の方々です」

先手・弓の2組のお頭(1500石格)

朝倉仁左衛門景増(かげます 300俵)
 任  宝暦4年(1754)5月28日(52歳 西丸小納戸頭ヨリ) 
        5年(1755)8月15日火盗改メ
 転     6年(1756)11月3日(54歳 駿府町奉行)

小笠原兵庫信用(のぶもち 2600石)
 任  宝暦6年(1756)11月3日(51歳 使番ヨリ)
     同日 火盗改メ
 免  宝暦7年(1757)4月23日
 転  宝暦8年(1758)12月7日(53歳 堺奉行)

平塚伊賀守為政(ためまさ 300石)
 任  宝暦8年(1758)12月7日(35歳 小納戸頭ヨリ)
 辞  宝暦13年(1763)3月11日(40歳)

奥田山城守忠祗(ただまさ 300俵)
 任  宝暦13年(1763)3月15日(63歳 小納戸頭ヨリ)
 転  安永2年(1773)1月4日(73歳 持頭)

赤井安芸守忠晶ただあきら 1400石)
 任  安永2年(1773)1月11日(37歳 小十人ヨリ)
     同年 火盗改メ
 転  安永3年(1774)3月20日(38歳 京都町奉行)

菅沼藤十郎定亨(さだゆき 2025石)
 任  安永3年(1774)う3月20日(45歳 西丸目付ヨリ)
     同日 火盗改メ
     安永5年(1776)12月12日(47歳 奈良奉行)

土屋帯刀守直(もりなお 1000石)
 任  安永5年(1776)12月12日(43歳 使番ヨリ)
 替  同年12月14日 長谷川太郎右衛門正直と組替え
     (同  火盗改メ)

長谷川太郎右衛門正直(まさなお 1450石)
 替  安永5年(1776)12月14日 土屋帯刀守直と組替え
 転  安永7年(1778)2月24日(69歳 持頭)
 
贄 越前守元寿(もととし 300石)
 任  安永7年(1778)2月28日(38歳 小姓組ヨリ)
     同 8年(1779)1月15日 火盗改メ

「25年のあいだに、9人のお頭がお替わりになりました」
「先手の組頭は、番方(ばんかた 武官)の爺(じじィ)の捨てどころ---といわれておるが、弓の第2組は出世街道の第一の駅のようですな」

「それは、手前にはかかわりのないことです。実は---」
吉田同心は、もう1枚の紙片をだした。

牢番

文治(ぶんじ 26歳) 
生地 甲斐国八代郡(やしろこおり)小石和(こいさわ)村 
小作人・分蔵(ぶんぞう)の5男
安永2年(1773)4月、17歳のとき、甲府勤番頭・八木丹後守補道(みつみち 盈道とも 54歳 4000石)どの用人某の添え状があったので小者として雇った。 
そのときのお組頭は赤井安芸守どの。

悦三(えつぞう 35歳)
生地 羽j前国最上郡(もがみこおり)本堀内村
田持ち・喜右衛門(きえもん)の妾腹の子。
明和元年(1764)4月、18歳のとき、新庄藩(6万8000余石)の江戸屋敷の用人・瀬川氏の推挙状ををたずさえていたので、雇用。
そのときのお組頭は奥田山城守どの。
陰日なたの区別のない働き者とだれからも評判がよい。


(八木丹後()どのは遠い縁者であるから、後日、訊けばいい。ちょうど、無沙汰を謝るのに格好の口実ができた)

参照】2010年5月15日[鎗奉行・八木丹波守補道(みつみち)] () (

平蔵は、悦三の羽j前国最上郡堀内村にひっかかるものを感じた。
吉田どの。最上郡の堀内村というのは---?」
「手前もしかとは存じませぬが、悦三が洩らしたところでは、船形(ふながた)山とか申す険阻な山の裾の村とか---」
「船形山---?」
「なんでも、そのような---」

(〔舟形ふながた)〕の宗平(そうへえ)つながりということもありうるな---)

「かたじけのうござった」

参照】2011年1月25日~[平蔵の土竜(もぐら)叩き] () () () () () () () () ()  (10) (11) (12) (13

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