田沼意次の世子選び
安永10年(1781)は、4月2日で終った。
4月3日からは天明と改元された。
長谷川平蔵(へいぞう)にとっては27歳から36歳の安永の10年間は、じつにさまざまな人生体験の時期であった。
安永元年は、世間が明和9(めいわく 迷惑)年と呼びあった、目黒・行人坂の大火ではじまり、その放火犯の逮捕の功績で、亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)が京都西町奉行へ、備中守を受爵し、栄転した。
京都で平蔵は、知恵袋のお竜(りょう 享年33歳)を失い、盗賊の妾・お豊(とよ 25歳=当時)と躰をあわせ、貞妙尼(じょみょうに 享年26歳)の還俗にたちあえず、お勝(かつ 31歳=同)に密偵のような仕事をおぼえさせた。
江戸へ戻ってからは、初出仕や進物の役を勤めたことはおくとして、里貴(りき 30歳=当時)という、公私にわたって支えとなってくれた女性(にょしょう)とつながった。
いや、平蔵のおんな体験は、いつか、ゆっくり反芻すればいい。
京都で〔左阿弥(さあみ)〕の元締父子に刺(し)が通じ、〔化粧(けわい)読みうり〕から余禄がえられ、経済的に独立できたことが大きかった。
江戸でも、権七(ごんしち 49歳)が板行元になってくれ、有力な元締衆と結びつきができ、裏の世界の風聞も入ってくるようになったのは、火盗改メになったときの陰の力となるはずであった。
平蔵の陰の後ろ楯の田沼主殿頭意次(おきつぐ 64歳)も、着々と地歩を固めつつあった。
老中首座・松平右近将監武元(たけちか 享年67歳)が、2年前の安永8年(1779)に歿したことも、意次がかねてから目をかけていた能吏たちを引き立てやすくなり、自らの力量も発揮する展望がひらけたといえようか。
その上、天明元年(1781)4月14日には、将軍・家治(いえはる 45歳)から世継ぎとなる養子をきめるようにいいつかった。
もちろん、意次一人ではなかった。
【参照】2010年1月23日~[継嗣・家基の急死] (3)
任にあたった3人を記す。
・老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 63歳 相良藩主 3万7000石)
・若年寄・酒井石見守忠休(ただよし 78歳 出羽・松山藩主 2万5000石)
・留守居・依田豊前守政次(まさつぐ 80歳 1100石)
それぞれ、多彩な経歴をもち、老練なひとかどの人物ではあった。
とりわけ、武田家々臣時代から武門らしい人品が伝わっている依田の血をひく豊前守は、硬骨漢ぶりを語りつたえられていた。
反田沼派でもあった松浦静山の『甲子夜話』(東洋文庫)から座興に一つ紹介すると、田沼意次が若君・家基(いえもと 享年18歳)の母堂・於知保の方の許へ愛妾を通わせていたころというから、大目付の役についていた明和6年(1769)前後のことであろうか。
意次の愛妾を上通させなかったため、その頑固ぶりは老耄のあらわれと非難の的となった。
そのとき、政次の曰く。
「つねづね、親類の者たちに、老耄の兆しをみたらすぐに伝えよと頼んでおいたにもかかわらず、この不始末。親類甲斐のないことよ」
その依田政次を継嗣選びの一人に加えた仁は、よほどに皮肉が好きともおもえる。
余談はさておき---。
この世嗣選びに、平蔵をはじめ、西丸に勤仕している者たちは無関心ではいられない。
選ばれた人は、西丸の主(ぬし)として君臨するからであった。
人事のことは、古今東西、男たちの関心事の核,の一つでもある。
(依田豊前守政次の個人譜)
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コメント
そうか、平蔵さんは西丸の書院番士でした。西丸の役員構成には敏感にならざるをえなかったんですね。
投稿: 文くばりの丈太 | 2011.02.08 06:21