安永6年(1777)の平蔵宣以(5)
「〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 51歳)どんには、何事もお隠しにならないで、ご相談なさいませ」
新任の先手頭・火盗改メの土屋帯刀守直(もりなお 44歳 1000石)の問いかけに、平蔵(へいぞう 32歳)が名をあげると、
「江戸川ぞい一帯をシマにしている元締であったな?」
「殿さまのお屋敷の近くの牛天神も〔音羽〕の「縄張りのうちです」
牛天神(現・春日天神社 文京区春日1-6)を、ものの本はこう書き記している。
小石川上水道の端(はた)にあり、一に金杉天神(かなすぎてんじん)とも称す。この地を金杉と唱ふるによりてしか号(なづ)く。古(いにし)へは金曾木(かなそぎ)に作る。(中略).
別当は天台宗にして泉松山(せんしょうざん)竜門寺(現在はない)と号す。
牛天神の由来は、裏門の坂の下り口に牛の寝すがたに似た巨石(こせき)があったことによるが、いまは拝殿の左にあげられている。
(牛天神・諏訪神社 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
「シマのうちでは、やはり護国寺と護持院からのあがりが大きいかろうのう」
「そこもにぎわい土地(どころ)ですが、音羽の町の店々、雑司ヶ谷の鬼子母神(きしんもじん)からのあがりもばかにできませぬ」
香具師(やし)たちの実(み)入りの経路については、平蔵は、あたりさわりのないように気をくばりった。
「〔音羽〕の元締は、お人柄で府内の元締衆から信頼をうけております」
「裏(うら)の町奉行だな」
(「裏の町奉行」とは、至言である)
ちなみに、このときの表の町奉行(3000石格)をあげておこう。
(着任年-退任年 あしかけ在職年数 安永6年の年齢)
南
牧野大隈守成賢(しげます 64歳 1500石)
宝暦5年(1755)-天明4年(1784) 30年
北
曲渕甲斐守景漸(かげつぐ 53歳 1650石)
明和6年(1769)-天明7年(1787) 28年
【ちゅうすけ注】武田系の出世頭の一人---曲渕景漸については、平蔵宣雄が小十人頭に出世したとき、先任同僚として祝儀の料亭接待に招いた一人として、記述がある。
2007年5月29日[宣雄、小十人頭を招待]
2007年5月30日~[本多紀品と曲渕景漸] (1) (2)
その後、町奉行時代の曲渕景漸については、
2007年8月30日町奉行・曲渕甲斐守景漸(かげつぐ)
2007年9月1日[天明7年5月、御庭番風聞書]
「もう一人、〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 47歳)どんも、亡父(宣雄 のぶお)は篤く信頼しておりました」
「ほお。備後守どの月旦(人物評価)なら信用度が高い」
ほめられたのだか、平蔵を軽くみられたのだか、複雑なおもいで受けた。
「その〔愛宕下〕のは、先刻はどのあたりの座にいたかの?」
「最後尾(どんじり)に。目立ちたがらい人柄なのです」
「こんど、それとなく引きあわせてもらいたい」
「かしこまりました」
言葉をつないだ。
「組頭さまのご先祖がお仕えになっておられた信玄公は、味方に取りこまずともよい。敵にまわすな、と配下に申されていたと聞いております。元締衆を敵にまわすと、大きなご損が生じます」
「長谷川うじ。いつ、『甲州軍鑑』を学ばれたかの? 長谷川家の祖は、今川の重臣とご本家の太郎兵衛(正直 まさなお 69歳 1450石)どのから伺っておったが---」
訊かれたが、お竜(りゅう 享年33歳)の名を告げわけにはいかない。
(お竜は、おれが戒行寺の墓所へ入るのを、先に鎮座して待っていてくれている)
【参照】2008年9月13日~[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜] (7) (8)
2008年9月1日~[〔蓑火(みのひ)〕のお頭] (4) (5) (6)
2008年11月1日[甲陽軍鑑] (1) (2) (3)
200811月17日~[宣雄の同僚・先手組頭] (8) (9)
2008年11月24日[〔蓑火(みのひ)一味の分け前]
「われが着任するまでの先手の組頭であった、ご本家の太郎兵衛 どのは、組下をじつによく鍛えておいてくだされた。お礼をお伝えくだされ」
「こころえました」
閑談は終わったと平蔵はこころえた。
あいさつをし、席を立って玄関までくると、送ってきた筆頭与力・高遠弥太夫(やだゆう 58歳)が脇の控えの間の襖に手をかけ、
「お急ぎでなくば、寸時、お耳を拝借いたしとう---」
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コメント
人が人を信頼する初歩は、信頼している人から保証された時です。
火盗改め・土屋帯刀守直が長谷川平蔵を信頼したのは、長谷川一族の本家・太郎兵衛正直の人柄、さらには亡父・宣雄の人品によりましょう。
平蔵に推薦された音羽の重右衛門と愛宕下の伸蔵とどう付合っていくかは土屋帯刀の器量によります。ただ声がよく透り、機転が利くだけでは、海千山線の香具師の元締たちは心からは従わないでしょう。
投稿: 左衛門佐 | 2010.08.10 04:41
>左兵衛佐 さん
長谷川平蔵と言う人は、銕三郎時代から、たとえば〔風速〕の権七などのように荒くれをふしぎと信服させる魅力を備えていたようです。
人品というのか、徳というのか。それは女性にに対しても大いに発揮されました。うらやましいかぎりです。
投稿: ちゅうすけ | 2010.08.10 17:44