〔七ッ石(ななついし)〕の豊次
冬が近いことを告げるように、真綿のような雲が青空に浮いていた。
佐野豊前守政親(まさちか 44歳 1100石)は、堺奉行にふさわしい---というよりも幕府の体裁重視のしきたりにしたがった、もったいぶった隊列で高輪の大木戸を発(た)っていった。
発令は2ヶ月前の7月26日と記録されていたが、10月朔日に豊前守への叙勲を待ち、赴任を見合わせていたのである。
別離にあたり、大木戸まで見送りにきた平蔵(へいぞう 32歳)へ、
「昨日までは、銕(てつ)どのの兄としてふるまってきたが、きょうからは、銕どのが与七(郎 よしちろう 22歳)の兄者のつもりで鍛えてもらいたい」
隣の継嗣を指さし、しみじみと頼んだ。
側の内室・於妃呂(ひろ)も涙目でうなずいた。
夫妻---いや、内室は、それから夫が大坂町奉行を罷免されるまで、10年間というもの、江戸の土を踏むことはなかった。
政親が西丸からいなくなったことで、平蔵の柳営での生活は、きゅうに寂しいおもいが濃くなった。
いささかは心細くもあった。
火盗改メ・土屋帯刀守直(もりなお 44歳 1000石)の次席与力・高遠(たかとう)弥大夫(やだゆう 58歳)を組屋敷にそれとなく訪ねてみようかと胸算段していた。
【参照】20108月6日~[安永6年(1777)の平蔵宣以] (1) (2) (3) (4) (5) (6)
そのときもとき、西丸若年寄・鳥居丹波守忠意(ただおき 61歳 下野国壬生藩主 3万石)からお召しだしがきた。
ご用部屋の控えの間へ伺候すると、番頭(ばんがしら)・水谷(みずのや)出羽守勝久(かつひさ 55歳 3500石)と与(くみ 組)頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 57歳 800俵)もそろっていた。
【参照】2010年2月1日~[与頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ)] (1) (2) (3)
鳥居丹波守は、実母は藩士のむすめだったが、嫡母に養育されたと『寛政譜』にある。
実母はさらに、2男1女を産んでいるが、些事といっておく。
とにかく、藩邸で嫡子としてのりっぱな教育をうけた。
その、おおらかな資質は、平蔵にもただちに感じとれた。
「火盗改メの土屋組頭(くみがしら)どのから、そなたの力を借りては---との推挙があっての。ぜひ、助勢してほしい」
脇に待機していた用人が、金包みをおしだし、
「路用のお足(た)し---なお、城下の本陣にご滞在の諸がかりはすべて藩におつけまわしいただきます」
探索するのは、壬生城のすぐ北の天台宗・台林寺(だいりんじ)大師堂の本尊の身代り地蔵像とのこと。
この寺の由緒は、日光山輪王寺の門跡・天真親王に乞われた当時(江戸時代初期)の藩主・三浦氏が太師堂を建立したことにはじまる。
そこが慈覚大師円仁の生誕の地といい伝えられていたのである。
【参考】慈覚大師円仁
平蔵が、番頭・水谷出羽守をうかがうと、
「いかほどの日程をみておけばいいかの?」
「むつかしい探索になりそうですから、2ヶ月では?」
用人がため息をつき、藩主をうかがった。
鳥居丹波侯はおおように、
「3ヶ月かかろうと、半年を要しようと、かならず、見つけだしてほしい」
侯とすれば、京都御所にたいする幕府の面子(めんつ)をおもんぱかっていた。
平蔵は、とりあえず、江戸での探索に数日をみこんだ。
牟礼与頭に、天台宗の関東総本山でもある上野・寛永寺の執事僧の頭(かしら)に会える手はずをとってほしいと頼んだ。
「執事僧の頭---?」
「関東の天台宗の寺々まわりのことを教わっておきたいのです」
(壬生藩主 西丸・若年寄 鳥居丹波守忠意の個人譜)
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