〔七ッ石(ななついし)〕の豊次(11)
「けっこう、いい容姿(なり)をしておりましたが、なにで生計(たつき)をたてておるのかは話しませんでした」
芳佐(よしすけ)は、村でただ一軒の〔よろず屋〕をやっている。
店は女房にまかせ、当人は仕入れかたがた、壬生(みぶ)の城下や宇都宮、小山(おやま)あたりでの頼まれ買いものをこなしていた。
豊次(とよじ 28歳)を見かけたのは小山(おやま)の本通(日光道中)の須賀明神社鳥居の前で、おまさといっしょであったと。
「どんなおんなであったな、おまさは。齢のころ、顔かたち、着ていたもの---」
「はい。齢のころは20(はたち)を一つか二つ、出たかというところでした。双眸(りょうめ)がぱっちりしており、こころもち受け唇、肌はお義理にも白いとはいえませなんだ」
「ふむふむ。それで、豊次と夫婦(めおと)に見えたか?」
「そうではございません。近くの店で奥女中奉公しているとかいい、それらしく、きちんとしたものを着ておりました」
「店の屋号とか、業種を聞いたか?」
「いえ。豊次になにか渡すと、消えました」
「そうか」
「そうそう、豊次は、〔甲畑(こうばた)〕だったか〔乙畑(おつばた)だったか、そんな組で、けっこう重宝がられていると申しましたような---」
それ以上のことは聞けなかったが、平蔵(へいぞう 32歳)には、それだけで充分であった。
(やっぱり、〔盗人酒屋〕で忠助(ちゅうすけ 享年53歳)から聞いた、〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん 51,2歳がらみ)か、〔乙畑}〕の源八(げんぱち 40歳前後)の一味になっていたか)
村年寄りの許を辞し、壬生城下へ戻りながら、平蔵は鞍上でものおもいに沈んでいた。
〔鶴(たずがね)〕の忠助が病死したとき、平蔵は父・宣雄につきそって京都にいたから、じかにおまさの面倒をみてやることができなかった。
それは仕方がない。
しかし、権七(ごんしち 45歳)によくよく頼みこんでおき、おまさが困っていたら、江戸にのこっていた母・妙(たえ 52歳)へ伝えてもらい、手をさしのべることはできたはず---その配慮をしておかなかったのは自分の手落ちと、自らを責めた。
口なわをとっていた松造は、〔乙畑}〕の源八が盗賊の首領であることまでは察しがつかなかったが、平蔵がおまさのことで沈みこんでいることはわかっていたから、なにもいわず、城下をめざした。
城下へはいると、平蔵は大師堂で下馬し、松造に、
「町奉行所へ馬を帰したら、〔鯉沼(こいぬま)〕の杉平(すぎへい 20歳)と本陣で待っていよ。もし、〔越畑(こえばた)〕の常八が宇都宮から戻っていたら、常八にもそのように伝えよ」
昨夜のうちに平蔵から何事か命じられ、今朝早くに、宇都宮へ手配をしに行った常平は、その結果をもって往復していることになる。
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コメント
その後のおまささんらしい女性の影が登場。双眸がぱっちりしていて、いくらか受け口といえば、まさに。あのおまささんですね。
『鬼平犯科帳』では、継母の波津はまだ生存中だったんではなかったでしょうか?
銕三郎が京都へ随行した時、波津に、まさかのときのおまさを託すわけにはいかなかったとおもいますよ。
投稿: mine | 2010.10.06 09:16
1日のブログで300字とか400字で連載していくのって、新聞小説といっしょで、展開のさせ方がむずかしいでしょうね。とくにミステリックなストーリィの場合は。
投稿: 左衛門佐 | 2010.10.06 09:38
>mine さん
聖典では、継母の波津がずっと銕三郎をいじめたので、18歳まで巣鴨の仙右衛門のところに寄寓していたことになっていますが、史実の継母は、銕三郎が5歳の時に逝き、生母(ブログでは、妙 たえ)は、平蔵がみまかる4日まで生存していたと、戒行寺の霊位簿にあります。
その史実から、銕三郎の幼少、青年時代を推測しています。
投稿: ちゅうすけ | 2010.10.06 16:45
>左兵衛佐 さん
池波さんは『捕物小説名作選』の解説で『鬼平』は捕物帳ではないと明言しています。
ではないか? 形を変えたピカレスクと呼んではいかかでしよう?
もっとも、ブログは、イタ・セクスアリスと成長小説のミックスのつもりですから、謎解きの要素はすくな目にしています。
投稿: ちゅうすけ | 2010.10.06 17:06